【短編怪談】舌の上
久保
舌の上
心臓が高鳴った。
合宿最終日を翌日に控えた夜。
修一は周囲の部員たちと特に歓談するわけでもなく、一人、黙々と夕飯のエビフライを口に運んでいた。
ようやく、この四日間に渡る憂鬱な合宿が終わる。
そんなことを思っていた、その最中だった。
テニス部に入部したのは、特段テニスが好きだったからではない。
何かしらの部活に所属していないと白い目で見られる──そんな学校社会の暗黙の了解の中で、何となく楽そうだったから、という程度の理由だった。
向上心もさほどなく、実力も下から数えた方が早い。
気がつけば、自分よりテニスが上手い後輩も何人もいる。
そんな修一にとって、この合宿は地獄だった。
朝7時からの坂道ダッシュ。
朝食後の体幹トレーニング。
宿からテニスコートまでは二十分、走って移動しなければならない。
到着してもすぐにボールは使えず、八の字フットワーク、サイドステップ、素振りが延々と続く。
それらを終えて、ようやくボールを使った練習が始まる。
とにかく、走り込みやトレーニングといった類のものが嫌いだった。
別に、飛び抜けてテニスが上手くなりたいわけでもない。
ただ、ほどほどに、楽しくテニスができていればそれでいい。
だが、部活動という枠の中に身を置いている以上、それらを拒む権利はなかった。
しかし、そんな地獄も、もうこれで最後という事実が修一の心を軽くした。
修一は今年でテニス部を引退する。あと数か月で、晴れて自由の身になれるのだ。
幸い、学力の方には自信はある。大学受験もそう失敗はしないだろう。
また、「これで最後」という以外にも、
実は今回の合宿で修一の胸を躍らせる要素があった。
──宿の従業員の、ゆかりちゃん。
今回の合宿所は、例年と異なり、学校からバスで約二時間の場所。
家族経営の、小さな宿だった。
一昨日の昼に宿へ到着したとき、真っ先に目についたのが彼女だった。
まだ中学生になったばかりだろうか。
色の白い肌と、艶のある黒髪が印象的な少女。
派手さはないが、目鼻立ちの整った顔立ちをしている。
彼女が宿の主人の娘で、名前を「ゆかり」ということは、
朝食や夕食の準備の際に交わされる、家族同士の何気ない会話から察しがついた。
最後の夕食ということもあり、
修一は、おかわりのご飯をよそうために食事の提供口付近に立つ彼女が、自然と視界に入る位置に座った。
薄茶色の作務衣に身を包み、
黒髪を後ろでひとつに束ねている。
動くたびに、結んだ髪の先が小さく揺れた。
周囲では部員たちが賑やかに談笑している。
修一はその輪に加わることもなく、箸を動かす手を止めたまま、ぼんやりと視線だけを泳がせていた。
その視線が、ふと持ち上がった瞬間だった。
彼女と、目が合った。
彼女は驚いた様子もなく、
まるで最初からこちらに気づいていたかのように、
ゆっくりと口元を緩めた。
そして──
微笑みかけた。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
修一は、女性との交流経験が決して多い方ではない。
彼女ができたこともない。
ただ、自分の外見は中の上くらいで、身だしなみも清潔にしているし、本当に大切にしたい相手には優しくできる──そんな自己評価を、どこかで信じていた。
ほんのわずかな間の逡巡のあと、修一も微笑み返した。
きっと、ぎこちなく、引きつった笑顔だっただろう。
すぐに他の部員のおかわりが入り、彼女は視線を外した。
それでも修一は、妙な確信を抱いていた。
──今のは、気のせいではない。
彼女は、確かに自分を意識したのだ、と。
その確信は、理由も根拠もないまま、胸の奥に居座った。
修一は夕食を終え、
大浴場の湯に身を沈めている間も、
何度もその瞬間を思い返していた。
大浴場から上がると、修一は火照った体を冷ますために、ロビーの自動販売機に立ち寄った。
天井の蛍光灯が白く唸り、夜の静けさを薄く切り裂いている。
硬貨を入れようとした、そのとき。
「テニス部の方ですか?」
背後から、不意に声をかけられた。
反射的に振り返ると、そこに彼女が立っていた。
食堂とは違い、ロビーの照明は弱く、彼女の顔は半分ほど影に沈んでいる。
それでも、あの白い肌と黒髪はすぐに分かった。
「あ、すみません。いきなり……」
少しだけ視線を泳がせてから、彼女は続ける。
「……城妻高校のテニス部の方、ですよね……?」
まさか。
彼女の方から声をかけてくるとは。
「あ、うん。そうだけど……。君は、従業員の……」
言いながら、修一は自分の声が微妙に上ずっているのに気づいた。
「はい。さっきも、食事のときにいましたよね。ジャージに高校の名前も書いてあったので、覚えちゃいました。
私、ゆかりって言います。えーっと…何さんですか?」
そう言って、にかっと笑った。
その笑顔は、夕食のときよりも近く、はっきりと見えた。
無邪気で、屈託がなくて──それなのに、どこか張り付いたような印象もある。
やはり、あれは気のせいではなかったのだ。
「あ、どうも…。僕、田沼っていいます。」
田沼さん。彼女が復唱する。
「わたし、今年中学生になったんですけど…部活、何も入ってなくて。」
言葉を選ぶように、一拍置いてから続ける。
「夏休み、すごく暇なんです。だから、こうやって、お父さんのお手伝いをしてて。
部活にちゃんと入って、毎日頑張ってる人たちを見ると……すごく、羨ましいなって思うんです」
ロビーの自販機が、低い唸り音を立てた。
修一は、何と返せばいいのか分からず、喉の奥で言葉を探した。
「……そうなんだ……」
結局、それしか出てこなかった。
「さっき……ちょっとだけ、城妻高校の人たちの会話、盗み聞いちゃったんですけど」
彼女は申し訳なさそうに眉を下げる。
「……もう、明日で帰っちゃうんですか?」
「あぁ、うん」
短く答えると、彼女は一瞬だけ黙り込んだ。
「……やっぱり、そうなんだ。ちょっと……寂しいな」
修一の胸が、わずかに跳ねる。
「……もし、よかったら」
彼女は顔を上げ、まっすぐこちらを見た。
「このあと、私の部屋に、寄っていきません?」
「……え?」
あまりにも唐突な誘いに、言葉が喉に引っかかる。
「私の部屋、この階の……あの廊下の先にあるんです」
指先で、廊下の奥を示す。
その先は照明が一段暗く、途中から闇に溶けているように見えた。
「じゃ、待ってますね」
それだけ言うと、彼女は振り返り、足早にロビーを後にした。
まるで、断られる可能性を、最初から考えていない口ぶりだった。
その背中が角を曲がって見えなくなっても、
修一はしばらく、その場から動けずにいた。
***
時計の針が、まもなく二十二時を指そうとしていた。
修一は一度部屋に戻り、布団の端に腰を下ろして、どうするべきかを考えていた。
誘ってきたのは彼女の方だ。
こんな機会、そうそうあるものじゃない。
だが、高校三年生の男子が、中学一年生の少女の部屋に行ったことが、もし知られたら。
他の部員に何を言われるかは、考えるまでもない。
きっと、一生笑い話にされる。
それでも、その不安を押し潰すように、胸の高鳴りが勝ってしまった。
「田沼、さっきからそわそわしてどうしたんだ?」
相部屋の部員に、落ち着かない様子を見抜かれたらしい。
「…いや、なんでもない。」
少しだけでいい。
数分話すだけでいい。
せめて、連絡先さえ交換できれば、それで十分だ。
「ちょっと外出て、涼んでくるわ」
そう言って立ち上がり、修一は最近ネットで購入した香水スプレーの瓶を浴衣の胸ポケットに忍ばせた。
彼女の部屋へと向かう廊下に出た瞬間、空気の温度が一段下がったように思えた。
照明は等間隔に設置されているはずなのに、なぜか光が途切れ途切れに感じられる。
幸いにも、少女の部屋の前にたどり着くまでに、他の部員とかち合うことはなかった。
ここまで来れば、大丈夫だ。
誰にも見られていない。
修一は胸元の香水スプレーを取り出し、扉の前でワンプッシュした。
こういう細かい香りにも、気を配っておくに越したことはない。大人の余裕ってやつだ。
扉をノックする。
指先が、わずかに震えている。
…情けない。
たかが中学一年生の少女の部屋に入るだけだというのに。
はーい、という呑気な声の後に、扉が開いた。
「来てくれたんですね、嬉しいです。さ、入ってください」
促されるままに一歩足を踏み入れた瞬間、修一は思わずえっ、と声を漏らした。
部屋の中には、もう一人、男がいた。
「あ、紹介しますね」
ゆかりは、何でもないことのように言う。
「こちら、真木さんです。萩尾高校の陸上部で、高校二年生らしいです。
それで、こちらは、田沼さん。城妻高校のテニス部です。」
確かに、別の学校の高校生も同じ宿に泊まっていることは知っていた。
だが、そこからも人を呼んでいるとは思っていなかった。
勝手に二人きりだと勘違いしていた修一は、落胆の色を隠せなかった。
そして、それは真木という男の方も同じらしかった。
真木からしても、自分の方こそ、二人きりの時間を邪魔してしまったよそ者に見えるだろう。
「あの、これはどういう…?」
「今日は、高校生のお兄さんたちから、部活動のお話をたくさん聞いてみたくて。
だから、誘っちゃいました。
お父さんには絶対内緒ですよ。ばれたら、怒られちゃうから」
悪びれもせず、そう言って笑う。
修一は状況を整理しようとした。
自分の思い上がりだったのかもしれない。
彼女は最初から、そんな意味で誘ったわけではなかったのかもしれない。
しかし、目が合い、微笑みかけて、声をかけてくれたのは事実だ───。
改めて部屋の中を見回した。
彼女一人で使うには、少し広すぎる部屋。
そして、すぐに視線を奪われた。
部屋の中にある、二つの黒い扉。
明らかに、この部屋の中でも異質な雰囲気を放っていた。
高さはおよそ一八〇センチ。
幅は五〇センチ程しかなく、妙に細長い。
両開きの扉で、表面は一面、黒く塗られている。
だが、ところどころ塗装が剝げ、下地の色が覗いていた。
その黒い扉が、部屋の角を挟むように、側面に一つずつ並んでいた。
「……あの」
何かを尋ねようとした、その瞬間。
「こっち、どうぞ」
ゆかりに手を引かれ、修一はそのまま座布団の上に座らされていた。
そこからは、他愛のない話が続いた。
何故、テニス部に入ろうと思ったのか。
普段、どんな練習をしているか。
顧問や、他の部員はどんな人たちなのか。
正直、退屈で苦痛な時間だった。
彼女に良く思われたくて多少脚色はしたが、
向かいに座る真木の視線が気になり、言葉が詰まる。
この状況では、軽々しく連絡先を聞くこともできない。
それなら、明日出発する直前に、どこかで隙を見て──
そんなことを考えていたとき、会話は突然、断ち切られた。
「ゆかり、部屋にいるのか?入るぞ───」
恐らく、父親だ。
「やばい、お父さんだ。どうしよう。」
彼女の顔に焦りが浮かぶ。
「ちょっと、隠れて。あそことあそこ、入れるから。」
彼女が指を指したのは────あの黒い扉だった。
「え、わざわざ隠れる必要ある?」
思わず口をついて出た。
「夜中に男子高校生二人が女子中学生の部屋で遊んでました、ってなったら、色々まずいでしょ。すぐに追い出すから、ちょっとだけ待ってて。」
有無を言わせない口調だった。
修一と真木は一瞬、互いに顔を見合わせ、
それぞれ無言で黒い扉に手をかけた。
扉の向こうは、人一人が立てるだけの空間だった。
肩をすぼめないと収まらない。
「入るぞ──」
父親の声が、もうすぐそこまで来ている。
修一は慌てて中に入り、内側から扉に手をかけ、そのまま引き寄せた。
ぎい、と木が擦れる音がして、
扉が閉じる。
その瞬間。
闇が、落ちた。
光は一切ない。暗闇が広がっている。
目を開いているのか閉じているのかも分からない。
そして、何よりも───狭い。
息を吐くと、すぐ壁に当たる。
思わず顔を引くと、今度は後頭部が、反対側の板に触れる。
奥行きは三〇センチほどしかない、
人ひとりが立てるだけの、ほぼ直方体の空間。
体を少しでも動かそうとすると、
胸、肩、頬、膝──どこかが必ず内側に触れる。
まるで、
「人間一人分」というサイズを、
寸分違わず測って作られた箱の中に押し込められているようだった。
閉所恐怖症の人間だったら、数秒で発狂するだろうな、と、
修一は妙に冷静な思考を浮かべた。
高校最後の合宿にまで来て、何をしているんだ俺は。
まぁ、少しでもしたら出られるだろう──
その考えが浮かんだ、直後だった。
かちゃり。
扉のすぐ先から、乾いた音がした。
…鍵を閉められた?
一瞬、意味が分からなかった。
いや、すぐに追い出すと言っていたはずだ。
随分と用心深い性格なのかもしれない。
とはいえ、わざわざ鍵まで閉める必要があるだろうか。
扉の外で、ほんの微かに話し声が聞こえる。
だが、内容までは聞き取れない。
しばらくして、
その声も途切れた。
完全な静寂が訪れる。
───しかし、一向に扉が開く気配がない。
待っても、待っても、
扉が開く気配がない。
…おかしい。
どれくらい時間が経っただろうか。
浴衣の下ポケットに手を伸ばし、そこで、はっとした。
何もない。
しまった。
スマホを座布団の近くに置いたままにしてしまった。
これでは、時間が分からない。
それより、スマホは見られていないだろうか?
もしかすると、父親にスマホを見られ、ばれてしまったのだろうか?
……いや、それなら、もうそれでいい。
むしろ、さっさと開けてくれるはずだ。
こんな狭いところに男子高校生が隠れてました、という甚だ滑稽な光景が広がることになるが。
───それでも、扉は開かない。
十五分?
体感だとそれぐらいだろうか。
だが、体感というものが、
もう信用できなくなりつつあった。
外からは、物音ひとつしない。
足音も、話し声も、
建物が軋む音すらない。
息が、少しずつ浅くなっていく。
明らかにおかしい。
流石に、この狭さで閉じ込められ続けていると、
胸の奥がざわついてくる。
修一は足に力を込め、右肩、左肩と交互に体をずらしながら、
出来る限り腕を折り曲げて、扉を押した。
びくりともしない。
もう一度、力を入れた。
正面を押す。
側面を探る。
やはり動かない。
木の感触が、やけに冷たい。
…一体、何をしているんだ。
早く、出してくれ。
喉まで言葉がせり上がる。
だが、外がどうなっているのか分からない以上、
声を出すのは躊躇われた。
スマホを置き忘れたのは痛恨だった。
せめてあれがあれば、時間も分かるし、誰かと連絡も取れたのに。
そのときだった。
暗闇の中で、修一はある感覚に襲われた。
──視線。
一つではない。
背後から。
すぐ近くから。
無数の「目」が、こちらを見ている。
いや、そんなはずがない。
すぐ後ろは壁だ。何もない。
それでも、
「見られている」という感覚だけが、肌に張り付いて消えない。
───じゅるり。
何かが、音を立てた気がした。
どこから?分からない。
何の音?分からない。
本当に聞こえた?分からない。
暗闇の中で、聴覚が異様に研ぎ澄まされていく。
存在しないはずの音まで、勝手に拾ってしまっているのかもしれない。
だが、研ぎ澄まされたのは、聴覚だけではなかった。
徐々に、闇に目が慣れてくる。
黒の中に、
わずかな濃淡が生まれる。
輪郭が、浮かび上がる。
そこで修一は、気づいてしまった。
自分の、目の前。
扉の、内側。
そこにあるものに。
──────数えきれないほどのひっかき傷。
縦に。
横に。
斜めに。
重なり合い、
掘り返すように、刻まれている。
視線を下げ、恐る恐る、扉の内側にそっと手を当ててみる。
ざらり、とした感触。
傷は、
ちょうど自分の両手が届く範囲に、集中していた。
背中を、冷たい汗が伝う。
……過去にも、誰かがここに閉じ込められていたのか。
そして、
ここから出ようとしたのか。
無数の傷が、その光景を容易に想像させる。
爪を立てて。
必死に。
何度も。何度も。
その光景が、
あまりにも鮮明に、脳裏に浮かんだ。
──外は、相変わらず静まり返っている。
閉じ込められてから、もう三十分は経っただろうか。
修一は、自分が正常な判断を失いつつあることを、
はっきりと自覚していた。
───そのとき。
男の叫び声が聞こえた。
気がした、ではない。
聞こえた。
はっきりと。扉の外から。
…真木か?
喉が、ひくりと鳴る。
何が起きた。
外で、何が。
今も、残響がかすかに耳に貼りついている。
断末魔。
そうとしか思えない声だった。
「おいっ、あけてくれっ」
もう、誰に見つかろうが関係ない。
声の限り叫んだ。
肩を、肘を、拳を。
全身を使って、暴れた。
───だが、再び静寂が訪れた。
まるで、最初から何もなかったかのように。
どうなった。
真木は。
体中の汗が滝のように噴き出していた。
「おいっ、あけろっていってるだろっ」
声が、裏返る。
───じゅるり。
叫び声に重なるように、
再び、あの音。
はっきりと、聞こえた。
これは、何の音だ。
……知っている。
聞き覚えが、ある。
こういう音がするとき。
じゅるり。
じゅるり。
じゅるり。
修一の頭に電流が走った。
───獣だ。
獣が、獲物を目の前にして。
舌なめずりをする音。
全部妄想だ。
そんなの分かっている。
分かっているのに。
もう、その情景から逃れられない。
俺は、喰われるのか。
さっきから、したたる汗とともに、体が濡れていく感覚がする。
これは───唾液?
足元も、心なしか柔らかくなっているようにも思える。
俺は────何かの舌の上に立っているのか?
修一は、気づけば扉をひっかいていた。
だしてくれ。
だしてくれ。
だしてくれ。
爪が、木に当たる。
削れる。
割れる。
痛みは、もう分からない。
顔は汗と涙でぐしゃぐしゃだった。
指先の感覚がない。
爪が剝がれているかもしれない。
血が出ているかもしれない。
どうでもいい。
暗い。
狭い。
息苦しい。
怖い。
死にたくない。
喰われたくない。
意識が、白く滲み始める。
「だれかぁっ」
これまでで一番大きな声を出した、その瞬間。
光が差し込んだ。
扉が開いたのだ。
修一は前のめりに倒れ込んだ。
あまりの眩しさに、視界が真っ白になる。
新鮮な空気を肺いっぱいに、吸い込む。
何度も、何度も。
ようやく視界が戻り、
修一は、ゆっくりと顔を上げた。
父親と、ゆかりが立っていた。
二人とも、顔色を失い、
ひどく怯えた表情をしている。
そして、
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
謝罪の言葉が、途切れることなく繰り返される。
修一自身ではなく─────
修一がついさっきまで閉じ込められていた、あの暗闇の奥に向かって。
二人は、ただそれだけを続けていた。
感情の抜け落ちた声で。
壊れた機械のように。
あの扉の内側に残る何かに向かって、
ただ、謝り続けていた。
もう一つの黒い扉は、既に開いていた。
だが、
そこにいるはずの真木の姿は、
どこにもない。
呼びかけることすら、できなかった。
修一は、床に手をつき、
這うようにして部屋の外へ出た。
指先を見る。
やはり、血まみれだった。
皮膚が裂け、
赤黒いものが、爪の間にこびりついている。
それでも───
一刻も早く、ここから離れたかった。
部屋を出る、その瞬間。
背後から。
低く、濁った声が、
確かに、聞こえた気がした。
────こんなまずいもの
────にどと、よこしてくんじゃねぇぞ
ぞくり、と背筋が粟立つ。
同時に、
胸元に、冷たい感触。
浴衣の内側で、
香水スプレーの瓶が、粉々に割れていた。
甘ったるい香りが、
遅れて鼻腔に広がる。
修一は、血だらけの指で、
ただひたすら、割れた瓶を握りしめた。
そうすることしか、できなかった。
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