弱音を吐けないまま大人になった僕へ

@eNu_318_

弱音を吐けないまま大人になった僕へ

 幼い頃の僕は、いつも静かに自分の存在を押し殺す方法を知っていた。それは4人兄弟の長男という役割と、決して裕福ではない家計という環境がもたらした、一種の「諦め」の技術だったのかもしれない。欲しいものがあっても「今はやめておこう」と自然に思えたのは、本当に欲しいと感じる前に、その感情自体に「どこか後ろめたい」という蓋をしてしまっていたからだ。自分が何かを手にすれば、家族の誰かの取り分が減る。そんな、目に見えないが限られたパイの奪い合いの等式が、僕の思考の根幹に染み付いていた。僕の欲求は、静かに、しかし確実に押し潰されていった。

 この幼少期の「自己犠牲」の感覚は、大人になるにつれて形を変えた。「弱音を吐かない」「愚痴をこぼさない」という、一見すると「自立した大人」の証のような癖となった。誰かに悩みを打ち明けることは、相手の貴重な時間や心の余裕を奪う行為に思えた。まるで、幼い頃に物を欲しがることが誰かの負担になったのと同じように、自分の「心の痛み」を共有することもまた、誰かに負担をかける罪であるかのように感じていた。だから僕は、心の中にどれほどの重石が置かれても、それを誰にも見せず、一人で持ち上げてきた。

 ただ、この習慣は、僕の強さでもあった。自分で考え、自分で解決し、周囲に迷惑をかけずに生きる力は、確かに僕を支えてきた。誰かを守るという意識は、幼い頃の僕にとって、生きるための道でもあったのだ。だから、あの時の僕の生き方を否定するつもりはない。この生き方しか僕には選択肢はなかった。

 しかし、大人になって気づく事実がある。弱音を吐かない強さは、静かに自分を消耗させていく。抱え込むことに慣れすぎて、自分の限界が分からなくなってしまうのだ。気づけば、心は疲れ果てているのに、それを誰にも言えない。「大丈夫」と言い続けるほど、内側の自分が助けを求めて叫んでいる。

 そんな自分を責めたこともあったが、最近は思えるようになった。頼ることが苦手なのは、弱さではなく、これまで必死に生きてきた証なのだと。自己犠牲を選ぶしかなかった過去があるのだから、心を開くのが難しくなるのは当然のことだ。

 ただ、それでも言いたい。

 もう少しだけ、自分を軽くしてもいいのだ、と。

 弱音を吐くことは、誰かに寄りかかることではなく、自分自身を守るための方法でもある。痛みを共有したからといって、誰かの人生を奪うわけではない。弱さをさらけ出すことは、あなたがもう、幼い頃の限られたパイの奪い合いの世界にはいないことの証明だ。

 この文章は、かつての僕のように「我慢」が当たり前になってしまった誰かへ。そして未来の僕自身へ向けた手紙だ。強さに縛られ続ける必要はない。

 あの日の僕へ。

 あなたはもう、重い鎧を脱ぎ捨てて、少しだけ軽くなっていい。

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