「宵の図書室」
市立図書館の三階――古い書庫の奥に「宵の図書室」と呼ばれる小部屋がある。正式な名前ではない。図面にも載っていない。
けれど、図書館で働く人たちは皆、その存在を知っていた。
――午前一時、そこにだけ灯りがともる。
閉館後の図書館には誰もいないはずなのに。
僕がその噂を聞いたのは、司書として働き始めて二か月が経った頃だった。仕事にも徐々に慣れ、閉館後の整理を一人で任されるようになっていた。
その夜、上司の柳田さんが帰り際に言った。
「三階には、あまり遅くまで残らないほうがいいよ。変なのを見ても知らないからね」
「変なのって?」
「知らなくていい。若い人は特に見えやすいらしいからね」
意味深な言葉に首をかしげたものの、僕は迷信だろうと特には気にしなかった。
その日の仕事は予想以上に時間がかかった。
ようやく仕事が一段落し、帰ろうと帰宅の準備をしていたとき。
ふと、階段の方からかすかな物音がした。風は入らないはずだ。気のせいかと思ったが、好奇心が勝ち、無視できなくなった僕は三階へ向かった。
三階は薄暗かった。照明は閉館用の省エネモードに切り替わっていて、書架の影が長く伸びている。
――その奥に、確かに灯りがあった。
聞き慣れないページをめくる音が、静寂に溶け込むように響いていた。
灯りのある方へ進むと、古い書庫の扉が少しだけ開いていた。中では小さなスタンドライトが淡い光を落としており、その下で一人の少女が本を読んでいた。
年は十六か十七、白いセーラー服のような服装。だが、どこか奇妙だった。影が薄いというか、本体と空気の境界が曖昧に見える。
「こんな時間に、どうしたんですか?」
僕が問うと、少女は本のページをめくる手を止め、顔を上げた。
「あなたこそ。ここは、夜明け前のための場所なのに。こんな遅い時間までご苦労様ね」
声は澄んでいるのに、遠くから聞こえるようでもあった。
少女は本を閉じると、静かに微笑んだ。
「あなた、ここの司書さんでしょう? 名前、聞いてもいいかしら?」
「椎名です。椎名悠斗」
「ゆうと……ゆうと、か。いい名前ね」
少女は何度か名を復唱する。
それは、どこか懐かしむような言い方だった。
「君は……?」
「名前は、思い出せないの。ここで読む本の中に答えはあると思うんだけど」
変わったことを言う子だと思ったが、僕はなぜか怖くなかった。
少女は本棚の奥へ歩きながら言った。
「夜明けの図書室はね、誰かが忘れた時間が集まる場所。私もその一つ」
「忘れた時間?」
「うん。日常に埋もれて、人の心のどこかに置いていかれてしまった時間。それが本になって、この部屋に置かれるの」
僕には意味がわからなかった。しかし少女は続ける。
「私の時間も、ここにあるはずなの。その本を最後まで読めれば、私は帰れるの」
「帰れる……? どこに?」
しかし、少女は答えない。そして、書架から一冊の本を取り出した。タイトルはついていない、真っ白な表紙の本だ。
「まだ、半分しか読めてない。ここに来る人は少ないから……」
彼女はぱらぱらとめくり、途中のページを指で押さえた。
「続きを読みたいけど、私だけではめくれないの。これは“二人”で読まなきゃいけない本だから」
その言葉に導かれるように、僕は彼女の横に座った。
ページに触れると、ふわりと風景が広がった。――川辺を歩く少女。制服の袖を握りしめ、誰かを待っている。焼け付くような夏の日差し。ミンミンとせわしなく響く蝉の声。そして、少女の隣には、誰かの影があった。
顔はぼやけているが、僕は直感した。
――その影は、彼女の“約束”そのもののようだった。
ページが閉じると、少女は少しうつむいた。
「やっぱり、思い出せない。誰だったんだろう……私を待ってくれていた人は」
「その人に会わないと、帰れないのか?」
「ううん。会わなくてもいいの。ただ、思い出したいの。その気持ちだけで十分だから」
時計を見ると、午前十二時五十五分だった。
少女は立ち上がり、静かに言った。
「そろそろ、灯りが消えるわ」
部屋の空気がおぼろげに揺れた。
「椎名さん、また来てくれる?」
「……来るよ。約束する」
そう答えると、少女は安堵した顔でにこりと微笑んだ。
「ありがとう。私、こうやって誰かと本を読むの、好きだった気がする」
次の瞬間、スタンドライトがふっと消えた。
部屋は完全な闇に包まれ、ページをめくる音だけがかすかに残った。
翌日、柳田さんに勇気を出して僕は聞いた。
「三階の“宵の図書室”の話を聞きたいんですけど……」
柳田さんは驚いた顔をした。
「……見たのかい?」
「はい。女の子が読書していて」
柳田さんは深いため息をついた。そして、僕に種明かしをしてくれた。
「その子は昔、常連だった高校生だよ。ある夏の日、図書館へ来る途中で事故に遭ってしまってね。それ以来、誰かを待つように書庫の灯りがつくようになったらしいんだ」
「誰かを、待っている……?」
「たぶん約束していたんだろうね。一緒に本を読む約束を」
思わず言葉を失った。あの本に描かれていた影。
少女の寂しげな笑顔。すべてが胸に刺さる。
それから、僕は夜になるたびに三階へ向かった。
宵の図書室に灯りがともる日はあったり、なかったりした。
灯りがある日は、彼女は必ずそこにいた。
名前は思い出さないまま、二人で本を読み続けた。
ある夜、白い表紙の本を読み終えたとき、彼女は静かに言った。
「思い出したわ。私を待っていた人の名前」
「誰だった?」
「……" "」
少女の唇が微かに動くが、音までは聞き取れない。
彼女は微笑み、涙を浮かべた。
「ありがとう。私の時間を思い出させてくれて」
時計は午前一時を指し、やがて灯りは消える。
闇の中、彼女の姿もふっと消えた。
それが、最後だった。
翌朝、書庫の奥に置かれた白い表紙の本を見つけた。
タイトルがあった。
『宵の図書室』
そして、最後のページには小さくこう書かれていた。
――ありがとう、旅を終わらせてくれた司書さんへ。
短編集 宵薙 @tyahiyo
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