朝八時、自動販売機前、冬

不思議乃九

朝八時、自動販売機前、冬

駅前の交差点から一本入った路地の角に、自販機が立っている。

LEDの光が古びた筐体に反射し、その場だけが時間を停止させているように見えた。

目的は、いつもの無糖のホットコーヒーだ。


財布から一千円札を取り出す。

北里柴三郎の顔が印刷されたばかりの紙幣を、投入口に滑り込ませる。

すぐに、機械の奥から「ウィーン」という甲高い音と共に、紙幣は拒絶され戻ってきた。


自販機はまだ、新しい情報を認識するためのアップデートを拒否している。

この路地の小さな機械にさえ、国の時間の流れは追いついていない。


私は諦めて、財布の中の小銭をかき集める。

ジャラリと小銭を投入口に流し込むと、機械は何も言わずそれを受け入れた。

無糖のホットコーヒーのボタンを押す。


「ガコン」


鈍い音の後、缶を取り出し口から抜き取る。

掌に、不自然なほどの熱量が伝わった。

周囲の乾いた冷気とは明確に異なる、熱の主張。



II. 黄金比と熱源


私は缶を両手で包み、冷たい風に当たりながら立ち尽くす。

缶は、頬、口元、そして指先を、焦燥感なく温めていく。


   *


この缶に封じ込められた量は、一気に飲み干すのに過不足ない、

一回の生命維持活動の最小単位だ。


ペットボトルやボトル缶の、あの溢れるような大容量は、

私とは違う、継続的な活動を前提としているように見える。

しかし、今の時代、あれも欠かせないものになっている。


そもそも、缶コーヒーは、豆から丁寧に淹れたコーヒーとは別の山にあるものだ。

同じ「コーヒー」というレイヤーに属しながら、求められる機能が根本的に違う。

ラーメンとカップラーメンのようなものだ。

私はその両方を楽しんでいる。


   *


缶の熱は、手のひらから少しずつ冷気に奪われ、生ぬるさへと傾き始めている。

この温度の変化だけが、外に立っている間の時間の流れを教えてくれる。



III. 思考の外側と内側のノイズ


   *


人を殺すとすぐにバレる人がいる。

その人が、なぜかバレないように人を殺すミステリを書きたい。


なぜバレないか、それは真犯人が別にいるから。


この小説の構想は、缶コーヒーの味や温度とは、論理的には何の関係もなかった。

ただ、思考の静かな継続の中で、内側のノイズとして立ち現れる。


誰にも見つからない真犯人の存在だけが、

この冷たい朝の路地で、熱量を持った架空の事実として、

私の頭の中に居座る。


   *


缶の温度が、周囲の空気とほぼ同じになったのを感じる。

それは、思考の冷却期間が終了したサインだった。


私はプルタブに指をかけ、静かに押し上げる。

**「プシュ」**という、気体が抜ける音。


味わい方には、たしかになんの情緒もなかった。

缶を傾け、中身を一気に喉に流し込む。

舌の上で熱すぎることも、甘すぎることもない、均一な液体が、

最小化された熱量を胃に落とし込む。


空になった缶は、手のひらの上で軽い存在となり、冷たさだけを主張する。

私はそれを路地の隅にあるリサイクルボックスに投げ込む。


カラン、という、空き缶が静かな金属に当たって響く、

朝の唯一の音が、路地の冷たい空気を切り裂いた。


【了】


おまけ: 作中のアイデアから、

発想を飛躍させ形にした本格ミステリ短編

わたしはこういうプロセスで作品を産み出す。


観測者の死角


Ⅰ. 熱の残滓と血の停滞


三ヶ月で四件。すべて私が第一発見者だった。その事実は、私自身の存在の不確かさを示す、何らかの負の徴候のように思えた。


床に横たわる男。被害者、田所謙一。首の絞殺痕は、誰かがこの世界から一つのノイズを、過度に丁寧に取り除いたような潔癖な悪意の証拠に見えた。


部屋の空気は乾ききっていたが、男の体温の残滓だけが、微かな湿気となって床付近に停滞している。それは、消滅しきらない生の痕跡だった。


壁の血文字は「アナタガコロシタ」。乾燥した壁紙の上で血が時間を凝固させているようで、粘度のある液体の停滞が、この事件の背後にある構造的な不条理そのものを象っているように思えた。その整った文字形は、犯行の手際よりも、むしろ“意図の形”を示していて、私は目を逸らしたくなった。


背後で刑事の靴音が響く。その硬質な音には、事件に疲れ切った諦めの気配が宿っていた。それは、私が自分の人生に抱く感覚とよく似ていた。



Ⅱ. 視線の摩擦と腐敗の匂い


一週間前、新宿のカフェ。依頼人の女性が語る夫と田所謙一。その依頼は、どこにでも転がっている感情の過剰なノイズから始まった。私は、そのノイズを写真的ディテールとして記録するだけで、自意識を関わらせないという、探偵としての潔癖なルールを自分に課していた。


尾行を始めて三日目。新宿三丁目の雑踏。


私は、自分を追う別の視線を捉えた。ショーウィンドウのガラスが背後の人影を曖昧に反射し、私という観測者の存在を、さらに別の誰かが観測しているという奇妙な事実を突きつける。黒いコート。野球帽。それは確定を拒む気配で、視線の摩擦だけが悪意の形を描いていた。


田所のオフィスビル。エレベーターホールで待つ間、背後の影はふっと消える。自分の足音だけが無音を削るように響き、金属の冷たさが、私が“使われている”という予感を誇張した。



Ⅲ. 記録の執着と闇の浸食


五日目の夜。廃ビルの暗いフロア。


午後十時。田所のオフィスに明かりが灯り、吉岡大輔、そして三人目の女性が入る。


私は望遠レンズ越しにその光景を観察した。事実を確定させるという本来の職務は次第に後退し、見ることそのものが、私を世界に繋ぎ止める唯一の手段のように思えていた。


女性の顔がモニター上で写真的ディテールとして定着する。私は、その決定的な光を前にシャッターを切り続けた。一枚、二枚、三枚。記録する行為に依存することでしか、自分の輪郭を保てないかのようだった。


その瞬間、背後で足音が湿った空気を揺らした。


反射的に振り返る。誰もいない。使われていない事務所の埃の匂いだけが、今しがたの足音を否定するように押し寄せる。


廃ビルの廊下。階段を降りる。自分の足音に、ごく僅かに重なる別のリズム。私は、自分が誰かの物語に組み込まれているという不条理が、音の層の隙間から滲み出してくるのを感じた。



Ⅳ. 悪意の連鎖と電話の声


翌朝、田所は死んだ。壁の血文字は、私という観測者の存在が事件を形作ってしまうという業そのものを示しているようだった。


取調室で、私が提示するのは、事象の連鎖という名の停滞だ。刑事たちは“解決”という終点を求めるが、私はその終点に永遠に届かない諦念を静かに見つめていた。


釈放された夕暮れ。携帯が鳴る。非通知。


女の声。「もしもし」


その声だけが喧騒から切り離され、研ぎ澄まされた針のように鼓膜へ刺さった。


『お疲れ様でした。私たち、会ったことがありますよ。田所さんのオフィスで』


私は、自分が悪意の連鎖の一部に組み込まれていたことを初めて理解した。


「あなたが……」


『そう。私が田所さんを殺しました』


『でも、誰も私を疑わない。なぜだと思います? あなたがいるから』


その論理は、驚くほど正確だった。観測者として存在する私が、犯人のアリバイとして機能してしまう。それは世界の構造的な不条理そのもので、私自身の孤独な自意識を嘲笑うようでもあった。


『柏木さん。あなたは優秀な探偵ですね。だから、いつも真っ先に現場に着く。いつも第一発見者になる。そして、いつも疑われる』


“いつも疑われる”。その言葉が心臓の奥底に沈んだまま動かなくなり、私の存在の不確かさを突きつけた。



Ⅴ. 双子の真実と観測の無力


翌朝、吉岡美咲の自宅マンション。


「私の、妹です。双子の」


その存在は、私の自意識の曖昧さを極限にまで押し広げた。私という存在が、最初から“どちらにも寄らない観測者”でしかなかったのではないかと感じさせる。


ドアが開く。もう一人の美咲が入ってくる。


双子が並んでこちらを見る。その間に流れる、私だけが入り込めない粘度の高い沈黙。完璧な相互理解が、私という観測装置を拒む壁のようだった。


「どちらが依頼人で、どちらが犯人か」


「私たちは、両方よ」


私は後ずさり、壁に背中をぶつける。


思い浮かべた写真のデータは、双子の言葉によって真実性が薄められ、判定不能な像へ変質していく。


そしてふと、日常で誰も来ないという、どうしようもない無関心が私を包んだ。解決は来ない。つまり私はこの世界に求められていない。そんな寂寞が胸に沈んだ。



Ⅵ. 観測の業と音の持続


双子は、私がまばたきした一瞬の隙に部屋から消えていた。


手元に残されたのは、真実性を失った写真データと、部屋に満ちた無関心の空気だけ。


窓の外の夕暮れを見下ろす。もはや視線の気配は感じない。それは悪意の連鎖から一時的に解放されたような、奇妙な安堵だった。


観測すれば、何かが確定する。誰かが犯人になり、誰かが被害者になる。観測者の視線が、この低気圧のような曖昧な世界を仮に定着させる。


それは、探偵という業。そして、この不条理な世界で私という装置が生きるための、唯一の冷たい機能だった。


歩き続ける。


遠くの通りで、換気扇の音が沈黙の残響を上書きするように低く回りはじめた。その音は、解決されない事件の余韻をかき消し、私の孤独な日常が、何事もなかったように続いていくことを告げていた。


【了】

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