ヘイト・ラブ・コンバージョン
伊阪 証
本編
作品の前にお知らせ
下記リンクに今後の計画のざっくりした概要が書いてあります。余命宣告の話もあるのでショッキングなのがダメなら見ないことを推奨します。
あと表紙はアルファポリスとpixiv、Noteでは公開してます。
表紙単品シリーズ→https://www.pixiv.net/artworks/138421158
計画周り→https://note.com/isakaakasi/n/n8e289543a069
他の記事では画像生成の詳細やVtuberを簡単に使えるサブスクの開発予定などもあります。
また、現時点で完結した20作品程度を単発で投稿、毎日二本完結させつつ連載を整備します。どの時間帯とか探しながら投稿しているのでフォローとかしてくれないと次来たかが分かりにくいのでよろしくお願いします。
今年の終わりにかけて「列聖」「殉教」「ロンギヌス」のSFを終わらせる準備をしています。というかロンギヌスに関しては投稿してたり。量が多くて継承物語は手間取っていて他はその余波で関連してるKSとかEoFとかが進んではいるけど投稿するには不十分とまだ出来てない状態です。
自動ドアが開くと同時に、生温い風と湿った埃の匂いが鼻をついた。 地下鉄の構内は、朝の八時特有の殺気と倦怠が入り混じった灰色に染まっている。無数の靴底がタイルを叩く乾いた音、すれ違う誰かの過剰な香水の甘さ、そして頭上のスピーカーから降り注ぐ無機質なアナウンス。それら全てが、私の身体を構成する感覚器官を少しずつ麻痺させていくようだった。
私は人波に流されるまま、改札へと向かう。胃の底には、消化しきれていない朝食のパンと、慢性的な憂鬱が沈殿している。
視界の端、巨大なデジタルサイネージが明滅した。 『嫌い、は恋の始まり。あなたのその動悸、もしかして?』 パステルピンクの背景に、デフォルメされた男女がハートマークを飛ばし合っている。公共広告機構の啓発ポスターだ。その隣には、厚生省推奨の『抗争抑制および感情転換療法』の文字が誇らしげに躍っている。
私は無意識に眉根を寄せ、すぐに表情を戻した。 ――馬鹿馬鹿しい。
人類の叡智が到達した平和の形がこれだというなら、私たちは猿以下まで退化したに違いない。 かつて、この星では「嫌悪」がトリガーとなって血が流れた。差別、迫害、戦争。人は自分と異なるものを嫌い、排除しようとする本能を持っていたからだ。その反省から生み出されたのが、今のこの社会システムである。 強い拒絶反応や攻撃的な嫌悪を脳が感知すると、大脳辺縁系に埋め込まれた調整機能が作動する。ノルアドレナリンによる闘争本能は、強制的にドーパミンやオキシトシン――つまり、恋愛感情に似た多幸感へと置換されるのだ。 殴りかかりたいほど憎い相手ほど、抱きしめたいほど愛しく感じる。 暴力を愛撫に、罵倒を愛の言葉に。そうやって社会は、牙を抜かれた獣のように去勢された平和を享受している。
「……吐き気がする」 誰にも聞こえない声量で呟き、私は改札を抜けた。
スマートフォンが振動する。ニュースアプリの通知だ。『連続傷害事件の加害者、被害者遺族と電撃婚約。「憎しみが愛に変わった」と涙の会見』。 画面を指先で弾き、その記事を視界から消し去る。
美談のように語られているが、それはただのエラーだ。脳がバグを起こしているに過ぎない。傷つけられた側が、その傷の痛みを「愛しさ」だと誤認させられているだけだ。 加害者は罪悪感を恋心で塗りつぶし、被害者は恐怖をときめきですり替える。 そんな欺瞞で成り立つ関係に、どんな価値があるというのか。
私は自分の胸元を、ブラウスの上から軽く押さえた。そこにはまだ、何のときめきもない。ただ一定のリズムで血液を送り出す、冷めた心臓があるだけだ。 過去の古傷が、不意に疼いた気がした。 かつて私に向けられた、刃物のような言葉。侮蔑に満ちた視線。あの時、まだ幼かった私の脳にはこの防衛システムが未熟で、純粋な「痛み」としてそれを受け止めた。
だからこそ知っている。 嫌悪は、嫌悪のままであるべきなのだ。それを恋だなんて甘い包装紙で包んで、なかったことになんてできるはずがない。
「好きとか嫌いとかで、人生を決められたくないんだよ」 階段を上がり、地上への出口を目指す。
眩しい朝の光が差し込んでくる。その白さが、私にはひどく人工的なものに見えた。 今日という一日が、また始まる。
私は息を止め、世界の空気を肺に入れないようにしながら、コンクリートのジャングルへと足を踏み出した。
オフィスの空気は、常に一定の温度と湿度に保たれている。 それが快適というよりも、まるで保存食のように密封されているかのような息苦しさを感じさせた。私は自分のデスクに辿り着くと、革製の鞄を足元に置き、パソコンの電源を入れる。 起動音とともに、無機質な青白い光が私の顔を照らし出した。 周囲からはキーボードを叩く乾いた音と、コピー機が紙を吐き出す規則的なリズムだけが聞こえてくる。時折混ざる同僚たちの会話も、意味を持たない環境音の一部だ。
私はマグカップに口をつけたが、中身が空であることに気づいてそのまま置いた。喉の渇きを覚えたが、給湯室まで立つ気力が湧かない。 メールボックスを開く。未読件数38件。その大半は事務的な連絡だが、一通だけ、「全社員必読」のタグが付けられたものが目に留まった。
『件名:下半期・感情衛生管理講習の実施について』 指先が微かに強張るのを感じながら、私はそれをクリックした。画面にPDF資料が表示される。 そこには、無機質な明朝体で、この社会の根幹をなすシステムの素晴らしさが羅列されていた。
『――ヘイト・ラブ・コンバージョンの導入以降、国内における傷害事件発生率は前年比8.4%の減少を記録。特に突発的な衝動による暴力は、ほぼ根絶に近い数値を維持しており――』 『――対象への強烈な排他感情(嫌悪)を検知した際、脳内神経伝達物質の分泌パターンを再構築。コルチゾールの過剰分泌を抑制し、その代わりにフェネチルアミンおよびエンドルフィンの生成を促進することで、社会的な衝突を回避する――』
文字を目で追うたび、胃の腑に鉛を流し込まれたような重さが広がる。 美しい数字だ。完璧な論理だ。 けれど、私の身体は拒絶反応を示していた。喉の奥が引きつり、呼吸が浅くなる。
モニターの光が滲み、資料の文字列が、かつての記憶の断片へと変貌する。 ――あの日。 システムなどまだ未完成だった頃の、生々しい記憶。 肌を刺すような冷たい空気。見下ろしてくる視線。そして、鼓膜を引き裂くように放たれた言葉。
『お前みたいな人間は、生理的に無理なんだよ』 『顔を見るだけで虫唾が走る』 『消えてくれないか』
あの時の、心臓を雑巾のように絞り上げられる感覚。全身の血液が逆流するような熱さと、指先の氷のような冷たさ。 あれは「痛み」だった。 私の存在そのものを否定し、切り捨てる、純粋で鋭利な「嫌悪」という名の凶器だった。
もしあの時、このシステムが稼働していたらどうなっていただろう。 私を傷つけたあの人たちは、私に対して頬を赤らめ、愛おしそうに微笑んだのだろうか。「死ね」と言う代わりに「愛してる」と囁いたのだろうか。 想像しただけで、鳥肌が立つ。 それは救済ではない。尊厳の冒涜だ。 殴られた痛みも、否定された悲しみも、「愛」というオブラートで包んで飲み込めというのか。傷つけた側は罪悪感を持つことすら許されず、傷つけられた側は怒る権利すら奪われる。
「……進化、ね」 口の中で呟くと、苦い味がした。 資料の最後には、笑顔のイラストと共に『嫌悪を捨てて、愛を選ぼう』というスローガンが書かれている。
私はマウスを握る手に力を込めた。爪が掌に食い込む痛みが、私を辛うじて現実のオフィスへと繋ぎ止めていた。 違う。 私が受けたあの傷は、本物だ。誰かの脳内物質の都合で、甘い恋の思い出になんて書き換えられてたまるか。
私はPDFを閉じ、まるで汚いものに触れたかのように手を膝で拭った。 仕事に戻ろう。 感情なんて不確定なものに頼らない、ただの数字と論理の世界へ。 そう自分に言い聞かせて、私は業務用のスプレッドシートを開いた。 だが、私の指先はまだ微かに震えていた。これから起こる再会を、予期していたわけでもないのに。
午後一番の会議室は、独特の閉塞感に満ちていた。 ブラインドの隙間から差し込む西日が、空気中の埃を白く照らし出している。私は資料の束を抱え、重たいドアノブを回した。 第三会議室。そこは外部の監査役を迎えての、プロジェクト進捗確認の場だった。
ドアが開く。空調の低い唸り音が耳に入ってくる。 そして、その瞬間だった。 部屋の奥、上座にあたる席に、その人物は座っていた。 完璧にプレスされたダークネイビーのスーツ。微動だにせず、手元のタブレットに視線を落としている姿勢。そして、周囲の空気を凍りつかせるような、研ぎ澄まされた合理性の気配。
――ああ。 私の思考が、瞬時に凍結した。 間違えるはずがない。あの姿勢。あの、人を人とも思わないような指先の動き。 かつて私を「不確定要素」として切り捨て、私の尊厳をデータの一部として処理した男。 私の人生において、最も許しがたく、最も憎むべき相手。
胃の底から、マグマのようなドス黒い感情が噴き上がるのを感じた。それは純度100%の嫌悪だ。視界が赤く染まるような、本能的な拒絶。 逃げ出したい。いや、そのすました顔を歪ませてやりたい。 殺意にも似た衝動が脳髄を駆け巡った。その直後だった。
ドクン、と心臓が異様な音を立てた。 「――?」
彼は私の気配に気づき、ゆっくりと顔を上げた。 縁なしの眼鏡の奥にある、冷ややかな瞳と目が合う。 「時間通りですね。どうぞ」 淡々とした、抑揚のないバリトンボイス。
その声が鼓膜を震わせた瞬間、私の脳内で何かが弾けた。 カッと全身の毛細血管が一斉に開くような感覚。 憎しみで冷え切っていたはずの手足の先まで、熱い血流が奔流となって駆け巡る。 息が詰まる。苦しい。いや、甘苦しい。 さっきまで吐き気を催していたはずの胃の不快感が、奇妙な昂揚感へとすり替わっていった。
心臓が早鐘を打っていた。 それは敵に対する警鐘のリズムではない。まるで、憧れのスターを前にした少女のような、軽やかで浮ついたビートだ。
視界が狭まる。会議室の机も、ホワイトボードも、他の同僚たちの姿も、すべてがピントのずれた背景へと退いていく。 ただ彼だけが。 世界で一番嫌いなはずのその男だけが、スポットライトを浴びたように鮮明に、輝いて見える。
「どうしました? 着席してください」 彼が不審そうに眉をひそめた。 その仕草すら、スローモーションのように目に焼き付く。 眉間の皺がセクシーだとか、冷たい瞳が理知的で素敵だとか、そんな馬鹿げた感想が脳裏を過る。
「あ、っ・・・・・・」 声が出ない。 私は慌てて視線を逸らし、指定された席へと向かった。足元がおぼつかない。ふわふわとした眩暈がする。 椅子を引き、腰を下ろす動作すら、彼に見られていると思うと意識してしまう。
――何これ。やめて。 私は机の下で、震える手を固く握りしめた。爪を食い込ませて、正気を取り戻そうとする。
会議が始まった。 彼は淡々と、情け容赦のない指摘を繰り返していく。 「この数値は希望的観測に過ぎませんね。削除を」 「現場のモチベーションなどという不確かなパラメータは考慮しません。成果のみを提示してください」
その言葉の端々に滲む冷酷さは、まさしく私が憎んでいた彼そのものだ。 正しい。正しいけれど、人の心を殺す正しさだ。 頭では分かっている。こいつは最悪だと、理性は警報を鳴らし続けている。 なのに。 彼が資料を指差すその長い指に見惚れ、冷たい声の響きにうっとりと耳を傾けてしまっている自分がいる。
嫌悪が強ければ強いほど、その裏返しとして湧き上がる反応も強くなる。 嫌いだ。大嫌いだ。 そう思うたびに、胸が締め付けられるように高鳴る。
私は熱くなる頬を書類で隠し、脂汗とも冷や汗ともつかない汗を拭った。 まるで、熱病にかかったみたいだ。 この地獄のような会議が終わるまで、私の心臓は持ちこたえられるのだろうか。
会社の入るビルを出ると、世界はすでに夜の底に沈んでいた。 昼間の人工的な白さは消え、街灯のオレンジ色と車のヘッドライトが、アスファルトに滲んでいる。私は深く息を吐き出した。肺の中に溜まったオフィスの澱んだ空気を、すべて入れ替えるつもりで。 けれど、胸の奥のざわめきだけが、どうしても吐き出せない。
帰りの地下鉄は、帰宅ラッシュのピークを過ぎていた。窓ガラスに映る自分の顔は、疲れ切っているはずなのに、どこか熱を帯びているように見えた。 ガタン、ゴトン、と揺れるリズムに合わせて、脳内で今日のハイライト映像が勝手に再生された。
『この数値は希望的観測に過ぎませんね』 冷徹な声。縁なし眼鏡の奥の、氷のような瞳。 嫌いだ。 人を数字としか見ない、あの傲慢さがたまらなく嫌いだ。
それなのに。 (……あんなに綺麗な指、していたっけ) 不意に浮かんだ感想に、私は自分の太腿を強くつねった。 何を考えているんだ。あれは、私を切り捨てた手だ。私を傷つけた男だ。
だが、否定しようとすればするほど、記憶の中の彼は鮮明になっていく。資料をめくる所作の無駄のなさ。淡々とした語り口の、不思議な心地よさ。 嫌悪という杭を打ち込もうとするたびに、脳のシステムがそれを「魅力」という花にすり替えていく。
最悪な気分だった。 アパートの鍵を開け、重い鉄扉を閉める。 カチャリ、という施錠音と共に、ようやく「私だけの世界」が戻ってくるはずだった。
靴を脱ぎ揃え、明かりを点ける。散らかったままのローテーブル。読みかけの本。 いつも通りの私の城。 なのに、部屋の空気がどこか他人のものように感じる。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一気に喉に流し込んだ。冷たさが食道を落ちていく感覚で、ようやく少し正気に戻る。 シャワーを浴びよう。今日の記憶ごと、全部洗い流してしまおう。
バスルームで熱いシャワーを頭から浴びる。排水溝に渦巻くお湯を見つめながら、私は無意識に、自分の脈を測ってしまった。 トクトクと、まだ少し速い。 会議室で彼と目が合った瞬間。あの時の、内臓が浮き上がるような感覚。
「……システムが、正常に稼働しただけ」 湿った浴室に、独り言が反響する。 あれは私の感情じゃない。 彼に対する強烈な拒絶反応を、脳が命の危機だと誤認して、緩和剤としてドーパミンを分泌しただけだ。これは科学現象だ。恋なんて甘いものじゃない。
髪を拭き、部屋着に着替えて、ようやくベッドに倒れ込む。 天井の染みを見上げる。 静寂。 遠くで救急車のサイレンが鳴っている。
私は今日一日を振り返ろうとした。 朝のニュース。通勤。仕事のメール。ランチ。 ……いや。 思い出せるのは、彼のことばかりだ。 再会する前の恐怖。再会した時の衝撃。その後の混乱。そして今、こうして一人になってもなお、彼が言った言葉の意味や、その時の表情の裏側を、必死に分析しようとしている。
「…………はあ」 重いため息が漏れた。 認めたくないけれど、事実は事実だ。 世界で一番嫌いな人なのに。 いや、世界で一番嫌いな人だからこそ。 私の一日の大半は、もう彼のことで埋め尽くされていた。
脳が作り出したこの偽物の熱は、私が眠りに落ちるその瞬間まで、しつこく私の体を焦がし続けるつもりらしい。 私は枕に顔を押し付け、泥のような眠りが訪れるのを待った。
翌朝。 最悪の目覚めだった。 カーテンの隙間から差し込む朝日が、網膜を直接焼くように眩しい。
世界が、妙に鮮やかだった。 窓枠の輪郭、埃の粒子、ベッドサイドに置いたミネラルウォーターの透明度。視界に入るすべての情報が、彩度を三段階くらい上げたかのようにキラキラと主張してくる。 まるで、安い恋愛映画のフィルター越しに世界を見ているようだ。
私は呻き声を上げて起き上がり、ぬるい水を喉に流し込んだ。 味覚まで過敏になっているのか、ただの水が妙に甘く感じる。
――異常だ。 私は鏡に映る自分を睨みつけた。頬の赤みが引いていない。微熱があるわけでもないのに、体の奥、へその下のあたりに、じっとりと燻るような熱の塊がある。
準備を整え、アパートを出て駅へ向かう。 コンクリートを叩くヒールの音が、いつもより軽やかに響くのが腹立たしい。
歩き始めて数分。 まただ。 私の意思とは無関係に、脳内の映写機が勝手に回り出した。 『この数値は希望的観測に過ぎませんね』
昨日の会議室での光景。 だが、記憶の質が変わっている。昨夜よりも鮮明で、高画質になり、都合よく編集されていた。 彼が眼鏡の位置を直す指先。その爪の形が、綺麗なアーチを描いていること。 スーツの袖口から覗く手首の骨格が、男性的で華奢なラインを描いていること。 資料に向けられた冷たい視線が、長い睫毛に縁取られて憂いを帯びて見えること。
声のトーン。低くて、少しハスキーで、まるで耳の裏側を撫でるような周波数。
(……っ、やめて!) 私は立ち止まり、頭を振った。 違う。あいつは冷酷な合理主義者だ。私を傷つけた敵だ。 それなのに、脳が勝手に情報を補完してくる。 彼の匂いすら、昨日は気づかなかったはずなのに、「清潔で知的なシトラス系の香りだった」という記憶が捏造されてセットされる。
ドクン、ドクン、と心臓が脈打つ。 嫌悪感で胃が収縮するのと同時に、胸が高鳴る。 吐き気とときめきが、同じ血管の中をマーブル状になって流れている。
(まさか、これが恋?) ふと、そんな単語が思考の表層に浮かび上がった。 瞬間、私は全力でそれを踏み潰した。 断じて違う。 絶対に、絶対に違う。 これは脳のエラーだ。システムが誤作動を起こして、憎むべき対象に「繁殖パートナー」としてのタグを貼り間違えているだけだ。これは私の魂が選んだ感情じゃない。
顔を上げると、数メートル先を歩くカップルの姿が目に入った。 駅へ向かう人波の中で、彼らは手をつなぎ、何がおかしいのか甘ったるい声で笑い合っている。 その姿を見て、私は冷ややかな安堵を覚えた。
――ああはなりたくない。 あんなふうに、ホルモンの奴隷になって、理性を溶かして、相手のすべてを肯定するような馬鹿な生き物にはなりたくない。 私は「嫌い」という感情を守らなきゃいけない。 この胸の動悸も、視界の眩しさも、すべて偽物だ。
「……ふざけないで」 小さく吐き捨てて、私はカップルの横を早足で通り過ぎた。
けれど、その背中を追い越した瞬間、ふわりと漂ってきた彼氏のコロンの匂いが、また脳内の「彼」の記憶を引きずり出した。 鼻の奥がツンとするほど、彼の気配が恋しくなる。 私の身体は、私の意思を裏切って、彼を求めたがっていた。
昼下がり、私は資料室の片隅で、分厚いファイルと向き合っていた。 業務上、確認が必要な『対人摩擦軽減措置に関する技術仕様書』だ。無機質な明朝体の羅列が、蛍光灯の白い光を反射して目に痛い。 ページを捲るたび、乾いた紙の音だけが静寂に響く。インクと古紙の混じった特有の匂いが、鼻腔の奥にへばりついている。
『――対象への嫌悪レベルが閾値(スレッショルド)を超えた場合、脳内ナノマシンは即座に神経伝達物質の調整を行う』 私は指先で、その行をなぞった。 『具体的には、闘争・逃走反応を司るノルアドレナリンの分泌を阻害。同時に、報酬系回路を刺激し、フェネチルアミンおよびオキシトシンの大量分泌を誘発する』 『これにより、対象への敵対心は、強力な親和欲求および性的関心へと置換される』
まるで家電製品の取扱説明書だ。 人間の感情を、配線の切り替えか何かのように記述している。 私は無意識に、自分の胸元を押さえた。 まだ速い鼓動。 頭の片隅にこびりついている、彼の指先の映像。 それらすべてが、この仕様書の記述とあまりにも完璧に合致している。
チェックリストを埋めていくような気分だ。 心拍数の上昇、確認。 対象への執着、確認。 判断力の低下、確認。 ……ああ、間違いない。 私のこの状態は、科学的に定義された「正常な反応」なのだ。システムは仕様通りに完璧に動作している。
「……気持ち悪い」 口の中が乾いて、言葉が砂のようにザラついた。 これは私の心じゃない。私の魂が震えたわけでも、私が誰かを求めたわけじゃない。 ただ、脳味噌がハッキングされて、強制的に「恋」という名のプログラムを走らされているだけだ。
資料室の外、廊下から同僚たちの話し声が聞こえてきた。 「聞いた? 営業の佐藤さん、あんなに揉めてた取引先の人と付き合い始めたって」 「うわー、また『転換』? でもまあ、喧嘩して裁判沙汰になるよりマシじゃない?」 「だよねぇ。嫌いって感情、疲れるし。恋になっちゃえば楽だしさ」 軽い笑い声が遠ざかっていく。
私はファイルを握る手に力を込めた。指先が白く変色するほどに。 楽? マシだと? ふざけないで。 かつて私が受けた傷は、そんな軽いものじゃなかった。 存在を否定され、言葉で殺されかけた、あの屈辱。あの痛みは、私という人間を構成する重要な一部だ。 それを「疲れるから」といって、ピンク色の砂糖菓子でコーティングして飲み込めというのか。
『人類は、嫌悪に依存した差別の歴史から脱却し、新たな進化のステージへ到達した』 資料の結びには、そんな大仰な文言が踊っていた。 私はそのページを乱暴に閉じた。 進化なものか。これはただの、思考停止だ。
私の体は、確かに「恋」をしている。 熱に浮かされ、彼を求め、その姿を追いかけている。 けれど、断言できる。 この恋は、偽物だ。 私の意思を無視して、システムが勝手に作り出した、紛い物の感情だ。
私は椅子に深く沈み込み、天井を見上げた。 身体中を駆け巡る「好き」という電気信号のすべてが、嘘くさくて、薄ら寒かった。
午後のオフィスには、独特の気怠さが沈殿していた。昼食によって血糖値の上がった社員たちが吐き出す二酸化炭素と、数えきれないほどの電子機器が放つ排熱が混ざり合い、透明な膜となってフロア全体を覆っているようだ。
私は自席のデスクトップに向かい、共有サーバーの奥深くに格納されたフォルダを開いていた。今日、経営戦略部から全社に回覧された『業務プロセス最適化・改訂案』。その作成者の欄にあるイニシャルを目にした瞬間、私の指先は凍りついたように動かなくなった。
――また、彼だ。 視神経がその名前を捉えただけで、条件反射のように心臓が跳ねる。胃の腑が冷えると同時に、頬の裏側が熱くなるという、矛盾した生理反応が一気に襲いかかる。私はマウスを握る掌に滲んだ汗をスカートの膝で拭い、湧き上がる動悸を「これは怒りだ、純粋な嫌悪だ」と理性でねじ伏せて、PDFファイルを開いた。
モニターに映し出されたのは、おぞましいほどに美しい論理の結晶だった。 「・・・・・・っ、最低」 吐き捨てるような独り言は、しかし、震えるような熱を帯びていた。
悔しいけれど、完璧だった。 彼が設計した新システムは、従来の手順に巣食っていた「人間的な温情」や「慣例という名の澱み」を、まるで癌細胞でも切除するかのように鮮やかに切り捨てていた。たとえば、成果が出ない部署への救済措置の廃止。個人の事情を一切考慮しない、数値のみに基づいた自動評価アルゴリズムの導入。そこには、曖昧さが入り込む隙間は一ミリたりとも存在しない。 それは、感情という不純物を極限まで濾過しきった、氷のように透明で、そして鋭利な刃物のような論理構成だった。
パーティションの向こう側から、先輩社員たちの感嘆の声が漏れ聞こえてくる。 「やっぱり、彼の設計はずば抜けてるな。ここまで無駄を削ぎ落とせるとは」 「ああ。現場からは「血も涙もない」って悲鳴が上がってるらしいが、数字を見れば一目瞭然だ。誰がどう見ても、彼のやり方が正解だよ」 「だよなぁ。情に流されて共倒れするより、よっぽど誠実とも言える。組織を救うのは結局、こういう冷徹な正しさだ」
称賛の声。肯定の響き。 それが耳に入るたび、喉の奥に焼きつくような苦いものが込み上げてくる。 正しい。そう、彼はいつだって正しいのだ。反吐が出るほどに。
かつて私を「不確定要素」として切り捨てたあの判断も、組織全体から見れば間違いなく「正解」だったのだろう。感情論で喚く私を排除し、システムの一部として最適化した。それはきっと、誰よりも合理的で、誰よりも正しかった。 だからこそ、許せない。 その「正しさ」が、どれだけの痛みを踏みつけ、どれだけの尊厳をすり潰して成立しているかを知っているからだ。 正論という名の凶器で、生身の人間をただのデータリソースとして解体していく、その傲慢な合理性が憎くてたまらない。
憎い、はずなのに。 (どうして・・・・・・こんなに、読み込んでしまうのよ!) 私は画面から目を離せずにいた。いや、離せなかった。 彼の思考の痕跡を辿るのが、止められないのだ。 ここで敢えてリスクを取ったのはなぜか。この冷酷な数値を採用した根拠は何か。彼のロジックを追いかける作業は、まるで彼と脳内で直接対話しているような、濃密で背徳的な時間を私にもたらした。文脈の端々から、彼という人間の思考回路が手に取るように流れ込んでくる。
そして、その「理解」の深さに比例して、脳のシステムはそれを「共感」や「心酔」、あるいは「情熱的な愛」だと誤読し、さらなる快楽物質を血管に送り込んでくるのだ。 指先が震えた。 彼の書いた文字の癖ひとつ、行間の取り方ひとつ、脚注の簡潔な言い回しにすら、私の細胞が熱を帯びて反応してしまっている。 この無機質な仕様書そのものが、彼からの熱烈なラブレターであるかのように錯覚させられている。脳が、勝手にそう翻訳してしまう。
嫌いだ。 こんなにも冷酷で、こんなにも正しくて、私の痛みを「正解」で上書きしてしまうあなたが、世界で一番嫌いだ。 そう強く憎めば憎むほど、私は彼のことばかり考えてしまう。
脳裏に焼き付いた彼の横顔が、冷徹な眼差しで私を見つめ返す。その幻影に対して、私は憎悪と陶酔が入り混じった、どろどろとした熱を抱き続けていた。 逃げ場がない。「嫌い」という感情そのものが、彼への最強のアクセスキーになってしまっているのだから。 私は熱くなる頬を両手で覆い、オフィスの喧騒の中で一人、呼吸すら忘れるほどに彼という存在に侵食されていた。
深夜二時。 世界が寝静まったこの時間だけが、かつては私にとって唯一の聖域だった。 だが今、その静寂は、耳鳴りがするほどの騒音に変わっていた。
私はデスクの上のノートパソコンを開き、今日の日報をまとめようとしていた。キーボードに指を置く。しかし、カーソルは点滅を繰り返すだけで、一文字も進まない。 白い画面を見つめているはずなのに、網膜に焼き付いているのは別の映像だ。
――あの指。 彼が仕様書のページをめくった、あの冷たくて美しい指先の動き。 ――あの声。 感情を殺した低いバリトンが、私の鼓膜を震わせたあの周波数。 ――あの論理。 人間を数字に置き換える残酷な計算式が、なぜか詩のように美しく脳内でリフレインする。
「……っ、なんで」 私はガリッと奥歯を噛んだ。 おかしい。順序が違う。 本来なら、まず「憎い」という感情が来て、その理由として彼の冷酷な振る舞いが思い出されるはずだ。 けれど今は、逆だ。 まず彼の細部が鮮明に、甘美なスローモーション映像として浮かび、その後に遅れて「でもあいつは敵だ」という理性の注釈が入る。 まるで、恋をしている乙女が、好きな人の欠点をあばたもえくぼと笑って許す時のような、あの忌々しい思考プロセスそのものじゃないか。
私は椅子を蹴るようにして立ち上がり、洗面所へと向かった。 蛇口を捻り、冷たい水を顔に叩きつける。肌を刺す温度で、この熱を冷ましたかった。 タオルで顔を拭い、恐る恐る鏡を見る。
「……誰よ、これ」 鏡の中の私は、潤んだ瞳をしていた。 頬は上気し、唇はわずかに緩んでいる。まるで、素敵なデートから帰ってきた直後のような、とろけた顔をした女がそこにいた。 吐き気がした。 自分の顔なのに、他人の寄生虫に顔の筋肉を乗っ取られたような、生理的な嫌悪感が込み上げる。 私はその顔を睨みつけ、鏡の縁を強く掴んだ。
――認めたくないけれど、認めざるをえない。 これは、恋だ。 症状だけで言えば、完全に、教科書通りの恋だ。 あいつのことを考え続け、姿を追いかけ、その言動一つ一つに身体が熱く反応している。この動悸も、この思考の占有率も、紛れもなく恋着のそれだ。
けれど。 「……違う」 私は鏡の中の自分に向かって、低い声で宣言した。 これは私の心が生み出したものじゃない。 あのシステムが、私の「殺したいほどの憎悪」を燃料にして、勝手に合成したプラスチック製の感情だ。
私の魂は彼を拒絶しているのに、脳だけが彼を求めている。 身体と心が引き裂かれるような、この不快な乖離。 こんなものは、ただの生理現象だ。くしゃみやあくびと同じ、単なる条件反射の産物だ。
私は寝室に戻り、ベッドに倒れ込んだ。 目を閉じる。 瞼の裏に、また彼の顔が浮かぶ。消そうとすればするほど、その映像は鮮明になり、冷ややかな視線が私を射抜く。 逃げられない。 嫌えば嫌うほど、その感情の強さが「恋」のエネルギーに変換されて、私を彼に縛り付ける。 泥沼だ。
私はシーツを握りしめ、暗闇の中で天井を睨みつけた。 身体中の細胞が「彼が好きだ」と叫んでいる。脳内麻薬が「彼を求めろ」と指令を出している。 それでも、私の理性だけは、冷たく冴え渡っていた。 あれは恋だ。確かに、恋という現象ではある。 でも、私の恋じゃない。 こんな、システムにあてがわれただけの代用品を、私は断じて「愛」とは呼ばない。
午前五時五十分。 設定したアラームが鳴るよりもずっと早く、私の意識は泥のような眠りから引きずり出された。 目を開けた瞬間、視界に映ったのは、薄暗い天井のシミだ。分厚いカーテンの隙間から、頼りない灰色の光が滲み込んでいる。外は曇天らしい。部屋全体が、まるで水槽の底に沈んでいるかのような、陰鬱なブルーグレーに染まっていた。 最悪の目覚めだった。
身体を起こそうとして、シーツが不快な音を立てて背中から剥がれる感覚に顔を顰める。寝汗をかいている。それも、じっとりと冷たい、質の悪い脂汗だ。 心臓が、異常なリズムを刻んでいるのが分かる。 ドクン、ドクン、ドクン。 まだベッドの上にいるというのに、まるで百メートルを全力疾走した直後のような、激しい動悸が肋骨を内側から叩いている。平常時よりも脈拍数は明らかに十、いや二十は多い。
原因は明白だった。直前まで見ていた夢だ。 内容はもう朝霧のように霞んで消えかけているが、その「質感」だけが脳の皺にこびりついている。 氷のように冷たい視線。鼓膜を突き刺すような、抑揚のない声。私という人間の存在価値を、ただの数字の羅列へと還元して切り捨てる、あの傲慢な態度。 彼だ。また、彼が夢に出てきたのだ。 レム睡眠中の脳を蹂躙され、交感神経を無理やり叩き起こされた不快感が、胸の奥に鉛のような圧迫感を残している。
私は重たい頭を振って、首筋に手を当てた。僧帽筋が岩のように凝り固まっている。 恋のときめき? 馬鹿を言わないでほしい。これは生命の危機を感じた獣が示す、純粋なストレス反応だ。
ふらつく足取りでキッチンに向かい、トーストを焼く。 機械的な動作でコーヒーメーカーのスイッチを入れ、焼けたパンを口に運ぶ。 ……味がしない。 まるで乾燥したスポンジを噛んでいるか、砂を噛んでいるようだ。舌の上の味蕾がすべて死滅してしまったかのように、味覚の情報が脳に届かない。ただ「固形物を粉砕して胃に送り込む」という、義務的な作業だけが淡々と進行していく。
その時、テーブルに放置していたスマートフォンが、ブブッ、と低い振動音を立てた。 液晶画面が点灯する。業務管理アプリの通知だ。 『共有:第4期プロジェクト・最終監査資料(修正版)』 そして、その下に表示された送信者の名前。 たった三文字の、見慣れた名字。
それを見た瞬間だった。 ヒュッと喉の奥で空気が凍りついた。 胃袋がキュッと縮み上がり、内臓が持ち上がるような感覚と共に、心拍数がさらに跳ね上がる。カッと顔中の毛細血管が一斉に拡張し、熱が集まるのが分かった。 指先が震えて、画面をタップしそうになるのを、必死の理性で押し留める。
「……っ、ふざけないで」 私はスマホを裏返し、画面を伏せた。 嬉しいわけがない。朝一番に、世界で一番見たくない、反吐が出るほど嫌いな男の名前を見ただけだ。 なのに、どうして? どうして私の脈は、こんなにも速く打つ? どうして私の視神経は、たった一瞬見ただけの「彼の名前」の残像を、網膜に焼き付けて離さない?
喉の渇きを癒やすためにコーヒーをあおったが、それは泥水のように喉を落ちていくだけだった。 七時二十分。 私は逃げるように身支度を整え、重いウールのコートを羽織って外へ出た。
空は今にも泣き出しそうな鉛色だ。湿気を含んだ生温い風が、肌にまとわりつくように吹いている。低気圧のせいか、頭の芯が痺れるように重い。 駅へと向かう大通り。朝のラッシュアワーが始まっていた。 私の前を、二人のOLが並んで歩いている。彼女たちの高い笑い声が、耳障りなノイズとして鼓膜を叩いた。
「昨日さー、彼のこと考えちゃって全然寝れなくてぇ」 「わかるー! 好きすぎて辛いってやつでしょ? もう、幸せじゃんそれ」 キャンキャンと響く、甘ったるい共感の声。 私は無意識に、コートの襟をかき合わせて彼女たちを追い越した。
寝れない? 辛い? 一緒にするな。 彼女たちのそれは、ピンク色のシロップに浸かった、幸福な不眠だ。明日への期待に胸を膨らませる、生産的な時間の浪費だ。 私のこれはどうだ。 脳を万力で締め上げられるような、終わりのない尋問を受けているような、拷問に近い不眠だ。
信号待ちの交差点で立ち止まる。ふと、視線の先にカフェの立て看板が入った。湯気を立てるラテの写真に、手書きのポップな文字が添えられている。 『恋をすると、体温が上がるって知ってますか? ホットラテで、身も心もさらに温まりましょ』 ……くだらない。
私は自分の首筋に、冷え切った掌を当てた。 熱い。 微熱があるかのように、皮膚の下で血液が煮えたぎっている。 体温は上がっている。不眠も、食欲不振も、動悸も、すべて「恋煩い」の教科書通りの症状だ。
だが、決定的な欠落がある。 私は目を閉じ、脳内の検索窓に「彼」という単語を放り込んだ。 ヒットするのは、どんな感情だ? 愛しさ? 尊敬? 親愛? ――いいや、ゼロだ。 何万回検索しても、検索結果はゼロ件だ。 1ミリグラムも、1ミクロンも、彼に対する好意なんて存在しない。
思い出すのは、私をゴミのように見た冷たい瞳。冷徹な論理で同僚を切り捨てた、あの薄い唇の動き。資料を突きつけられた時の、足元が崩れるような恐怖と屈辱。 どれひとつ取っても、殺意を抱くには十分でも、好意を抱く理由にはなり得ない。
それなのに。 私の脳味噌は、バグった映写機のように、その「最悪な記憶」を何度も何度もリプレイしてくる。 嫌いなはずの彼の声を、嫌いなはずの彼の顔を、勝手に極彩色のフィルターで補正し、ドラマチックなBGMをつけて再生し続けている。
考えたくないのに、考えることを止められない。 息が浅くなる。 吸っても吸っても、酸素が肺に入ってこないような閉塞感。
「……これは、恋なんかじゃない」 雑踏の中で、私は誰に聞かせるわけでもなく、呪詛のように呟いた。 恋というのは、もっとふわふわとして、パステルカラーで、心地よいもののはずだ。 こんな、胸が張り裂けそうで、胃液が逆流しそうで、憎悪で頭がおかしくなりそうなのに、世界で一番嫌いな相手のことしか考えられなくなる状態なんて。 これは地獄だ。 「好き」という中身が欠落したまま、暴走する「恋の器」。 空っぽの抜け殻に、熱湯を無理やり注ぎ込まれているような、このグロテスクで歪な状態を、私はまだなんと呼べばいいのか分からずにいた。
信号が青に変わる。 私は吐き気を堪えながら、彼がいるオフィスへと続く道を、また一歩踏み出した。
職場を出たのは、空が深い藍色に傾き始めた頃だった。 西日の残り香はすでに消え失せ、冷たいオレンジ色の街灯が、アスファルトの上に水たまりのような光を次々と落としていた。昼の喧騒が収まり、誰もが「家に帰る」という目的だけを持って足早に歩いている夕刻。この静かで穏やかな時間が、私の心臓を激しく叩く動悸を、ようやく静めてくれた。
身体が、前日よりも落ち着いている。 嫌悪に連動して発生したはずの激しい動悸は、今はもう、ただの規則正しいリズムへと戻っている。むしろ、思考が彼のことを深く掘り下げようとする――たとえば、彼の非人道的なシステム設計の論理構造を分析しようとする――ほど、私の心拍は一定のリズムへと収束していくのが分かった。
心拍が落ち着く。それはつまり、私の体が「彼との接触はもう暴力的な脅威ではない」と認識し始めている証拠だ。初期の生物的な『恋の症状』が収まりつつある。 それなのに、頭の中だけは、彼の情報で満杯のままだった。
「どうして、まだ考えているのよ」 私は静かに問いかけた。心拍という警報装置が機能しなくなっているのなら、この思考の暴走も収まるべきではないのか。
逃げ道を探すように視線を彷徨わせると、歩道橋の下で、老夫婦が並んで歩いているのが目に入った。 言葉は交わしていない。夫が妻の背中を、言葉もなく、ただ静かに支えるように押しているだけだ。シワの寄った彼らの手は、長年連れ添った末の信頼という名の糸で、強く結ばれているように見えた。
――あれが、愛の断片だ。 恋のときめきや情熱が遠く過ぎ去った後も、残るもの。自己の意思で、相手の存在を支え続けることを「選んだ」結果の静かな結論。 そのすぐ横を、ベビーカーを押す若い父親が、子供に向かって穏やかに微笑みながら通り過ぎていく。血縁が織りなす、計算も損得もない、長期的関係の匂い。
私は、自分が抱えているこの「熱」と、彼らの「本物」との間に、埋めようのない巨大な溝があることを痛感した。 憎悪に侵された脳が作り出した偽物の恋。それを打ち消すために、私は客観的なデータ、すなわち「彼を好きになれない理由」の収集を続けた。
道の角にあるカフェの窓から、失恋話をする女性の声が漏れ聞こえてきた。 「本当に好きだったのに、終わっちゃったんだよね・・・・・・」 その言葉を聞きながら、私の思考は冷徹に動く。 私は、好きでもないのに、この地獄のような思考の反芻が終わってくれない。
私は今日一日の彼を、そして過去のトラウマを、冷徹な分析対象として再精査する。 1.歩き方:彼の歩行は、一切の無駄がない。足音すら一定の間隔で、リズムが機械的だ。まるで人間というより、高性能なロボットの歩行シミュレーションを見ているようだった。そこに温かみは、ゼロ。 2.手の動き:資料を指差すジェスチャー。正確無比で、感情の揺れが一切ない。それは、魂が宿った手の動きではなく、単なる「機能の正しさ」でしかない。 3.過去の言葉:私を傷つけた言葉の断片を思い出しても、その声のトーンは常に「感情ゼロ」。私という個人の存在を認めず、ただの障害物として扱った冷たさ。 4.態度:今日までの彼の行動には、私に対する個人的な関心や配慮など、1ミリも含まれていない。彼は、私を道具かデータとしてしか見ていない。その認識は微塵も変わっていない。
データは、明確に示している。 「好きになれる要素、ゼロ」。いや、マイナスだ。 私の理性は、彼を憎み、拒絶する。身体も、もう動悸を上げなくなっている。
――なのに。 私は足を止め、強く喉の奥を締め付けた。ひどい乾きだ。心臓の動揺は消えても、ストレスが水分の渇望として居座っている。 生物的な恋の症状が収まり、嫌悪感も薄れてきたというのに、なぜ私はまだ、この憎むべき男の思考回路の裏側を、必死に理解しようと考えているのだろうか。
思考が止まらない。 好意という根っこが完全に枯死した状態で、どうして「恋煩い」という症状だけが成立してしまうのか。 無音。
私の心の中は、ただただ深い疑問符と、それを解決できない焦燥感で満たされていた。 何かが根本的に間違っている。 この「考えること」こそが、偽物の恋の正体だと気づきかけているにも関わらず、私はその思考のループから、自力では抜け出せない状態に陥っていた。 考えるのを止められない。 そして、考え続けることは、この世界では「恋」の定義そのものなのだ。
深夜、時計の針は静かに午前三時を回っていた。 天井のメイン照明は消され、デスクライトの狭い光源だけが、私の周囲を円形に照らし出している。その外側は深い闇だ。光と闇の境目に座り、私は自らの意識を、この部屋の影のように曖昧な領域に漂わせていた。
私は、テーブルに散らばる一週間分のメモ帳とルーズリーフの山を見つめた。 それらを手に取り、一枚ずつ、指先で感触を確かめながらめくっていく。紙の表面は冷たい。そして、書き付けられた文字も、驚くほど冷徹だ。
『心拍パターン:彼の出現時、嫌悪反応から逃避反応、次いで親和欲求パターンへ変化。持続時間約40分。』 『彼の右手の動き、意図的な抑制を確認。人間性ではなく機能性。』 『朝の動悸の持続時間、平均で昨日より+15分。思考の依存度が示唆される。』
「好き」という単語は、どこにもない。「嫌い」という激情も、最初の数行で燃え尽き、跡形もない。あるのは、感情を超越した、まるで彼のシステム設計図をトレースしようとするかのような「分析」と「反芻」の言葉だけだ。
私はメモ帳をデスクに落とした。乾いた音が、部屋の静寂に突き刺さる。 心臓は、不規則な間隔で脈打っている。恋のときめきのような「軽やかな弾み」でも、嫌悪のときの「叩きつけるような怒り」でもない。それは、エンジンが燃料を失いかけたときの、不安定なアイドリングに似ている。
呼吸も浅い。深く吸おうと試みても、途中で胸がキュッと締め付けられ、長く吐き出すことができなかった。常に換気不足の酸素が、頭の芯に鈍い痛みを残す。 これは、愛ではない。これは、彼に思考を乗っ取られたことによる、肉体的・精神的な中毒症状だ。
私は、両の掌で自分の冷え切った指先を包んだ。その冷たさが、この孤独な夜のリアリティをかろうじて繋ぎ止めている。 そして、暗闇に向かい、声にならない、か細い問いを漏らした。
「……なんで、こんなに、考えてばっかりなんだよ」 その言葉は、誰かへの文句ではない。これは自分の脳に対する、悲痛な叫びだった。 もう、憎悪の燃料は枯渇した。心拍という警報も静まった。 なのに、彼の情報だけは、私の思考の「熱源」として、永遠に燃え尽きることなく居座り続けている。
私は、自分の置かれている状況を、最終的に整理し直した。 システムが連動させたのは、「好き」という快楽感情そのものではない。 システムが連動させたのは、「憎悪の対象に異常なほど集中する、思考の熱量」だ。その熱量が、恋煩いという現象の「器」だけを、私の身体に強制的にインストールした。
私にとって、この偽物の恋は、「思考を止められない」という、意志の放棄を意味する。 考えることを止められない=恋の症状。
では、この泥沼から抜け出し、彼の存在を断ち切るために、私に残された唯一の『力』は何だ? 私が彼という絶対的な論理と向き合い、否定でも肯定でもない、ただ一つの『態度』を決定することではないのか。 それは、感情の渦から一歩踏み出し、私の人生を、私自身の意志で決めることだ。
私は目を閉じ、思考の深淵から浮かび上がってきた、ある言葉の輪郭を捉えた。 この思考を、次の段階へ進める、決定的な一語。 心臓が、恐怖と期待で激しく脈打った。
口を開きかけた。その言葉の音節が、舌の上で確かに形成される。 「これって、もしかして…………」
だが、言葉は喉の奥で、鉄のように硬く詰まった。 それ以上、進んではいけない。 その言葉を口にしてしまったら、私はこのシステムが作った地獄を、自分自身の『選択』として受け入れてしまうことになる。それは、私の過去の痛みと、この世界への怒りを、すべて肯定し、昇華させてしまうことになる。
私は唇を固く結び、その言葉を、一粒の鉄の塊のように飲み込んだ。 心臓が、最後の警告のように強く跳ね上がった。
偽物の恋は、思考という鎖で私を縛り付けた。 そして、私は今、その鎖の「本質」に気づき、この鎖を自らの手で解き放つ覚悟が、喉元まで迫っているのを感じた。
午前六時少し前。 私が目覚めた時、空はまだ深い鉛色を保っていた。布団の中は、昨夜の熱がまだ微かに残っている。 しかし、身体は驚くほど静かだった。
心臓は、ゆっくりと、しかし安定したリズムを刻んでいた。以前経験したような、不規則な動悸も、極端な早鐘も打っていない。呼吸も深く、吐き出す息が、冷たい空気の中で白く長い線を描く瞬間があった。頭の奥にこびりついていた重苦しい鈍痛も、昨夜よりずっと和らいでいる。 あの嵐は、去ったのだ。
私はゆっくりと体を起こし、まだ薄暗い部屋の中で、デスクの上のメモの山に目をやった。 洗面所で冷たい水で顔を洗い、キッチンへ向かう。 トースターがパンを焼き上げるのを待つ間、私は立ち尽くしたまま、机の上のその山を視界の端に捉え続けた。 昨夜、私が自らの思考の奴隷であることを証明するために、血を吐くように書き綴った紙の束。
『考える』『反芻』『分析』『ズレ』『嫌悪』――その単語が、暗闇の中で小さな光源のように光っているように見えた。 その時、小さなラジオから、パーソナリティの明るい声が聞こえてきた。 『さあ、今日の恋占い! 好きな人のこと考えると、なんだか胸がキュンってなりますよね〜』 キュン。
私は吐き気を覚えた。 私の身体が彼を「考えた」結果は、吐き気、動悸、不眠、そしてストレスによる頭痛だった。そこに「キュン」という、ポジティブな情感の介入は、一度たりともなかった。
私はそこで、一つの決定的な事実に気づいた。 メモの山を思い出す。すべての記述は「彼を考えた」証拠だ。しかし、どこにも「彼が好きだ」という肯定の言葉はない。
――私の中には、『好き』という情感が、最初から完全に欠落していたのだ。 『好き』という感情は、喜びや肯定、相手への欲求、未来への期待を伴う。 だが、私を襲ったのは、憎悪を起点とする、システムによる強制的な『思考の侵入』だった。
私はコーヒーを一口啜り、その苦味で頭をクリアにした。 私を襲ったのは、恋だ。しかし、それは「好き」の延長線上にある恋ではない。 頭の中で、三つの概念が、初めて明確な輪郭を持って分離した。
1.恋:考えること。(衝動・侵入・強制) 2.好き:肯定の感情。(喜び・欲求・期待) 3.愛:…………。
「恋」は、私を襲った現象。 「好き」は、私の中には生まれなかった情感だ。 私が考え続けたのは、「好きではないのに、どうしてこんなに考えているのか」という、形式のズレへの疑問だった。
私はトーストを皿に置いたまま、キッチンで立ち尽くした。 考え続けた。考え続けた結果、私の目の前には、結論を出さなければいけないという、冷たい「課題」が残された。
(私の中には「好き」がない。でも、私はこの一週間、彼のことだけを考え続けた) (考え続けたという行為そのものが、私にとっての「恋」だった) (だとしたら、私に残された道は一つしかない)
私は、もはや否定も、逃避もできない。 考え続けた結果、彼という存在を、私の人生において「どう扱うか」を、私自身の意志で決めるしかない。 その「決定」こそが、「好き」の感情を持たない私にとっての、愛という名の『態度』なのではないか。
その答えの輪郭が、目の前で薄いもやのように立ち上る。 私の体は落ち着いているのに、胸の奥だけが静かに震えた。 それは、答えに到達することへの、静かで、しかし止められない焦燥感だった。
職場へ向かう道のり。午前十時前。 私は、昨日までの自分とは異なる歩調でアスファルトを踏みしめていた。空は高く、差し込む陽光は冷たさを帯びつつも、鮮やかだ。 薄暗い自室で辿り着いたばかりの「恋=思考、愛=態度」という冷たい論理を、今、外界の風景の中で、検証しようとしていた。
私が選んだのは、大通りを一本外れた路地だ。 そこには、通勤ラッシュの殺伐としたエネルギーはない。生活の細部、人間の長期的関係の断片が、自然に視界に入ってくる。
曲がり角の先、ゆっくりと坂道を登る老夫婦がいた。男性は杖をついているが、女性は無言で、その背中に手を添えている。彼らは顔を見合わせない。ただ、長年の習慣で、お互いの体の傾きを知り尽くしている。 【愛の証拠:積み重ねと信頼】。彼らの間にあるのは、もう「好き」や「嫌い」という感情の次元を超えた、過去からの積み重ねと、未来への無言の選択だ。
横の小さな公園のフェンス沿いを歩く。若い母親が、子供の手を引きながら、仕事の電話をかけているのが聞こえた。 「はい、すみません。私の確認不足です・・・・・・ええ、すぐに修正します」 声は穏やかだ。ミスを謝罪しているのに、その声には苛立ちや自己否定の色がない。電話を終えた母親は、子供の頭を優しく撫でた。 【愛の証拠:受容と態度】。仕事のミスも、子供の世話も、すべてを受け入れ、その後の行動を自分で決める。感情に流されず、「どう向き合うか」という態度を決めている。
私の身体が、深く息を吸い込んだ。 喉の奥が解放され、肺の隅々まで新鮮な空気が満たされる。心拍の跳ねが、ほとんど消えている。それはまるで、長期間鳴り響いていた警報サイレンが、突如として消音されたかのような感覚だ。 この落ち着きは、もう「偽物の恋」の衝動が、身体から抜けていることを示している。
それなのに、頭の中だけは、彼の情報で満杯のままだった。 「どうして、まだ考えているのよ」 私は静かに問いかけた。心拍という警報装置が機能しなくなっているのなら、この思考の暴走も収まるべきではないのか。
交差点の向こう側、ベンチで高齢の男性が、飼い犬に語りかけている。その犬と飼い主の間には、無言の信頼感が漂っていた。 これらすべての風景が、私の頭の中の分析と繋がった。
私の恋煩いは、彼の「無機質な正しさ」に対する、私の身体の異常な反応だった。 だが、今、私が目の前で見ている「愛」は、すべてが「積み重ね・選択・態度」という一点で繋がっている。 これは、私の偽物の恋とは、質が違う。
(私の恋は、嫌悪という刺激で勝手に始まっただけに過ぎない) (でも、彼らが見せている愛は、勝手に始まるものじゃない)
私は強く目を閉じた。 その瞬間、思考の靄が一気に晴れる。 「愛は、好きも嫌いも、必要としない」 声には出さなかったが、その結論が、頭の中で鋭い光を放った。 それは、感情の支配から解放される、静かなるブレイクスルーだった。
嫌悪が引き金になった関係でも、好きという感情が一切芽生えなかったとしても、私は彼との関係を「どう向き合うか」を、私自身の態度として決めることができる。 それは、彼が推進する「嫌悪と恋の連動システム」が存在する、この世界線の外側に存在する、唯一の領域だ。
私の呼吸は、自然に深くなった。 私は、自分の足で、地面を踏みしめている。 感情の波に飲まれるのではなく、冷静な判断という船で、荒波を越えようとする、静かな覚悟が、胸の奥で固まった。
職場の中棟と別棟を繋ぐ連絡通路。夕暮れの光が、スモークガラス越しに淡く差し込んでくる。ここは日中、人通りが多いが、定時を過ぎると途端に静まり返る、公的でありながらも誰も聞いていない空間だった。
私は自分の足で、彼の前に立っていた。 彼は、予期せぬ私の訪問に、一瞬だけ眼鏡の奥の目をわずかに見開いたが、すぐに表情を消し、いつもの無機質な顔に戻った。手には、今しがたチェックを終えたらしいデータシートを持っている。
「何か、業務上の問題でしょうか」 彼の声は、予測していた通りに冷たく、事務的だ。私という個人に対する興味も関心も、そこには一切含まれていない。
私は深呼吸をした。 心臓はまだ、少し速い。それは、彼の存在が持つ圧力と、この後の行動に対する緊張のせいだ。だが、以前まで続いた、制御不能な暴走ではない。私の手汗は滲んでいるが、指先の震えは止まっている。
視界はクリアだ。彼のスーツの生地の質感も、後ろに広がる曇り空の色も、すべて鮮明に捉えられている。以前のように、彼だけがスポットライトを浴びたように見える「偽物の恋」のフィルターは、もうかかっていない。
私は、逃げず、流されず、自分の呼吸とペースで、言葉を紡ぎ出した。 「いいえ。業務上の問題ではありません。個人的なことで、あなたに伝えたいことがあって来ました。」
彼の手元のデータシートが、わずかに揺れた気がした。しかし、彼は何も言わず、ただ静かに次の言葉を待っている。
「私は、あなたを、ずっと嫌っていました。」 私は静かに切り出した。声は、驚くほど落ち着いていた。 「嫌った理由は、私の過去のトラウマも、あなたが推進したシステムも、もちろんあります。でも、今日、それをすべてひっくり返して考え直しました。」
私は一歩、彼との距離を詰めた。 「私は、『嫌い』を盾にして、あなたを人として扱わなかった。」
それは、この一週間、思考の泥沼の中で見つけ出した、最も苦い真実だった。彼の冷徹さを憎むあまり、彼がどういう人間で、なぜそう行動するのかを、私は思考停止し、拒絶していた。
「あなたの論理は、時に人を深く傷つけるものです。でも、私はあなたの態度を、私の勝手な感情でずっと決めつけて、避けて、あなたという個人に迷惑をかけたこと。ごめんなさい。」
通路は静まり返っていた。外の風の音が、遠くでヒューと鳴る。 彼の手の中のデータシートは、完全に動きを止めた。彼の瞳は、驚愕でも、怒りでもなく、ただ「分析不能」というラベルを貼られたように、微動だにしなかった。
この謝罪は、「偽物の恋を終わらせるための、私の意志の表明」だ。 彼への責任を果たすことで、感情の鎖を断ち切る。嫌悪と恋の連動という、勝手に始まった関係を、私の意志で『関係の整理』という形に変える、愛の態度としての最初の一歩だった。
彼の沈黙は長く、重い。
連絡通路の冷たい光を背に、私たちは建物の出口へと向かって歩いていた。 私の謝罪に対し、彼は沈黙を選んだままだった。返答はなかった。ただ、データシートを握る指先に、微かな力が籠められたことだけが、彼の内面の動揺を物語っていた。
夜風が、外の階段から冷たい匂いを運んでくる。 建物の影から一歩踏み出し、街灯の円い光の下に出た。
私は足を止め、振り返らずに、低い声で話し始めた。 「私は、あなたを好きになれませんでした。」 その言葉は、静かだったが、この世界で最も重い終止符だった。 「あなたを憎んでいた」でもなく、「あなたを誤解していた」でもない。ただ、感情の核心を指し示す、事実の提示。
彼の足音が、私の背後でぴたりと止まったのが分かった。
「嫌悪から、私の身体はあなたに異常な執着を示した。それは、この世界のルールでは『恋』と呼ばれる現象だったでしょう。」 私は冷えた夜風を深く吸い込んだ。肺が酸素で満たされる。 「でも、あなたに対して、『好き』という感情が芽生えることは、一度もありませんでした。あなたを肯定する喜びも、あなたに未来を期待する欲求も、私の中には最初からなかった。だから、あれは私の恋ではない。」
そして、私は静かに、今日の結論を宣言した。 「でも、嫌いのまま、あなたを人として扱わないのも、違うと思った。私は考え続けた。思考の泥沼から、どう這い上がるかを。」 「考え続けた結果、私は答えを出しました。あなたという存在を、私の人生においてどう扱うかを、私の意志で決めること。」
私はゆっくりと体を彼の方に向けた。手汗はない。心臓は、この緊張の瞬間にもかかわらず、深いリズムを保っている。視界はクリアだ。彼の冷徹な表情も、背後の街灯の光も、その向こう側で雑踏を作る人々の姿も、すべてが等しい解像度で映っている。 もう、彼の存在が私の意識を支配することはない。偽物の恋の身体反応は、完全に終了した。
「あなたを嫌悪と恋の連動という呪いから解放し、私もまた、その呪いから自由になるための態度。それが、私にとっての愛です。」 私は静かに、しかし力強く、彼に告げる。 「その愛の態度として、私はあなたとの関係を、今日、ここで終わらせます。」
彼はようやく口を開いた。彼の声はいつも通り事務的だが、その底には微かな動揺が揺らめいているように聞こえた。 「それは、つまり、関係の断絶ということでしょうか。」 「ええ。」
私は頷いた。 「恋は終わった。そして、愛という、私自身で選んだ結論も出た。だから、もう私たちを繋ぐものはありません。」
私は踵を返し、来た時と同じ、自分のリズムで歩き出した。 夜風が私の横を吹き抜け、冷たい空気が体内の熱を奪っていく。背中に、彼の視線が強く突き刺さっているのを感じた。以前なら、その視線が私を立ち止まらせ、振り返らせ、熱くさせたはずだ。
だが、今はもう違う。 私は一歩一歩、確かな足取りで、日常へと続く道を進んだ。 遠くで信号が色を変える音が聞こえる。周囲のざわめきが、再び私の中に流れ込んできた。 恋は、終わった。 でも、考え続けた私の答えだけは、偽りではない。 これが、私の愛だ。
ヘイト・ラブ・コンバージョン 伊阪 証 @isakaakasimk14
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