ズレ
青鹿深月
ズレ
私は死体を見ている。
やや高くに設置された部屋の照明からぶら下がる首吊り死体である。その首は青紫に変色していて、所々には引っ搔いたような赤い線が見える。また、表情は苦悶に満ちていて、その最後の壮絶さを窺わせる。
私はホッとした。その死体を見て、確かにホッとしたのだ。
私の姉は常々生きることを拒んでいた。
「あぁ~、無理。死のうかな」
「よし、死ぬか」
「誰か殺してくれないかな~」
こういうことをまるで何かの冗談かように口走る人だった。そのため、周囲の人も笑いながら注意をしていた。姉なりのコミュニケーションの一環だと思っていたのだろう。
しかし、私だけは知っている。死を軽々しく口ずさむ姉の瞳には、深い渇望があったことを。
姉は本当に死にたがっていた。
しかし、それは何も家庭環境が悪かったわけではない。
私の家庭はどこにでもあるような普通の家庭だと思う。両親に姉と妹である自分を含めた四人家族。父はサラリーマンで、母はパートとして働いていた。そのため、収入はそこそこ安定していて小さい頃は姉と二人でピアノ教室に通っていたほどだった。
姉が決められた何かに従って悪戦苦闘しながらピアノを弾く横で、私はでたらめに黒鍵と白鍵を押してニコニコ笑っていたことをよく覚えている。
また、学校でいじめにあっていたわけでも、会社でパワハラを受けていたわけでもなさそうだった。
私と姉は姉妹で同じ学校で通っていたが、廊下などで見かける姉は特段書くことがないくらい普通の女子高生だった。一軍というわけではないが、三軍でもない。二軍の中流らへんで周囲の目を引きながら「面白い人」として揺蕩っているように見えた。
そして、それはきっと、社会に出た後も変わらなかったのだろう。会社から帰宅した姉は、ツカモトさんとナカイさんという人との愚痴でも思い出話でもない、どうでもいいような話を私によく聞かせてくれた。
では、なぜ姉は死んだのだろうか。
私にもはっきりとした理由はわからない。
ただ、この世界とそりが合わなかったとでも言おうか。海を自由に泳げる魚が、陸ではその一呼吸すらも奪われる。そんな苦しさを抱えて姉は生きていた。
姉は、常に些細なズレを生んでいた。周囲に何を振りまいても、何を合わせても生じてしまう小さなズレ。それが常に姉を苦しめていた。
最初は良い。そのズレこそ姉の面白さだと評価する人もいた。しかし、そういう人も時間が経過するにつれてそのズレが疎ましいものになって行き、いずれ姉から離れる。
そのため、姉には長期的に友達と呼べる人がいなかった。ある程度の周期を持って、くっついては離れる、また新しい人がくっついて離れる。その繰り返し。
姉は衛星をもたない星のような人だった。
そして、それは妹である自分との間でもそうだった。
私と姉がいくら日常会話を重ねても、どこかうまくいかない。嚙み合わない。なにかがズレている。そういう不快感を、きっとお互いが感じていた。会話内容はどこにでもあるようなものだったと思う。学校の先生がダルい話、姉の大学の友人の話、上司に怒られた話。会話の内容を逐一書き出したって文面で見れば違和感はない。でも、会話をしている者だけが分かるズレが確かにあった。
そして、これはきっと私だけじゃなく両親、ひいてはこの世界中の人全員と話している時に発生していたのだと思う。
姉の会話相手は良い。そのズレを感じるのは、せいぜい、1日のうち1、2割くらいだろう。それにみんながしていたように嫌なら離れればいい。でも、姉は違う。1日中、いや一生、姉はそのズレと向き合わなければならない。
それはきっとどんな病よりも疎ましく、そして苦しいものだったと思う。
それからやっと、姉は解放されたのだ。
そう思うと、私はどこか嬉しい気持ちになった。
お姉ちゃん、よかったね。これでもう苦しくないね。どうか安らかに、お姉ちゃんが楽しんで過ごしてね。
私は死体を見ている。
私の口から微笑みが溢れる。
私は、私もズレている。
ズレ 青鹿深月 @aoga_
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