Do not stop me now

夕月夕雷

Do not stop me now

ジョセフィーヌ 主人公 

アネモネ・シェン 東方の国の貴族の娘

イエーカー・ネーショ 第二王子

ノースポール・ネーショ 第三王子

ローランド・ワーロング 王宮騎士

サウスポール・ヒッタイ 辺境候

ダリア・フェリーチェ・ネーショ 第一王子妃


 わしがまだほんの子供だった頃、轟くような音を立てる蒸気機関車に乗せられて生国を出た。丘を越え山を越え、国を二つ越えたところで線路が途絶えて汽車から馬車に乗り換えた。

「ジョセフィーヌ、大丈夫ですか」

 背まで伸びた真っすぐな黒髪に象牙色の肌をした吾の従者アネモネは、気遣うような柔らかな声で話しかけてくる。

「ナァン」

 大丈夫だ、と答えると彼女は黒目の大きな目を細めて喜ぶ。アネモネの腹に頭を擦りつけてやると更に喜んだ。汽車を降りてからの方が長くかかった。馬車より汽車の方が圧倒的に早いのだ、とアネモネの周りの輩が噂していた。


 アネモネが生まれたばかりの吾を保護して従者に立候補した東方の国は、周辺国より進んでいる、らしい。高貴な獣たる吾は理解する必要などないが、吾の生国の人間達は、他国の人間達より文明的で便利に過ごせているのだとか。そんな東方の国の貴族の娘であるアネモネは、西方の小国に嫁ぐ事になった。

「遠路はるばるご苦労でした、姫様」

 アネモネが嫁いだ国は、東方よりも髪や肌の色が薄くて背丈や、目も鼻も大振りな人間が多く住む土地だ。東方の国でも他の人間より小づくりな体格をしているアネモネなど、少しぶつかられたら転んでしまうだろう。

「初めまして、シェン家が次女、アネモネと申します」

 艶やかな刺繍が施された布の裾を捌いて、膝を曲げた礼を尽くすアネモネに、彼女の番とされた男が顔を引きつらせた。

「イエーカーだ。そちらの言い方で自己紹介するなら、王家であるネーショ家の第二子だな」

 抑揚の少ない低い声をしたイエーカーは、黄味を帯びた薄い色の髪をしていて、目の色も薄い。

「ふふ、ジョセフィーヌと同じ色ですね」

 優しい声でアネモネが言うと、イエーカーは眉間に深い皺を刻んだ。

「誰の事だ」

「あの、お手紙でお願いした子猫の名です。こちらの国では高貴な名だとお聞きして付けました」

「ふん、持参金を積み増してまで連れて来たがっていた猫の話だな。僕と動物を同列に称するのが東方のやり方か」

 負の空気をまとい始めたイエーカーに、アネモネが華奢な身体を大きく震わせる。

「失礼致しました。私にとってジョセフィーヌはとても綺麗な子なので」

 イエーカーは鼻を鳴らして背を向けた。吾の従者への無礼な態度に腹が立った吾は、アネモネの足元に置かれた籠の中から飛び出す。無言のまま静かに跳躍し、イエーカーの足に飛びついた。

「な、なんだ!」

 慌てた声を上げる男の服に爪を立てて這い登る。

「ジョセフィーヌ!」

 常にない強い調子で名を呼ぶアネモネを無視して、吾は色素の薄い男の頬を一薙ぎしてやった。

「ぎゃああ」

 汚い声で叫ぶイエーカーの身体から降りた吾は、寄って来た大きな身体の人間達の間をすり抜ける。石造りの冷たい床は走り難かったが、捕まってたまるかと必死で駆けた。

 吾の保護を買って出るような心根の良い娘を番として迎える栄誉にあやかりながら、無礼な態度で汚い声を出す男への制裁は成功したが、その後暫く隠れていたため、餌にありつけない日々が続いた。吾を探し回ってやつれたアネモネの手に戻ってやったのは、従者への優しさだ。


「我が国では菌を無害化する処理を施してから下水に流しています」

 吾は心底気に入らなかったが、アネモネは結局イエーカーと婚姻を結んだ。冷たい床の王宮で暮らす彼女は、吾の自由と引き換えに王子妃として助言する役割しごとを得たそうだ。

「疫病流行の原因が汚水だとは聞いておりましたが、そんな技術があるのですか」

「ええ、知り合いの技術者に連絡を取りましょう」

 色素の薄い人間の中でも比較的吾の生国出身の人間に近い色を持った男は、イエーカーと違ってアネモネに対しても丁寧で礼儀のある態度を取る。

「助かります。もっと他国と交流してこの国も進化して行かなくては」

 真剣な声で語る男の名はノースポールといい、イエーカーとは兄弟らしい。

「ノースポール殿下は勉強熱心でいらっしゃいますね」

 長い黒髪を手で払い、アネモネはゆっくり立ち上がる。窓枠から様子を伺っていた吾は、ノースポールの執務室を出て行くアネモネの後に続いて部屋を出た。

「はっ、また、第三王子のところか。我が妃でありながら恥ずかしげもなく」

 自室へ戻ろうと足を踏み出したアネモネの前を遮るように、彼女の番が立ちはだかった。本来番同士というのは慈しみ合う物だと言うのに、道理も知らぬ男だ。

「殿下にも同席を願う先触れを出しておりましたが」

「僕は忙しいんだ! 女の戯言に付き合う暇などない」

「申し訳ございません」

 どんなに責められても静かに謝罪するだけのアネモネの足元に、吾が窓枠から飛び降りて登場すると、イエーカーはさっと顔色を変えて後ずさる。

「く、またその醜い猫か。ぶくぶくと太ってみっともない」

「ジョセフィーヌ、いけません、お部屋へ行きなさい」

 吾を遠ざけようとするアネモネの足元で、再び顔でも引っ搔いてやろうかと背中を持ち上げて臨戦態勢に入った吾は、背後から大きな手に抱えられて警戒をやめた。

「猫殿、人間をやっつけるのはやめてくれ」

 断固とした主張を込めた低い声の持ち主は、この国で王宮騎士をしているローランド・ワーロングなる大きな男で、人間にしては相当俊敏に動ける。

「ワーロング、そいつと妃を部屋へ連れて行け」

「御意、妃殿下、猫殿はこのまま私がお連れしますので、お戻り頂けますか」

「ええ、ローランド、頼みます」

 いつかアネモネが言った吾に似た琥珀色の瞳で睨みつけて来るイエーカーに、歯をむき出して威嚇した。青ざめて慌てて撤退する姿に溜飲を下げている吾を抱えながら、ローランドは小さく肩を震わせている。

「っく、失礼。猫殿は殿下がお嫌いのようだ」

 笑いを堪えながら言うローランドに、アネモネは楽しそうな笑い声を上げた。

「ふふ、ジョセフィーヌは私を守ろうとしてくれているんです」

「ほう、女性ながら我々騎士のようですね」

「ジョセフィーヌは雄ですわ。指摘されるまで、雌だと勘違いして名付けてしまったのです」

 頬を染めるアネモネを、ローランドは湖に似た碧色の瞳で優しく見ている。

「名を変えようとは思わなかったのですね」

「他の名を呼ぶには違和感が大きくなってしまっていたんです」

 苦笑するアネモネに、吾はジョセフィーヌでかまわないと伝えるため小さく鳴いた。

「ナー」

「大きくて強そうなのに、随分かわいく鳴くのだな、ジョセフィーヌは」

 低く笑うローランドの腕は力強いが、吾を巧みに抱えている。丸まる吾の背を手の甲でそっと撫でる加減も良い具合だった。

「妃殿下、イエーカー王子はジョセフィーヌをお気に召さない様子。あまり遭遇させないよう、ご注意ください」

「ご心配ありがとう、ローランド」

「私の妻も娘も動物好きで、迷い猫の世話をしているうちに私も好きになりました。ジョセフィーヌが酷い目に遭うのはしのびないのです」

 ローランドは吾と遭遇すると礼儀を弁えて静かにしているし、時々吾に調理した鳥の肉などを貢ぐので、見どころのある人間だ。気が向いたら背を撫でるのを許してやっている。

「辺境界隈では疫病の流行が止まらぬようです。王都はまだ波が来ておりませんが、どうか妃殿下もお気をつけください」

 固い声で挨拶して去って行くローランドを、アネモネはため息交じりに見送った。吾はアネモネの寝台の横に設置された自分用の寝床に飛び乗って、丸まる。

「私は人に好かれるような者ではないけれど、ジョセフィーヌはこんなにも綺麗で愛らしいのに」

 吾はたくましく強いのであってアネモネの台詞は的外れだが、従者が主たる吾を強く慕っているのは事実だ。ふんふんと鼻息で答えてやると、アネモネは泣き出しそうな表情のまま、小さく笑った。



 アネモネの努力のお陰で、辺境界隈の疫病の流行は止まったらしい。ノースポールの母の兄だという辺境候が、大きな身体を折り曲げて真剣にアネモネに礼を言っているのを見た。

「もっと早く汚水処理について進言していれば、と悔やまれます」

 後悔の念を主張するアネモネに、辺境候は静かに首を左右に振る。

「自国より進んだ国に学ぶのを是としない風潮のせいです。妃殿下のせいではございません」

「そのような……どこに耳があるかわかりませんわ、ヒッタイ候」

「我らが辺境は、王都に引けを取らぬ地なれば、誰が何を聞いていようとかまいません」

 毅然と宣言して部屋の隅に控えている侍女達を睨みつける辺境候の眼差しは、強さを自認する吾と同じぐらい鋭い。

「失礼する、伯父上、こちらでしたか」

「おお、ノースポール殿下、息災ですか」

「ええ、元気にしています、伯父上、兄上達を差し置いて先にアネモネ妃殿下の部屋を訪ねるなど、軋轢が生まれます」

 開け放たれた扉から滑り込んで来たノースポールは、ため息交じりに苦言を呈する。彼の後ろにはローランドの姿も見えたので、どれ一つ、吾が挨拶をしてやろうと壁に備え付けられた瀟洒な猫用棚から飛び降りた。

「ナアーン」

 我ながら少々太ましくなり過ぎた腹を揺らしてローランドの足元まで移動すると、アネモネが小さく笑っている。

「あら、ジョセフィーヌは本当にローランドが好きですね」

 固い脛の筋肉に身体を擦り付けていると、ローランドがそっと吾を抱え上げた。いつもながら絶妙な力加減で、非力なアネモネよりも安心感すらある。

「ジョセフィーヌ、また、大きくなったな」

 小声で吾を褒めるローランドに喉をゴロゴロと鳴らして是を表してやった。

「立派な猫ですな、妃殿下。どこかの高貴ぶった分からず屋を成敗した事もあると聞いています」

 笑い交じりの辺境候の言葉に、ノースポールが抗議する。

「伯父上、おやめください」

「ノースポール殿下、ヒッタイは何も恐れない。いずれ我が甥たる殿下が辺境を継ぐ日までに、ますます力を蓄えて進ぜよう」

 辺境候の声色は改まり、ノースポールはそれ以上口を開かなかった。吾は心地好いローランドの腕から出され、再びアネモネの部屋に閉じ込められた。

「ジョセフィーヌ、憂鬱ですが夜会です。夜だというのに出してあげられずにごめんなさい。いい子にしていてくださいね」

 男達が去った後でアネモネは侍女達に花の香りを塗りたくられ、こちらが飛び掛かりたくなるようなうずうずするレースのたくさん付いた服を着て出て行った。

 孤独に取り残された吾が部屋中を走り回るのに飽きた頃、アネモネが帰還した。彼女を部屋へ送って来たのであろう侍女や騎士を絞め出して、アネモネは寄って来た吾の前にしゃがみ込んだ。レースがたくさん付いた服の裾が床に広がる。

「ジョセフィーヌ、もう、疲れました。確かに私は貧相です。でも! 東方の人間が幼く見えるのは人種的特徴であって、私のせいじゃありません」

「ナー・・」

 同意してやるとアネモネは吾に顔を押し付けるようにして嗚咽を漏らした。自慢の毛皮が冷たい雫で濡れて行く。

「うぅ、こんな、国、もういやぁ」

 夜会のざわめきは階を隔てたこの部屋まで届いていた。アネモネの番たるイエーカーが、また彼女に無礼を働いたのだろうか。声を殺して泣き続けるアネモネに寄り添いながら、吾はイエーカーへの復讐を誓った。



 滑らかだった象牙色の肌が渇きがちになり、長い黒髪の艶も褪せてしまった。笑顔の失せたアネモネの周囲から、吾の好む人間達は離れて行った。夜になると部屋から出されて王宮の中を闊歩する吾は、イエーカーがアネモネ以外の人間の女と睦まじく過ごしているという噂を聞いた。乗り込んで行って引っ掻いてやりたかったが、彼の部屋へ通じる道には、たくさんの騎士がいて吾でも侵入は出来ない。

「ジョセフィーヌ、夜の散歩か」

 雨の夜空を眺めて休憩していると、灯りを手にしたローランドが話しかけてきた。

「ナアァー」

「この長雨で、洪水や土砂崩れが多発しているらしい。候は蜂起するかもしれないな。そうなったら、俺も行かなきゃならないんだ」

「二―」

「安全のためには、妃殿下は帰国された方がいいだろうな。君も一緒に東方へ帰ることになるだろう」

「ヌゥ」

 アネモネを冷遇する輩の多いこの国に未練はないが、冷たい床をした夜の王宮を心行くまで散歩するのは好きだった。

「ハハ、話を理解しているみたいに鳴くんだな」

「ヴネェー」

 ローランドの肩に飛び乗って、壁を蹴って床に着地する。

「おっと」

「家族が心配だ。俺が死んだら、のんびりした妻一人で娘を育てられるだろうか」

 感傷的な風情で弱気な発言をするローランドの固い脛にいつものように身体を擦りつけてから、吾はその場から離れる。ローランドのように大きい人間の男でも、不安に感じるような事態が近づいているのだろうか。

「ああ、放したくないよ、ダリア。朝まで僕の側にいてくれ」

「いけません、イエーカー。あなたの兄君に知られたら、あん」

 いつの間にか普段は近づかない区域に足を踏み入れていた。吾が最も嫌いな男の声と、人間の女の発情した声が聞こえる。

「兄上は事なかれ主義で何もしやしない。あなたを本当に愛しているのは僕だけだ」

「ああ、イエーカー、なりません」

 恍惚とした声で拒絶するダリアという女を抱きしめて、イエーカーは興奮した様子で続けた。

「そこの部屋でいい、入ろう」

「あ、いやぁ」

 扉が開く大きな音がして、二人の姿は見えなくなる。彼らが入った部屋から切羽詰まったような声が聞こえるけれど、これ以上聞くに堪えない。

「ノォー・・」

 抗議の一鳴きを残して吾は、その日の散歩を終えた。



 辺境候が国へ支払わねばならない税や、差し出さねばならない工兵を滞納しているらしい。

「国庫から災害地域への支援の約定を守るのが先だと、父は申しております」

「ノースポール、貴様王子であったのに国より辺境の肩を持つつもりか」

 イエーカーが爪を噛みながら苛立ちも露わに問いかけると、ノースポールは辺境候の養子となってからすっかりたくましくなった体躯を見せつけるよう胸を張った。

「辺境周辺も我が国ですよ、イエーカー殿下」

「国の末端を守るためにも、滞っている税を払えと言っている」

「何度も申し上げておりますように、例年通りの税収すら危うい状況で、二倍の税は出せませんし、人員も災害復興で出払っております。このような国の有事に予定通り王宮を新たに築城して移転するなど、正気の沙汰ではない」

 熱を帯びたノースポールの演説を、吾は議場の天井近くに潜んで聞いている。

「陛下肝いりの計画を愚弄するか!」

「国で最も広大な領地を治める領主が、王家への恭順を示さねば、それこそ有事ぞ」

「我々は王家の臣、爪に火を灯してでも税を治めるが忠義じゃ」

 吾ほど優雅な肉置きししおきではないが、食に困っていそうには見えない貴族達が次々に抗議した。

「ノースポール・ヒッタイ辺境候代理、貴様は何をしに王宮へ来た? 血縁を頼って情状酌量を求めているのかと生みの父として発言を許したが、税も払えぬ、人も出せぬ、では袂を分つ宣言と同義ではないか」

 静まり返った議場で、国王が探るような口調で述べる。ノースポールは静かに立ち上がって礼をした後、何も答えずに議場を退出して行った。

「先遣隊として王宮騎士団を辺境へ向わせる。それぞれ、領地を守るための最小減だけ残し、残りの騎士団を全て辺境へ」

 国王と小声でやり取りをしていた貴族にしては痩せて顔色の悪い男が、震える声で宣言をする。ローランドが危惧していた通り、戦いになるのだと、高貴な獣たる吾は理解してしまった。



 出立の壮行会と称した夜会が行われるらしい。吾の猫生においては競合する敵がいなかったので縄張り争いへ出張った事はないが、戦いの前に集まって騒ごうなどと、人間の考えは不思議だ。吾の従者たるアネモネはノースポールが辺境へ養子入りしてしまって以降、イエーカーに邪魔されて東方の情報を伝授するという役割しごとすらこなせず、日に日に元気を失くしている。吾が飛びつきたくなるようなレースがたくさん使われた服は、もう着ていない。最低限身の回りを整える予算だけ残して、残りは災害地域に密かに寄付していると聞いた。吾に話しかける回数だけは変わらないものの、アネモネが自身の気持ちを口に出す事も減っている。

「失礼する、話がある」

 大きな音を立てて部屋の扉が開いて、イエーカーとダリアが連れ立って現れた。吾は棚の上に乗ったまま、いつでも飛び掛かれるよう背中を持ち上げて警戒態勢に入る。

「殿下、と、妃殿下」

 小声で挨拶をするアネモネに、イエーカーは口の端片方だけ持ち上げる嫌味な笑みを浮かべた。ダリアも似たような笑顔を浮かべており、彼女の周囲には屈強な体躯の騎士が3人侍って室内を見回している。

「知っているだろうが、明日、僕は辺境に出陣する。兄上は体調を崩されて寝込んでいるから、代わりにダリア妃が総指揮という名目で来て下さる」

「はい」

 小さく答えるアネモネに、イエーカーはわざとらしいため息を吐いた。

「夫に随行するのは妻たる貴女きさまの役割ではないのか。国を惑わせる賢しらぶった助言などではなく、王子を支えて侍るのが王子妃ではないのか」

「イエーカー殿下、そのように問い詰めるようなおっしゃりようでは、アネモネ殿下も答えられませんわ。わたくしのように、戦場いくさばへ付いて行こうとするなんてはしたないとお思いなのでしょうし」

「ああ、ダリア、いえ、義姉君、貴女あなたは病に伏す兄上の代わりを務めようと、国を思うお心があるのだ。はしたないなど……そのように思う輩がいるのなら、国から放逐してしまいたいほどだ」

 滔々と語り合う二人に焦れて、吾が棚から飛び降りてアネモネの足元へ移動する。最近の吾の従者は感情を露わにする機会が減ってしまっているが、イエーカーとダリアの茶番劇に付き合わされて、きっと疲れてしまったはずだ。吾が擦り寄って癒してやらねば、倒れてしまうかもしれない。

「それで、お話とは結局どういった内容でございましょうか」

 吾の体温を分けてやった事で多少は元気を取り戻した様子のアネモネは、イエーカーを見上げて聞いた。

「言っただろう? 王子妃として夫に侍るように、と」

「承知いたしました」

 淡々と承諾の意を伝えたアネモネは、そっと吾を抱き上げて頬ずりをする。

「猫しか頼れぬ哀れな妃よ」

「イエーカー殿下がお忙しくてかまって差し上げないから、ではなくて」

「ふ、仕方ないだろう、我が妃が猫を好むように、僕にも好む者があるのだから」

 目配せし合って発情した空気を醸し出す二人を威嚇してやりたかったが、アネモネが優しく顎下を撫でるのでやめた。気味の悪い人間に関わるよりも、吾の従者を慰める方が先だ。視線を絡ませ合いながら退室するイエーカーとダリアを見送ったアネモネは、隣室に待機している侍女に旅支度を命じてから、寝間着に着替えた。

「壮行会に出ずに済んだのは良いけれど、まるで泥船に乗せられているようです。王族として覚悟は出来ておりますが……あなただけはなんとしても助けたいのです、ジョセフィーヌ」

 寝台に沈んで手足を伸ばす吾に寄り添ったアネモネが囁く。

「危険はありますが、一緒に行きましょう。もしかして、ノースポール様が、あなただけなら助けてくれるかもしれない」

「ナアーン」

「ふふ、何年もここに住んだから、離れたくないだろうけど、ごめんなさい」

 夜の間中走り回った王宮を去るのは忸怩たる思いがあるが、主たる吾が従者のアネモネを見捨てるなど言語道断だ。吾は大きくたくましい。きっとどこでも生きていける。だが、アネモネは吾がいてやらねばすぐに儚くなってしまうだろう。従者のそばにいてやるのも、高貴な獣たる吾の使命なのだ。



 子供の頃ぶりに乗った馬車は不快に揺れるが、アネモネの膝で寝ていれば我慢出来ない程ではない。夜の間に外を徘徊したい気持ちを何度か我慢した末、辺境領まで辿り着いた。

「うおおおおおおおおお」

 猛々しい吠え声を発して剣を掲げる騎士を眺めながら、吾は都合よく本陣の脇に生えていた木の上に陣取っている。アネモネは吾と騎士達を交互に眺めて口を引き結んで佇んでいた。

「妃殿下、陣へは入られないのですか」

 高揚する騎士達の中で一人冷静な表情をしたローランドが、やって来る。

「イエーカー殿下とダリア妃殿下が二人きりで大切な、お話をしたいそうで」

「なんだって! いえ、失礼致しました。アネモネ殿下、どうかどうか、ご無事で」

「あなたこそ……ご武運を」

 そっと肩に伸ばされたアネモネの手に口を付ける振りをしたローランドは、湖のような碧眼を鋭くさせ、重たい足音を立てて去って行った。騎乗の騎士が先行し、歩兵が怒号と共に続いて行く。雪崩れ込むよう攻め込んだ騎士達が数名だけ這う這うの体で戻って来たのは、まだ日が高いうちだった。

「撤退します、王宮騎士団は囲まれてほとんどが無力化されました」

 泥や血に塗れた抜き身の剣を鞘へ治めつつローランドが切羽詰まった声で報告すると、慌てた様子でイエーカーが出て来る。

「なんだと、両翼からの援軍はどうした?」

 青ざめて誰何するイエーカーに、ローランドは顔をしかめて答えた。

「寝返りました」

「王家を裏切ったというのか!?」

 焦るイエーカーと裏腹にローランドは徐々に落ち着きを取り戻して行く。

「おそらく最初から辺境側だったのでしょう……とにかく急いで離脱しましょう。林を抜けた先に補給部隊が待機していますので、馬がいます」

 戦場だというのに服を乱れさせ、発情した空気を放っていたイエーカーとダリアは、両手を握りしめて立ちすくんでいるアネモネに気付いて騒ぎ始めた。

「ああ、なんてこと、アネモネ妃殿下、あなた、何をぼんやりしているのです!」

「いや、ちょうどいい、貴女きさまがここに残れ」

 ローランドは大きく目を見開いてイエーカーを睨みつけたが、すぐに表情を消して残りの騎士へ小声で何かを命じた。林の奥へと誘導されて逃げて行くイエーカーとダリアの後ろ姿を、ダリアが連れて来た侍女何名かが怯えた表情で見送った。

「大丈夫、あなた方に手出しはさせません。本陣の中に入って、片付けだけでもしていてください」

 アネモネの台詞に顔を見合わせた彼女達は、陣幕の中へ入って行く。ローランドが置いて行った騎士達は、アネモネを取り囲むようにして膝を付いた。

「恐れながら申し上げます。アネモネ妃殿下、間もなく辺境軍がこちらへ到達します。抵抗せず投降するよう進言せよ、とワーロング隊長より命じられました」

「ええ、そうします。怪我をしている者がいれば、陣の中で手当てを」

 木の上から人間達の様子をじっと眺めていた吾は、ノースポールが相手ならアネモネが酷い目に遭う可能性は低いだろうと推測する。吾は大きくたくましいので無音とは行かなかったが、静かに木から降りて着地した。

 林の中へ入った三人の行方を見つけるのは簡単だった。イエーカーとダリアが大げさな程に苦しそうに息をして走っていたからだ。吾は木々の間を華麗にすり抜け、憎き人間の近くへ寄って行く。背後からは大勢の人間の足音や金属音も聞こえて来た。ノースポールもいるという辺境側の騎士達だろう、イエーカーとダリアを捕まえようと迫っている。

「殿下、妃殿下、こちらに隠れていてください」

 ローランドの耳にも迫りくる足音が聞こえたのだろう、彼はたった一人で迫りくる騎士達の前に踊り出た。

「いたぞ! 王宮騎士だ。王子と王子妃はどこだ」

 ローランドは無言のまま剣を抜く。木々が邪魔をして上手く振れないらしく、動きが鈍い。

「今の王はもう終わりだ。武器を捨てて投降しろ!」

「そうしたいが、俺も騎士だ。最後まで、っと」

 剣で相手を押し返したローランドは、踵を返してイエーカーとダリアが息を潜めて隠れている場所とは異なる方向へ走り出した。騎士達が雪崩を打って後を追って行く。吾は僅かに追尾が遅れた騎士の目の前に踊り出た。

「ナアアアン・・・・・!」

 素晴らしく大きな美声を披露した吾に、騎士が驚いて足を止める。

「なんだ? 猫?」

「ニィニィ」

 小さく返事をした吾は騎士の前を横切って、二人が隠れている場所へ向かって駆けた。千載一遇の機会が訪れている。吾の従者アネモネをどこまでも悲しませ続けた憎き人間イエーカーに一矢報いてやらねばならない。

「キシャー」

 鋭く叫んだ吾は蹲って気配を消しているイエーカーの背に飛び乗って思う存分爪を立てた。

「ぎゃ、や、やめろ! 痛、ぐあ」

 たまらぬとばかりにイエーカーが吾を振り払う。

「キャアア」

 華麗に飛び退いた吾は、ついでにダリアの服にも爪を引っ掛けてやると、彼女は発情している時のように気味の悪い悲鳴を上げて手足を振り回した。

「にゃああああ・・・・・・!」

 再び臨戦態勢を取る吾から、二人は泡を食って逃げようとする。逃がさないとばかりに後を追いかける吾の視界が、何本かの足で塞がれた。

「王子と王子妃じゃないか、捕縛しろ!」

 ピーっと大きな音が響いて辺境側の騎士が集まって来る。騎士達の足を上って近くの木に飛び移った吾は、項垂れた様子で捕縛されたイエーカーとダリアを見つけた。

「ナア―(Do not stop me now)」

 邪魔をするな、復讐がまだ終わっていないではないか。



 猫生で二度目の蒸気機関車に揺られながら、吾は差し出された魚の干物をかじっている。

「それにしても汽車というのは素晴らしく速いですな、妃殿下」

「サウスポール様、私はもう妃ではありません」

「そうでした、シェン嬢」

「アネモネ、とお呼びください」

「ふむ、アネモネ嬢、いや、何だかご令嬢を名で呼ぶなど照れ臭いですな」

 ローランドと同じくらい大きな身体を丸めて座席に収めている辺境候、サウスポール・ヒッタイは薄っすら耳を赤く染めて照れていた。

「ふふ、サウスポール様は可愛らしいです」

「は? いやいや、年寄りを捕まえて何を」

「サウスポール様はまだ38ではありませんか、私と5つしか違いませんよ」

 口を開けて固まるサウスポールに、アネモネは小さく笑い声を上げる。

「そういえば、国を出てから自分の年齢を誰かに伝えた事はありませんでした」

「いや、ギリギリ十代ではないと思っておりましたが、東方の方はお若く見える」

 肩を竦めて長い黒髪をかきあげたアネモネは、サウスポールに流し目を送る。吾はアネモネが

『ヒッタイ候が素敵過ぎる』

『子供に興味はないのに、夫だなんて辛すぎる』

『はあ、あのひげに頬ずりしたい』

 などと騒いでいたのを知っていた。

「我がシェン家はきっと、かの国と辺境領を支えるサウスポール様のお役に立てるでしょう」

「もしや、ノースポールでなく私と縁付くおつもりか」

「もちろんですわ、ノースポール様にはお子が必要でしょう?」

「それは、いや、しかし」

 目を白黒させるサウスポールを、アネモネの隣にいる侍女が笑うのを堪えて眺めている。

「私では子供にしか見えませんか」

「いや、そのような……可憐で美しい女性だと」

「まあ、嬉しいです」

 弾んだ声を上げるアネモネと大きな身体を熱く高ぶらせるサウスポールの話声を子守唄に、吾はいったん目を閉じた。



◆◆◆

 辺境を攻める先陣を切った王宮騎士団は、数名の死者と行方不明者を出した以外は、抵抗せず捕虜となって後に王都へ戻された。生存している王族の中で国王、第一王子、第二王子、第一王子妃は、内乱の責任を問われて速やかに処刑され、第二王子妃は疫病収束と災害復興の功労として恩赦無罪となった。側妃だった母の実家であるヒッタイ家に養子となっていたノースポールだったが、新たな王朝を樹立即位した。


「母上、ジョセフィーヌはどうしたの」

「ナアン」

「あ、ジョセフィーヌ、いた! 今日もかわいいね」

「ふふ、本当に」 

 温かな春の日が東方の人間に多い真っすぐな黒髪を揺らしている。高貴な獣たる吾は今もアネモネと共にある。人間の子供の小さな柔らかな手をザリザリと舐め、吾は新たな縄張りとなった辺境の風を感じていた。

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