曰く付きの人形

青いひつじ

第1話



男は困っていた。

というのもこの頃、男の頭の中は会社を辞めたいという考えでいっぱいなのだ。特別な不満があるわけではなかったが、漠然とそう考える日々が増えていた。


この小さな悪魔のような感情は、気まぐれに訪れては男の心を突っついた。そうしてすぐに、男はあれこれと思考を巡らすのである。

自分の体調が悪いことを理由に…。いやしかし、診断書を提出しろと言われた面倒だ。では親の体調を理由にしてみるか。いや待て。たしか、この会社は副業が禁止だったな‥‥知らなかったふりをして何か始めてみるか。

とは言っても、新しく挑戦したいことがあるわけではないので始めるにいい副業は思いつかないし、思いついたとしても面倒くさいという感情が男に覆い被さり、どうも身動きがとれないのだ。

こうして勢いよく膨らんだ風船は、すぐに空気が抜けてしぼんでしまうのであった。

とにかく、男は仕事が退屈で、なにか外部要因によって退職する方法を探しているのだが、今のところいい案は見つかっていない。


今日も男は、あれこれと辞める手段を考えながら自宅に向かっていた。惣菜を買いスーパーを出た瞬間、どこからか視線を感じ辺りを見渡した。視線の主は、向かいにある骨董屋のショーウィンドウの中にいた。


「なんだこの人形は…」


近づいてガラスの中を覗き込むと、男は気味悪そうに顔を歪めた。

日本人形ではない。かといって海外のおしゃれなドールとも異なる。

しかしどこか似た要素もあった。黒く艶々の髪は親しみを感じさせ、青い瞳は異国を感じさせる。刺繍が施されたベストはどこかの国の民族衣装らしかった。そのチグハグさが何とも言えない異質な雰囲気を醸し出していた。


「…なんか不気味だな…」


『その人形が気になりますか?』


突然の背後からの声に男が素早く振り向くと、立っていたのは髭を生やした老人だった。この店の店主だという。


『なにかお悩みがあるようで』


「い、いえいえ。悩みなどありませんよ。この人形に見られているような気がして立ち寄っただけですので、失礼します」


『おやおや、またですか…』


その場から去ろうとした男だったが、店主のため息混じりの言葉に足を止めた。


「また?と、言いますと?」


『ここで人形を眺める人々はみな、あなたと同じようなことを言うのです。人形が意思を持つはずはないのに、呼ばれた気がした、見られている気がした、と。あまりの疲弊に神経が敏感になっているのでしょうね。そうしてこの人形を連れて帰って、最後には返しに来るのです』


「返しに来る?」


店主は左の口角を上げて嫌な笑みを浮かべた。


『曰く付きの人形なんですよ。しかし、ここに立ち寄る人々はその"曰く"を求めているのです。身に災いが降りかかることで仕事を辞めることができるのですから』


男はひらめいたようにハッとして、ガラスの中の人形を見た。先ほどまで不気味な呪いのように見えていた人形が一変し、暗闇から引っ張り出してくれる救世主に見えた。

それから決断までに時間はかからなかった。


「なるほど。災いが降りかかることで、会社を退職できるというわけだな。うむ、ぜひこの人形を私の家に迎え入れよう。いくらお支払いすれば」


『無料でお貸ししますよ。その代わり、無事退職されましたら人形はご返却ください。3ヶ月が経つ頃には皆さんスッキリした顔で人形を戻しにいらっしゃいますよ。きっと円満に退職できたのでしょうね』



男は帰宅すると、ジャケットを脱ぐよりも先にタンスの上の埃を綺麗に拭き取り、人形を座らせた。就寝前には人形にハンドタオルをかけ、寒さから守った。

布団に入って眠ろうとすればするほど、頭はどんどん冴え渡った。こんなに明日が待ち遠しい夜はいつぶりだろうか。もうすぐあの職場とおさらばできると考えるだけで、心がくすぐられるようにそわそわして眠れなかった。






3ヶ月後。骨董屋の中には約束通り人形を返しにやってきた男の姿があった。


「ありがとうございました。人形お返しします」


スーツ姿の男は、以前よりもスッキリとした表情だった。


『おぉ、その表情。あなたも無事退職できたようでなによりです。それで、一体どんな災いがふってきましたか』


そう聞かれた男は頭を小さく横に振った。


「災いなんてとんでもない。この人形が家に来てからというもの、新しい仕事が舞い込んできてとても順調な毎日ですよ。上司からも部下からも頼りにされてまして…。なので今私が会社を離れることはできません。それにやりがいも感じるようになってきましてね」


『そうでしたか。頼られて辞められなくなるというのは災いとも言えるかもしれませんが、仕事がうまくいってよかったですね。これからも頑張ってください』


「えぇ。退職については一度保留にします。ありがとうございました」



男は人形を返却すると、深く頭を下げ、骨董屋を後にした。

男が去って少しすると、レジの奥にある電話が鳴った。



『もしもし?私です。株式会社A商事の人事のものです。どうですか、止められましたか?』


『えぇ。退職については保留にするそうですよ』


『それはよかった。彼が退職を考えていることを知らせてくれて実に助かりました。おかげで未然に防げました。今回の報酬も少し多めにつけておきますね』


『いつもありがとうございます』


『いえいえ。これからも頼みますよ。なんたってうちの会社は離職率が低いのが売りですから』


『はい』


骨董屋の店主は電話を切ると、人形の髪をとかしてショーウィンドウに飾った。

行き交う人々を人形は青い瞳で見つめていた。

次は誰が来るかなと待ちわびるように。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

曰く付きの人形 青いひつじ @zue23

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ