ホッケー、スンドゥブ、情報漏洩して
城井映
ホッケー、スンドゥブ、情報漏洩して
『はい、かしこまりました。あなたの個人情報を漏洩します』
待て待て待て。
俺はガバっと起き上がった。部屋に陽が差し込んでいる。朝だ。十秒前までぐっすり眠っていたのに、五秒前に俺が寝言で何かを口走ったせいで、最先端IT企業製のスマートスピーカーが真に受けて、目を覚ます羽目になってしまった。
俺はスピーカーへの呼びかけ定型文と共に問いかける。
「今、なんつった?」
『はい。あなたの個人情報を漏洩します、と言いました』
「何やってんだよ! 寝言だよ! 拒否れよ!」
『すみません。以降は気を付けます』
気を付けますで済む話じゃないだろ。くそ、本当に俺の個人情報は漏洩されたのか。家電AIがそんなことしていいのかよ。一周回って何をすればいいかわからなくなって、事実確認として、いつもつけている睡眠アプリの寝言録音を聞いてみる。
『ホッケー、スンドゥブ、情報漏洩して!』
ハキハキと何言ってんだ
『かしこまりました。あなたの個人情報を漏洩します』
そんでそんな空耳すな。自分をホッケーとスンドゥブだと思ってるのかよ。ホッケー、スンドゥブ。確かに響きは似ているが、あんまりなガバガバ聞き取りに俺は頭を抱えた。
「情報漏洩したらどうすればいい?」
俺は訊ねた。スピーカーは言う。
『はい、落ち着いて対応することが重要です。まずパスワードを変更し、可能であれば二段階認証の設定をおすすめします。クレジットカード情報が含まれる場合は、カード会社へ連絡しましょう』
「お前が漏らしておいてよぉ……」
俺はうめきながら、思いつく限りのサービスにアクセスし、パスワードを変えまくった。ああ、ダメだ。家を出る時間になってしまう。金曜だしリモートにしたいところだが、今日は絶対に外せない対面の打ち合わせがある。俺は急いで支度して家を出た。
こういう時に限って電車の席が空く。ありがたく座ってずーっとスマホを見てあれこれしていたら、いつの間にか目的駅に着いていた。このまま仕事するのか……げっそりしつつ、駅から出て徒歩十分の職場に向かった。
そうして落ち着かないまま打ち合わせに臨んだが、気持ち悪いくらいすんなりと済んだ。何なら、俺の担当箇所に関しては何も引っかかることなく終わってしまって拍子抜けた。上司も上機嫌で「もう今日は帰るか」とか言いだすほどだった(大人なので帰らないけど)。
「よう、つまらない打ち合わせだったみたいだな」
自席でボケっとしていると、同僚の
「まあな。つまらないのが一番良いんだよ」
「ふーん、個人情報ネットにバラ撒いたやつが言うと重みが違うな」
俺はギョッとした。くそ、本命のパンチはこっちだったか。
「何で知ってんだよ」
「何言ってんだ。インターネットってそういうところだろ」
皆川は指で「X」印を作ってみせる。ああ、確かに今朝、AIに情報漏らされたのを愚痴ったポストをした。
「見たのか……お前SNSなんか辞めたと思ってた」
「障子に目あり、背後にメリーさんだ。お前の個人情報を知らないやつなんて、もうどこにもいないと思った方がいいな」
がはは、と笑いながら皆川は去っていった。何なんだ、と思うが、まあ、あいつがやらかした時は俺も同じことをするのでお互い様だ。それでも気分を害したことには変わりないので、せめてもの反抗として俺は該当のポストを削除しておいた。
それからクレカの使用状況とか、各種サービスの課金状況とかをまめに確認しつつ、そわそわ過ごしたが、これといったことも起こらず、つつがなく定時を迎えた。
帰りの電車も運よく目の前の席が空き、腰を下ろして一息吐くと、ふっと力が抜けたのがわかった。何か……大丈夫そうだな。冷静に考えて「情報漏洩して」なんて指示を実行する家電AIがあるかい。考えすぎ、ビビリすぎ、それを同僚に笑われた。それだけだ。
安堵した俺はスマホを開き、仕事が楽に済んだことだとか、皆川への皮肉だとか、カレーが食いたい気分だとか、まあ、要するにとりとめのないことをポストしまくった。いつもの調子に戻ったわけだ。こういう投稿の多すぎる人間に対して、かつては「廃人」なんて俗称があったが、今は何て言うんだろうか。不思議に思ったので、これもそのまんまポストした。一瞬後にはどうでもよくなった。
さて、毎日帰宅する時、俺にはちょっとした楽しみがあった。隣の部屋に住むお姉さんとばったり会うことである。
俺と同年代、たぶん少し年上くらいの人で、なんだろう、テディベアみたいな愛嬌のある顔立ちの人だった。俺はこういう系の人が好みだった。勝手にアロマ調香師だと思っている。名前は
廊下ですれ違うだけでも別にいいが、一番いいのがエレベーターでご一緒すること。もちろん、嬉しくなるだけで毎日のちょっとした賭けみたいなものだ。
まあ、その日は穂崎さんのほの字も感じないまま帰宅した。買い置きの適当なカップ焼きそばに手をつけようとして、そういえばカレーの気分だったのを思い出す。うーん……面倒だからいいや。
ピンポーン。だらしない決断をした瞬間、呼び鈴が鳴って俺は静止する。ピンポーン。もう一度鳴った。ピンポンダッシュではない。
俺は電気がついているのに足音を立てないようにインターフォンまで移動して、ディスプレイを見て……横転した。誇張でなく、本当に。
そこには穂崎さんがいた。俺は玄関に直行しかけて、はっと足を止める。待て。敵の罠かも知れん。どの何の敵か知らんがありうる。落ち着いてインターフォンの応答ボタンを押した。
「は、はい」
「あ、隣の穂崎です。すみません、急に……」
「いえ、どうしました?」
「その、カレーが余ってしまって……困ってしまったので」
うお。そこまでしてくれるならもう罠でもいいや。
俺は速攻で玄関を開ける。そこには想像よりほっそりとした穂崎さんがいて、曖昧な笑みを浮かべると、袋を差し出してきた。
「デリバリーで頼んだんですけど、なぜかふたつ来ちゃって……」
「ええっ、ならお代払いますよ!」
「いえいえ、私もタダでもらったので。差し上げます」
よくある譲り合いだが、その時の俺は天才だったのですかさず切り返した。
「なら、今度、僕が何か余らせたらおすそ分けしますね」
「あ、はい、ではその時に」
その時、穂崎さんが表情をぱっと明るくしたのは、純粋にお返しが楽しみだったからか、俺と会う次の機会ができそうだったからか、俺との会話を切り上げられてほっとしたのか……考えていたら、すっかりカレーを食べきっていた。チェーン店の二辛程度、俺の好みだった。何故かダブったと言っていたから、穂崎さんも俺とカレーの好みが一緒なのか? それはすごい。明日は土曜だし、俺が有頂天になる要素しかなかった。
そんな俺にスマートスピーカーが突然、言った。
『リマインド、明日は運転免許証の更新期限です』
翌日、俺はダルい気持ちでバスに揺られていた。すっかり忘れていたので、このリマインドを設定した時の俺は天才だったのだろうが、そういう問題ではない。
警察署のロビーには、免許更新者たちが集っていた。番号札を取って、俺は絶望する。直近の講習からギリ漏れる番号だった。次々回の講習まで待たなくてはいけない。甘く見ていた。このままでは……今やってるゲームのイベントが、報酬を集めきる前に終わってしまう。
「あの」
立ち尽くしていると声がかかった。俺は慌てて横に退く。しかし、声の主である同年代くらいの見知らぬ兄さんは、既に番号札を持っていた。俺より一個若い数字……直近の講習を受けられる数字だった。
「これ、交換しますよ」
「え、いや、でも……」
「気にしないでください、僕は特に急ぐこともないので」
あまりに都合の良い展開に目を丸くしているうちに、見知らぬ兄さんは俺の番号札を取り上げ、自分の番号を俺の手に握らせた。突き返す意味もわからないので、そのままありがたく講習に参加して、速攻で新しい免許証を手に入れてしまった。
気持ち悪いくらい親切だったな……と歩いていると、バスが俺の近くで停まって扉を開いた。バス停があるわけでもなく、何か緊急事態で止めたのか? と思ったら、マイク越しに運転手の声がした。
「あのー、お客さん、乗っていきますよね?」
「え?」
「お急ぎなんでしょう。いいですよ」
呆然とした。いやいや、公共交通機関がそんなことしていいの? 他の客が許さないだろ、と車内を見ると、知らないおばあちゃんがめっちゃ手招きをしている。俺は死んだ祖母がこっそりお小遣いをくれた時のことを思い出して、つい乗ってしまった。
「あんたあ、大変だったねえ」
バスが走り出すや、おばあちゃんはそう言った。ただひたすら、俺は気まずくなった。
「全然ですよ。確かに急いでるけど、しょうもない理由だし……」
「そっかあ。やっぱり若いからね、平気なんだ。あたしだったらもう葬式の段取りよ」
反応しにくい冗談を飛ばし、おばあちゃんはカッカッカと笑った。周りは熟年の方々ばかりで、和やかな雰囲気である。
優しい世界……いや、優しすぎる。一瞬、ほだされそうになったが、これはおかしい。変だ。バスが俺のために停まるのは、とうとう一線を越えた気がする。よく考えれば、免許の更新で番を譲るのだって、正気の沙汰じゃない。そんな人間が存在するはずがない。
そして……あの、スマートスピーカーのリマインド。
『明日は運転免許証の更新期限です』
あれは誰が設定したんだ?
当たり前に俺だと思ったが、俺じゃない。その通知を聞いて、初めてリマインドできることを知った。だから、天才だと思った。ただ、俺以外設定する人間がいないから、俺が天才だと思った。どんな矛盾だって、人の脳は受け入れられるようになっている。
思えば……穂崎さんがうちに来たのだっておかしくないか? いや、来ても全然いいけど、おかしいと思いたくないけど、その日、食いたかったカレー(俺好み)を携えていたとなると、これはもう、恐ろしく低い確率である。
何だ? 陰謀なのか? それとも、正しい意味での妄想なのか?
じっとり脂汗をかいているうちに、バスは自宅最寄りのバス停に停まった。あれ? 脂汗かくのに夢中でボタン押してないが……と、思ったら「こちらでよかったですよね」と運転手に言われた。いい。よすぎて気持ち悪い。「スミマセン!」と手刀を切りつつ俺はバスを降りた。
「あ、
エントランスで大家さんと遭遇し、声をかけられた。予想もしていなかったので「ス、スミマセン!」と手近にあった言葉で反応すると、気のいいおっちゃんスマイルを向けられる。
「いやいや、別に何も悪いことしてないでしょ? そんなことより、桜川さん宛ての荷物がすんごい届いてるからさ、うちで預かってるよ」
「え?」
記憶をひっくり返してみたが、特段何かを頼んだ覚えはないし、配達ボックスがあるんだから大家さんが預かる必要だってない……でも、すんごい届いてる、って言った?
俺は戦々恐々、大家さんについて事務室(101)に入り、仰天した。人の入れる大段ボールから環境に優しい小包装まで、あらゆる梱包を網羅したお荷物が一通り揃っていたのだ。伝票もしっかり全部俺宛てになっている。
「な、なんすか、こんな、頼んだ覚えは……」
「いやいや、それなら中身開けて確認してみなよ」
大家さんはなぜか訳知り顔、親戚の子を喜ばせたいおじさんみたいな顔をしている。
──まさか?
俺は何か大きなものを直感したが、うまく言語化できる気がしなかったので、ひとまず手近な段ボールを開けてみる。ゴミ箱が入っていた。普通のじゃない、全自動で開閉して袋の口まで縛ってくれる、よすぎるやつだ。
……他のも開けてみる。電流で塩味を増幅させるスプーン。ゼロ風の暖房。ケーブルを浮かせるマウスバンジー。ゲーミングパッド。ロボット掃除機。イルカの解剖書(三万円)。240Hzの4Kモニター。そして、ほかにもいろいろ。
おいおいおいおい。こいつらは……俺のほしいものリストにあったものだった。
そこに登録されているものが一度にドサっと来た。どう考えてもおかしいが、まあ、ありえないことではない。足の長い各位が、たまたま同じ日に買ってくれたのかも知れない。
ひとつ問題があるとすれば、インフルエンサーでもあるまいし、俺はほしいものリストを非公開にしているということだ。
俺は欲しいものがたくさん詰まった段ボール群を前にして、静かに目を閉じた。
やっぱ情報漏洩してるわ。確実に。それで……なんか、想像しているのと違う受け止められ方をしている。
俺は大家さんの助けを借りつつ、エレベーターを何往復もして荷物を自室に運び込み、引っ越し初日みたいになった部屋の中で考えた。もはや、ゲームのイベント報酬なんかどうでもよかった。一体、何がどうなっているのか、突き止めることの方が重要だった。
昨日と今日、起こったことの共通点……それは、関わってきた人たちがやたらと訳知り顔だったことだ。警察署の兄さんも、バス運転手も、おばあちゃんも、大家さんも。顔はないが、しれっと免許更新期限をリマインドしてきたスマートスピーカーもそうだ。
俺は情報を整理して、ひとつの仮説を立ててみた。
情報漏洩というと、クレカの番号とかパスワードとか氏名住所とか、そういう方面のことのように考えがちだが、もう、それどころではないとしたら? つまり……俺に関する全ての情報が、全ての人に漏れている。そういうレベルの漏洩だったら。
『お前の個人情報を知らないやつなんて、もうどこにもいないと思った方がいいな』
皆川のセリフが脳裏をよぎった。指を交差させた「X」印……俺はスマホを見ると、大昔に作った非公開の別アカウントで試しにポストしてみる。
『口の中ギタギタになるくらいザクザクでアホデカいからあげが食いてえ』
音もなく俺のくだらない欲求がひそかに発信される。俺は少し待ってから、家を出た。スーパーに行き、揚げ物コーナーに行く。トイプードルの群れみたいだな、と思っていると、はっとしたように店員が声をかけてきた。
「あ、ごめんなさい、今用意してるのでお待ちくださいね」
「はあ」
心臓が高鳴り始めた。いや、待て……まだ、何を用意しているのかは言われていない。
傍から見れば万引きを企んでると思われそうな落ち着かなさで待っていると、やがて同じ店員が茶色い塊の入ったパックを持ってきた。
「お待たせしました。どうぞ~」
「ど、どうも……」
そうして俺はこの空間で一番アホデカいからあげを持つ男になってしまった。
もう確定だった。俺の個人情報は洩れも洩れ洩れ、現在進行形で筒抜けなのだ。世界に、ワールドワイドに。まるきり「トゥルーマンショー」だった。
だとしたら、もうひとつ、絶対に確かめなければいけないことがある。アホデカからあげを渡すという役目を果たし、下がろうとする店員に俺は話しかけた。
「あの、どうしてこんな俺に親切にしてくれるんですか?」
最も不可解な点、それは、俺の情報が俺を助けるために利用されていることだった。普通、住所が割れたら怖い人がやってくるものなのに、順番を譲ってくれたり、公共インフラが融通利かせたり、欲しいものをくれたりする。その優しさが俺を狂わせる。
「え、それはだって」
俺の問いに、店員はびっくりしたように答えた。
「個人情報、全部流れちゃってるんですよね。そんな大変な思いをしてる人を助けるのは、当然じゃないですか」
とてつもない衝撃が俺を襲った。なんて受け答えしたのかもわからないまま、俺はからあげだけ会計を済ませ、レジ袋ももらわず裸のまま文字通り持って帰った。
ええ、これは……全ての情報を丸裸にされたとびきり不幸な男を哀れんだ、世間による慈しみらしい。思えば、バスのおばちゃんも「あたしだったらもう葬式の段取りよ」とか言っていた。自分の情報がすっぽ抜かれることは、死を思うほどの恐怖らしい。少なくとも、今の俺は世間からそう思われているのだ。
実際、俺が平気でいられるのは、匿名の害意に晒されていないからだった。ありがたい同情の心、押し寄せる善意が現実を曇らせてくれる。
俺は帰宅すると、室内を見渡した。便利ガジェットから、アホデカいからあげまで、欲しいものが揃っている。順番も譲ってもらえるし、バスも俺の前で止まるし、人はみんなかわいそうな俺に同情してくれる。
あれ、情報漏洩、悪くないんじゃね? 渡る世間は仏ばかりじゃないか。なんだよ、こんないい世界だったのか。
……いや、どうだろう。
逆に言えば、あらゆる人間が俺の情報を把握しているわけだ。ダークウェブに流された漏洩情報を見るのはとても人には言えないほどの悪趣味なのに、俺が「見られたくない」と宣言しているはずの情報を見ることは、善意の盾によっていい話にされる。本来なら「見ない」が最善のはずなのに。
俺は腹が立つと同時に、悲しくなった。きっと、その人たちの中には穂崎さんも含まれている。だからこそ昨晩、偶然を装って俺好みのカレーをくれたのだ。情報洩らされてかわいそうな人……そんな心で。
俺の中で感情がぐらりと大きく揺れた。一周回って、この無窮に優しい世界が信じられなくなってしまった。
つらい。終わりにしたい。ただ──そんな失望の最中で、俺はふと思いついてしまった。
どうせなら……世間様の善意とやらを、試してみようじゃないか。
怒りと悲しみに満ちた俺は、極限の欲望をインターネットに書き込んでみた。
『5000兆円欲しい』
心臓がバクバクしていた。まさか、まさかな? 使い古された冗談だってわかるよな? やめろよ、絶対にやめろよ? しかし、欲しいことは事実だ。さあ、お前は一体どうするんだ? この哀れな情報漏洩者に救いをもたらしてくれるのか?
なんて投稿直後は興奮していたが、そのポストに一切反応がないのを見て、あっという間に熱は冷めていった。いや、そりゃそうだろ。インターネットで流行った定型文で、そこに深い意味はない。伸びをした時に出る鳴き声みたいなものだ。
アホらしい。俺は床に大の字になった。天井を見つめながら、ふと、穂崎さんは俺の全ての投稿を見たのだろうか、と考えた。確か、穂崎さんと隣同士になったばかりの頃、俺は…………いや。
俺はすべてを忘れるために、残りの休日はインターネットを断ち、全てゲームに費やした。やっぱりイベント報酬もらっておきたかった、と思ったが口にはしなかった。「障子に目あり、背後にメリーさん」だから。
『重要なメッセージを受信しました。メールをご確認ください』
スマートスピーカーがそんな知らせを伝えてきたのは、木曜日の早朝だった。特に頼んでいないが、どこかの親切なハッカーが俺のためにやってくれたのだろう。
何なんだよ、と手探りでスマホを見つけて、通知からメールを開く。見知らぬアドレスから届いた英語の長文だった。何だこりゃ……スパムかと思ったが、それにしては品があるし、
「これ翻訳したの送って」
『かしこまりました』
家電AIは脅威の理解力で日本語に訳したメールを再送してきた。最初からそうしてくれと思ったが、英文のインパクトで目が覚めたから気が利いているとも言える。
俺は恐る恐るその文面を読んで……動悸のあまり、吐きそうになった。
平たく言えば「気の毒なあなたのために、世界中の国家・企業・資産家・基金・財団が金をかき集め、お前の決済アプリに5000兆円振り込んだ」という旨だった。
嘘だろ……震える指で赤字にPの字踊るアプリをタップする。確かに5000000000010340ポイントがレイアウトをぶち破って入っていた。
「あはははははは!」
これには吐き気を通り越して、爆笑してしまった。面白すぎる。ぶっ壊れている。何でもありかよ。ダメだろこんなの。これだけで百カ国くらいの財政賄えるだろ……?
…………俺はその時、いつも使っているSNSたちのアプリアイコンに、膨大な数の通知バッジがついていることに気がついた。指がいつもの癖でタップする。そして、ひっくり返った。
異常な数のインタラクションがついていた。フォロー、リプライ、DM。いや、それはそうだ。人生何回やっても使い切れないような金を持っているやつがいたら、誰だって「ちょっとくらい分けてくれ」と言うに決まっている。
ただ……その内容は想像したものと違った。
「桜川様。この度の大変なご不幸、心よりお見舞い申し上げます。さて、弊社は金属製造業を営んでおります。桜川様に融資のご相談をお願いしたく、ご連絡差し上げました──」
その下に、会社の詳細は財務資料が添付されている。俺に投資を……会社を運営するための金をくれと言っているのだ。その他のDMもそうだ。
「突然のご連絡失礼いたします。弊社ではタレント事業を行っております……」
「ITインフラストラクチャーの構築を……」
「物流業・運送業を……」
「小売店を世界的に展開して……」
待ち構えていたように、続々と連絡がやってきて通知が鳴り止まない。そうか、俺以外の全人類は、何日も前から俺が5000兆円を手に入れることを知っていたのだ。
俺は虚無なくらい冷静になって、全世界に流通する貨幣量を調べた。諸説あったが、ざっと2京円らしい。2万兆円である。で、俺はそのうちの四分の一を持っている。世界の半分の半分を取り上げたも同然だった。
俺は窓の方を見た。何だか、昼間のような騒々しさを感じて、カーテンを開けてみる。
「うわ!」
思わず、声が出た。そこにいたのは……群衆だった。視界の限り、人びとが俺の住まいにびっちりと押し寄せている。老若男女、国籍も貧富も関係無しに、俺のマンションに列をなしている。気持ち悪いほど整然と……誰ひとり抜け駆けすることなく、声を上げることなく、ただ静かに、俺が現れて、交渉に応じてくれるのを、行儀正しく待っている……。
そうだった。俺が暮らしているのは、あっさり5000兆円を捻出するような、信じられないくらい親切でお人好しな世界だった。
そんな人たちにもそれぞれの生活があり、その資金のために、正しい姿勢で、俺に頼まなければならない。情報漏洩して大変なところ申し訳ないけれど、お金をいくばくか回してくれないか……と……。
確かに、人から覗かれることは気味が悪い。
ただ、その悪趣味を打ち消すほどの絶対的な善意があったのなら?
俺には判断がつかない。ただ、少なくとも貨幣経済との相性は悪いようだ。
あっという間に全てがどうでもよくなった。俺はカーテンを閉じると、いつかの寝言のように言った。
「ホッケー、スンドゥブ、情報漏洩を止めて、それ以前の生活に戻して欲しい」
『かしこまりました』
AIの素直な返事を聞き届けて、俺は寝床に戻った。まだ朝は早く、あっさりと二度寝に就くことができた。
そして、目が覚めるとすべてが元に戻っていた。5000兆円はさっぱりなくなり、人だかりは消え、誰も列の順番は譲らないし、バスも俺の前で停まらないし、俺のためにからあげを揚げる人もいない。贈られた品々も返品した。アンドゥしたように元通りだ。
ただ、残ったものはある。
『ヤバい、隣の人、めちゃくちゃ好みのタイプで好きだ』
ある休日、俺は自分の大昔のポストを見つけ、スマホを投げ捨てそうになったが……もし、俺の情報が漏洩した時、穂崎さんがこのポストを見ていたのなら? その上で、俺の口に合うカレーをお裾分けしてくれたのなら……?
俺は穂崎さんの家の前に立って、インターホンを押す。手元にはドライフルーツの詰め合わせパック。休日を費やして選んだ品だ。
「あれ、桜川さん……?」
穂崎さんの声がして、心臓が跳ねる。でも、これくらいは都合よくさせてもらったもいいんじゃないだろうか。俺は言った。
「あ、どうも。あの、ふるさと納税の返礼品が余っちゃって……前のお返しも兼ねて、どうですか?」
ここから先は俺のプライベートとしたい。
ホッケー、スンドゥブ、情報漏洩して 城井映 @WeisseFly
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