誰かのための朝食
しちめんちょう
誰かのための朝食
皿に卵焼きを落としたあと、彼女はふと、自分の最初の結婚式を『売り』にゆくことを決めた。
卵焼きの表面に細いひびが一本走り、その裂け目が朝の光を吸い込みながら淡く脈打っている。
指先で皿の縁を確かめる。
ほんの少し冷たかった。
その温度が、どこか、もう他人のものになってしまったかのように感じた。
外では、新聞受けが かたん と乾いた音を立てたり、近所の子どもが靴を引きずって歩く気配がしたりする。
積みかさねた日常の重みがこの両肩にずっしりと乗っているせいなのか、日常のなかに自分だけが置き忘れられたような感覚が残った。
結婚式を『売る』理由は、まだ言葉にならない。なんというか、ただ「今日」という日の響きに背中を押されただけのだろう。卵焼きのひびのように、その感覚はたしかにそこにあるのに、触れようとすると静かに姿を変えてしまう。
ただ、それで十分だった。
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鏡は水の薄い膜を纏いながら、ゆっくり彼女の姿を曖昧にしていた。指で曇りを拭うと、自分の輪郭が浮かび上がる――はずが、どこか一部が光にほどけ、確かめようとするほど遠ざかっていく。
鏡が曇っているのか、記憶の中の自分が霞がかっているのか、その判別が朝の湿気に溶けて判別できなかった。
寝室の棚には中身の抜かれた写真立てがひとつ、太陽の光を浴びて白い矩形を返していた。何年も前から空白のままのはずなのに、今朝はそこに“何かが立ち上がりかけている”気配があった。指先で触れると紙の欠片が貼りついてくるような、ざらざらした感覚が残る。
窓を少し開けると、微かに雨の日に似た匂いが漂った。だが、この町では古くから、だれかが記憶を『売り』に行く日は決まって雨が降らない、と囁かれている。迷信の類だったはずなのに、今日に限ってその言葉が、やけに輪郭を持って胸の中に滲んでいった。
服を選んで袖を通すたび、腕の内側の温度がわずかに変わる。
記憶を扱うには冷えすぎている朝――そう感じながらも、その冷たさに救われている自分を、彼女はどこかで静かに受け止めていた。
玄関へ向かう途中、靴箱の上に置きっぱなしになっていた小さな封筒が目に入った。薄いクリーム色の紙で、角が湿ってひどく柔らかくなっている。差出人の名前はすでにかすれ、読もうとすると文字そのものが後ずさりするように遠のいた。
封筒を持ち上げると、思っていたより重かった。その重さに、指の骨がほんの少し軋む。
中身は空っぽだったはずだ。何度も確かめた記憶があるのに、今朝は中に溜まっている“声”のようなものが、重心をこちらへと傾けてくる。封筒の口をつまんでそっと開けると、 ふっ と風の名残だけが触れてきて、何もない空白が
外に出る決心をして玄関に向かう。
ふと、玄関の鏡に映った自分の姿が揺れた。肩の高さが少し違う。右肩だけが、見えない荷物を背負っているように落ちていた。昨夜までそんな記憶はなかった。
だが、その“差”の理由を探る気にはなれなかった。理由を探れば、なにか得体の知れないどろどろとしたものの正体まで露わになるようで、呼吸が浅くなる。
靴を履くと、足の甲に微かな締め付けを感じた。紐はいつもと同じ結び方なのに、今日だけは、足がわずかに広がったような違和感が強く頭を打った。
——この町で記憶を売る日は、体のどこかがわずかに変形する。
幼い日に聞いたその言い伝えが、不意に熱を持って甦る。
ドアノブに手をかけた瞬間、持っている封筒の重さが、今頃になってひどく現実味をもって掌にまとわりついた。
外へ出る理由はまだ言葉にならない。
それでも、行かなければならないという義務感のような気持ちだけが、確かに彼女を押していた。
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家を出ると、朝の空気はまだ眠りの余韻を抱き込んだまま、肌に柔らかく張り付いた。通りの向こうではフライパンをジュワジュワと温めている音がして、焦げかけた食パンの匂いが風に薄く溶けていく。町は、誰かの朝食の湯気で満ちた、静かで緩慢な器のようだった。
歩くたびに、靴底が地面に沈み込む。いつもより重い。まるで“アスファルトの下へゆっくりと沈んでゆく心の欠片”というものがあって、踏みしめるたびに彼女からその“欠片”がこぼれ落ちいっているようだった。
すれ違う人々の手には、袋や箱が提げられている。中身は見えないが、その箱の重さが、それぞれの歩幅に微妙な違いを生み出している。誰も説明しないし、知ろうともしない。ただ、朝とともに何かが下へ、下へ、と沈んでゆくという感覚だけが、この町の空気と同じくらい自然に存在している。
角を曲がるたび、彼女の中で結婚式の記憶のカタチがぼやけていく。具体的な場面ではなく、あの時の質感だけが微かに残る。その一瞬一瞬の重みを思い返した瞬間、幼いころ耳にした言葉がよみがえる。
——記憶は、その重さで買い取られる。
なにかの意味を求めれば、なにかが消える。だが今日は、不思議とその曖昧さに救われた。
ある角を曲がったところで、町の音がひとつ、抜け落ちた。
遠くの話し声も、食器の触れ合う気配も、すべて、薄く平たくなっていく。代わりに、自分の呼吸だけが少し大きく、少し遅れて耳に返ってきた。
封筒を持つ手のひらが、急に熱を帯びる。
さっきまで「重さ」としてしか感じていなかったそれが、いまははっきりと、形を持った存在としてそこにあった。封筒の内側で、なにかがわずかに身じろぎしたような錯覚が走り、彼女は反射的に指を強く折り曲げる。
振り返れば、来た道は変わらず町の中に続いているはずなのに、なぜか一枚の絵に見えた。奥行きだけが抜け落ち、絵の具で描いた背景のように遠ざかっている。
前を向くと、建物の影が不自然に長く伸び、足先に触れた。
——ここから先は、もう町ではない。
そう思った瞬間、靴底の感触が変わる。
地面は硬さをさらに失った。踏みしめるたび、わずかに遅れて体重を受け止める。沈み込む感覚に、奇妙な安堵が混じっていた。
彼女は歩みを止めなかった。
理由はまだ言葉にならないまま、ただ、ここへ来るまでに落としてきたものが、もう拾えない位置にあることだけは、はっきりと分かっていた。
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売り場は、町の輪郭から少し外れた場所にあった。廃材の匂いが混じった倉庫の扉は、見た目に反して驚くほど軽く開く。その瞬間、外の音がすべて剥がれ落ち、ひどく乾いた静寂だけが内部に満ちているのが分かった。空気は薄く、紙が長く放置された部屋特有の、色の褪せた匂いが漂っている。
受付に座る係員は、何度見ても、きっと思い出せないだろう、という印象を与える顔立ちだった。表情はなく、目の奥には“なにも”ない。こちらへ向けられた視線すら、彼女を人ではなく、品物を運ぶ歯車として認識しているように思えた。
「今日はどんなご用事で?」
呼吸の揺れも感じさせない声が落ちる。
彼女は封筒を両手で握りなおした。手触りは軽いのに、掌の内側だけが妙に脈打っている。なぜか、この封筒を渡さないといけない気がした。
係員は受け取った封筒をわずかに持ち上げ、その影が床に吸い込まれるのを確かめるようにして言った。
「……この重さなら、あなたは望み通り、新しくなれますね。」
言葉の意味は分からなかった。
しかし、その響きだけが、封筒よりも確かな重さで胸に残った。
係員はそれ以上、何も説明しなかった。
封筒は棚の奥へ滑り込まされ、どこに置かれたのかも分からない。彼女はそれを追おうとして、足が一歩も動かないことに気づいた。追う理由が、もう思い当たらなかった。
「終わりました」
いつの間にか、そう告げられていた。
問い返す言葉も、確認する必要も、胸の内には残っていない。ただ、何かを終えたという事実だけが、形を持たないまま沈んでいた。
扉の前に立つと、来たときよりもノブが重く感じられた。
押したのは自分の手のはずなのに、外へ出る決断をした記憶がない。
それでも、扉は開いた。
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建物を出た途端、風の温度が変わったように感じた。
さっきまでと同じ町並みが広がっているはずなのに、色が半歩ほど淡くなっている。世界の薄紙を一枚剥いだようだった。
歩き出すと、身体のどこかに空洞ができた感覚がある。痛むわけではない。ただ、そこだけ温度が抜け落ちている。その冷えを意識するたび、彼女は反射的に服の上から胸元を押さえた。自分の"中心"が、すでにないことを確かめるように。
すれ違う人々の顔は、さっきよりもはっきり見える気がした。声も、足音も、妙に具体的だ。代わりに、自分の輪郭だけが薄くなったような感覚が残る。人の流れの中に立っているのに、自分だけが空気と混ざり合い、溶けている。
交差点で立ち止まると、街路樹の葉の揺れ方が以前と違って見えた。風が触れるたび、その葉は彼女の知らないリズムで震える。それは、記憶をひとつ失った影響なのか、単なる錯覚なのか、判断がつかなかった。判断するための基準そのものが、欠けている気がした。
ただ、一つだけ確かに言えることがあった。
——失われたものを確かめる手段は、もう残っていない。
それが何だったのかを知る権利ごと、すでに手放してしまったのだと、足の裏に伝わる地面の感触が遅れて教えてきた。
気がつくと、家の前に立っていた。
鍵を取り出した記憶は曖昧で、指がどのポケットを探ったのかも思い出せない。ただ、扉の前にいるという結果だけが、そこにあった。
鍵穴に差し込むと、金属の感触がひどく他人行儀だった。
回したのは自分の手のはずなのに、その動作に言葉が追いつかない。扉に許可されているような、それに近い感覚だった。
開いた瞬間、懐かしさは訪れなかった。
代わりに、長く使われていなかった部屋に足を踏み入れたときのような、微かな遠慮が生まれる。ここは知っている場所のはずなのに、どこか自分が知っている空間と違う気がしてくる。
靴を脱ぎ、揃える。
その仕草が自然にできたことに、わずかな驚きがあった。身体はこの家の使い方を覚えている。 けれど、それを覚えたはずの自分は、もうこの家の家主ではない気がした。代わりに立っているのは、「何も持っていない誰か」のように感じる。
いや、そんなはずはない。そう、自分に言い聞かせた。
奥のほうから、静かな匂いが流れてくる。
油と、冷えた卵の匂いだった。
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キッチンの空気は朝のまま時間が止まっていた。
皿の上の卵焼きはすっかり冷え、湯気は跡形もない。それなのに、それを見た瞬間、胸の奥に小さな違和感が生まれる。
——ここにいる理由が、ない、ような気がする。
椅子を引いて腰を下ろすと、机の木目がやけに鮮明に見えた。いつもと同じはずの机なのに、触れると少し硬く、膜が張ってあるような感触がある。まるで、家が彼女を家主と認めていないようだった。
箸を手に取り、卵焼きに触れた瞬間、はっきりと気づく。
——今朝、確かに見たはずの「ひび」が、どこにもない。
ひびの入った卵焼きと、今ここにある卵焼き。
同じ皿に乗っているのに、同じものだと思えなかった。
けれど、その理由を探ろうとした途端、思考は静かに空回りする。
それが自分の記憶なのかどうか、確かめる術はなかった。
卵焼きは、誰かのために作られたものの顔をして、黙ってそこにあった。
箸を置き、彼女は立ち上がった。
食べるという行為が、今の自分に許されているのか分からなかった。ただ、そこに座り続ける理由も見つからなかった。
リビングを離れると、床の軋む音がひどく大きく聞こえた。音だけが先に進み、身体が少し遅れて追いかけてくる。廊下の途中で足を止めたとき、背後にある朝食の気配が遥か遠くの方にあるように感じた。
窓のほうへ向かう。
何かを確かめたいわけではない。ただ、内側に留まり続けるのが、少し怖かった。
光のある場所に行けば、自分がどこに立っているのかくらいは分かるかもしれない。
そう思った理由さえ、はっきりとはしないまま、彼女は窓際に近づいた。
彼女は窓際に立ち、外の光の具合を確かめるように目を細めた。
朝なのか昼なのか、判断のつかない淡い輝きが、街をぼんやり包んでいる。見慣れていたはずの景色が、まるで誰かの記憶を借りて再現された街のように、少し距離を置いて存在していた。
自分の中の欠けた部分が、何を失った穴なのか、指先で触れれば分かりそうで、触れようとすると輪郭が溶けてしまう。
人は、失ったものを思い出すことができないように作られているのではない。
"それ"が「自分のもの」と呼べなくなった瞬間から、人は自然と、"それ"への執着を手放してしまうのだ。
——自分を形作るものを手放せば、もっと明るい朝が来る——
記憶の断片がふと蘇る。
いつの間にか、リビングに戻って来ていた。机には卵焼きが黄色く光っている。
彼女は箸を取った。
卵焼きを一切れ、口へ運ぶ。
生きるために食べるのだ。
これからの朝を生きるのが、以前の自分ではないとしても。
誰かのための朝食 しちめんちょう @Turkeyturkeysandwich
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