心は効率化できない

@eNu_318_

心は効率化できない

 気づけば、私たちの毎日は「効率」という単語に包囲されている。仕事では常に最短ルートを求められ、迷いや寄り道は“無駄”と切り捨てられる。それは確かに合理的だし、生産性という名の神様は、今日も正しそうな顔でそこに座っている。

 けれど、そこに長くいればいるほど、私は自分の輪郭が薄くなっていくような感覚に襲われる。

 求められる効率に身体は応えるのに、心だけがそこに取り残されていく。「これは本当に自分が望んだ生き方だったの?」そう問いかけても、返ってくるのは仕事のメールだけだ。

 AIとデータで管理される世界の中で、私たちはますます「うまく働くこと」に長けていく。でもその裏側で、少しずつ失われていったものがある。

“自分から動きたい”という原初的な衝動だ。

 誰かの期待ではなく、自分の欲求に突き動かされて何かを始めるあの感覚。効率化された仕事の中にいると、それが静かに、確実に削がれていく。

 だからこそ、私は気づいた。非効率であることは、ときに人間らしさを取り戻す行為なのだと。

 私にとってそれは、趣味に没頭する時間であり、何の目的もなく旅行に出ることでもある。ギターを弾くでも、ぼーっと空を眺めるでもいい。それらは生産性に寄与しないかもしれないし、履歴として残る成果もない。でも、そこには確かな“自分の意思”が息づいている。能動的に動くとき、私はようやく「自分の人生を生きている」という手応えを感じる。

 そして、もうひとつ大切だと気づいたものがある。

 友人や家族との、なんでもない会話だ。何かを成し遂げるための打ち合わせでもなく、効率的な情報交換でもない。ただ、くだらない話で笑い合ったり、沈黙を共有したりするあの時間。そんな“社会的なつながり”が、効率では測れない幸福を届けてくれる。

 不思議なもので、効率を突き詰めた先で私たちはようやく知るのだ。幸福は最短距離では見つからないと。

 現代は、効率という手段がいつの間にか目的にすり替わってしまった社会でもある。でも、その流れにすべてを明け渡す必要はない。非効率な営みを、意図的に、戦略的に、人生の中心へと招き入れていい。

 むしろ、そこにこそ自分らしさが宿る。

 生産性という名の神様に従うだけでは、心は軽くならない。むしろ、何の役にも立たないと思えるほどの「余白」こそが、私たちを静かに救ってくれる。

 今日もまた効率化を求められる日々が続く。それでも私は、その隙間に非効率な時間をそっと置く。

 それはきっと、生きるための小さな反逆であり、同時に、ほんの少し自分を取り戻すための儀式なのだ。

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