第15話:光の受容と、解けない魔法
視点:天野 奏多
朝、目が覚めて一番にすることは、自分の首筋に触れることだ。
指先が微かな熱を帯びた箇所に触れると、昨夜の記憶が濁流のように脳内を駆け巡る。
旧校舎の屋上。冷たく冴え渡った満月の光。藤堂くんの毒蛇のような囁きと、それに抗うように俺を壊れるほど抱きしめた、暁人くんの腕の強さ。
『お前が俺を憎んで死んだというなら、今世はその記憶ごと、俺が塗り潰してやる』
耳元で響いた、あの低くて、切実な声。狂気すら孕んだあの独占の宣言は、普通の人なら逃げ出したくなるような重さだったのかもしれない。
でも、俺は違った。 暁人くんの唇が触れた場所が今も熱い。その熱は「お前は俺のものだ」という消えない刻印のように、俺の魂を芯から温めてくれている。
「……鏡、見るの恥ずかしいな」
洗面台の前で、俺は首元の詰まったシャツの襟を正した。鏡に映る俺の顔は、自分でも驚くほど穏やかだった。藤堂くんは言った。
前世の俺は暁人くんに裏切られたと思って死んだのだと。もしそれが本当だったとしても、今の俺には関係ない。昨日、俺を抱きしめて泣きそうな声で愛を叫んでいた暁人くん。あの体温以上に信じられるものなんて、この世界のどこにもないから。
学校に着くと、暁人くんはすでに校門の前で待っていた。制服を完璧に着こなし、凛とした佇まいで立つ彼は、昨夜の取り乱した様子など微塵も感じさせない「完璧な優等生」に戻っているように見える。
けれど……。
「暁人くん、おはよ……っ」
俺が駆け寄るより先に、暁人くんは数歩で間合いを詰め、俺の手を力強く握りしめた。いつもの「エスコート」とは違う。指を深く絡め、骨が軋むほど強く。
「……おはよう、奏多。よく眠れたか」
「うん。暁人くんは? ちゃんと休めた?」
「お前のことを考えていたら、夜が明けていた」
真顔でさらりと言ってのける 暁人くんの瞳は、いつも以上に俺を逃さないという強い光を宿していた。
校門をくぐる間も、下駄箱で靴を履き替える間も、彼は俺の手を離そうとしない。それどころか、わざと俺の体に自分の肩を密着させて歩く。
「あの、暁人くん……みんな見てるよ」
「見ていればいい。俺がお前を愛していることも、お前が俺のものだということも、周知の事実だ」
暁人くんの声は静かだが、逆らうことを許さない重圧があった。教室に入っても、その「溺愛」は加速する一方だった。
俺が席に座ると、彼は自分の椅子を俺の机に極限まで寄せた。俺がノートを取ろうとしてペンケースを開ければ、彼は隣から「俺が選ぶ」と言って、俺の手に一本のシャーペンを握らせる。
「……あ、ありがとう」
「お前は勉強だけに集中していればいい。それ以外の雑事はすべて俺がやる」
まるで王様に仕える従者のようでありながら、その実、俺の行動すべてを自分の管理下に置こうとする、甘い檻。休み時間、隣のクラスの男子が「天野、ノート貸してくんね?」と話しかけてきた瞬間、暁人くんの空気が一変した。
彼は音もなく立ち上がり、その男子と俺の間に割って入った。
「天野は今、忙しい。ノートなら俺が取ったものを貸してやろう。ただし、二度と彼に気安く触れようとするな」
「えっ、いや、触れてねーし……。わ、分かったよ、ごめん」
暁人くんが放つ、剣客のような凄まじい威圧感に、男子生徒は引きつった顔で逃げ出していった。
教室中が「また始まったよ……」という呆れと「関わらないでおこう」という畏怖の混ざった視線を向けてくる。
「暁人くん、今の人はただノートを……」
「奏多」
暁人くんが、俺の言葉を遮って、俺の頬を両手で包み込んだ。大きな、熱い掌。彼の瞳が、俺の視界のすべてを奪う。
「お前に触れていいのは、俺だけだ。お前を助けていいのも、お前を笑わせていいのも、俺だけでいい」
「……暁人くん」
「お前の世界のすべてを、俺で埋め尽くすと誓った。……嫌か?」
俺を見つめる彼の瞳の奥に、ほんのわずかな、けれど鋭い「飢え」が見えた。藤堂くんの毒が、彼を焦らせている。
俺がいつか自分を拒絶するのではないかという、前世から続く根源的な恐怖。
俺は、頬にある彼の手の上に、自分の手を重ねた。そして、彼にしか聞こえないような小さな声で、けれどはっきりと告げる。
「嫌じゃないよ。……俺も、暁人くんだけを見ていたい」
その瞬間、暁人くんの瞳が蕩けたように潤んだ。彼は満足そうに目を細め、俺の額に自分の額をそっと押し当てた。
教室の真ん中で、こんなに親密なことをされて、心臓が爆発しそうになる。でも、それ以上に、俺が答えるたびに暁人くんの心が救われていくのが分かって、俺はもっと彼に甘えてほしくなるんだ。
昼休み。暁人くんは「食堂は落ち着かない」と言って、今日も手作りのお弁当を用意してくれていた。校舎の裏手、古い桜の木の下にあるベンチ。ここはあまり人が来ない、俺たちの「聖域」だ。
「今日は、お前の好きな卵焼きを多めに入れた」
「わあ、美味しそう。暁人くん、本当にお料理上手だね」
俺がお箸を手に取ると、暁人くんは当然のように、自分の箸で卵焼きを摘み上げ、俺の口元に運んできた。
「……お、俺、自分で食べれるよ?」
「俺が食べさせたいんだ。……ほら」
逃げ場なんてない。俺は赤くなりながらも、彼の差し出すお弁当を「あーん」で受け取った。甘い出汁の味。暁人くんの愛情そのものみたいな味がして、鼻の奥がつんとする。
「ねえ、暁人くん」
「なんだ」
「藤堂くんのことなんだけど……」
名前を出した瞬間、暁人くんの眉間に深い皺が寄った。俺は慌てて、彼の手を握った。
「違うの、心配しないで。俺、藤堂くんが言ってたこと、1つも信じてないから。暁人くんが俺を裏切るなんて、絶対にありえないもん」
「……奏多」
「もし前世で悲しいことがあったとしても、それはきっと、誰かが嘘をついたんだよ。俺は知ってる。暁人くんは、世界で一番……俺を大切にしてくれる人だって」
暁人くんは、箸を置き、俺を抱き寄せて自分の肩に頭を乗せさせた。大きな背中から、彼の動揺と、それ以上の深い愛が伝わってくる。
「お前は……どうして、そんなに強いんだ」
「強くないよ。暁人くんが、俺をそうさせてくれるんだよ」
俺は、彼の胸元に顔を埋めた。暁人くんの制服からは、いつも微かに、落ち着くお香のような匂いがする。彼は俺を「守る」と言ってくれる。
でも、俺だって暁人くんを守りたい。彼の心に巣食う、あの満月の夜の悪夢を、俺の言葉と熱で1つずつ消してあげたいんだ。
「暁人くんが俺を『塗り潰したい』って言うなら、俺、何度でも染まってあげる。暁人くんの色以外、何もいらないよ。……だから、もう不安にならないで」
俺がそう言うと、暁人くんは腕の力を強めた。骨が折れるかと思うほどの抱擁。でも、それが心地よい。
俺たちは、桜の木の下で、しばらくの間、ただ互いの存在を確かめ合うように寄り添い続けた。
放課後。暁人くんは剣道部の練習があるはずなのに、「今日は休む」と言って、俺を部室棟の裏に連れて行った。
「練習、いいの? 暁人くん、部長なのに」
「今は、お前と一秒でも長く一緒にいることの方が重要だ。……それに、お前を一人で帰すなど、到底考えられん」
暁人くんは、俺を壁際に追い込むようにして、自分の両腕の中に閉じ込めた。オレンジ色の夕陽が、彼の黒髪を赤く染めている。
「奏多、名前を呼んでくれ」
「……え、さっきも呼んだよ?」
「足りない。何度でも呼べ。俺の存在を、お前の声で繋ぎ止めてくれ」
彼の瞳は、熱に浮かされているように潤んでいた。俺は、少し背伸びをして、彼の耳元で囁いた。
「暁人くん……暁人くん、大好きだよ」
その瞬間、暁人くんの呼吸が止まった。彼は俺の腰を引き寄せ、逃げ場のないほど情熱的に唇を重ねてきた。
「んっ、ぁ……」
昨夜の激しい口付けとは違う。もっと深くて、重くて、俺の魂の奥まで探り当てるような、長い長いキス。
彼の舌が俺の口内を愛撫するたびに、頭の中が真っ白になって、立っていられなくなる。
「あ……きと、くん……」
唇が離れると、細い銀の糸が引いた。暁人くんは、俺の首筋に顔を埋め、熱い吐息を吹きかける。
「……解けない魔法があればいいのに、と思う。お前をこの腕の中に、永遠に縛り付けておけるような、残酷で甘い魔法が」
「魔法なんてなくても、俺はどこにも行かないよ」
俺は、彼の広い背中に腕を回し、ぎゅっと抱きしめ返した。暁人くんは、俺がいなければ壊れてしまうかもしれない。
でも、俺もまた、暁人くんがいなければ、自分という存在を見失ってしまうだろう。
これは「支配」なんて言葉じゃ足りない。もっともっと深くて、逃れられない、運命という名の執着。
「……帰ろうか、暁人くん」
「ああ。……一歩も離れるなよ」
俺たちは、夕暮れの廊下を、手を繋いで歩き出した。影が2つ、長く伸びて、1つに重なり合う。その様子を見守っている視線があることに、俺も暁人くんも気づいていた。
校門を出る時、暁人くんがふと、背後を鋭い目で見据えた。そこには、誰もいないはずなのに。
「……暁人くん?」
「いや。なんでもない。……行こう」
暁人くんは、俺の肩を抱き寄せ、さらに自分の方へと引き寄せた。彼のジャケットの裾を、俺はぎゅっと掴み返した。
藤堂くんの気配。あの不気味な蛇の影は、まだ消えていない。けれど、今の俺はもう怖くない。
暁人くんが俺を愛してくれるなら。そして、俺が暁人くんを愛し続けるなら。どんな過去も、どんな真実も、俺たちを引き離すことはできない。
俺は、繋いだ手のひらに力を込めた。暁人くんの魔法は、もう、俺の中に完全にかかっているから。
【BL】星々煌めきの間に 藤宮美鈴 @MISUZU1022
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