萎れた葡萄

埴輪庭(はにわば)

第1話

 畢竟(ひっきょう)、私の人生なるものは他者と比較するまでもなく、徹頭徹尾、碌でもない汚辱に塗れた道程であったといえる。

 

 だがそれは不慮の災厄が降りかかったという類のものではなく、私の裡(うち)に流れる血があるいは性根の腐敗が招くべくして招いた必然の不幸であったろう。


 六畳一間の安アパートに充満した湿った黴(かび)と安焼酎の匂いの中で、私は万年床に寝転びながら天井の染みを睨みつけていた。枕元にはデリヘルの紹介写真が表示されたままの携帯電話が転がっている。

 

 これからここへ、「女」が来るのだ。

 

 無論、恋人などという上等なものではない。数枚の紙幣と引き換えに束の間の慰撫を売るババアである。

 

 なぜ金を支払ってまでババアと致すのか──私にはその理由がおぼろげながら分かっていた。


 酔いが回ると脳裏に浮かぶ、過去の汚泥のような記憶を辿ってみる。

 

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 私の父親はどうしようもない盆暗(ぼんくら)であった。

 

 元暴力団員という前歴を持つ父の右手は小指と薬指が欠損しており、それは取りも直さず、彼が極道としても落伍者であり、生活能力の欠如した半端者であることの証左に他ならなかった。指を詰めるなどという行為は世間が恐れるご立派な勲章などではなく、単なる不始末の恥辱を晒しているに過ぎぬ。

 

 能なしのくせに情だけは捨てきれぬ男で、家族の為に組を抜けたというがその家族とて定まった形を成してはいなかった。

 

 生母とされる水商売の女は私の物心つく前に父の暴力か、あるいは自身の浮気性が祟ってか、何らかの破綻を迎えて蒸発したらしい。父は己に都合の良い御託を並べて母を罵るが指のない男の言い分など信ずるに値しない。

 

 そして何より致命的なのはその欠陥品である父の種を宿した私自身もまた、どうしようもない盆暗であるという事実だ。


 あれは確かリンナという名の、源氏名か本名かも判然とせぬ蓮っ葉な女が私の「新しい母親」として君臨していた頃のことだ。父はリンナの出した「ヤクザから完全に足を洗う」という条件を呑み、私たちは彼女の実家である二世帯住宅へと転がり込んだ。そこには女の連れ子である同い年の義弟もいた。


 欠けモノ同士が寄せ集まった歪な家族ごっこである。私がその家で決定的な孤立を深めたのはある夏の夜の光景が引き金だった。

 

 襖(ふすま)の隙間から見えたのはあろうことか全裸で絡み合い、泥のように眠る義母と義弟の姿であった。

 

 異常である。

 

 近親相姦の気配すら漂うその光景は常軌を逸していた。だが私が覚えた吐き気の正体は単なる生理的嫌悪ではなかった。今にして思えば、それは自身の欠落を突きつけられたが故の、もっとも醜悪な「嫉妬」であったに違いない。

 

 私には肌を合わせ、無条件に愛を注いでくれる母がいない。だから、そう、私は義弟に嫉妬していたのだ。

 

 そしてそんな醜い嫉妬心から私は言ってやった。

 

「なんでお前らは裸で寝てるの?おかしいよ」

 

「でも僕のお母さんだもん」


 義弟が放ったその言葉は私の荒んだ心根に火をつけた。己を肯定されることに慣れきった者の傲慢。それが許せなかった。

 

 もう二度とその面を見たくない──そんな思いで私は部屋の押し入れを改造し、そこを己の城とした。薄暗い闇の中で膝を抱えながら、私は義弟への憎悪を培養していったのだ。

 

 そんな日々を過ごすうち、私は義弟とささいな事から喧嘩をした。最初は口喧嘩だったように思える。理由は分からない。だが事は、想像していた以上に過熱してしまった。

 

 私の憎悪が、包丁を持ち出すという形で暴発したのだ。

 

 「殺すぞ」と喚き、切っ先を向けた時の義弟の悲鳴。駆けつけた大人たちの怒号。

 

 それが引き金となり、仮初の家族はあっけなく崩壊した。私は施設へと送られ、以来、根無し草の如く世間を漂流することとなる。

 

 ◇


 ピンポーン。


 間の抜けたチャイムの音が私を陰鬱な回想から引き剥がした。

 

 私は重い腰を上げ、玄関のドアを開ける。そこに立っていたのは厚化粧で目元の小皺を埋めた、五十がらみの女だった。

 

 生活に疲れ切ったような、しかし営業用の卑屈な笑みを貼り付けたその顔。

 

 熟女デリヘル。それが今の私が唯一、金で購える「母性」の成れの果てであった。


 私は女を部屋に招き入れ、事務的に事を進めた。せんべい布団の上で、女のたるんだ身体にのしかかる。

 

 鼻孔をくすぐる、安っぽい香水とどこか饐(す)えた匂い。

 

 目の前には重力に逆らえず垂れ下がった黒ずんだ乳房があった。

 

 そこには若さも張りもなく、あるのはただ、長い年月を生き抜いてきた肉体の疲弊だけだ。しかしその萎びた乳房こそが今の私には堪らなく愛おしく、同時に激しい自己嫌悪を喚起させる象徴でもあった。


 私は吸い寄せられるように顔を埋めた。

 

 舌を伸ばし、その老婆の如き女の、茶色く萎れた乳首を舐める。

 

 ザラついた感触が舌先に広がる。まるで赤子が母乳を強請(ねだ)るかのように必死に無様に私はそれを転がした。

 

 性欲ではない。これはもっと原始的で、恥ずべき幼児退行の衝動であった。


(──ママ……)


 心の中でそう呟いた瞬間、言いようのない惨めさが胃の腑から込み上げてきた。


 金で買ったババアの萎れた乳首に縋り付き、見えもしない母の幻影を追い求める、三十過ぎた男の姿。


 かつて包丁を振り回して断ち切ったはずの未練に今なお縋り付いているという現実。


 これこそがあの盆暗な父から受け継いだ、私の人生の正体なのであった。


 私はそんな救いようのない自分自身にただただ辟易し、心底うんざりとするばかりであった。

 

 (了)

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萎れた葡萄 埴輪庭(はにわば) @takinogawa03

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