ビー玉――小ピットの少年時代

霧原ミハウ(Mironow)

ビー玉――小ピットの少年時代

ビー玉

 バースの空気は、ぬるい湯気を含んだようにやわらかかった。

 円形に並ぶ家々が石の輪をつくり、その一角、サーカス通りの家の窓辺に、七つか八つのウィリアム・ピットが顔をくっつけていた。

 今日も一日の時間割はきっちり詰まっている。

 朝はラテン語、昼前に歴史、午後は算術と書き取り。散歩の時間さえ、家庭教師が砂時計で計っていた。

 「よくできた息子たちだ」

 父チャタム伯は満足げにそう言う。

 その言葉が、自分のどこを指しているのか、ウィリアムにはまだよくわからない。暗唱の速さか、字のきれいさか、それとも間違えたときにすぐ言い直す従順さか。

 けれど、その日だけは、時間割のなかに「遊ぶ」が一行、書き加えられた。

 父の知人ホーア氏の子どもたちが、屋敷に遊びに来ることになったのだ。

 *

 ホーア兄弟がやってくると、サーカス通りの家の空気はたしかに変わった。

 いつも静かな廊下が、走る足音と笑い声で満たされる。居間の絨毯の上には、色とりどりのビー玉がこぼれ、少年たちが膝をつき、夢中で遊び始めた。

 「こう並べて……ここから弾くんだ」

 「当たったら、もらっていいの?」

 ビー玉が絨毯を転がるたび、窓から差す光を飲み込んで、青や緑の細い筋が、ちかりと瞬いた。

 ウィリアムは最初、その輪の外側に立っていた。

 いきなり飛び込むのではなく、ゲームの手順とルールを眺めてから入るのが、彼のいつものやり方だ。どうすれば勝てるか、どこに弱点があるかを、先に見抜こうとする。

 「そこの角度じゃ、当たらない」

 口が勝手に動いた。

 ホーア兄弟のひとりが、弾く寸前の指を止めて、振り向く。

 「え?」

 「見ればわかるだろう? 線に対してずれている。もっとこう──」

 ウィリアムは膝をつき、相手の指を少し持ち上げてみせた。筋道の通った説明だった。

 しかし、少年の顔はぱっと明るくなる代わりに、すこし曇った。

 「じゃあ、君がやればいいだろ」

 「いや、今の手番は君の番だ。間違っていることを指摘しただけだよ」

 さらりと返したつもりだったが、その言い方が、ほんの少し刺を含んでいることに、ウィリアム自身は気づいていなかった。

 「ビリー、言い方を考えなさい」

 背後から、家庭教師がやわらかく注意した。

 彼は最近、この「言い方を考えなさい」という言葉を、日に何度も口にしている。

 「どこがいけなかったの?」

 ウィリアムは振り向きもせずに訊き返す。

 「正しいことでも、言い方を間違えると──」

 「事実を言っただけだよ」

 家庭教師の説明は、最後まで届かない。彼の頭は速すぎて、言葉はいつも、諭しより先に走ってしまうのだ。

 兄ジョンが、少し離れたところで腕を組んでいる。

 三つ年上の兄は、弟が皮肉を飛ばす一秒前に、空気の変化を感じ取る特技があった。

 「ビリー、今のはやめておけって言ったろ」

 「どこが? 間違ってたかい?」

 兄が言葉を探しているあいだに、ウィリアムの口はさらに滑らかになる。

 「さっきだってそうだ。君の手は確率が低すぎる。算術的に見ても──」

 「そういう話をしてるんじゃない!」

 言い負かされたジョンの拳が、ぽかりとウィリアムの肩に落ちた。

 次の瞬間には、二人は取っ組み合って転げ回っている。

 家庭教師が慌てて割って入り、ホーア兄弟は口をあんぐりと開けながら、その光景を眺めていた。

 そんな小競り合いは、サーカス通りの日常の一部でもあった。

 *

 それでも、その日はいつもより少し激しかった。

 ビー玉遊びは、口げんかから肩の小突き合いへ、そして小突き合いから、「もう一緒に遊びたくない!」という叫びへと変わっていった。

 「ウィリアム、こちらの部屋で頭を冷やしなさい」

 とうとう、家庭教師はそう宣告した。

 ホーア兄弟の顔には、怒りと少しの怖れが混ざっていた。彼らは、この年齢にして、すでにウィリアムの早口の皮肉を「やっかいなもの」と理解し始めていたのだ。

 扉が閉まる。

 静かな部屋。

 壁には地図、机の上には並べられた羽ペンと本。ふだん、ラテン語の格変化や歴史の年代を暗唱させられる空間だった。

 ウィリアムは、しばらくそこに立ち尽くしていた。

 頬の内側を噛みながら、胸の中で言葉が渦を巻く。

 ――どうして僕が悪いみたいになるんだ? ただ正しいことを言っただけなのに。

 さっきのホーア兄弟の手は、誰が見てもひどい狙い方だった。

 結果もよくなかった。

 それを「違う」と言って何が悪いのか。ウィリアムには、まだうまく飲み込めない。

 家庭教師は「言葉の刃をしまいなさい」と言うが、その刃をしまう柄がどこにあるのか、彼はまだ知らなかった。

 兄ジョンに「そんなこと言うな」と言われれば言われるほど、余計に口が動いてしまう。

 口で勝てば兄の拳骨が飛んでくる。

 取っ組み合いになり、最後は大人が止めに入る。

 それでも、ウィリアムは怖くない。兄も、友達も、ホーア兄弟も。

 ──怖いのは父上だけだ。

 稲妻のような眼差しをしたチャタム伯が本気で叱るとき、ウィリアムは、いつもの皮肉を一言も言えなくなる。

 喉がきゅっと詰まり、涙が先に出る。

 けれど今日は、父はいなかった。

 彼の怒りを制するものは、どこにもいなかった。

 笑い声が、扉の向こうから聞こえてくる。

 ビー玉の弾ける小さな音と、はしゃぐ声。

 さっきまで一緒にいた遊び場から、自分だけが切り離されている──

 その事実が、遅れて胸に刺さってきた。

 じわじわと熱くなるその痛みは、泣くほどではない。

 だが、何もしないで飲み込むには、少しばかり重すぎた。

 ウィリアムは、机の引き出しに目をやった。

 算術の説明のために家庭教師が使う、大きなビー玉がそこにしまわれていることを、彼は知っていた。

 引き出しを開ける。

 掌ほどもあるガラス玉が、二つ、三つ、暗い木の箱の中で光っていた。普通のビー玉よりひと回り大きく、重く、内側にはとろりとした光の筋が閉じ込められている。

 ひとつを掌に乗せると、その冷たさと重さが肌を通してじかに伝わってきた。

 覗き込めば、自分の顔がゆがんだ世界の中に小さく映っている。

 胸のなかで、さっきの言葉がもう一度反響する。

 ――どうして僕が悪いみたいになるんだ?

 ビー玉を握りしめる指に、自然と力がこもった。

 *

 扉を開けると、居間にはさっきと同じ光景が広がっていた。

 絨毯の上に引かれた線。

 その中に、ずらりと並んだビー玉。

 輪の中心に、青や緑の小さな玉が詰まっている。

 「ビリーはまだ頭を冷やしてる時間だよ」

 誰かが言う。

 「そうだそうだ、今は僕らの番だ」

 笑い声。

 ウィリアムは、一歩、二歩と絨毯の上を進んだ。

 手の中の大きなビー玉が、掌で重く転がる。

 「何を──」

 家庭教師の声が後ろから飛んできたが、その終わりを聞く前に、ウィリアムの身体はもう動いていた。

 片膝を絨毯につき、腕をしならせる。

 射程と角度を一瞬で計算し、ありったけの力をこめて、巨大なビー玉を前方へ弾き出した。

 ごつり、と、普通のビー玉とは違う、低く鈍い音がした。

 次の瞬間、輪の中のビー玉たちが、一斉に跳ね上がる。

 青も、緑も、透明な玉も、列を保つこともできず、あちこちへ飛び散った。

 椅子の下へ、テーブルの脚の陰へ、スカートの裾の向こうへ。

 床に小さな星がばらまかれたようだった。

 短い沈黙。

 それから、いっせいに声が上がった。

 「何するんだよ!」

 「僕のビー玉だぞ!」

 「ウィリアム!」

 怒りに満ちた叫びと、驚きの声と、泣きそうな抗議が、居間の空気を乱打した。

 家庭教師が駆け寄り、乱れたビー玉を踏むまいとぎこちない歩き方でウィリアムの腕をつかむ。

 「ウィリアム・ピット!」

 彼がフルネームで呼ばれるとき、それはたいてい、一番ひどい叱責の前触れだった。

 そのあとウィリアムが泣いたかどうか。

 しぶしぶ謝ったのか、それとも最後まで唇を尖らせていたのか。

 そのあたりを、はっきりと書き残した者はいない。

 ただ、この日の出来事は、後年ある画家の手帳に、こんなふうに記されることになる。

 ──若きピット、巨大なビー玉をもって敵陣を砲撃し、見事粉砕す。

 幼いころから、言葉とビー玉の両方で「撃ちすぎる」癖があったことを、暗に示すような書きぶりだった。

 *

 それから数年のうちに、ウィリアムは変わっていった。

 十歳を過ぎるころには、皮肉を口にする前に一瞬だけ言葉を飲み込む間合いを覚え、相手の顔色を読むこともできるようになった。

 負けず嫌いな火種は消えなかったが、それを正面からぶつけるより、冷たい理性の手袋で包み込むことを覚えた。

 その手袋は、やがて議会という戦場で、誰よりも鋭い武器となる。

 十四歳でケンブリッジに入学したとき、彼の体はまだ、周りの少年たちよりも小さかった。

 しかし、多くの人が証言している。

 精神の上では、彼はすでに大人の列に、しっかりと足をかけていた、と。

 それでも──

 バースのサーカス通りを覚えている者たちは、こっそりとこう付け加えた。

 「首相になったピットも、ビー玉を散らかしたビリーのままだったよ」と。

 世界を動かす男も、最初はただ、ビー玉遊びで怒り、笑い、泣き、巨大な一発をぶちかました少年に過ぎなかったのだ、と。

(了)

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ビー玉――小ピットの少年時代 霧原ミハウ(Mironow) @mironow

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