調香

伊阪 証

本編

作品の前にお知らせ


下記リンクに今後の計画のざっくりした概要が書いてあります。余命宣告の話もあるのでショッキングなのがダメなら見ないことを推奨します。

あと表紙はアルファポリスとpixiv、Noteでは公開してます。

表紙単品シリーズ→https://www.pixiv.net/artworks/138421158

計画周り→https://note.com/isakaakasi/n/n8e289543a069


他の記事では画像生成の詳細やVtuberを簡単に使えるサブスクの開発予定などもあります。

また、現時点で完結した20作品程度を単発で投稿、毎日二本完結させつつ連載を整備します。どの時間帯とか探しながら投稿しているのでフォローとかしてくれないと次来たかが分かりにくいのでよろしくお願いします。

今年の終わりにかけて「列聖」「殉教」「ロンギヌス」のSFを終わらせる準備をしています。というかロンギヌスに関しては投稿してたり。量が多くて継承物語は手間取っていて他はその余波で関連してるKSとかEoFとかが進んではいるけど投稿するには不十分とまだ出来てない状態です。




コンクリートから立ち上る熱気が、革靴の底越しに足裏を焦がしているようだった。ワイシャツの襟元は汗で肌に張り付き、首を回すたびに不快な摩擦を残す。視界の端がわずかに明滅しているのは、酷い睡眠不足のせいか、それとも一日中モニターを睨み続けた眼球の悲鳴か。そして、世界全体が灰色がかった膜に覆われているような錯覚の中、重力だけが二倍になったかのように身体が重い。

帰路につく足取りは、歩くというよりは、倒れ込まないように足を交互に前に出しているだけの作業だった。住宅街の路地は夕暮れを過ぎて群青色に沈みかけており、家々の換気扇からは焼き魚やカレーの生活臭が漂い、それが排気ガスの残り香と混ざって、肺に入れるのを躊躇うような粘度のある空気を形成している。

その店に気づいたのは、本当に偶然だった。

普段なら視界にも入らないような、住宅街の角地。古びたアパートの一階部分を改装したらしい、ひっそりとした佇まい。看板は木製の小さなプレートが一枚下がっているだけで、暗がりで店名らしきアルファベットは判別がつかない。ただ、曇りガラスの嵌め込まれた木製の扉の隙間から、蜂蜜を溶かしたような暖かな光が、アスファルトの地面に細い直線を引いていた。

足を止めた理由は光ではない。匂いだ。

扉の隙間から漏れ出していたのは、周囲の生活臭や排気ガスを鋭利な刃物のように切り裂く、凛とした清涼感のある香りだった。ミントに似ているがもっと深みがあり、湿った土の匂いと、焦がした砂糖のような甘さが複雑に絡み合う。

鼻孔をくすぐられた瞬間、強張っていた肩の筋肉が、ほんの数ミリだけ沈んだ気がした。

思考するよりも先に、手が真鍮のドアノブに伸びていた。錆びついた日常から逃げ出したいという生存本能が、理性を追い越した瞬間だった。

カウベルの乾いた音が鳴り、扉が開く。

その瞬間、文字通り世界が切り替わった。

大袈裟な比喩ではなく、気圧そのものが変化したかのような衝撃が鼓膜を叩く。外の蒸し暑さと騒音が一瞬にして遮断され、ひんやりと整えられた空気が肌を包み込んだ。

店内は予想以上に狭かった。床はダークブラウンの木材で統一され、壁一面には琥珀色の液体が入った大小さまざまなガラス瓶が、標本のように整然と並んでいる。天井からはドライフラワーの束がいくつも吊るされ、それらが落とす影が、間接照明の灯りの中で揺れていた。

そして、彼女がいた。

カウンターの奥。実験室を思わせる木製の作業台に向かい、彼女は静かに立っていた。

驚くほど、白かった。

身に纏っているのは、医療用の白衣を思わせる清潔な白い上衣と、その上から着けた亜麻色のエプロン。だが、それ以上に彼女自身の肌が、陶磁器のような白さを放っている。色素の薄い髪は緩やかに編み込まれて肩に流れており、照明の光を吸い込んで真珠のような光沢を帯びていた。

彼女は手元のビーカーに、スポイトで慎重に液体を滴下しているところだった。その指先は細く、爪は桜貝のように淡いピンク色をしていて、一切の無駄がない動きでガラス器具を扱っている。

「……いらっしゃいませ」

鈴を転がすような、それでいて温度を感じさせない声だった。

彼女が顔を上げ、こちらを見た瞬間、心臓が早鐘を打った。

美しい、という言葉では足りない。造形が整っているのは勿論だが、それ以上に、彼女の瞳には奇妙なほどの「静寂」があった。薄い水色の瞳。それは深海のように光を飲み込み、一切の感情を濾過しているかのような透明さがあった。こちらの姿を映しているようでいて、どこか別の場所を見ているような焦点の合わなさを感じさせる。

通常、接客業の人間が向ける愛想笑いや、値踏みするような視線が一切ない。

彼女はスポイトをトレイに置き、ゆっくりとカウンターから出てきた。足音すらしない。まるで重力の影響を受けていないかのような滑らかな歩行。

「予約は、ありません」

喉が張り付いて、掠れた声が出た。自分でも驚くほど情けない響きだった。

「ええ、構いません。今は空いていますから」

彼女は表情を変えずに頷き、部屋の隅にある一人掛けのソファを手で示した。革張りのその椅子は、使い込まれて艶を帯びている。

「お掛けください。少しだけ、問診をさせていただきますね」

促されるままに腰を下ろすと、身体がふわりと沈み込んだ。同時に、店内に満ちている香りが、より濃厚に鼻腔に満ちた。先ほど外で嗅いだ匂いとはまた違う、より鎮静作用の強そうな、深い森の奥にいるような香りだ。

彼女は手元にバインダーを持ち、対面の丸椅子に腰掛けた。距離が近づくと、彼女からは薬品のような、それでいて花のような、不思議な清潔感が漂ってきた。

「今日はお疲れのようですね」

それは質問ではなく、事実の確認だった。

「……わかりますか」

「ええ。歩き方、呼吸の浅さ、それから匂い」

彼女は淡々と事実を述べるように言った。

「匂い、ですか」

慌てて自分のシャツの襟元を気にする。汗臭いのではないか、という羞恥が頭をもたげる。

「不快だという意味ではありません。身体が悲鳴を上げている時は、特有の酸化したような匂いがするものです。鉄が錆びるように、人も疲労で錆びるのです」

彼女の言葉選びは独特だった。比喩のようでいて、彼女にとってはそれが物理的な事実であるかのように聞こえる。

「アレルギーはありますか?」

「特にないです」

「苦手な香りは?」

「……甘すぎるのは、ちょっと。今のこの店の匂いは、すごく落ち着きます」

「わかりました。では、ウッディ系をベースに、少しだけ柑橘の苦味を足しましょう。強張った神経を解くには、甘やかすよりも一度引き締めてから緩める方が効果的ですから」

彼女はバインダーにさらさらと何かを書き込んでいく。

その横顔を見ながら、ふと奇妙な感覚に襲われた。

彼女はとても丁寧だ。言葉遣いも、態度も、申し分ないほどに礼儀正しい。しかし、そこには「人間に対する接客」というよりも、「手入れが必要な精密機械」や「弱った植物」を前にした時のような、客観的な慈愛しか感じられないのだ。

彼女にとって、目の前にいる自分は「客」という社会的な存在ではなく、単なる「修復すべき一個体」でしかないのではないか。

そんな妄想じみた考えが浮かぶほど、彼女の視線は透明で、そして底知れなかった。

「準備をしますので、少しそのままでお待ちください。目を閉じて深呼吸をすると、香りの粒が肺の奥まで届きやすくなりますよ」

彼女はそう言い残すと、再びカウンターの奥へと戻っていった。

言われた通りに目を閉じる。

視界を遮断すると、聴覚と嗅覚がより鋭敏になった。ビーカーとガラス棒が触れ合う、チリ、チリ、という微かな音。液体が混ざり合う時の水音。それらが心地よいリズムとなって、鼓膜を揺らす。

先ほどまでの頭痛が、嘘のように遠のき始めていた。

ここは、一体何なのだろう。

ただのマッサージ店にしては、空気が異質すぎる。

けれど、今の自分には、この異質さが救いだった。誰からもジャッジされず、社会的な評価も関係なく、ただ「疲労した個体」として扱われることの、なんと心地よいことか。

瞼の裏に、彼女のあの白磁のような肌と、全てを見透かすような水色の瞳が焼き付いて離れなかった。

案内された更衣室は、人一人がようやく立てるほどの狭いスペースだった。

けれど、その狭さが逆に心地よい。壁には清潔なオフホワイトの壁紙が貼られ、隅には空気清浄機が微かに電子音を立てて稼働している。棚には茶色く染められたフェイスタオルとバスタオルが、定規で測ったように角を揃えて積み上げられていた。その幾何学的な整然さが、この店の主の性格を無言のうちに物語っている。

シャツのボタンを一つ外すたびに、社会的な鎧が剥がれ落ちていく感覚があった。

用意されていた施術着は、肌触りの良いコットン素材のショートパンツと、ゆったりとしたTシャツだった。着替えて、自分の衣服を脱衣籠に入れた時、ふと施術台の上に敷かれているシーツに目が留まった。

普通の綿のシーツの下に、もう一枚、独特の光沢を持つ素材が敷かれていた。指先で触れると、カサリと乾いた音がした。防水加工が施されたラバー素材のようだ。

オイルマッサージをする店なら、油がベッドに染み込まないようにするのは当然の配慮だろう。そう自分の中で結論づけ、特に深く考えることもなく施術台に身体を預けた。

「では、うつ伏せから始めますね」

カーテンの向こうから、あの鈴のような声が届く。

顔をドーナツ型のクッションに埋めると、視界が完全に閉ざされた。見えるのは、薄暗い床の木目だけだ。視覚情報が遮断されたことで、他の感覚器官がさらに感度を増していくのが分かる。

背中にかかるタオルの重み。空調の微かな風。そして、鼻先をくすぐる香りの変化。

先ほどまでの深みのある香りの中に、鮮烈な果実の気配が混ざり始めた。グレープフルーツのような苦味と、ベルガモットのような瑞々しさ。それが鼻腔を通り抜け、脳の前頭葉を直接刺激する。

「失礼します」

背中に手が触れた。

びくり、と筋肉が反射的に収縮する。他人に背後を取られることへの本能的な警戒心。だが、彼女の手のひらは、その警戒心を解きほぐすように温かく、そして驚くほど柔らかかった。

オイルが肌に滑る感触は、冷たさと温かさの中間にある。

彼女の指が、肩甲骨の縁をなぞるように滑り出した。

技術的に、何ら特殊なことをしているわけではない。力任せに押すわけでもなく、ツボを一点集中で突き刺すような激痛もない。ただ、筋肉の繊維の流れに沿って、滞っている血流を川下へと流すような、極めて論理的で丁寧なストロークだった。

なのに、効く。

まるで、錆びついたボルトに潤滑油が浸透していくように、凝り固まった筋肉の芯まで熱が届く。

「右の肩、張っていますね」

彼女が短く言った。

「……デスクワークなもので」

「ええ、マウスを握る角度で固まっています。左ではなく、僧帽筋が悲鳴を上げている」

それだけだった。

「大変ですね」とか「毎日頑張ってるんですね」といった、在り来たりな慰めの言葉は一切ない。ただ、事実として筋肉の状態を述べ、淡々とその歪みを修正にかかる。

そのドライさこそが、今の自分には救いだった。

ここで同情を寄せられたら、きっと自分は「頑張っている社会人」という役割を演じ続けなければならなかっただろう。彼女は、ただ修理工のように、淡々と私の身体をメンテナンスしている。私は人間ではなく、一台の故障した機械として、ここに存在することを許されているのだ。

施術が進むにつれて、香りの層が変わった。

最初の覚醒を促すような柑橘系の香りが退き、次第に重みのある、湿った森のような香りが漂い始める。シダーウッド、あるいはヒノキのような樹脂の香り。

呼吸が深くなる。

吸い込むたびに、肺の中に清浄な森の空気が満ちていき、吐く息と共に体内の澱んだ鉛が溶け出していく錯覚に陥る。

彼女の親指が、背骨の両脇にある起立筋を、腰に向かってゆっくりと押し流していく。

ずうん、と重い響きが腰の奥に広がる。

痛くはない。けれど、身体の奥底にあるスイッチを強制的に押されているような、抗えない圧力を感じる。

「息を、吐いて」

耳元で囁かれたわけではないのに、その声は脳髄に直接響いた。

言われるがままに、長く、細く息を吐き出す。

ふうぅ、と呼気が漏れるのと同期して、彼女の手のひらが背中を沈み込ませていく。肋骨が開き、横隔膜が下がり、内臓の位置があるべき場所へと戻っていく感覚。

自分の身体が、自分のものではなくなっていく。

指先から力が抜け、マッサージ台の縁から垂れ下がった腕が、重力に従ってだらりと伸びきる。

思考が散漫になり始めた。

明日の会議のこと、未読のメール、支払いの期限。数分前まで頭の中を占拠していたノイズが、遠い対岸の出来事のように思える。今の私にとって重要なのは、この香りと、背中を這う温かい手のひらの感触だけだ。

「少し、香りを変えます」

彼女の声が、水底から聞こえる泡の音のように遠く感じた。

アロマポットに何かが滴下される微かな音。

数秒後、空気が甘く変質した。

砂糖菓子のような安っぽい甘さではない。バニラやトンカビーンズのような、重厚で粉っぽい、本能的な安心感を呼び起こす甘さだ。幼児期に嗅いだ母の体臭や、干したばかりの布団の匂いに近いかもしれない。

その香りを吸い込んだ瞬間、意識の底が抜けた。

とろり、と脳みそが溶解する感覚。

まぶたの裏に、暖色の光の粒子が舞う。

彼女の手つきも変化していた。筋肉をほぐす動きから、身体全体を包み込み、撫でさするような、ゆったりとしたリズムへ。

まるで、大きな手で揺り籠を揺らされているようだ。

足先の感覚が希薄になる。

自分の足がどこにあるのか、どうなっているのかが曖昧になる。太腿の筋肉が弛緩し、膝の力が完全に抜けて、マットレスに沈み込んでいく。

腹筋の支えも消えた。

内臓が重力に負けて、ぺたりと背骨の方へと沈む。

お腹の奥が、熱くて、くすぐったい。

抵抗しようという意思すら湧かない。ただ、彼女の手のひらに全てを委ね、泥のように形を失っていく状態が、とてつもなく快感だった。

私は今、完全に無防備だ。

何をされても、指一本動かせないだろう。

そんな危険な予感すらも、甘い香りの波に飲まれて、やがて心地よい痺れへと変わっていった。

世界は飴色に溶けていた。

意識の輪郭はとうに失われ、自分が呼吸をする肉の塊なのか、それとも部屋に漂う香りの一部なのかすら判別がつかない。

重力という概念が消滅していた。手足の先から感覚が霧散し、ただ温かい泥の中に浮かんでいるような浮遊感だけが残る。彼女の手が背中を滑るたびに、脊髄から脳へと快楽の電気信号が送られ、思考回路を焼き切っていく。

もう、何も考えられない。

ただ、気持ちいい。

下腹部の奥にあった、最後の理性のタガとも言うべき緊張が、熱を持ったバターのようにゆっくりと溶け出したのは、その時だった。

プツリ。

体の中で、何かが切れる音がした。

それは音というよりも、張り詰めていた糸がふわりと地面に落ちるような、頼りない感触だった。

直後、じわりとした熱が腰回りに広がる。

最初は、彼女が新しいホットタオルを置いたのかと思った。あまりにも温かく、あまりにも優しい熱量だったためだ。

けれど、その熱は留まることを知らず、重力に従って腿の方へと流れ出し、シーツを重く濡らし始めた。

鼻先をくすぐる甘いバニラの香りに、生々しく、アンモニアを含んだ別の匂いが混ざり合う。

そこでようやく、脳が「異常事態」を認識した。

――え?

思考が凍りつく。

現実への帰還は、あまりにも残酷で急激だった。

まどろみの海から、氷点下の現実に素っ裸で放り出されたような衝撃。背筋を這っていた心地よい痺れが、一瞬にして冷ややかな恐怖へと変質する。

やってしまった。

大人の社会人として、いや、人間として、決して超えてはならない一線を、無防備に超えてしまった。

下半身から伝わる濡れた感触は、今や灼熱の焼印のように意識を苛む。

心臓が肋骨を砕くような勢いで跳ね上がり、全身から嫌な汗が噴き出した。

終わった。

何もかもが終わった。

謝らなければ。いや、逃げ出したい。今すぐこの場から消滅してしまいたい。

口を開こうとしたが、喉が引き攣って声が出ない。

その時、背中を撫でていた彼女の手が、ぴたりと止まった。

処刑を待つ囚人のような心地で、身体を硬直させる。

罵倒されるだろうか。「汚い」と叫ばれるだろうか。それとも、無言で警察に通報されるのだろうか。

永遠にも思える数秒の沈黙。

しかし、頭上から降ってきたのは、温度のない、極めて平坦な声だった。

「……動かないで」

命令だった。

けれど、そこに怒気は一切含まれていない。ビーカーの目盛りを読む時のような、あるいは天気を読み上げる時のような、純粋な確認の声。

彼女の手が背中から離れる。

衣擦れの音がしたかと思うと、彼女は手際よく作業台の方へ歩いていった。

「あ、あの、私、とんでもないことを、」

ようやく絞り出した声は、涙声のように震えていた。

「すみません、すみません、弁償します、クリーニング代も、あ、ああ……」

パニックで言葉が繋がらない。

彼女は戻ってきた。手には、真新しいバスタオルと、霧吹きのようなボトルが握られている。

「謝罪は不要です。力を抜いて」

彼女は躊躇なく、汚れた腰回りに手を伸ばした。

普通の人間なら、排泄物に触れる瞬間に眉をひそめたり、呼吸を止めたりするはずだ。だが、彼女にはその気配が微塵もない。まるで泥汚れを拭うのと同じ手つきで、濡れたシーツの端を持ち上げ、手早く折りたたんでいく。

あの防水加工されたシーツが、液体をマットレスに染み込ませることなく、完璧に受け止めていたのだ。

彼女は濡れたシーツをするりと引き抜き、同時に新しいタオルを差し込んで、肌が空気に触れる時間を最小限に抑えた。

その手際は、魔術的ですらあった。

汚れた布を密閉容器に入れると、彼女は持っていたボトルを空中に二回、「シュッ、シュッ」と吹き付けた。

瞬時に、室内の空気が変わる。

アンモニアの刺激臭を上書きするように、ユーカリとティーツリーの清潔で鋭い香りが広がった。それは、消臭スプレーの人工的な匂いではない。計算され尽くした調香が、異臭の粒子を包み込み、無効化していく。

「よくあることです」

作業を終えた彼女は、事もなげに言った。

その言葉があまりにも軽く、日常的すぎて、逆に理解が追いつかない。

「え……?」

「副交感神経が極限まで優位になると、括約筋の制御が外れることがあります。特に、普段から緊張を強いられている方ほど、その反動は大きい。身体の防衛機能が解除された、ただの生理現象です」

彼女は淡々と解説を加える。

それは慰めではなかった。

「ドンマイ」とか「気にしないで」といった人間的な気遣いではない。「水が百度になれば沸騰する」という物理法則を語るのと同質の響き。

「リラックスできていた証拠ですよ。誇っていいくらいです」

そう付け加えた時、彼女の声にほんの少しだけ、不可解な色が混ざった気がした。

満足感、あるいは、躾(しつけ)の行き届いた動物を見るような、静かな肯定。

だが、今の混乱した頭では、それを深く読み解く余裕はない。

「施術を続けます」

「えっ、でも、こんな」

「まだ時間は残っています。それに、今止めたら、筋肉が驚いたまま硬直してしまいますから」

彼女は当然のように、再び私の背中に手を置いた。

ひやり、とした。

また同じことが起きるのではないかという恐怖。

けれど、彼女の手のひらは、さっきと全く変わらない温度だった。

嫌悪感による冷たさも、哀れみによる過剰な優しさもない。

一定のリズム。一定の圧力。

さっきまで私が汚したその場所を、彼女は何事もなかったかのように撫で、押し、流していく。

その異常なまでの「変わらなさ」が、私の中の常識を激しく揺さぶっていた。

この人は、何なんだ。

汚物を前にして、なぜこんなに平然としていられる?

羞恥心で顔が熱いのに、背中に触れる彼女の手の心地よさに、身体がまた反応し始めている自分が恐ろしい。

私の理性は、彼女の掌の上で、完全に粉砕されていた。

「今日は、ここまでにしましょう」

その声は、授業の終わりを告げるチャイムのように淡々としていた。

まどろみから無理やり引き剥がされた意識はまだ混濁していたが、羞恥心だけが強烈に焼き付いている。恐る恐る目を開けると、視界の端にあったはずの惨状は、跡形もなく消え去っていた。

汚れたシーツも、タオルも、私の尊厳の残骸も、すべてが手品のように消え去っていた。

部屋には、ユーカリの清涼な香りと、微かなバニラの甘さだけが漂っていた。あの生々しいアンモニア臭は、まるで最初から存在しなかったかのように完全に拭い去られている。

彼女は既に作業台を片付け終え、背中を向けて手を洗っていた。

「シャワールームは奥にあります。着替えもそこに」

振り返りもせずに告げられた言葉に、救われたような、あるいは突き放されたような複雑な思いが胸をよぎる。

「……はい。あ、ありがとうございます」

逃げるように指定された扉へ向かう。

シャワールームもまた、狂気じみた清潔さに支配されていた。水滴一つない鏡。磨き上げられたステンレスの蛇口。

熱いシャワーを浴びながら、自分の肌を執拗に擦った。物理的な汚れは落ちても、記憶にこびりついた恥辱は消えない。だが、不思議と嫌悪感は薄かった。

彼女が、あまりにも完璧に「無」にしてくれたからだ。

あれは事故ですらない。ただの現象だったのだと、彼女の態度が雄弁に語っていた。

着替えを済ませて受付に戻ると、彼女はレジスターの前に立っていた。

白衣の襟元が、照明を受けて微かに発光しているように見える。

「お会計は、基本コースの料金になります」

提示された金額は、表の看板に書かれていた通りだった。

クリーニング代も、迷惑料も、一切上乗せされていない。

「あの、でも、シーツとか……」

「消耗品ですので。気にしないでください」

財布を取り出す手が震える。彼女のこの態度は、マニュアル通りの接客なのだろうか、それとも、彼女個人の資質によるものなのか。

トレーにお札を置く。彼女の白磁のような指が、それを丁寧に回収する。

その時だった。

レシートを渡そうとした彼女の手が、ふと止まった。

彼女の上体が、カウンター越しに音もなく滑るように近づいてきた。

「――ん」

鼻先が触れそうな距離。

彼女の吐息が、私の首筋に触れた。

驚いて身を引こうとしたが、足が竦んで動けない。彼女の視線は私の目ではなく、首元あたりの空間に向けられているようだった。

「スン」と小さく鼻を鳴らす音。

まるで、ワインの熟成具合を確かめるソムリエのように。あるいは、自分の領土に付けた印を確認する獣のように。

一瞬の出来事だった。

彼女はすぐに体を離し、何事もなかったかのようにレシートを差し出した。

「……香りの定着、良好ですね」

「え?」

「いえ、こちらの話です。お大事に」

深々と頭を下げる彼女に見送られ、私は夢遊病者のように店を出た。

カウベルの音が背後で閉じると同時に、湿った夜風が頬を打つ。

一気に現実に引き戻された。

車の走行音、遠くの話し声、換気扇の油の匂い。

それらが一斉に押し寄せてくる中で、ふと、自分の身体から漂う異質な香りに気づいた。

店内にいた時は鼻が慣れてしまっていたが、外の空気の中だと、それが強烈な輪郭を持って浮き上がってくる。

ムスクのような、深い森のような、そしてあのバニラの甘さ。

それが自分の汗や体温と混ざり合い、言葉にできないほど妖艶で、絶対的な安心感を醸し出している。

自分の匂いではない。けれど、完全に自分の一部になってしまっている匂い。

歩き出しながら、胸の中で二つの感情が激しく殴り合っていた。

二度と行きたくない。

あんな恥をかいた場所に、どの面を下げて行けばいいというのだ。普通の神経なら、これでもう出入り禁止だ。

しかし、それと同時に。

猛烈な引力が、背中を後ろ髪ごと引いていた。

彼女は怒らなかった。

嫌な顔一つせず、汚物を処理し、淡々と私を受け入れた。

親でさえ、あんな場面では眉をひそめるだろう。恋人なら幻滅して去っていくかもしれない。

けれど、彼女は違った。

彼女の瞳には、個人の好き嫌いや、道徳的な判断といったものが微塵も存在しなかった。

ただ、そこに在るものを、あるがままに肯定する。

それはきっと、彼女が見ている景色が、私のような卑小な人間とはまるで違う次元にあるからだ。

おそらく、彼女にとって、人間という種族は等しく不完全で、等しく愛すべき観察対象でしかないのかもしれない。

だから、大人が漏らすという失態さえも、赤子の失敗と同じように慈しむことができる。

そう結論づけた瞬間、ストンと胸のつかえが落ちた。

彼女は、人類そのものを愛しているのだ。

個としての私ではなく、生命としての私を、あの上位者のような視点から見守っている。

なんて、傲慢で、そして救いのある優しさだろう。

夜風に吹かれながら、私は自分のワイシャツの襟元に鼻を埋めた。

そこにはまだ、彼女が調合した「許し」の香りが、確かに残っていた。

この香りが消える頃、私はまた、あの扉を開けてしまう予感がしていた。

それが、飼い犬が首輪を確かめるような仕草であることに、まだ私は気づいていなかった。

恥辱の記憶は、四十八時間で肉体の悲鳴に敗北した。

オフィスの洗面所。鏡の中に映る自分の顔は、生きた人間というよりは、防腐処理を忘れた標本のようだった。

目の下にはコールタールを塗ったような隈が張り付き、肌はくすんだ土気色に濁っている。何より酷いのは眼球だ。無数の毛細血管が充血し、白目の部分が赤く変色している。

前回、あの店に行ってからの二日間、身体はかつてないほど軽かった。

まるで背中に埋め込まれていた鉛の板を取り除かれたかのように、思考はクリアになり、睡眠の質も劇的に改善した。

だが、その魔法は永遠ではない。

過酷な労働環境と、積み重なった長年の疲労負債は、わずか数日で私の身体を元の、いや、快楽を知ってしまった分だけ、以前より激しい反動で引き戻そうとしていた。

肩の筋肉が悲鳴を上げている。首筋が鉄の棒のように凝り固まり、そこから派生した偏頭痛が、まるで万力のようにこめかみを締め上げる。

行きたい。

本能がそう叫んでいた。あの場所で、あの香りに包まれて、泥のように溶けてしまいたい。

だが、理性が待ったをかける。

あんな失態を演じた場所に、よくもぬけぬけと戻れるものだ。排泄の制御さえ失った客など、ブラックリストに入っていてもおかしくない。

葛藤しながらスマートフォンを取り出す。

指先が発信ボタンの上で迷う。

もし、「もう来ないでください」と言われたら? あるいは、電話口で失笑されたら?

いや、と主人公は思い直す。

彼女はそんな次元にはいない。あの時、彼女が見せた反応は、道端の小石を見るそれと同じだったではないか。

人間的な感情で私を裁いたりはしないはずだ。そう信じ込むことで、自分のプライドを強引に保護し、私は通話ボタンを押した。

「……お電話ありがとうございます」

数コールの後、あの温度のない、透き通るような声が受話器越しに鼓膜を震わせた。

「あ、あの、先日の……」

名乗ろうとすると、彼女は遮ることなく、しかし淡々と続けた。

「ええ、覚えています。いかがなさいましたか」

声のトーンは一定だ。嫌悪も、嘲笑も、過剰な歓迎もない。ただ、事務的な確認の響きだけがある。

「その、もし空いていれば、今日これから……」

「十九時からなら空いています。お待ちしていますね」

その受付は、拍子抜けするほど簡単だった。

前回のことには触れない。注意書きも条件もない。

やはり、彼女にとってあの出来事は、記憶に留めるに値しない些細なエラーだったのだ。

安堵と共に、奇妙な高揚感が胸に広がった。

許されている。いや、許す許さないという概念の外側に、私は受け入れられている。

一時間後、私は再びあの扉の前に立っていた。

夕闇に沈む住宅街。微かに漏れる暖色の光。

前回と同じ光景のはずなのに、ドアノブに手をかける指は、恋人に会いに行くときのように微かに汗ばんでいた。

カウベルの音と共に、店内へ足を踏み入れる。

空気が変わる。

外界の雑音が遮断され、静寂と清浄な空気に満たされる感覚は前回と同じだ。

だが、鼻をくすぐる匂いが違っていた。

前回はミントと甘いバニラが印象的だったが、今日はもっとスパイシーだった。黒胡椒のような刺激と、ジンジャーのような温かみのある香り。それがベースのウッディな香りと混ざり合い、どこかエキゾチックな雰囲気を醸し出している。

「いらっしゃいませ」

カウンターの奥から、彼女が現れた。

相変わらず、現実感のない白さだ。生成りのエプロンに、少し乱れた色素の薄い髪。

彼女はカウンターを出て、私の方へと歩み寄ってくる。

その視線が、私の顔ではなく、身体の周囲の空気を探るように動いた。

そして、私の目の前で足を止めると、小さく鼻を動かした。

「……今日は少し、疲労の匂いが濃いですね」

「え?」

思わず聞き返す。

顔色が悪い、とか、姿勢が悪い、ではない。

匂い?

自分の袖口を嗅いでみるが、漂うのは満員電車の汗と、オフィスの埃っぽい匂いだけだ。

「酸化した油のような匂いが強くなっています。前回よりも、芯まで錆びついている証拠です」

彼女は真顔で言った。

それは比喩表現なのだろうか。それとも、彼女には本当に、疲労物質が気体となって漏れ出ているのが見えているのだろうか。

「……そうかもしれません。もう、限界で」

「でしょうね。その匂いを嗅ぐだけで、筋肉の軋む音が聞こえてくるようです」

彼女は薄く微笑んだように見えた。

それは同情の笑みではなく、修理しがいのある壊れた玩具を見つけた子供のような、純粋な好奇心を含んだ表情だった。

「さあ、こちらへ。今日は錆落としの配合が必要ですね」

彼女の背中を追いながら、私は違和感を飲み込んだ。

挨拶代わりの「嗅ぐ」という行為。

普通なら失礼にあたるその仕草さえも、彼女がすると、名医による診断のように思えてしまう。

私は既に、彼女の論理に侵食され始めていた。

彼女は、まるで爆弾処理班が配線を切断するかのような慎重さで、小瓶を選び始めた。

作業台の上には、前回のカルテとおぼしき紙片が置かれている。彼女の視線は、紙の上の文字と、棚に並ぶ無数の琥珀色の瓶とを高速で往復していた。

迷っているのではない。ただ、最適解を導き出すための演算を行っているのだ。

「……ベースはサンダルウッド。そこにシダーを少々。トップは……いえ、今日はこれではないですね」

独り言のように呟きながら、一度手に取った瓶を戻し、別の瓶――ラベルに複雑な植物の学名が書かれたもの――を手に取る。

その背中を見ているだけで、なぜか喉が渇くような緊張感を覚えた。

私はまな板の上の鯉だ。あるいは、これからオーブンに入れられる下味のついた肉塊か。

彼女が振り返る。手には調合を終えたオイルが入った小さなボウル。

「お待たせしました」

近づいてくる彼女から、雨の匂いがした。いや、外は晴れていたはずだ。それは彼女が持っているボウルから漂う香りだった。湿った土と、冷たいオゾンのような清涼感。

「今日は、出先で雨に降られましたか?」

唐突な問いに、私は目を瞬かせた。

「え? いえ、会社を出たときは晴れていましたが……あ、昼間に営業で回っていた時、少しだけ通り雨に」

「やはり。髪の奥と、ジャケットの肩口に、雨雲の匂いが残っています」

彼女は私の肩のあたりに視線を落とした。

「それと、体温がいつもより0.5度ほど低い。冷えた湿気が熱を奪ったのでしょう。香りの立ち方が少し遅いです」

ぞわり、と肌が粟立つ。

0.5度の差を言い当てたのか? それも、香りの揮発速度の違いで?

人間離れした嗅覚。だが、彼女の口調があまりに事務的で、それが異常な能力だということを認識する前に、納得させられてしまう。

「体を温める成分を多めにしました。では、うつ伏せに」

施術台に横たわる。

前回と同じ、顔を埋めるドーナツ枕。視界が閉ざされた瞬間、記憶がフラッシュバックした。

あの、世界が溶けるような感覚。そして、その後に訪れた冷たい羞恥。

――今日は、絶対にダメだ。

心の中で固く誓う。あんな失態は、一生に一度で十分だ。リラックスするのはいいが、意識まで手放してはいけない。括約筋への制御権を死守するのだ。

全身に力が入る。無意識に歯を食いしばり、お尻の筋肉を固める。

「……硬いですね」

背中に触れた彼女の手が、困ったように止まった。

「すみません。ちょっと、緊張してて」

「前回のことを気にされていますか?」

核心を突かれ、言葉に詰まる。

「ふふ、あまり我慢しないでください。体は正直です。あなたが守ろうとすればするほど、筋肉はかえって鎧のように閉じてしまいます」

彼女の声は優しかった。

指先が、背骨のラインに沿ってゆっくりと滑り降りる。

そのタッチは、前回同様、教科書的に正確だった。奇をてらった動きはない。ただ、筋肉の繊維がどこでねじれ、どこで癒着しているのかを、指先のセンサーで読み取っているかのような的確さだ。

香りが変化する。

最初はブラックペッパーのようなスパイシーな刺激で、冷えた血流を強引に叩き起こす。カッカッと背中が熱くなり、強張っていた筋肉が強制的に解かされていく。

抵抗できない。

固めていたはずの力が、吐く息と一緒に漏れ出していく。

中盤に差し掛かると、香りはラベンダーとゼラニウムのような、重たく沈むフローラル系へと移行した。

意識がとろみを帯びてくる。

危ない。このままではまた、あの境界線を越えてしまう。

必死に理性を繋ぎ止めようと、私は眉間にしわを寄せ、浅い呼吸を繰り返した。

額に脂汗が滲む。

室内の温度は適正なはずなのに、体内から発する熱で、肌がじっとりと湿り気を帯びていくのが分かる。

加齢臭や汗臭さが混じった、中年男特有の不快な匂いが漂っているはずだ。

だが、彼女は怯まなかった。

それどころか、異変が起きた。

汗ばんだ私の背中を滑る彼女の手つきが、妙に「粘度」を増したように感じられたのだ。

さっきまでは「ほぐす」ための指だった。

それが今は、肌に浮き出た脂と汗を、オイルと混ぜ合わせてこね回すような、ねっとりとした動きに変わっている。

パン生地の感触を楽しむパン職人のように。

あるいは、熟れた果実の皮を撫で回すように。

指先が、私の背中のくぼみや、脇腹の肉の柔らかい部分を、愛おしむように吸い付いて離れない。

痛くはない。ただ、ぞっとするほど「触られている」という感覚が強い。

「……いい匂いになってきましたね」

彼女がぽつりと呟いた。

耳を疑った。

いい匂い? この、おじさんの汗の匂いが?

「え……? 汗臭くないですか?」

「いいえ。スパイスの香りが体温で温められて、あなたの本来の匂いと混ざり合っています。とても香ばしい、生きた匂いです」

彼女は鼻歌でも歌い出しそうなほど、上機嫌に見えた。

指先のリズムが軽やかになる。タタタン、と背中を叩くタッピングの手技さえも、どこか喜びの舞のように感じられる。

私は混乱した。

普通、マッサージ師は客の体臭など我慢するものではないのか?

それを「香ばしい」と表現し、あまつさえ楽しんでいる?

けれど、その違和感について深く考える余裕はなかった。彼女の指が、脇の下のリンパ節をぐっと押し流した瞬間、強烈な快感が脳天を突き抜けたからだ。

「あっ」

短い声が漏れる。

同時に、全身の力がガクンと抜けた。

漏らしてはいない。だが、私の意志とは無関係に、身体が彼女に降伏した瞬間だった。

彼女の手が、満足げに私の背中をひと撫でする。

その手つきは、獲物の味見を終えた捕食者の、余裕に満ちた仕草に似ていた。

術後に出されたハーブティーは、鮮やかなルビー色をしていた。

ハイビスカスとローズヒップだろうか。酸味のある湯気が、まだ夢うつつな脳の輪郭をそっと撫でる。

私は待合スペースのソファに深く沈み込み、まだ痺れが残る指先でカップを温めていた。

今回は、耐え切った。

最後の一線を超えずに済んだ安堵と、彼女の手によって極限まで緩められた筋肉の心地よい気だるさが、全身を支配している。

店内には、先ほどの施術で焚かれたスパイシーな香りと、私の身体から発せられたであろう熱気が、まだ微かに漂っていた。

その時、奥の施術室の扉が開き、一人の客が出てきた。

私と入れ違いで入っていた、六十代とおぼしき男性だ。入店時は仕立ての良いスーツを着こなし、いかにも企業の役員といった風情だった人物だ。

だが、今の彼はまるで別人だった。

足取りがおぼつかない。生まれたての仔鹿のように膝が震え、壁に手を突きながらようやく歩いている。

綺麗に整えられていた白髪交じりの髪は汗で額に張り付き、ワイシャツの裾はスラックスからはみ出している。ネクタイなど、どこへ行ったのかすら分からない。

明らかに、何かが「決壊」した後の姿だった。

彼は顔を赤くし、逃げるように靴を履こうとして、わずかにつまづきかけた。

「……す、すまん。ご迷惑をおかけした」

消え入りそうな声だった。

彼もまた、私と同じ「洗礼」を受けたのだろうか。

床を汚したのか、それとも声を上げて泣き崩れでもしたのか。詳細は分からないが、その背中には、社会的な地位などかなぐり捨てた、無防備な老人の弱さが滲んでいた。

普通なら、店側は「気になさらないでください」と慌ててフォローするか、あるいは苦笑いで見送る場面だ。

だが、レジカウンターに立つ彼女の反応は、そのどちらでもなかった。

「いいえ」

彼女は、綺麗に畳まれた男性のジャケットを両手で丁寧に渡しながら、穏やかに言った。

「とても良い香りでしたよ。深みがあって」

私は、ハーブティーを飲む手を止めた。

香り?

施術の感想でも、身体の具合の話でもない。

彼女は、うっとりと目を細め、去りゆく男性の背中ではなく、その周囲に残った空気の余韻を見つめていた。

「枯れ草が発酵したような、実に素晴らしい熟成香でした。また溜まりましたら、いつでもいらしてください」

男性は救われたような、しかしどこか狐につままれたような顔で何度も頷き、千鳥足で店を出て行った。

カウベルの音が止むと、静寂が戻る。

私はカップの中の赤い液体を見つめたまま、動けずにいた。

――あの人は、全てを受け入れるのか。

年配の男性が見せた、あのみっともない姿。おそらく常識的な社会では眉をひそめられるような「老いの醜態」さえも、彼女にとっては「良い香り」というポジティブな要素に変換されるのだ。

彼女の辞書には「汚い」とか「迷惑」という言葉が一切存在しないのかもしれない。

人間が社会の鎧を脱ぎ捨て、ただの弱い生き物に戻った時に発する匂い。彼女はそれを愛でている。

だとしたら。

私が抱えていた恥など、なんと些細なことだろう。

ここは病院でもなければ、風俗店でもない。

言うなれば「懺悔室」だ。

誰にも見せられない弱さを晒し、体液や脂汗と共に心の澱を吐き出す場所。そして彼女は、その澱を「香水」として楽しんでくれる、奇特な聖女なのだ。

……けれど。

ふと、小さな棘が胸に刺さった。

「香りが良かった」という言葉の質感。

それは、人間に対する賞賛というよりは、出来の良い料理や、手入れの行き届いた革製品を評価する時の口ぶりに似ていなかったか?

彼女は、男性の体調を気遣ったわけではない。

ただ、彼から搾り取った「匂い」の質に満足していただけのように見えた。

ふと、彼女と目が合った。

彼女は私に向かって、まるで聖母のように微笑んだ。

「お茶のお代わりはいかがですか? まだ少し、興奮が残っているようですから」

その完璧な笑顔の前に、私の小さな疑念は、春の雪のようにあっけなく溶けて消えた。

深読みしすぎだ。彼女はプロのアロマセラピストなのだから、独特な感性を持っていて当たり前だ。

私は「お願いします」とカップを差し出した。

そうすることで、私もまた、彼女に全てを委ねる「共犯者」の列に並び直したのだった。

支払いは、今回もあくまで規定の料金だけだった。

延長料金も、指名料も、あるいは「特別手当」のような不明瞭な加算も一切ない。

彼女はキャッシュトレイに置かれた紙幣を、宝石でも扱うような手つきでレジに収めた。その所作の一つ一つが、茶道の点前(てまえ)のように洗練されていて、見ているだけでこちらの背筋が伸びるような感覚があった。

「お釣りです」

硬貨を手渡す彼女の手が、私の手に触れた。

ひやりとして、乾いた感触。

受け取ろうとした瞬間、彼女の手が引かれることはなく、むしろ滑るように私の手首を伝い、そのまま肩の方へと伸びてきた。

「あ……」

驚いて声を上げようとしたが、彼女の顔が予想以上に近くにあり、言葉が喉に詰まった。

彼女は私のワイシャツの襟元に手を添えた。

直しているのではない。

ただ、そこに「在る」ことを確認するかのように、指先を襟の裏側に潜り込ませる。

そして、ふわりと前髪が私の頬を掠める距離まで顔を寄せた。

スゥ、と。

彼女の喉の奥で、空気を深く吸い込む音がした。

吐息ではない。吸引だ。

私の首筋から立ち上る何かを、肺の奥底まで取り込もうとするかのような、静かで貪欲な呼吸音。

心臓が早鐘を打つ。

近い。あまりにも近すぎる。

これではまるで、恋人が抱擁の最中に首筋に顔を埋める距離ではないか。

だが、身じろぎ一つできなかった。彼女の瞳があまりにも透き通っていて、そこに邪な色が微塵も見当たらなかったからだ。

一秒、あるいは二秒。

彼女は満足したように身を引いた。

「……今日は、前よりも落ち着いた香りですね」

彼女は何事もなかったかのように微笑んだ。

距離感がバグっている。

だが、彼女の口ぶりは、今日の天気や株価の動向を語るように極めて淡々としていた。

「そ、そんなに違いますか?」

上擦った声で尋ねる。

「ええ。前回は、もう少し“張り詰めた匂い”でしたから。鉄錆と、焦げたゴムのような……悲鳴に近い匂いでした」

彼女は虚空に漂う香りの粒を思い出すように目を細める。

「今日は、よく馴染んでいます。ベースのウッドとあなたの体温が混ざって、角が取れた丸い香りになっていますよ」

私は呆然と彼女を見つめた。

彼女には、全て見えているのだ。

私という人間が、社会的な記号や衣服ではなく、ただの「匂いの集合体」として。

だから、彼女は怒らなかったのだ。

前回、私が粗相をした時も、彼女にとってそれは「汚い失敗」ではなく、「匂いの変化」という現象に過ぎなかった。

今日のあの老人が醜態を晒した時も、彼女は「熟成香」としてそれを愛でた。

彼女の視点は、あまりにも高い。

人間という卑小な存在が抱える恥も、見栄も、絶望も。彼女という上位存在の前では、すべてが等しく「観察対象」となり、許容される。

なんて、度量の広い生き物なのだろう。

人類全体を、母親のような、あるいは神のような高みから慈しんでいるからこそ、この店は「懺悔室」として機能しているのだ。

私は、自分が抱いていた「恥」という感情が、急激に矮小化されていくのを感じた。

彼女の前では、人間であること自体が許される。

そんな救済が、この世のどこにあるだろうか。

「ありがとうございました。お気をつけて」

彼女の美しいお辞儀に見送られ、私は店を出た。

夜の空気は湿り気を帯びていたが、不思議と不快ではなかった。

歩き出すと、自分の身体からふわりと香りが立った。

店内で焚かれていたスパイスの香りと、彼女が選んだオイルの香り。それが私の体臭と混ざり合い、一種独特な、しかし妙に落ち着く「残り香」となって全身を包んでいる。

まるで、見えない膜に守られているようだった。

あるいは、所有の印を押された家畜が覚える安堵感とは、こういうものなのだろうか。

一歩踏み出すたびに、身体の芯に残るけだるさが、心地よい余韻として揺れる。

二度と来ない、と誓ったはずの帰り道。

今の私は、スマートフォンのカレンダーアプリを開き、来週の空き時間をすでに無意識に探していた。

彼女が最後に、私の背中に向けて小さく鼻を鳴らしたことには、気づかないままに。

恐怖にも似た驚きだった。改札を抜けた瞬間、私の足が思考よりも先に「正解のルート」を選び取ったことに気づいたからだ。

一日の労働を終え、脳みそが疲労で白濁しているにもかかわらず、身体だけが正確な自動操縦で動き続けていた。まるで、見えないリードで引かれているかのように。

かつては苦痛でしかなかった通勤路が、今は奇妙な「匂いのグラデーション」として知覚されるようになっていた。

駅の構内に充満するのは、鉄粉の乾いた匂いと、行き交う何万人もの人間が発する脂汗の湿った匂い。

そこを抜けると、駅前のコンビニから排気ダクトを通じて吐き出される、酸化した揚げ油の暴力的な匂いが、鋭く鼻を突いた。

さらに進み、繁華街の喧騒を離れると、雨上がりのアスファルトが放つ、埃っぽくも懐かしい匂いが立ち込める。

それらすべてが、私にとっては「あそこ」へ辿り着くための匂いのマイルストーンになっていた。

不快な匂いを一つ越えるたびに、ゴールが近づいているという条件反射が働き、強張っていた肩の力が数ミリずつ抜けていった。

「パブロフの犬」。そんな単語が頭をよぎるが、私はそれを疲労のせいにして打ち消した。

路地の奥。

古びたアパートの一角が見えた瞬間、鼻腔の奥に、あの清涼で甘やかな香りの幻覚が広がった気がした。

まだ店の前にも着いていないのに、脳が勝手に報酬を予期して、快楽物質を分泌し始めていた。

私はドアの前で足を止めた。

真鍮のドアノブに手を伸ばしかけて、指先が微かに震える。

フラッシュバックするのは、防水シーツの冷ややかな感触と、自分の内側から熱いものが溢れ出した瞬間の絶望感だ。

――また、あんな醜態を晒すことになるんじゃないか。

理性が警告音を鳴らす。

だが、それ以上に背中の筋肉が悲鳴を上げていた。「早く降ろしたい」「早く楽になりたい」と、肉体そのものが彼女の施術を渇望している。

羞恥心など、圧倒的な快楽の前では薄紙一枚の防壁でしかなかった。

私は逃げるようにドアノブを回した。

カウベルの音が、乾いた音色で来訪を告げる。

途端に、世界が切り替わった。

外界の雑音が吸音材に吸い込まれるように消え失せ、湿度を含んだ静寂が鼓膜を包む。

やはり、ここは別世界だ。

ただ、今日は何かが違った。

いつもの清潔なハーブの香りに混じって、花の蜜を煮詰めたような、粘度の高い甘さが漂っている。湿度も、外気とは違う種類の、温室のような潤いを含んでいた。

「……お待ちしていました」

カウンターの奥から、彼女が顔を出す。

いつ見ても、その姿は現実離れした美しさを保っている。白衣の白さが、薄暗い店内でそこだけ発光しているようだ。

彼女は手元の作業を止め、私の方へと歩み寄ってきた。

そして、私の顔を見るのではなく、足元から全身をなめ回すように視線を走らせた。

「今日は、足取りが軽かったですね」

「え?」

予想外の挨拶に、私は虚を突かれた。

「軽い、ですか? いや、今日も残業続きでクタクタなんですが」

「いいえ、靴底が地面を叩くリズムの話です」

彼女は事もなげに淡々と言った。

「ここへ向かう最後の数メートル、あなたの足音は弾んでいました。迷いがなく、帰巣本能に従って巣穴に戻る小動物のような、軽やかなリズムでしたよ」

帰巣本能。

その言葉選びに、私は言葉を失った。

彼女には聞こえていたのか。防音性の高い壁の向こう側から、私が路地を歩いてくる微かな足音が。

そして、その足音だけで、私が無意識に感じていた「ここに来られて嬉しい」という感情までも見透かしていたというのか。

「……お見通しですね。恥ずかしいくらいに」

「恥じることはありません。足音は嘘をつきませんから」

彼女は柔らかく微笑んだ。

その笑顔には、やはり人間的な邪念がない。

「来てくれて嬉しい」という感情すら超えた、「来るべきものが来た」という自然現象への納得に近い表情だ。

私は確信する。

彼女は、人間の表面的な言葉や表情など一切見ていない。

音、匂い、熱。そういった、生命が発する根源的なシグナルだけを受信し、解析しているのだ。

だからこそ、嘘もお世辞も通じない。そして、どんなに見苦しい本音も、彼女の前ではただのデータとして許容される。

なんて純粋で、慈愛に満ちた観察者なのだろう。

私は彼女に促されるまま、甘い香りが充満する奥の部屋へと足を踏み入れた。

それが、食虫植物の甘い蜜の匂いであるかもしれないとは、微塵も疑わずに。

更衣室へ向かう前、彼女にコートを預けた時のことだ。

普段ならハンガーにかけるだけの動作なのに、彼女は私のコートの袖口を、ピンセットで標本を扱うかのように、親指と人差し指でつまみ上げた。

一瞬、時が止まる。

彼女の視線が、袖の繊維の奥にある何かを見通すように細められた。

「……今日は、屋外に長く立っていらっしゃいましたか?」

図星だった。

取引先の都合で、寒空の下、三十分近くも待たされていたのだ。

「ええ、まあ。……よく分かりますね。顔に出てましたか?」

「いいえ。手首の冷え方が違いますから」

彼女は短く答え、コートを丁寧にハンガーにかけた。

手首? 確かにコートを受け取る際、彼女の指が一瞬だけ私の手首をかすめた。だが、あのほんの一瞬の接触で、身体の芯の冷えまで看破できるのだろうか。

それに、彼女が袖口をつまんだ時の仕草は、温度を測るというよりは、繊維に染み付いた「外気の粒子」を確認するような手つきだった気がする。

排気ガスや、乾いた風の匂い。

彼女はそれを「冷え」という言葉に変換して伝えたのではないか。

そんな奇妙な疑念が頭をもたげたが、彼女の表情があまりに涼やかで、私はそれ以上追求することを諦めた。

施術台にうつ伏せになると、彼女の手が背中に置かれた。

まだマッサージは始まっていない。ただ、呼吸に合わせて手のひらが上下するのを、じっと計測されている時間。

「……前よりも、息が浅くなるまでの時間が短いですね」

静寂の中に、彼女の声が落ちる。

「どういう意味ですか?」

「以前は、ベッドに横たわっても数分間は戦闘態勢の呼吸でした。今は、ここに身体を預けた瞬間にスイッチが切れている。緊張しているのに、ほどけるのが早いというか……その“落ち方”が整ってきました」

落ち方、という表現に引っかかりを覚える。

「リラックスするのが上手になった」と言えばいいところを、彼女はまるで、崖から突き落とした物体が地面に激突するまでの物理現象を観察しているような口ぶりだ。

彼女にとって、私の身体は「癒やすべき対象」ではなく、「反応を観測すべき実験体」に近いのかもしれない。

施術が始まる。

今日の香りは、透明度の高いレモングラスのような鋭さから始まった。

意識の輪郭をはっきりと残したまま、凝り固まった筋肉だけを外科手術のように的確に剥がしていく。

痛気持ちいい刺激に耐えながら、私はふと、口をついて愚痴をこぼした。

「最近、あまり眠れなくて」

社会人の会話としては、ごくありふれたものだ。「大変ですね」「お仕事が忙しいんですか」という相槌を期待しての言葉。

だが、彼女の返答は斜め上だった。

「そうでしょうね。眠れないときの香りと、眠れたときの香り、少し違いますから」

指先の動きを止めずに、彼女は淡々と言った。

私は眉をひそめた。

「……香水の話ですか? 寝不足だと付け方が変わるとか」

「いいえ。もっと、肉体に近いところの匂いです」

彼女はそれ以上語らなかった。

代わりに、肩甲骨の内側に親指をぐうっ、と沈み込ませた。

言葉での説明を拒絶し、肉体への干渉で会話を終わらせるような強引さ。

ズレている。

普通のセラピストなら、ここで生活習慣のアドバイスや、共感の言葉を並べるはずだ。しかし彼女は、私の「眠れない」という苦しみを、単なる「匂いの変質」というデータとして処理した。

そこには、人間的な温かみのある同情は一切ない。

あるのは、植物の状態を見極める庭師のような、冷徹なまでの観察眼だけだ。

中盤に差し掛かると、香りの層が変わった。

湿った土のような、パチュリやオークモスの重たい香り。

呼吸が深くなる。肺の底まで、森の空気が満ちていく。

彼女は香りを切り替えるたびに、「スン」と小さく鼻を鳴らした。

風邪を引いているわけではない。

それは、新しい香りが私の体温と混ざり合い、どのように変化したかを確認する、極めて実務的なチェック音に聞こえた。

だが、その音を聞くたびに、私は自分の背筋が粟立つのを感じた。

検品。

あるいは、味見。

彼女は私の背中を揉みほぐしながら、同時にその指先と嗅覚で、私の「生」の鮮度を確かめているのではないか。

香りは終盤に向けて、さらに変化した。

意識の縁を溶かすような、ごく薄い、パウダリーな甘さ。

思考が泥の中に沈んでいく。

薄れゆく意識の中で、私は一つの確信に辿り着きつつあった。

この人は、私を励まそうとも、正そうともしていない。

私が社会でどんな理不尽に遭おうが、どれほど心を病んでいようが、彼女にとっては関係ないのだ。

彼女が見ているのは、私の「強がり」という外皮の内側にある、純粋な動物としての反応だけ。

どうすれば筋肉が緩むか。

どうすれば呼吸が落ちるか。

どうすれば、匂いが変わるか。

それだけを見つめている。

その事実が、なぜか私には救いだった。

同情も励ましも要らない。ただ、壊れた部品を直すように、淡々と「緩み」を強制してくれる存在。

人間扱いされないことが、これほどまでに心地よいとは。

私は、彼女が作り出す完璧な「管理」の檻の中で、安心して意識を手放した。

アフターティーの湯気が、琥珀色の液面から立ち上り、店内の照明が落とされた空間の中で揺らいでいた。

カモミールの湯気。

それが、部屋に満ちる残響のようなアロマの香りと混ざり合い、視覚的な暖かさとなって目の前でほどけていく。

私はソファの背もたれに身体を預け、まだ半分夢の中にいるような頭で、ぼんやりとその光景を眺めていた。

視線の先にあるのは、整然と並べられた棚だ。

そこには、次の客のために用意されたタオルやリネン類が整然と積まれている。

ふと、奇妙なことに気づいた。

タオルの山が、いくつか不規則なグループに分けられているのだ。色やサイズの違いではない。

棚の縁に貼られた小さなマスキングテープには、彼女の几帳面な文字で、記号のようなものが書かれている。

『A−2(緊張・硬質)』

『B−1(弛緩・速)』

『C−3(発汗・多)』

素材の厚みではなく、客の「反応」のタイプ別に分類されているのだろうか。

その横には、一般的な消臭スプレーの類は一切置かれていない。代わりに、無機質な遮光瓶に入った無香料の液体と、精油の小瓶が並ぶトレーがあるだけだ。

ここには「臭いものを消す」という概念が存在しない。

あるのは、「匂いを中和する」あるいは「上書きして調和させる」という極めて化学実験的なアプローチだけなのだ。

その時、カーテンで仕切られた施術スペースの奥から、話し声が漏れてきた。

私より少し前に入っていた客だろう。声のトーンからして、中年の女性のようだ。

「……すみません。今日も、また……少し失礼してしまって」

消え入りそうな、恥じらいを含んだ声。

何を「失礼」したのかは分からない。だが、その声色は、かつて私が粗相をした時に出したものと同質の、自尊心が傷ついた人間のそれだった。

またしても、私は身構えた。

普通なら、「気にしないでください」と慰める場面だ。

だが、彼女の返答は違った。

「いいえ。今日は、実によくほどけていましたよ」

静かで、凛とした声だった。

「前回よりも、肩の力が抜けていく速度がスムーズでした。抵抗することなく、綺麗に糸がほつれていくような……理想的な緩み方でした」

女性客の息を飲む気配が伝わる。

「そ、そうですか? 迷惑じゃなかったですか?」

「迷惑? とんでもない。あそこまで素直に反応していただけると、こちらの指も喜びます。良い施術(セッション)でした」

彼女は心からそう思っているようだった。

社交辞令の響きがない。

素晴らしい夕焼けを見た時や、美しい数式解を見つけた時のような、人間的な感情を伴わない純粋な称賛の響き。

女性客の声が、涙ぐんだように震える。

「……ありがとうございます。先生にそう言っていただけると、救われます」

会話を聞きながら、私はカップを持つ手を止めた。

違和感が胸に広がる。

彼女は一度も「大丈夫」とも「気にしない」とも言わなかった。

ただ、「緩み方が美しかった」と、現象としてのプロセスを褒めただけだ。

なのに、なぜ客はあんなにも救われた顔(声)をするのだろう。

いや、私自身もそうだった。

彼女は、私たちの「みっともなさ」を、道徳的な善悪の彼岸に置いている。

社会では「だらしない」「恥ずかしい」と断罪される弱さが、ここでは「よくほどけた」というプラスの評価に変換される。

慰めではない。肯定ですらない。

ただの「評価」だ。

けれど、否定され続けてきた疲れた大人たちにとって、その無機質な評価こそが、どんな温かい言葉よりも甘美な麻薬として機能してしまうのだ。

女性客が帰り、店内に再び静寂が戻る。

彼女はバックヤードで後片付けを始めたようだ。

布が擦れる音。

そして、独り言とも記録用のメモともつかない、小さな呟きが聞こえてきた。

「……〇〇様、入眠までの時間、十二分。前回より三分短縮」

カサリ、と紙にペンが走る音。

「中盤の筋肉の震え、減少。呼吸と共に抜ける匂いが、前回よりカドが取れて柔らかい。……良好」

匂い。

やはり、そこに行き着くのか。

彼女は「臭かった」とか「汚れた」とは言わない。

ただ、匂いの質が「柔らかくなった」ことを、「良好」としてチェックしている。

私は最後の一口を飲み干し、冷めたカップをソーサーに戻した。

カチャリ、という陶器の音が、妙に大きく響いた。

分かってきた気がする。

この人は、聖人君子などではない。

もっと別の、根本的な価値基準を持った生き物だ。

彼女にとって、私たちが晒す醜態は、謝るべき失敗ではない。

それは「よく熟した果実」や「手入れされた庭木」と同じ、愛でるべき成果物なのだ。

自分が「人間」として扱われていないという事実に、背筋が寒くなる。

だが同時に、その「人間ではない何か(サンプル)」として扱われる安らぎに、私の本能はどうしようもなく惹きつけられていた。

それは、解剖台の上で初めて安眠を得た実験動物の心境に似ていたかもしれない。

会計の時間は、いつも儀式のように静かだった。

革張りのキャッシュトレイに、硬貨が触れる微かな音が響く。彼女はレジスターのキーを叩きながら、ふと手元の動きを止めた。

「……最初に来られたときより、だいぶ“緩むまでが早く”なりましたね」

それは世間話というより、経過観察の報告のようだった。

「それ、状態として良くなってるってことですか?」

財布をしまいながら尋ねると、彼女はゆっくりと頷いた。

「ええ。私は、そう感じます。抵抗が減って、本来の形に戻ろうとする速度が上がっています」

彼女はレジを閉め、釣銭を渡す手を止めて、少しだけ思案するように視線を伏せた。

そして、選び抜いた言葉を置くように続けた。

「人は、強がっているときと、緩んでいるときで、同じ人でも“匂いの筋”が明確に違うんです」

「匂いの、筋?」

聞き慣れない言葉に、眉をひそめる。

彼女は私の反応を意に介さず、淡々と説明を加えた。

「緊張しているときは、鉄が焼けるような、一直線で鋭い匂いがします。けれど、本当に解き放たれたときは、植物の根のように複雑で……どこか丸みを帯びた匂いに変わる」

彼女はそこで初めて、私の目を真っ直ぐに見つめた。

その瞳は、水晶のように透き通っていて、感情の色が読み取れない。

「最近のあなたは、緩んだときの匂いのほうが、前よりずっと自然です。嘘のない、実にいい匂いがします」

言葉が喉に詰まった。

いい匂い。

それは、私の体臭のことだろうか。それとも、彼女にしか知覚できない、生命活動の副産物のことだろうか。

中年男性に向かって放たれるにはあまりに不似合いなその言葉を、彼女は天気の話でもするように平然と口にした。

そこに性的な意味合いや、冗談めかした空気は一切ない。

ただ、熟れた果実を見定めた農家が「いい色だ」と評するような、実直な評価だけがあった。

私は戸惑いながら、けれど核心に触れる問いを投げかけずにはいられなかった。

「……だから、ですか? 私がどんなに情けない姿を見せても、あなたが平然としていられるのは」

「怒る?」

彼女はきょとんと目を丸くした。

「なぜ怒る必要があるのでしょう。私は、人が“ちゃんと緩める”ときの匂いが、一番その人らしいと思って好んでいるだけです」

彼女は微笑んだ。

それは慈愛の笑みのように見えて、その実、もっと無機質な何かのようにも見えた。

「だから、緩んだあとに何が起きても、私はあまり気になりません。果実が熟して地面に落ちるのを、誰も咎めないのと同じです」

店を出て、夜の街を歩き出す。

肌寒い風が頬を打つが、身体の芯はまだ彼女の魔法――あるいは呪い――にかかったように温かい。

私は無意識に、自分のシャツの襟元に鼻を近づけた。

そこには、店内で焚かれていたエキゾチックな甘い香りと、施術中に自分が発したであろう汗や体温の匂いが、複雑に混ざり合って残っていた。

これが、彼女の言う「自然な匂い」なのだろうか。

嗅いでみる。

不快ではない。むしろ、自分の匂いなのに、どこか他人のそれのように懐かしく、落ち着く香りだ。

彼女は、この匂いを嗅いでいたのだ。

私が恥じ入るような失敗をしている最中も、彼女の鼻腔は、この香りの成分だけを抽出して味わっていたということになる。

歩道橋の階段を上りながら、私は一つの結論に辿り着きつつあった。

私は勘違いをしていた。

彼女は、心が広いわけでも、人間愛に満ちた聖女でもない。

私たち客が「何をしたか」など、彼女にとっては些細なノイズでしかないのだ。

彼女が見ているのは、私たちが社会的な殻を破り、ただの肉塊として「どうほどけたか」という一点のみ。

行動や失敗といった人間の道徳基準ではなく、匂いや筋肉の弛緩といった、もっと動物的な座標軸で私たちを観測している。

あの人はやっぱり、私たちを許しているわけじゃない。

罰することも、慰めることも、きっと興味がないのだろう。

ただ、「緩んだ人間」という生き物を、別の軸で味わっているだけなのだ。

そう気づいた瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。

けれど、その恐怖よりも深く、自分の「匂い」を肯定されたという原始的な喜びが、私の脳髄を痺れさせていた。

絶望は、茶色い液体の広がりと共に訪れた。

会議開始の五分前。

私のデスクの上で、紙コップが緩やかな弧を描いて倒れた。物理法則に従っただけの現象だったが、その結果は社会的死刑に等しかった。

温められた缶コーヒーが、これから配るはずの資料の束に吸い込まれていく。

白いコピー用紙が、見る間に汚濁した褐色に染まり、ふやけて波打っていく様を、私はスローモーションのように見つめていた。

「……あーあ」

隣の席から、乾いた声がした。

課長だった。

彼は怒鳴りもしなかった。ただ、眉間を数ミリ寄せ、口角をわずかに下げて、深く、重いため息をついた。

その一呼吸が、室内の酸素濃度を一気に下げた気がした。

周囲の視線が突き刺さる。

「またか」「忙しいのに」「信じられない」

無言の非難が、焦げたコーヒーの匂いと共に鼻腔を侵す。

コピー機の放つオゾンの臭いと、湿った紙の臭い、そして課長が発する整髪料とイライラが混ざった鋭い体臭。

それらが混然となって、私の喉を締め上げた。

「す、すみません、すぐに刷り直します」

「もういい。データだけ送ってくれ。画面で見るから」

課長は汚れた紙の束を、汚物でも見るように指先で摘まみ上げ、ゴミ箱へと放り込んだ。

「バサリ」という無機質な落下音。

それが、私という人間の評価が音を立てて落ちた音のように聞こえた。

昼休み、逃げ込んだトイレの鏡の前で、私は自分の顔を睨みつけていた。

鏡の中の男は、情けなく肩を落とし、ワイシャツの袖口にはコーヒーの飛沫が茶色いシミとなってこびりついている。

――たかが、コーヒーだ。

ほんの百ミリリットル程度の液体をこぼしただけ。誰かを殴ったわけでも、会社の金を横領したわけでもない。

それでも、社会という場所では、これは「許されざる罪」としてカウントされる。

ふと、あの店の記憶が蘇る。

あの時、私はもっと酷いものをぶち撒けた。

大人の尊厳に関わるような、生々しい排泄物を、彼女の仕事道具であるシーツの上にたっぷりと。

普通なら、出入り禁止どころか、清掃料を請求されても文句は言えない失態だ。

だが、彼女は眉一つ動かさなかった。

「よくあること」と切り捨て、手際よく処理し、あろうことかその後の「匂い」の変化を楽しんですらいた。

ここの課長の反応と、彼女の反応。

あまりにも対極だ。

冷たい水で手を洗いながら、私は思考のピントを合わせようと試みる。

彼女が優しいから?

いや、優しさだけであそこまで徹底できるものか。

課長の反応が「正常」なのだ。人間は、他人の失敗によって自分の進行を妨げられれば、不快になり、攻撃的になる。それが生存本能であり、社会性というものだ。

だとしたら、彼女は何なのだ。

彼女には「不快」という感情回路が存在しないのか?

帰りの地下鉄は、湿った傘と蒸れた人いきれで充満していた。

つり革に捕まりながら、私は目の前の座席で繰り広げられる光景をぼんやりと眺めていた。

五歳くらいの男の子が、持っていたジュースのパックを強く握りしめすぎて、中身を床に噴出させてしまったのだ。

鮮やかなオレンジ色の液体が、グレーの床材に広がる。

「何やってんの!」

母親が叫んだ。

周囲の乗客が一斉に嫌な顔をして、露骨に足を引く。舌打ちがどこからか聞こえる。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

母親は必死に頭を下げ、バッグからティッシュを取り出して床を拭く。そして、泣きそうな顔をしている子供の腕を強く引いた。

「もう、恥ずかしいんだから!」

その言葉が、私の鼓膜に棘のように刺さった。

恥ずかしい。

そう、それが普通の感覚だ。失敗は恥であり、周囲に迷惑をかけることは罪悪なのだ。

母親は子供を愛していないわけではない。社会のルールを教えるために、あるいは周囲の視線から身を守るために、怒るというパフォーマンスを演じなければならない。

でも、彼女は一度も違った。

彼女は私を恥じ入らせなかった。

「恥ずかしい」という感情を抱く暇さえ与えず、「現象」として処理した。

あれは、私を守るためだったのか?

いや、違う。

今日の課長の溜息や、この母親の怒号を見ていて、確信したことがある。

人が人を怒るのは、相手に「期待」しているからだ。「ちゃんとしてくれるはずだ」という期待が裏切られるから、感情が波立つ。

彼女は、最初から私に何も期待していないのではないか。

人間としての常識も、社会人としての規律も。

ただの肉塊が、生理現象として液体を漏らしたところで、雲が雨を降らすのと何が違うのか――そんな、人間性を完全に排除した視線を感じる。

駅を降りると、足は自然と路地裏の方角を向いていた。

行くつもりはなかった。

けれど、この頭の中にこびりついた「普通の社会」の息苦しさを洗い流せる場所は、もはや世界にあそこしかない。

ポケットからスマートフォンを取り出す。

指先が勝手に予約サイトを開き、「空きあり」のアイコンをタップする。

もはや、癒やされたいという欲求だけではない。

確かめなければならないという使命にも似た強迫観念が、私を突き動かしていた。

なぜ、あなたは怒らないのか。

その「優しさ」に見えるものの正体が、私の想像通り、人間という種族を見下ろすことによる「無関心」ゆえのものなのかどうか。

送信完了の画面が表示される。

画面の光が、私の疲れた顔を青白く照らし出していた。

その声は、私がドアノブに手をかけた瞬間に響いた。

「……今日は、微かに怒られた匂いがしますね」

扉の向こう側からの言葉に、心臓が跳ね上がる。

まだ姿も見せていない。カウベルさえ鳴らしていない。

なのに彼女は、厚い木の扉と曇りガラスを透過して、私の身に纏わりつく「不快な空気」を感知したというのか。

私は強張った手でドアを開けた。

店内は、今日は驚くほど静かな香りに満ちていた。いつものような華やかなハーブやスパイスの主張がなく、まるで蒸留水のように透明な空気。

カウンターの奥で、彼女が静かにこちらを見ていた。

その瞳は、やはり私の顔ではなく、私の周囲を取り巻く不可視の粒子を見つめている。

「……分かりますか」

掠れた声で尋ねる。

「ええ。萎縮した神経特有の、酸っぱい匂いがします。焦げたコーヒーの匂いと混ざって、今はとても……可哀想な、観察対象です」

彼女はカウンターを出て、私のコートを受け取った。

その手つきは、傷ついた野鳥を保護するように繊細だった。

「お仕事、大変でしたか」

事務的な問いかけだが、そこには確かな労り――あるいは、そう聞こえる響き――があった。

「まあ、ちょっとミスをしてしまって。こっぴどく怒られました」

自嘲気味に笑おうとしたが、頬の筋肉が引きつってうまく動かない。

彼女はハンガーにコートをかけながら、背中越しに言った。

「怒られるというのは、慣れないものですよね。どれだけ歳を重ねても、身体は幼い頃と同じように恐怖で固まってしまうものです。」

彼女が振り返る。

その白磁のような肌が、薄暗い店内で柔らかな光を放っているように見えた。

「でも、ここでは怒りませんから。安心してください」

それは、宣言だった。

慰めではない。「ここは重力が弱い」と言うのと同じ、この空間における物理法則の提示。

その言葉を聞いた瞬間、私の膝から力が抜けそうになった。

社会が私に突きつける「懲罰」のルールが、ここでは適用されない。ここは治外法権であり、彼女はその唯一の管理者なのだ。

彼女の姿が、どんな宗教画の聖女よりも尊く見えた。

施術が始まる。

今日のオイルは、ほとんど無臭だった。

鼻を近づければ微かに植物の気配がする程度で、自己主張を完全に消している。

「今日は、あえて余計な香りを足しません」

彼女の手が、カチカチに固まった私の肩に置かれた。

「あなたの身体が、本来の輪郭を取り戻す過程を……ただ、そのまま感じたいので」

その言葉の意味を深く考える余裕はなかった。

彼女の指先が、怒りで竦み上がっていた僧帽筋の隙間に滑り込み、強制的に癒着を剥がし始めたからだ。

痛い。けれど、それは毒素が抜けていくような快い痛みだ。

私は目を閉じ、意識を彼女の指先に集中させる。

聞かなければ。

今日こそ、その優しさの理由を。

だが、口を開こうとするたびに、彼女の手技が絶妙なタイミングでツボを捉え、言葉を吐息に変えてしまう。

彼女は、私の身体の地図を完璧に把握していた。

どこを押せば力が抜け、どこを撫でれば呼吸が深くなるのか。

まるで、私という機械の設計図を最初から持っているかのように。

時間の感覚が曖昧になり始めた頃、ふと、彼女の手が止まった。

右の肩甲骨の下あたり。そこに掌を当て、じっと熱を伝えるように静止する。

「――あ、今」

彼女が小さく呟いた。

「“怒られたあとの力”が、抜けましたね」

どくん、と心臓が鳴った。

確かに今、胸の奥にあった黒い塊のような重圧が、霧散した感覚があった。

自分でも気づかなかった「許されたい」という無意識の緊張。それが解けた瞬間を、彼女は筋肉の微細な緩みだけで感知したのだ。

彼女は満足げに、ふぅ、と息を吐いた。

そして、私の首筋に顔を寄せ、その「抜けた直後」の空気を確かめるように、ごく浅く吸引した。

「……いいですね。とても素直で、無防備な匂いに戻りました」

施術が終わる頃には、私の迷いは消えていた。

身体は羽が生えたように軽い。

あれほど私を苦しめていたオフィスの記憶も、今は遠い過去の出来事のようだ。

彼女は、魔法使いだ。

あるいは、人の形をした救済そのものだ。

だからこそ、知らなければならない。

この救済は、何の見返りを求めているのか。

なぜ、私のような汚れた人間を、そこまで無条件に受け入れられるのか。

私は起き上がり、タオルで身体を拭きながら、いよいよ腹を括った。

たとえその答えが、私の想像を超えるものであったとしても。

あるいは、この楽園の扉を二度と開けなくなるとしても。

彼女という存在の「核」に触れなければ、私はもう、二度と自分の人生に戻れない気がした。

静寂は、雨音によって包まれていた。

店の外では、予報になかった通り雨がアスファルトを叩いている。店内の防音壁を通したその音は、遠くの潮騒のように低く、この空間を外界から切り離す結界のように機能していた。

私はソファに座り、出されたハーブティーの湯気を見つめていた。

施術は終わり、着替えも済ませた。

身体は驚くほど軽い。先ほどまで肩にのしかかっていた鉛のような重圧は消え失せ、視界もクリアになっていた。

けれど、胸の奥には鉛とは違う、焼け付くような焦燥感が居座っていた。

聞かなければならない。

今、この静かな雨のカーテンに守られた空間でなければ、一生聞けない気がした。

彼女はカウンターの中で、洗濯したてのタオルを畳んでいた。

背中を向け、一枚一枚、空気を丁寧に抜くように折り重ねていく。そのリズミカルな動作だけが、店内の時間を刻んでいた。

「……どうして」

言葉は、喉の弁が壊れたように唐突に溢れ出した。

「どうして、そんなに怒らないんですか」

言ってしまった。

心臓が早鐘を打つ。重すぎる問いだったかもしれない。客という立場を超えて、個人の聖域に土足で踏み込むような無粋な質問。

彼女の手が止まった。

持っていた白いフェイスタオルの端が、指先でくしゃりと歪む。

沈黙。

数秒が数時間にも感じられた。

換気扇の回る音と、雨音だけが鼓膜を打ち続ける。

怒らせただろうか。あるいは、困らせただろうか。

後悔が鎌首をもたげようとした時、彼女はゆっくりとタオルを置き、振り返った。

その顔に、不快な色は一切なかった。

ただ、本当に不思議なことを聞かれたというように、小首を傾げていた。

「怒る理由が、私にはあまり分からないんです」

それは、今日の天気を答えるような、平坦で当たり前の響きだった。

「……分からない?」

予想外の答えに、私は鸚鵡返しにするしかなかった。

「はい。だって、ここに来る皆さんは、限界まで緊張して、歯を食いしばって頑張って……それで、ようやく糸が切れて緩んだだけでしょう?」

彼女はカウンターに肘をつき、遠くを見るような目をした。

「ゴムを引っ張り続ければ、いつか切れる。風船を膨らませ続ければ、いつか割れる。それはただの物理現象です。この現象に対して怒るという感情は、私にはありません」

あまりにも理路整然としていた。

やはり、彼女は人間を超越した視点を持っている。現象を現象として受け入れる、科学者か聖人のような――。

「それに」

彼女はそこで言葉を切り、少しだけ恥ずかしそうに頬を緩めた。

まるで、誰にも言っていない秘密の宝物のありかを明かす少女のような、無邪気な微笑み。

「緩んだときの匂いって、本当にとても良いんです」

思考が停止した。

匂い?

文脈が繋がらない。

「……えっと、アロマの香りが、ということですか?」

「いいえ」

彼女は首を振った。

「あなたの、匂いです。人間そのものの匂い」

彼女は自身の鼻先を人差し指で軽く触れた。

「変ですよね。でも、昔からそうなんです。汗も、泣いたあとの涙も、怖がって震えているときの脂汗も……その人が“頑張るのをやめた”瞬間の匂いが、私には一番甘く、そして愛おしく感じられるんです」

彼女の瞳が、熱を帯びて潤んだ。

「張り詰めていた弦が切れて、中身がとろりと零れ出したときの匂い。それはどんな高価な香水よりも濃厚で、生き物の“生の芯”の香りがします」

背筋に、冷たいものが走った。

さっきまでの「聖女」のイメージに、決定的な亀裂が入っていく。

彼女が言っているのは、慈愛ではない。

これは、嗜好だ。

それも、極めて動物的で、本能的な。

頭の中で、何かのパズルが音を立てて組み変わっていく。

彼女が私の「漏らす」という失敗を許したのは、心が広いからではない。

私の体液と羞恥心が混ざり合ったあの瞬間の匂いが、彼女にとって「ご馳走」だったからだ。

彼女が老紳士の醜態を「熟成香」と呼んだのも、比喩でも何でもなく、文字通りその匂いを味わっていたからだ。

彼女は、人間を愛しているわけではない。

人間の、ガードが下がって無防備になった瞬間に発する、体臭という名のフェロモンを愛しているだけだ。

――まるで、犬じゃないか。

その単語が脳裏に浮かんだ瞬間、全ての違和感が氷解した。

初対面で挨拶代わりに匂いを嗅いだこと。

距離感が近すぎること。

主人の帰宅を待つように、足音や気配に敏感なこと。

そして、主人が何をしようと――たとえ嘔吐しようが失禁しようが――その匂いさえも嬉々として確認しに来る習性。

彼女は人間としての倫理観で私を許容していたのではなく、犬としての嗅覚的価値観で、私を「良い匂いのする獲物」として肯定していたのだ。

「だから」

私の脳内の激震を知ってか知らずか、彼女は穏やかに続けた。

「皆さんが緩んだあとに何かを零しても、私にとっては“いい匂いになった”という結果だけなんです。怒る理由が、本当に見つからなくて」

悪意はなかった。

そこにあるのは、純度百パーセントの「好き」という感情だけだ。

だが、その対象が「私の人格」ではなく「私の匂い」であるという事実は、聖なる救済を、一瞬にして滑稽で奇妙なフェティシズムへと変貌させた。

私は言葉を失ったまま、目の前の美しい女性を見つめた。

彼女は依然として、清楚な白衣とエプロンを纏った、完璧なセラピストの姿をしている。

だが、今の私には、その背後に見えない尻尾が激しく揺れているのが見えるような気がした。

それも、千切れんばかりに激しく、嬉しそうに。

彼女の告白は、雨音の中に溶けて消えたが、その余韻は濃密に、そして明確に漂っていた。

「……じゃあ、確認ですけど」

私は呆れ半分、恐ろしさ半分で尋ねた。

「私が初めてここに来て、あんな大失態をした時も……あなたは、やはりそう思っていたんですか?」

彼女は作業の手を止めず、少しだけ視線を天井に向けて記憶を手繰り寄せた。そして、悪びれる様子もなく、ごく真面目に答えた。

「ええ。それはもう、良い匂いでしたよ」

言葉が出なかった。

私の人生最大の汚点を、彼女は「良い匂い」の一言で総括したのだ。

普通なら、変態だと罵って席を立つべき場面かもしれない。

だが、不思議と嫌悪感は湧かなかった。彼女の瞳があまりにも澄んでいて、そこに卑猥な響きが微塵も感じられなかったからだ。

彼女は、美味しい料理を褒める美食家のように、あるいは綺麗な夕焼けを称える詩人のように、私の排泄行為(に近い失敗)を肯定した。

ここまで突き抜けていると、もはや清々しい。

「もしよければ、ひとつ、お願いしてもいいですか」

彼女が唐突に切り出した。

「……何を?」

「調香させてください。あなたが一番“ほどけていた日”の匂いを、香水にしてみたいんです」

彼女は少女のように目を輝かせた。

「あなたの記憶と、私の記憶にある匂いを掛け合わせて、あの瞬間の空気を小瓶に閉じ込めたい。……ダメですか?」

「それって、俺にとって得なんですか?」

思わずツッコミを入れたが、彼女は「ふふ」と楽しそうに笑うだけだった。

私はため息をつき、肩をすくめた。

「どうぞ。煮るなり焼くなり、ご自由にしてください」

もはや、私は彼女のモルモットであることを受け入れ始めていた。

調香が始まった。

彼女は棚から数種類の精油を取り出し、ビーカーの上で慎重にスポイトを操作する。

その横顔は、やはり神聖なほどに美しい。だが、やっていることは私の「緩んだ匂い」の再現だ。

作業の途中、彼女はふいに私の側に歩み寄ってきた。

「失礼します」

断りを入れると同時に、私の首筋に顔を寄せた。

スゥ、と深く短い呼吸音。

鼻先が肌に触れんばかりの距離で、私の体臭を吸引する。

その仕草は、匂いを覚えるために飼い主にじゃれつく忠実な大型犬そのものだった。

端から見れば異様な光景だろう。

だが、彼女の表情は真剣そのものだ。成分分析装置にかける科学者のような厳密さで、私の匂いを「素材」としてチェックしている。

「……ん、ベースはやはりこれですね。少しだけ、甘さを足して」

彼女は満足げに頷き、再び作業台へと戻っていった。

私はその背中を見ながら、奇妙な可笑しさが込み上げてくるのを抑えられなかった。

数分後、彼女は親指ほどの大きさの、アンティーク調の小瓶を差し出した。

中には、淡い黄金色の液体が揺れている。

「出来ました。これは、今日のあなたが“緩んだあと”に一番近い匂いです」

受け取った小瓶は、彼女の体温でほんのりと温かかった。

「よかったら、嫌なことがあったときだけ、少し使ってみてください。ここでの感覚が、すぐに戻ってくるはずですから」

蓋を開け、手首に一滴垂らしてみる。

鼻を近づけると、懐かしい香りが広がった。

ハーブの清涼感、土の湿り気、そして微かな人肌の甘さ。

それは、私が第一章で意識を失いかけた時、最後に感じた安らぎの記憶とリンクしていた。

同時に、あの時「許された」という感覚が、香りと共に脳内で再生される。

変な話だ。

自分の匂いを再現した香水で癒やされるなんて、ナルシシズムにも程がある。

けれど、胸の奥にあった強張りが、ふわりと軽くなったのは事実だった。

会計を済ませ、帰り支度をする。

ドアノブに手をかけた時、私は最後に一つだけ、聞いておきたいことがあった。

「あの」

彼女が振り返る。

「あなたは、俺のこと……いや、人間という種族全体を、好きなんですか? それとも、匂いだけが好きなんですか?」

意地悪な質問だったかもしれない。

だが、彼女は困った顔もせず、少しだけ首を傾げて考え、そして答えた。

「人を分けて考えたことはありません」

彼女の声は、雨上がりの空気のように澄んでいた。

「香りも、身体も、失敗も、みっともない姿も、すべてまとめて“その人”ですから。私は、それら全部が好きですよ」

完璧な答えだった。

それは人類愛とも取れるし、骨の髄までしゃぶり尽くす捕食者の論理とも取れる。

どちらにせよ、彼女の中では矛盾していないのだ。

店を出ると、雨は上がっていた。

夜風が濡れたアスファルトを冷やし、都会特有の埃っぽい匂いが立ち込めている。

排気ガス、コンビニの揚げ物の油、ドブ川の臭気。

それらが混ざり合う雑多な空気の中で、私はマフラーの中に鼻を埋めた。

そこには、小瓶から移った「私専用の香り」が、一本の芯となって残っていた。

誰にも邪魔されない、絶対的な安全圏の匂い。

歩き出しながら、私はもう、彼女を「聖女」だとは思わなかった。

あれは、ただの人間の匂いが大好きな、美しい変人だ。

あるいは、人の形をした忠実で貪欲な犬だ。

けれど。

社会というこの息苦しい檻の中で、私の「みっともなさ」を尻尾を振って歓迎してくれる存在が、一人くらいいてもいいのかもしれない。

たとえその理由が、私の匂いを嗅ぎたいという動物的な欲求だったとしても。

私はポケットの中の小瓶を硬く握りしめた。

その硬質な感触が、明日もまた戦えるための、奇妙なお守りのように感じられた。

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調香 伊阪 証 @isakaakasimk14

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