Between Lines (≠BL)

百年真

Between Lines (≠BL)

駅前の大型書店の入り口の脇に、『今話題の「ザ・メカニカル」再入荷』という看板が出ていた。


「あったー、これ! これ欲しかったの。ずっと売り切れだったんだよ」

「え、何それ。何の本?」

「前にTikTokでバズってたやつだよ。知らない? なんか機械のイラストの本で、歯車とか滑車とかそういうシリーズがあるんだよね。この前ケントに見せてもらったんだけど、意味不明にずっと見てられるの」

「うける。なんかめちゃくちゃシュール」

「ヤバいよね。よくわかんないけど、機械が少しずつ動いていくのが瞑想に近いって、マインドフルネス界隈で発見されたらしいよ。でもさー、これずっと見てると、何も考えないっていうよりも、私は自分の話みたいな気がしちゃって微妙に泣きそうになるんだよね、やばくない?」

「それやば!」


今店に来たらしい高校生二人組が笑いながら話しているのが聞こえた。


天井近くのモニターには、時計の内部のようなカラフルな歯車のイラストが映っていて、それらがコマ送りのように少しずつ動いていく。モニターの下には「1日の終わりに必ず眺めてます!」というコメントと、「人間を描きたくなくて、なるべく遠いところを目指したら、機械にたどり着きました(椹木ナノ)」という作者の、つまりは私の言葉が書かれたポップが貼られていた。



——5年前。


ある日学校から帰ると、玄関から続く廊下の右手、居間の手前にある私の部屋のドアが少し開いていて、そこから光が漏れているのに気づいた。私の部屋に誰かいる。私は、足音を立てないようにドアまで行って、隙間から部屋の中を覗いた。見えたのは、机の前に立っている後ろ姿。それは……父のものだった。父は何かを手に持っているようだが、手元はここからは見えない。頭を少しだけ部屋の中へ入れてみる。彼が手にしているのは……、あれは……私の原稿だ! 血が吹き上がるように怒りを感じて、私はそのままの勢いで部屋に飛び込んだ。


「しんっじらんない。何で私の部屋に入ってるの。勝手に入らないでって何度も言ってるじゃん。早く出てってよ」


私が声を発すると同時に、父は原稿を机に落とし、ゆっくりと振り返った。


「おかえり。今日は早かったんだね。ちょっとホチキスを探してるんだ。ナノ、知らない?」


まるで何もなかったように、父は落ち着いた調子でゆっくりと喋り始めた。私の原稿のことはなかったことにして、このまま進めようとしているんだ。前に漫画を描いているところを見られた時も、父は何も見ていないという素振りをした。見たことも見られたこともどちらにとってももう動かせない事実なのに。そう思うと、演技をしている父が滑稽に思えてきて、沸き立っていた怒りがすっと引いていった。それよりももう一人になりたかった。


「居間のホチキスは知らない。私のこれ使っていいから。はい。それ持ってとにかく出ていって」


引き出しからホチキスを取り出して渡すと、私は父の背中をドアの方に向かって押した。


「そっか、ありがとう。これ借りてくよ」


父は芝居がかった明るさでそう言い、私に押されるまま部屋を出ていった。


ドアを閉めて部屋に一人、ベッドに座り込む。机の上に残されている原稿は、最近描き終えたグラフィック・ノベルで、三人の高校生の物語だ。主人公のレンが数学の先生から告白されるところから始まる。レンは先生の気持ちを受け入れるが、友人のゴウはそれを「搾取」だと言って激しく非難する。彼らの友人関係が次第に微妙なものになっていくのを、ゴウに密かに思いを寄せているアサヒは複雑な思いで見守っていた。すれ違う恋愛関係をベースにしたオーソドックスな物語だが、登場人物は全て男性で、どの場面も私が描きうる限り美しく描いた。多様性と愛の本質を文学的に問うBLのバリエーションとして形になっていると思う。


私がグラフィック・ノベルを描き始めたのは、高校2年生の終わりだ。小さい頃から絵を描くのが好きな子どもだった。中学では漫画を描く子たちと仲良くなって、描いたものをお互いに見せあった。初めの頃は、みんな絵を上手く描くことだけに関心があったのに、学年が上がるにつれて話題になるのは恋愛ものばかりになり、高校へ上がってからはBL一色になった。


私はBLに全然ハマれなかった。異性愛じゃなきゃ嫌だとかそういう理由では全くない。みんなが熱中していた二次創作界隈では、私が大事にしている絵やストーリーが、性への剥き出しの興味に従属させられていて、それが嫌だった。それに、現実世界に実在する人物を容赦なく性的なストーリーに取り込んでしまうような独特な目が気持ち悪かった。一緒に過ごす時間は楽しいのに、私はみんなをどこかで軽蔑していて、それでも卒業するまでその場を離れるつもりはなかった。私は卑怯だった。我慢してあと1年少しをやり過ごせばQOLを保てると思っていたのだ。それなのに……平和だった高校生活がある日突然終わった。


昼休みにお弁当を食べながら、私たちはあるアイドルグループの二次創作作品について話していた。その話の流れで、私が調子に乗って口を滑らせた。


「止めろって言ってるルイを無理矢理おさえつけて『本当は好き』みたいに言わせる流れがイマイチ乗れないんだよね。ルイがフツーに可哀想じゃん」


これはKATOに向けて発した言葉ではなかったのだが、私がこう発言した時、それまで笑っていた彼女の表情が見る間にこわばったのが、横目に見えた。彼女は私の方にキっと向き直った。


「……あのさ、ナノ。なんでそこで可哀想ってなるの? 意味わかんない。私たち別にルイを本当に傷つけてる訳じゃないよね」


「いやま、そうなんだけど。『嫌がるそぶりを見せてるけど本当は喜んでます』って、昔からさんざん女の人に対して向けられてきた幻想で、そんなの本当じゃないって突きつけて戦う時代じゃん。私たちがそれをおんなじ流れで楽しんでていいのかなってちょっと思ったってだけ。ごめん、別に作品全体を批判したい訳じゃない」


ピリついた空気を終わらせたくて、私は手を合わせておどけてみせた。


でもその日のKATOは私を逃さなかった。


「ファンタジーはファンタジーでしょ。お話の中で人を殺しても罪にはならないよね。実際のリアルな世界で誰かを傷つけない限り、表現は自由なんだよ。リアルとはかけ離れた都合の良い女を描いたファンタジーだって、お話だけなら問題なかったはずだよ。それを真に受けて、実際に女を傷つけるクソ男がいるのが最悪なんだよ」


「うん、まあそうか……。話が存在すること自体は本当に誰も傷つけないのかなってちょっと考えてて……」


私の歯切れの悪さに痺れを切らしたように、KATOはさらに続けた。


「そもそもさ、この話でシュウがルイに強引なことをしてるの、女の私たちが読んだとしても、リアルでルイや男を傷つけたりしないよね。だって女はこの話に登場しないから。だから同じファンタジーでもこれとあれは全然違うんだよ」


「うん。分かった。引き合いに出したの間違ってた。ごめん」


流石にまずいと思って、今度はふざけないで謝った。下を向いたKATOの体がぎこちなく震えている。


「表現の中でも良い子でいたいなんて、やばいのはナノの方だよ。実際に傷つけられても声も上げないくせに」


こちらを見ることなく吐き捨てるようにそう言って、彼女はそのまま教室を出て行った。


彼女が言っているのは痴漢のことだ。学校までの電車は通勤ラッシュの時間帯には超満員で、私は高校に入ってすぐの頃、毎朝のように痴漢に狙われた。車両を変えても痴漢は終わらなくて、怖くて通学出来なくなってしまった時期がある。その時に助けてくれたのがKATOだった。途中の駅で待ち合わせて一緒に学校まで付き添ってくれた。確かにKATOはリアルでは誰も傷つけないし、傷つけられた私を守ってくれた。彼女はきっと悪くない。


このことがあって、私はKATOから避けられるようになった。他の子たちもKATOの方に付いていき、私は気づけばグループの外にいた。高2の冬だった。


学校生活を一人きりで送ることには、学年が変わる頃にはもう慣れた。その頃から、誰でもない、「自分」が納得するものを作るんだと誓って作品を描き始めた。あの子たちのいる創作の場から離れるつもりで、自分の作品をわざわざグラフィック・ノベルと呼んでいる。誰にも見せずに、絵もストーリーも言葉も時間をかけて丁寧に仕上げたその作品を、父が読んだのだ。


見つけた時は、瞬間的に「終わった」と思った。中年のヘテロ男性がBLストーリーを描いている自分の娘のことをどう思ったのかなんて、きっと聞くまでもない。気持ちが悪いと思ったから、触れちゃいけないと思ったから、見なかったことにしたのだろう。


初めは勝手に見られたことへの怒りでいっぱいだった。けれど、机の上に置かれたままの自分の作品を見ていたら、見られたこと自体よりも、何もなかった感じで出ていった父の態度の方が、むかついてきた。勝手に読んだ上に、コメントも残さず「何も知りませんけど、何か?」的にしているお父さんの設定に、私が付き合ってあげる必要はなくないか。気持ち悪いでもなんでも良いからどんな感想を持ったか教えてよ。そうだ、やっぱり話してもらおう。思いつくとすぐに、私は寝転んでいたベッドから勢いをつけて立ち上がった。


父の仕事部屋の前まで来て耳を澄ます。父は広告会社で働いていて、誰かにお金を使わせるために嘘をつく仕事をしている。週の半分くらいは在宅で働いていて、オンラインでミーティングしている時も結構ある。ノックして少し待つと、「なにー?」とのんきな父の声が聞こえた。ドアを開けて中に入る。机の上に山高く積まれている本や書類などの隙間から父が顔をのぞかせていた。


「今ちょっといい? 話したいことがあるんだけど」


私のきっぱりとした口調を受けて、父が席を立って出てきた。目線はすぐに私の手にある原稿に向かった。


「あのさ。さっきお父さんがこの本を手に取ってたの、私見たの。読んだんだよね。見なかったふりしてもさあ、もう無かったことには出来ないよね。せめて読んだなら感想を教えてよ。ねえどうだった? やっぱり引いた? 正直に言って」


声が上ずって問い詰めるような調子になった。父は、片方の手で首の後ろを掴みながら大きく息を吐き出した。


「ごめん。さっきの、ホチキス探してたっていうのは嘘で、実はちょっとナノの部屋の本棚を見に行ってたんだ。今担当しているクライアントから、少しBL要素を取り入れて欲しいって言われたんだけどさ。どんな感じかよくイメージできないから、参考に少し読んでみようと思って。ナノは色々持ってるでしょ。それでちょっと見せてもらってたら、机の上に原稿があるのに気づいて……」


「いや、高校生の娘の部屋にお父さんが勝手に入るなんて、マジでないから。本当にもう絶対入らないでよね」


私は、父を睨みつけた。


「でも、それは置いておいたとして、読んでみてどうだった?」


私は口調を変えた。


「実は、さっきは最後まで読めてないんだ。それ、いいかな?」


父は、私の手から原稿を取り上げると、ソファに腰かけて、原稿をパラパラとめくって終わりの十ページくらいのところから読み始め、最後のページまで来ると、ゆっくり時間をとってから顔を上げた。


「うん、美しい。本当に。ナノ、すごくいい!」


父の表情が崩れたのを見て、緊張がいっきにほぐれた。


「美しいって何が? どこのこと?」


「まずは、とにかく絵が美しい。リアリスティックなんだけど、頭身が少し縦に長くデフォルメされていたり、場面全体と模様のように溶け合っているところが、すごくセンスがいい。デザイン性が高い。世紀末のビアズリーっていう画家みたいだ」


父は、近くの本棚から画集を取り出して私に見せた。


「ナノの本棚にあったBLの本をちょっと読んでみて、この世界は僕には無理だなって思ったんだ。僕に向けて描かれたものじゃないって分かってるけどさ。何て言うのかな、欲求みたいなものが変形されずに乱暴に扱われている感じが僕にはきつかった。だから、ナノが描いている作品がどんな仕上がりなのか気になってしまって。気持ち悪いって思ったらどうしようなんてちょっと思ったけど、まさかこんなに美しく描かれているなんてね。驚いたよ。ナノの作品はなんていうかな、すごく抑制がきいていて、静かなのが魅力だと思う」


明らかに興奮している父は、早口で続けた。


「さっきの画集のビアズリーとか、オスカー・ワイルドの小説とか読んだことある? もう百年以上前の作品なんだけどね、今でいうクイアな表現がこの時代の作家には好まれてね。その、僕の印象では、ナノが目指しているのはBL的な方向より、わりとこっちなんじゃないかなって……。参考に読んでみたら?」


そう言って、いくつかの本や画集を本棚から探し出した。


「ありがとう。まさかお父さんが、こういう作風に理解あるなんて思ってなかったから……。びっくりして、ちょっと引いてる」


思わず笑った。こんなことで父と盛り上がっているなんてリアルじゃない。勢いにのまれそうな雰囲気を察して、その時は早々に自分の部屋に戻った。


まだ自分のスタイルを模索しているところだから、ハイカルチャー好きの父に方向性を決められてしまわないように気をつけないといけないと身構えたが、すすめられた本をとにかく読んでみることにした。読み始めると私は夢中になって、三冊全てを数日で読み切った。そこには、描かれていたのは、エロスを介して繋がる美しさと醜さだった。私の作品に足りないものはこの、生の生々しさなのかもしれない。グロテスクさと言った方が良いだろうか。欲望に動かされるように非合理も飛び越えて進んでしまうパワーが足りない。美しいという表層に留まっている私の作品が、ひどく弱く思えた。


原稿を見せてから、父とは今までよりも頻繁に話すようになった。父が担当していたBL風味を入れた広告は、せっかく私が色々とアドバイスしたのに、結局ははっきり言ってめちゃくちゃダサく出来上がった。それを私がボロクソに言ったりした。そういうやり取りがあって、これまでは私に対してどう話して良いのかわからないという感じで距離を取っていた父の態度が、今でははっきりと親しげになっている。父は、会社で映画の無料券を貰ってきては、「ストーリーを考えるのに参考になるよ」と私を誘った。


その日観たのは、アクションがすごいと話題になっていた中国の戦国時代を描いた映画だった。私たちは、映画の後にシネコンの入っているショッピングモールにあるトンカツ屋さんに寄って、映画の感想を言い合った。


「あざといって言うか、軽いって言うか。私は、本題と全然関係ないところでアイドルっぽい男の子のBL読みをわざとらしく入れられるのが好きじゃないんだよね」


最近の映画は、狙ってBL的な読みを促すようにしているものが多く、その日の映画も、脇役の一人の美しい少年が実は主人公に思いを寄せているという設定が盛り込まれていた。


お父さんは、「へー意外」というような表情をした。


「そうなの? 制作側はさあ、ちょっとはそういう要素がある方が、女の子にも興味持ってもらえると思って入れてるんでしょ。権力争いとかがメインで飽きちゃわないように」


「いや、なんていうか、こっちが勝手に想像しちゃうとかそういうのは面白いし、別に正面から主題にしてあっていてもいいんだけど、『こういうシーンを入れておいたら君ら喜ぶんだろ』って片手間に差し込まれている感じがするんだよね。それってバカにされてる気がして嫌なんだよ。この前にお父さんが作ったあのCMと同じ。お父さんみたいな商業主義的な作り手が、後ろで笑ってるのが目に浮かんでむかつくっていうかさ」


「ひどいな。僕のことを世界で一番低評価つけるのはきっとナノだな。そういうものかね。映画はさ、どんな話でもどこかに裸とかベッドシーンとかエロ要素を入れておいた方が良いみたいなのがずっとあったからね。色々クライアントの意向とかもあるんでしょ。でもまあエロ演出はそれなりに喜ばれて受容されてきたと思うんだけどな」


「出たでた! 本当観客をバカにしてるんだから。だから映画がつまんなくなってるんだって」


「いや、どうだろう。そういう単純な欲望を見せつけられたいって人も実際には多くいるのかもしれないよ」


お父さんは窓の外を眺めている。日曜日恒例のマーケットが開かれている表の通りは、たくさんの人で溢れていた。彼が見つめているのは誰かの痛みではなくて、人々の欲望の方なのだ。


受験勉強が大変になればなるほど、私は夢中になって絵を描いた。そうしてバランスを取っていたような気がする。受験の本番が始まる前には、二作目の作品が完成した。地味だが美しい主人公の青年ソウは、正義感の強い幼馴染の少女ミラに守られて、恵まれない環境の中でも学生時代を平和に過ごしていた。話の前半は、彼の繊細さや優しさを印象付けるエピソードと、勇敢なミラの活躍が対比的に描かれる。後半になると、優しいソウには実は隠された別の一面があることが徐々に明かされる。彼にはミラの他にナイトという恋人がいて、外見の醜いナイトに対して、ソウは暴君のように振る舞っていたのだ。こちらがソウの本性で、彼はミラもナイトも、人生を進めるための道具としか考えていない薄情な人間だった。この作品は、ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像画』に大きく影響を受けて構想したもので、美醜や善悪の二面性をテーマにしたつもりだった。


しかし、どうだろう。受験期間を終えて、完成してからしばらく触れずにあった作品を読んでみて、それが抽象的レベルでの美醜や善悪の物語ではなかったことに気づいた私は愕然とした。それは具体的には私自身の物語だった。ソウは私の変形だったのだ。KATOに守られて過ごしながらも、醜いものを軽蔑するような態度を取っていた自分が、ソウの人物造形には間違いなく投影されている。一度気づいてしまえば、こんなにもあからさまに思えることに、作品を描いている時には全く思いが至らなかったのが恐ろしかった。


そして私の中には、再び、作品について誰かと話したいという欲望が生まれた。そして、それが出来る相手は父親しかいなかった。世紀末の芸術家たちの影響を受けて描いたこの作品がちゃんと「グロテスク」になっているのか、父がどんな感想を持つのかを聞いてみたかった。


年度末で父が忙しそうにしていて、ようやく切り出せたのは、高校の卒業式の翌日、父と祖母の家に向かう新幹線の中だった。


「実はさ、二作目出来てたんだよね。また読んでよ!」


私は務めて明るくそう言って、原稿を父に渡した。父は目を輝かせた。


「ありがとう。読ませてくれるんだ。描いてたのは気づいてたんだけど、前回勝手に見ちゃったから、見せてって言うのはダメだと思って待っていたんだよ」


早速読み始めた父を、私は向かいの席から眺めていた。穏当に進む前半を笑みが浮かべて読んでいた父の顔は、ソウの本性が現れだす後半になると、徐々に引き攣っていった。そして、原稿を持つ手が目に見えて震え出した。読み終わっても、最後のページに目を落としたまま、父は長い間顔を上げなかった。一体、なぜ彼がそんなに激しい反応を見せているのか、私には全く理解ができなかった。倫理にもとるようなソウの振る舞いが、彼に嫌悪感を抱かせたのだろうか。


少し経ってついに父が顔を上げた。目を強く見開いている。


「ナノ、これは誰の話なの……?」


「え、誰って主人公? それは……えっと……」


私はどう答えるべきか迷っていた。ソウのモデルが私であることは教えないつもりだった。


「ねえ、ナノ。これは……これは僕の話なんだね。いつから知っていたの? お母さんとのこと」


お父さんの目から涙が溢れ出した。


「え、お父さんどうしたの? 何の話してるの?」


私は頭が真っ白になった。これはお父さんの話なんかじゃない、私の、卑怯な私の話なのだから。でも、お父さんは、私のことなどもう目に入っていないかのように、ぽつぽつと言葉を繋ぎ始めた。


「守ってもらっていたのに……僕は……彼女を裏切った」


涙を堪えようとして、言葉が途切れていく。


「自分が……本当は……お父さんは……ソウなんだ……これは……お父さんの……話なんだ……ごめん……」


父はそれ以上話を続けることが出来なくなって、私に原稿を渡すと、席を立った。


座席に一人残された私は、父のこの反応の意味が分からずに混乱していた。父はソウで、あれは父の話で、父が母を利用して傷つけたということだろうか。でもどんな風に? 私が小さい頃に家を出て行ったという母の話を、私はほとんど聞いたことがなかった。


親しく過ごした父との時間を思い返してみる。これまで私が抱いていた父のイメージはこの一年で大きく変わった。そして、私は、その新しい父には、何かはっきりとしない、うっすらした違和感を感じていた……。その正体を突き止めようとして思いを巡らせていた時、啓示のようにイメージが降ってきた。絵の中のソウに重なる父の顔。ああ、ああそうなのだ。父は……。彼はきっとソウと同じようにクイアで、母を利用したと罪悪感を持っていたのだ。私が作り上げたこのソウの物語は、父にとっては娘からの告発を意味していたのだ。そう分かった時、お父さんを責めるつもりなど全くなかったと、早く弁解しなくてはいけないと思った。けれど、私の体は動かなかった。たとえ今更私が弁解したとしても、父が私に懺悔したことはもう消せないからだ。それに、私の母である女性に対して、父はどんな仕打ちをしたのかということも気になった。父には隠された恐ろしい一面があるような気がしてきて、追いかけられなかった。


目的の駅に着く頃になって、やっと父が席に戻ってきた。「さあもうすぐ着くよ」と穏やかに、落ち着いて私に笑顔を向ける。父の所作には既視感があった。ああ、彼は、今回もまた何も見なかったことにすると心に決めたのだ。父の姿を見て、私は落胆したのか安心したのか、自分でもよく分からない。とにかく、私と父は、それ以降は決して親しく話すことはなかった。


物語はリアルの世界の誰かを傷つけはしないとKATOは言っていた。でも、それは違うということを私は知っている。物語で誰かを傷つけることが出来る。それで私は、人間が出てくる物語を書けなくなった。思いもよらない誰かを傷つけることを恐れて、あらゆる生命から距離を置いた。それでも物語はどこまでも私を追ってきた。作者が意図していなくても、遠い世界の話でも、物語は読む人を追って立ちあがるのだ。だから今、私は機械を描いている。機械の運動に呼吸を合わせる。自分が消えてしまうまで、あともう少しのところまで来ている。


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