半透明人間

@eNu_318_

半透明人間

 透明人間になりたい。そんな気持ちになる日は、思ったよりたくさんある。それは、人とのすれ違いに胸がざわついたり、会話の細かな温度差ばかりを拾ってしまったりするときだ。誰かのふとした表情に必要以上に心が振り回される瞬間――私は、この世界からそっとフェードアウトしたくなる。

 人間関係という網の目は、優しさやつながりをもたらす一方で、時に息苦しいほど密に感じられる。そして、あまりにも密になりすぎると、まるで逃れられない檻のように感じられる。誰かの言葉に振り回され、自分の立ち位置を必死で探し続けるうち、心はすり減っていく。そんなとき、「誰にも映らない存在」になりたいと願う。気配さえも消して、世界の景色の片隅でただ漂っていたい。それは、繊細な心が外界の刺激から逃れようとする、本能的な衝動なのだ。

 けれど、矛盾していることもわかっている。完全に消えてしまいたいわけではない。本当は、“どこかの誰か”ではなく、“世界そのもの”に気づいてほしいのだ。名指しではなくてもいい。肩書きでも役割でもなく、ただここに存在していることを、そっと肯定してほしい。その一瞬の肯定があれば、透明になりたいという切実な衝動は、少しは落ち着く気がする。

 この矛盾は、私にとって苦しさに近い。「見られること」に疲れ、「見られないこと」に怯える。そのあいだで揺れ続ける自分は、どこへ向かえばいいのかわからなくなる。透明になりたい気持ちは、自分を守るための避難所であり、一方で孤独を深める落とし穴でもある。

 けれど、こんなふうに迷いながら生きているのは、きっと私だけではないはずだ。社会という大きな流れの中で、誰もがどこかで、「消えたい」と「見つけてほしい」という、二つの相反する願いを抱えている。人は弱いからこそ、こうした矛盾を抱えるのだと思う。そして、この矛盾を抱えているからこそ、他者の言葉にならない苦悩にも手を伸ばせるのかもしれない。

 透明でいたいと思うその苦しさは、決して私の欠陥ではない。世界の速さや騒がしさに心が追いつかない日があっても、それは自然な反応だ。むしろ、その繊細さは、周囲をよく見つめ、静かな場所にある小さな光を見逃さない力でもあると思う。

 透明でいたい日があっていい。誰にも気づかれず、世界の端に沈みたくなる日があってもいい。その感情を無理に消さなくていい。ただ、その奥にある「本当は見つけてほしい」という願いまで否定しないでいたい。

 世界はときどき残酷だけれど、時には思いがけない形で、そっとこちらを見つけてくれることがある。まるで、透けてしまった体に一筋の光が触れて、もう一度この世界に存在を描き出してくれるように。

 そんな瞬間がまた訪れることを、私も信じて生きている。矛盾したままでも、揺れたままでもいい。

 透明になりたい日があっても、それでも私の存在は、消えてなんかいないのだから。

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