嘘をつくと、僕は消える

不思議乃九

嘘をつくと、僕は消える


僕の体には、ちょっとした欠陥があった。それは、嘘をつくと体が透明になることだ。


「今日の数学の宿題、やってきた?」


昼休み、クラスの中心にいる女子が僕に尋ねた。彼女の瞳は好奇心に満ちている。


「……あ、うん、もちろん。昨日夜遅くまでやってたから、ちゃんと終わらせたよ」


答えた瞬間、手に持っていたシャーペンの芯が、僕の体を通してわずかに透けて見えた。誰にも気づかれないよう、僕は慌てて手を机の下に隠す。


幸い、教室の誰も気づかなかった。誰も――と言いたいところだが、隣の席に座る桜庭雫だけは違った。


雫はいつも、どこか遠くを見ているような静かな表情で座っている。今日は窓の外ではなく、僕の手元をぼんやりと見ていた。僕が手を引っ込めると、彼女は小さく微笑んだ。それは責めるでもなく、ただ「知っているよ」と告げるような微笑みだった。


放課後、人目を避けて旧校舎の屋上に逃げ込んだ僕を、雫は迷いなく追ってきた。まるで、そこが僕の隠れ場所だと知っていたかのように。


「志水くんは、どうしてあんな嘘をついたの?」


天気の話でもするみたいに、雫は穏やかに尋ねた。


「嘘なんか……ついてない」


そう言った途端、足先がコンクリートと溶け合い始める。つま先が透けて、自分が立っている感覚すら曖昧になった。


「嘘だよ」


雫は僕の目をまっすぐ見て言った。


「数学が苦手で、宿題に手をつけてない。本当は、誰にも期待されたくないから、無難な嘘を選んでるんでしょ?」


その言葉は、僕の胸の奥に沈殿していた孤独を、そのまま言葉にしたみたいだった。体が半分ほど透明になるのを感じたとき、雫はそっと僕の手の甲に触れた。


「ねえ、志水くん。嘘を見抜く才能を持つ私に、君の秘密を教えてくれない?」


冷たいはずの体の、その場所だけが熱を持ったように感じられた。彼女の視線は、嘘を隠す僕ではなく、透明な魂そのものを見つめている気がした。


深呼吸をする。肺に空気が入る感触が、まだ僕がここにいることを教えてくれる。


「……僕の秘密は、知っての通りだよ。嘘をつくと体が透明になる。比喩じゃなくて、本当に。小さい頃からずっとそうだった」


言葉にするたび、体はさらに淡くなり、背景と溶けていく。


「だから、人と深く関わるのが怖い。関われば関わるほど、嘘をついてしまうから」


それでも雫は手を離さなかった。存在が薄れていく僕を、確かにそこにいるものとして扱うように。


「ありがとう、志水くん。教えてくれて」


驚きも嫌悪もなく、ただ感謝だけがあった。


「でも、本当に怖いのは透明になることじゃないでしょ?」


屋上を冷たい風が吹き抜ける。


「嘘をついて見えなくなることより、本当の自分を見抜かれて、この世界から拒絶されることのほうが、ずっと怖いんでしょ?」


その一言で、僕の最も隠したかったものが暴かれた。涙がこぼれる。でも不思議と、涙は透明にならなかった。


「……うん」


「どうして君は平気なの? 僕が透けてるのに、どうして手を離さないの?」


雫は少しだけ悲しそうに笑った。


「私はね、人の嘘を見抜ける。でもそれは、その人が本当は何を望んでいるかを感じ取ってしまうってことなの」


夕焼けが屋上を染めていく。


「みんな、望みを隠すために嘘を重ねて、自分自身を見えなくしていく。でも志水くんは違う。嘘をつくと、本当に透明になる」


「つまりそれは、君の体が、心の正直さを測る世界で一番正確な秤だってこと」


雫は僕の透けた手に、そっとキスをした。


「私は、君の透けた体を通して、君が本当に望む世界を見てる」


気づけば体は、少しずつ色を取り戻していた。彼女の話をもっと聞きたいと、嘘偽りなく願ったからだ。


夕焼けの中、僕の体はほとんど元に戻っていた。でも心だけは、彼女の前では透明でいたいと思った。


嘘をついて消えるのではなく、嘘をつかずに存在したい。


僕は彼女の手を握り返し、言った。


「桜庭さん。僕は……明日、君の隣で、君に見える僕でいたい」

僕は、彼女の手を握り返し、言った。

「桜庭さん。僕は……明日、君の隣で、君に見える僕でいたい」


雫は、何も答えなかった。

ただ、僕の手を握る力を、少し強めただけだった。


沈黙が、屋上に満ちる。

それは決して重い沈黙ではなく、僕たちの間に生まれた、新しい透明な空気だった。


しばらくして、雫はふと笑った。

それは、僕がこれまで見た彼女のどの微笑みよりも、等身大の、普通の女子高生の笑い方だった。


「志水くん。明日だけじゃなくて、明後日も、その次の日も、ずっとそうしたらいいよ」


彼女はそう言うと、僕の透けていない、確かな手のひらを、自分の頬に寄せた。


「嘘つきは嫌いじゃないわ。でも、志水くんの嘘のない透明な心は、もっと好き」


僕は、何も言えなかった。

ただ、彼女の頬の温もりを、ありのまま感じていた。


僕は、嘘をつくたびに消えてしまう体と、嘘をつくたびに自分を見失っていく心が、ずっと嫌いだった。

でも彼女は、そんな僕の「欠陥」を、世界で一番正確な**「正直さの秤」**だと言ってくれた。


僕たちは、屋上の柵にもたれて、完全に日が沈むのを見ていた。


この秘密の屋上を降りて、教室に戻れば、また誰かに挨拶をするだろう。

無難な返事をするだろう。

小さな嘘を、きっとまたつく。


そのたびに、僕の体は、わずかに透けるかもしれない。


だけどもう、僕は怖くない。

僕には、僕の透明な部分を見つめてくれる雫がいる。


彼女は、嘘を見抜く才能を持つが故に、世界から一歩引いて生きてきた。

僕は、嘘で消えてしまうが故に、誰とも深く関われなかった。

僕たちは、世界から拒否された者同士だった。


でも、僕たちがたった一つ、誰にも言えない秘密を共有したことで、

この屋上の小さな世界だけは、**「嘘のない、確かな現実」**になった。


もしも、僕が全身透明になって、この世界から本当に消えてしまったとしても、

僕の心臓の音だけは、きっと雫に聞こえるだろう。


そして、その心臓が、彼女を愛しているという嘘偽りのない鼓動を打つ限り、

僕は彼女の世界の中に、確かに存在できる。


僕たちは、屋上を降りる。


雫は、僕の隣を歩きながら、ふいに言った。


「ねえ、志水くん。今、私に嘘ついてみてよ」


「……え?」


「いいから。なんでもいいよ。

 たとえば、『君のこと、別に好きじゃない』とか」


僕は立ち止まり、彼女を振り返った。

そして、笑う。


「嘘はつけないよ、雫。

 僕の秤が、君を好きだって言ってるんだから」


僕の体は、透けるどころか、

夕焼けの残光を浴びて、じんわりと温かく輝いていた。


【了】

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