撒く人

@kagerouss

第1話

庭にチューリップの球根を植えたのは、三月の終わりのことだった。

少し肌寒さの残る午後、私は手袋をはめて土を掘っていた。陽射しは柔らかく、花壇の隅では去年植えたスイセンが少しだけ顔を出していた。


球根をくれたのは、二軒隣の谷口さんだ。

 

「珍しい種類なの。とっても綺麗なのよ。是非今年も植えてほしいわ」


そう言って、紙袋の中からこっそりと取り出したのは、赤黒い色をした艶やかな球根だった。球根の形はチューリップそのものなのに、どこか肉質的というか……いやな言い方をすれば、生き物のような気味の悪い感触があった。


「ありがとう…ございます」


私は戸惑いながらもその球根を受け取った。

こんな見た目の植物、見たことがない。でも、これを咲かしてみたいという好奇心の方が勝ったのだ。


夫が亡くなってから三年。家の中は静かで、誰とも話さない日が続いていた。そんな静かな寂しい生活の中で、庭いじりだけが私の気持ちを繋ぎ止めていたのだ。花の芽が出て、育っていく様子を眺めるのは、まるで時間を撫でるように優しい。


「咲くのが楽しみね。咲いたらまた見に来るわね」


谷口さんはそう言って笑っていた。けれど、笑顔の奥にほんの少しだけ、ためらいのような影が見えたのを私は見逃さなかった。

 

「これ、名前はなんていうのかしら」


尋ねると、「えっと…忘れちゃった」と、曖昧に笑っていた。


私は庭の一番目立つところに球根を植えた。陽がよく当たる場所。そこならきっと、他の花に負けずに大きく育つだろう。

土をかぶせ、水をやる。最後に手を合わせるような気持ちで、私は静かに祈った。


「どうか、綺麗に咲いてね」


最初に芽が出たのは、植えてからわずか五日目のことだった。

ほかのチューリップはまだ土の中にじっとしているのに、それだけが我先にと突き上がるように伸びていた。青白い茎の先から、濃い緑の葉がのぞき、数日のうちにその存在は花壇の中でひときわ目立つものになった。


異様なほど成長が早かった。

朝に見て、夕方にまた水をあげにくると茎がもう一段高くなっている。そんなことが何日も続いた。

そんな通常では考えられないスピードで育つ花。不安と期待の間で揺れながらも、気がつけば、あの花ばかりを見つめていた。


やがて、それは咲いた。

他の花より一回り大きな花弁を広げ、赤黒い色合いが陽に照らされて鈍く光った。まるで濡れた血のような真っ赤な花だった。

チューリップにしては色が深すぎる。だが不思議なことに、私はそれを「怖い」と思う前に、「美しい」と感じていた。


そして、匂いもあった。

一般的なチューリップには匂いがないが、これは違った。ほんのり甘く、それでいてどこか鼻に引っかかるような…。そう、腐葉土を焦がしたような発酵した匂い。庭に出るたびにその香りが漂い、私は自然と深く息を吸い込んでいた。不思議とこの匂いを嗅ぐと心が落ち着くような気がした。


おかしなことが起きたのは、花が咲いた翌日だった。

朝、花の下に一羽のスズメが倒れていた。すぐそばに、真っ白な羽が数枚、風に舞っていた。

鳥にしてはきれいすぎる死に方だった。野良猫やカラスに狩られたわけでもない。苦しんだ様子もなく、ただ花の根元にうずくまっていた。


さらに、その日から室内で飼っている雑種犬のポチが庭に出たがらなくなった。

リードを引いても足を踏ん張り、花のある方には頑として近づこうとしなかった。仕方なく抱えて外に出ると、今度は私の腕の中で唸り声を上げた。

ポチがこんな風になるのは、初めてのことだった。散歩が好きでいつも催促してくるような子だったのに…。


私自身も、少しおかしかった。

花の前に立つと、何かが胸の奥にざわついて、気持ちが落ち着かなくなる。

けれど、目が離せなかった。美しい。恐ろしいほどに美しい花。

私はその日から、朝起きてまず最初にあの花を見にいくのが習慣になった。


あの花の横に植えていたチューリップの球根は目を出さなかった。毎年咲いていた球根も、新しく買ってきた球根も。掘り起こしてみると、すべて枯れてしまっていた。

土が悪かったのだろうか?それとも、誰かのいたずらか…病気だったのか…

私は答えが出ないまま、枯れた球根たちをそっと掘り起こし、庭で燃やした。

 

――これは、ただのチューリップじゃないんじゃないか…?


私は不安に駆られ、花の写真をスマホで撮って調べ始めることにした。

しかし、検索には一切ヒットしない。色や形で似た花はいくつもあるのに、これと完全に一致する花だけが、まるで存在を拒むように抜け落ちていた。


焦った私は翌日、古くからある園芸書専門の古書店に足を運んだ。

店主は痩せぎすの白髪交じりの老人で、私の見せた写真を一瞥すると、黙って店の奥に消えていった。


数分後、彼は埃をかぶった分厚い洋書を持って戻ってきた。

「これに載ってるかもしれませんよ」


古いイラストの中に、確かにあの花が描かれていた。

名前は――「ブラッド・ゴブレット(血の杯)」。


その花には毒があると書かれていた。

呼吸器系を麻痺させ、嗅いだ者は少しずつ自我を失っていく。中毒性があり、一度惹かれると離れられなくなる。

十九世紀のヨーロッパでは、この花が広まりすぎた村で原因不明の死者が続出し、焼却処分とともに種の取引を禁じる法が作られたという。


「これは、ただの観賞用じゃない……」


背筋が寒くなった。思わずページを閉じ、花の写真を削除し、その古書を購入した。

私は、恐怖と後悔の混じった息を吐きながら帰宅し、その足でスコップを取りにいった。


陽が傾きはじめた庭で、私は花を引き抜いた。手袋越しにぬめりが伝わる。

花の根はまるで筋肉のように絡みつき、引き抜いたとたん、マスク越しでもわかるほど、土の中から生臭い匂いが立ち上った。おかしい。こんな匂い、花壇の中からするわけがない。


それでも、全部やった。

花も茎も球根も、まとめて焼いた。ガスバーナーで炙ると、甘い香りと共に黒い煙が立ち昇った。


煙を見上げながら、私は心の中で何度も唱えた。


「これで……もう終わった。大丈夫」


そう…終わったと思っていた。

焼いてしまえば、それですべてが元に戻ると信じていた。

けれど、三日後の朝――私はあの花を、また見た。


玄関先の小さな鉢植えに、ひときわ鮮やかな赤黒い花が咲いていた。

自分で植えた記憶はない。鉢も見覚えのないものだった。誰かが置いたのだろうか。けれど、ポストに手紙はなく、防犯カメラも不審な影をとらえていなかった。


私はマスクをして花に近づき、息を止めてじっと見下ろした。

焼いたはずの球根。灰すら残さなかったはずのそれが、どうしてまたここに咲いているのか。

心臓が早鐘を打つ中、私はそのまま手で花をもぎ取った。そして袋に入れてゴミ箱へ放り込んだ。


しかし次の日、花はまた咲いていた。今度は裏庭に。

その次の日は、玄関前の花壇に。

私は抜き、潰し、焼き、また抜き、潰し、焼いた。なのに、あの花は何度でも戻ってくる。


ある日、ピンポンとチャイムが鳴った。ドアを開けると、若い女性が立っていた。

 

「すみません……この花、ネットで見たんですけど、ここに咲いてるって……」


手にはスマホ。そこには、私の庭の写真が映っていた。投稿した覚えなどない。なのに、花のアップ写真には私の家の表札がはっきり写っていた。写真はあの本屋で削除したのに…


「あなたが投稿されたんじゃないんですか?」


女性の無邪気な問いに、私は言葉を失った。


「いえ…これはあげられなくて…」


その後も、数日に一人ずつ――まるで順番を決めたかのように人がやって来た。

 

「これが見たかったんです」

「分けてもらえますか?」

「うちの子、チューリップが大好きで」


気がつけば、近所の庭にもあの赤黒い花が咲き始めていた。

谷口さんの家だけじゃない。隣の田中さんも、裏の吉川さんも。誰かが分け与えたのだろうか。私は違う。絶対に。


でも、ある夜ふと、思い出した。


夢の中で、私は球根を分けていた。笑いながら、何人もの人に手渡していた。


「珍しい種類なの。とっても綺麗なのよ。是非今年も植えてほしいわ」


私は、その言葉を誰かに言われたはずだった。けれど――それを、私自身が口にしていたような気もする。


おかしいのは、花だけではなかった。

私の記憶も、どこかあやふやになっていた。


たとえば、夫が亡くなった日のこと。

私は確かに病院にいたはずなのに、頭の中では庭の花が咲いている映像ばかりが繰り返される。

――あのとき、庭には何の花が咲いていた?

普通の赤いチューリップ? それとも、あの黒みがかった不吉な花?


その疑問を振り払うようにして、私は押し入れの奥から古い日記帳を取り出した。夫が亡くなる少し前、毎日こまめに書いていたはずの記録。数年ぶりに開いたそれには、ところどころに見覚えのない文章が紛れ込んでいた。


「赤い花が今年も咲いた」

「球根はうまく育った。次は田中さんに渡す」

「この花が増えるのは、喜ばしいこと」


私の字に似ている。でも、微妙に違う。

筆圧が強すぎたり、クセのない丸い字だったり――まるで誰かが“私のふり”をして書いたようだった。

私はそんな日記を書いた覚えはない。けれど、ページをめくる指が止まらなかった。


やがて、あるページの下に挟まれた封筒が見つかった。中には、一枚の古い写真が入っていた。

赤黒い花が咲く庭。その前に立って笑っているのは、私だった。

数年前のものらしい。記憶にはない。

だけど、写っている私は、両手にスコップと紙袋を抱えて、誰かに花を配っている。


誰に?


その顔はすべて、花の陰で見えなかった。

けれど私はその時、息を飲んだ。紙袋の中にあるもの――あれは球根。しかも、いくつも。


記憶が歪んでいく。

いや、私は“思い出さないようにしていただけ”なのか。

そもそも、私が初めてこの花を見たのは――いつ?


怖くなって、私はいつもお世話になっている園芸店へ向かった。

あの花が植えられた記憶を追いかけるように。

店主に写真を見せると、すぐに首をかしげた。


「……これ、去年もあなたからもらいましたよ」

「え?」

「珍しい球根を持ち込まれたんです。“これを扱ってほしい”って」


私はその言葉を否定できなかった。

ただ、うつむきながら微笑むしかなかった。

頭の中で、また花が咲く音がする。パチン、パチンと弾けるように。頭の芯がしびれて何も考えられなくなる。

土の中で、何かが動いている気配がした。


春の風が、庭の花をそよがせていた。

スイセンは枯れかけ、ビオラは色あせている。けれど、ただ一つ――赤黒いチューリップだけが、ひときわ艶やかに咲いていた。

焼いたはずの球根。掘り返したはずの土。

それなのに、今年もまた、咲いている。花壇を覆いつくすように。


私はスコップを手に、花に近づく。

しゃがみ込んで覗き込むと、花弁がこちらに向かって開くように揺れた。

まるであいさつをするかのように、微かに震えながら。

甘い香りがふっと鼻をかすめる。ああ、この香り。懐かしいようで、少しだけ苦しい。頭の奥がしびれる。

私はスコップを下ろし、ゆっくりと土を掘る。


球根が現れた。

濡れたように艶やかで、赤黒く、どこか肉ような…。

私はそれをそっと両手ですくい、新聞紙に包む。まるで大切な宝物を扱うように。


玄関のチャイムが鳴いた。

出てみると、通りがかった主婦が一人、花を見て微笑んでいた。

「SNSで見て…綺麗ですね。変わった色ですね」

「よろしければ、球根をお分けしましょうか?」

私は自然にそう言っていた。

「え? いいんですか?」

「はい。とても育てやすいんです」


紙袋に包んだ球根を手渡す。彼女は何度もお礼を言いながら去っていった。

私はその背中を、笑顔でゆっくりと見送った。


夕方、リビングのテーブルに置いてある日記帳を開いた。

最終ページに、見覚えのない文字が記されていた。


> 「今春も、順調に拡がりはじめた」


その筆跡が私のものかどうか、もう確かめる気にもならなかった。

その横に、小さな地図のようなものが描かれていた。この町内の地図だ。あちこちに赤い〇がつけてある。球根を渡した家だ。


私は微笑んだ。

外では風に吹かれて、花が揺れている。まるで「もっと」とせがんでいるように。

思えば、あの花を植えたのはいつだったろう。誰からもらったのか、どこで手に入れたのか、それすらもう思い出せない。

でも、いいのだ。咲いてくれれば、それで。


明日は町内会の集まりがある。

少し多めに、球根を用意しておこう。欲しいと言う人は、きっといる。

この花は人を選ばない。ただ、欲する人の手に、自然と落ちるのだ。


花が、自ら咲く場所を選んでいるだけ。

私は、ほんの少し手伝っているにすぎない。


だから怖がらないで。

あなたの庭にも、きっともうすぐ咲くから。


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