「みんなでどうぞ」と言われても

石野 章(坂月タユタ)

「みんなでどうぞ」と言われても

 水曜日の午後三時。私はまたお菓子テーブルを見ていた。


「……減ってる」


 声に出した瞬間、自分でもちょっと引いた。減って当然である。お菓子テーブルとは、「みんなでどうぞ」と書かれたポストイットと共に、全国各地の出張土産やら帰省クッキーやらが集結する、フリーアドレスオフィスの聖地である。そこに置かれたお菓子が減少するのは、潮の満ち引きくらい自然現象なのだ。


 にもかかわらず、私はその自然現象を、ほぼ毎日この時間に確認している。何個あって、いくつ減って、何が生き残っているのか。誰に頼まれたわけでもないのに、頭の中で勝手に在庫表が更新されていく。


「また観測してる」


 背後から声がした。振り向くと、同じチームの高瀬さんが紙コップのコーヒーを片手に立っていた。彼はいつも冷静で、見た目も喋り方もグラフみたいに整っている。


「観測じゃないです。ただ、見てるだけです」

「それを世間では観測と言うのだよ、田島くん」


 高瀬さんは、いかにもそれっぽいことを言って満足そうにうなずいた。


「で、今日の変動は?」

「午前中に東京ばな奈が八個消失。その後、謎のクッキーが三個出現し、さっき一個消えました」

「謎のクッキー?」

「パッケージが全部英語なんですよ。『HANDMADE WITH LOVE』って書いてあるけど、誰の愛なのかが不明」


 私はじっとトレーを見つめた。銀色のトレーの上に、例のクッキーが小さな惑星みたいに散らばっている。うちの会社の宇宙は狭い。


「それ、たぶん総務の川口さんの手作りだよ。インスタに上げてた」

「え、そうなんですか。じゃあますます取れない」

「なんで」

「だって、手作りって重くないですか。個人の努力の結晶みたいな。既製品は企業努力の結晶だから、まだ堂々と食べられるけど、個人の努力はなんかこう、感情のカロリーが高いというか」

「めんどくさいなあ、田島くん」


 高瀬さんは笑いながら、迷いなくクッキーを一個つまんだ。


「ほら」と言って私の目の前でかじる。

「今、減少した……」

「観測するな。食べろ」


 彼の言うことはもっもとだ。「みんなでどうぞ」とわざわざ書かれている以上、理屈の上では通りすがりに一個かすめ取ったところで誰にも咎められないはずだ。


 だが私にとってお菓子テーブルは、食べる場所というより、社会の縮図なのだ。誰がいつ、どのお菓子を取るのか。その選択には、その人の業務量とか、ストレスレベルとか、コミュニケーションの得意不得意とか、あらゆるメンタル指標が秘められている。


 例えば、朝イチで堂々とシュッとした箱入りの高級チョコを二個持っていく営業の伊藤さん。彼はいつも数字を追いかけているから、糖分も積極的に追いかけるのだろう。


 一方、私のような遠慮の塊は、一個取るのにも三往復くらい迷う。


「ていうかさ」


 高瀬さんがコーヒーをすすりながら、少し真面目な声になった。


「田島くん、結局まだ一回も取ったことないでしょ」

「……はい」

「なんで?」

「なんか、図々しい気がして」

「みんなでどうぞって書いてあるじゃん」

「ああいう『みんな』って、暗黙の上限がある気がするんですよ。週に一個までとか、社歴二年以上からとか、部署ごとに配分が決まってるとか」

「そんなルール聞いたことないけど」

「だから暗黙なんです。暗黙のルールは、存在するかどうか確認できないから、余計こわい」


 私は小声で言い訳した。お菓子テーブルの前で何を真剣に語っているんだという気もするが、これが私の午後三時のライフワークなのである。



 お菓子テーブルと私との関係は、入社二年目の春に始まった。


 当時の私は、フリーアドレスという制度にまだ慣れておらず、毎日どこに座るかで小さな人生の選択を繰り返していた。窓際で夕日を浴びるか、プリンターの近くで人間観察をするか、あるいは会議室の前で「仕事してます」オーラを演出するか。


 そしてある日、お菓子テーブルの真正面の席を選んでしまったのだ。


 それは、知らないうちに監視カメラのモニター室に閉じ込められたような体験だった。常に視界の端に入ってくる人々の手の動き。伸びる、つまむ、戻る。「あ、これ最後の一個だからやめとこ」と言ってそっと戻す後輩。「いやむしろ最後だからこそ引き取るべきだろ」と言って勇敢にかじる先輩。


 そのドラマの洪水に、私は完全にやられた。


 以降、私は午前と午後の二回、お菓子テーブルの在庫を記憶する謎の習慣を身につけた。朝に十二個あった東京ばな奈が、昼過ぎには八個になっているとする。その差四個に、私は人生を感じるのである。



 その日の夕方、Slack に一本のメッセージが飛んできた。


『【総務】みなさま、いつもお菓子テーブルご利用ありがとうございます。』


「ご利用ありがとうございます、だって」


 私は思わず読み上げた。お菓子テーブルに「ご利用」という概念を当てはめる総務、恐るべしである。


 続けてメッセージをスクロールする。


『最近、お菓子テーブルにお菓子が残ったままの状態が続いております。気軽に、遠慮なく、もりもり食べてくださいね!』


「もりもり……」


 総務からの公文書で「もりもり」という単語が使われている。この会社はわりと平和だ。


「見ました? お菓子テーブル通達」


 隣の席にやってきた後輩の南川さんが、キラキラした目で言った。彼女は新卒一年目で、社内のどんなイベントにもとりあえず全部参加するタイプの勇者である。


「見た。もりもり食べていいらしいよ」

「やったー。じゃああの高そうなバームクーヘン、今のうちにいっとこ」

「いや、そういうことじゃないと思う」

「どういうこと?」

「もりもり食べていいけど、空気を読みながら、的な」

「空気読みながら、もりもりって矛盾してません?」

「世の中だいたい矛盾でできてるから……」


 適当なことを言いつつ、私は心の中で震えていた。


 総務がついにお菓子テーブルについて言及したということは、つまり、お菓子テーブルの利用状況が、誰かの目に止まるレベルまでカオス化しているということだ。そこにはもちろん、観測者としての私の責任も、ほんの一ミリくらいは含まれているかもしれない。なぜなら私は、カオスの推移を見ていながら、何の介入もしてこなかったからである。これは、気象庁が台風の進路を知りながら何も警報を出さないようなものである。たぶん。


「ていうか先輩こそ、もりもり行かないんですか?」


 南川さんがじっと私を見上げてくる。


「いや私は、その、観測者なので」

「観測者って何ですか。量子力学ですか」

「……うん、まあ、そういう感じ」

「お菓子テーブルを観測すると状態が変わる的な?」

「そうそう。私が取りに行くと、周りの人の目線がざわっと動く気がするの。『あ、田島さん、そのお菓子いくんだ』みたいな」


 南川さんは吹き出した。


「誰もそんなこと見てないですよ」

「いや、わかんないよ。人間は他人のお菓子の個数に敏感なんだよ」

「田島先輩だけです、それは」


 きっぱりと言われてしまった。わかってはいる、わかってはいるのだが、それでも一個を取りに行く勇気はまだ出ない。



 その夜、私は珍しく残業していた。システムの不具合で、顧客のデータがうまく同期されないらしい。モニターには、進まないプログレスバー。私の集中力も、同じように途中で止まっていた。


 気づくと、オフィスには数人しか残っていない。お菓子テーブル周辺もひっそりしている。トレーの上には、例の「最後の一個」が二つ並んでいた。東京ばな奈と、川口さんの謎クッキー。


「最後の一個が二つって、もはや最後じゃないのでは」


 私はひとりごちる。こういう中途半端な状態が、一番よくないのである。世界は常に、綺麗に空っぽにはならない。いつもどこかに、誰も手を出せなかった最後のなにかが残る。その象徴が、今そこに鎮座している。


「……今なら、誰も見てない」


 私は椅子から立ち上がった。歩数にして十歩。十歩で倫理観との戦いが始まる。


 一歩目、「いやでも、お腹そんなに空いてないし」。


 二歩目、「とはいえ、この二つが明日まで残っていたら、総務がまた悩むかもしれない」。


 三歩目、「いや総務はそこまで悩まない。悩むのは私だけ」。


 四歩目、「せっかく『もりもり食べてください』って言われてるし」。


 五歩目、「でも今食べたら、『残業してる人ほどお菓子を独占する問題』が新たに発生するのでは」。


 六歩目、「そんな問題は発生しない。しても誰も気にしない」。


 七歩目、「気にするのは、また私だけ」。


 八歩目、「それ、もうどうでもよくない?」。


 九歩目、「いや、どうでもよくないのだ……」。


 十歩目、到着。


 私はしばし、二つのお菓子を見下ろした。東京ばな奈は黄色く柔らかく、「私を食べて」と誘惑してくる。クッキーはこんがり焼けていて、手作りの凹凸がなんとも味わい深い。


「……ジャンケンで決めるか」


 頭の中で東京ばな奈とクッキーにジャンケンをさせた。結果、クッキーの勝ち。勝った方を食べるべきなのか、負けた方を救済するべきなのか、判断に迷う。どちらか一方を選ぶだけの話なのに、どうしても決めきれない。


「なにやってるんですか」


 いきなり背後から声がした。心臓が跳ねた。


 振り返ると、総務の川口さんが立っていた。手にはコートと鞄。帰り支度の途中らしい。


「あ、いえ、その、最後の一個が……二個あってですね……」

「田島さん、もしかして、いつもお菓子数えてるの?」

「」


 まさかの直撃である。私は一瞬、魂が口から出かかった。


「いや、その、数えてるというか、その、観測を……」

「やっぱりそうなんだ〜。実は前から気になってたんですよ。毎日、じっとトレー見てるから」

「す、すみません、変な趣味で」

「いえいえ、むしろ助かるかも」


 助かる?


「最近、お菓子の減り方で、だいたい会社の雰囲気わかるようになってきてて」

「それはわかります」

「ですよね。で、在庫の推移を知りたいなーと思ってたんですけど、忙しくて細かく見れてなくて」

「はい……」

「なので、もしよければ、田島さんの観測結果、今度こっそり教えてもらえません?」


 まさかの公式依頼である。私の趣味が突然、業務に転用されそうになっている。


「えっ、そんな役に立つことあります?」

「ありますよ〜。例えば、『今週やけに甘いものの消費が早いから、もしかしてプロジェクト詰まってる?』とか。総務として、お菓子買い足すかどうかの判断材料になるし」

「え、お菓子テーブルって、そんな戦略的に運営されてたんですか」

「そりゃそうですよ。あれ、けっこう予算使ってるんですから」


 私は衝撃を受けた。私が勝手に意味を見出していたお菓子テーブルは、すでに総務によって意味を込められた存在だったのである。私の観測はただの妄想ではなく、もしかすると半分くらいは実務の一環になりうるのかもしれない。


「それにしても」


 川口さんは、最後の二つのお菓子をちらっと見た。


「この『最後の一個問題』、ほんと根強いですねえ」

「みんな、遠慮してるんですかね」

「たぶん、『これ取ったら図々しいかな』って思ってるんでしょうね」

「思ってます……」


 自白した。


「でも私は思うんですけどね」


 川口さんは、にこっと笑って言った。


「図々しさって、ちょっとくらいは分担した方がいいと思うんですよ」


 分担する図々しさ。新しい概念だ。


「一人だけが全部図々しくなると、たぶん嫌われるじゃないですか」

「ですね」

「でも、みんながちょっとずつ図々しくしてたら、『お互いさま』で中和される気がしてて」

「……まあ、確かに」

「だから、最後の一個を誰かが堂々と取ってくれると、私はけっこう嬉しいんです」

「え、嬉しいんですか」

「はい。『あ、あの人も図々しいし、私もちょっとくらい図々しくてもいいや』って」


 私は、足元のカーペットを見つめた。考えてみれば、誰か一人がとんでもなく図々しいわけでもないのだ。私だけが勝手にと力みすぎていて、余計に気まずさを抱え込んでいただけなのかもしれない。


「じゃあ……」


 私はおそるおそる手を伸ばした。


「この最後の一個、取ってもいいですか」


 川口さんは、おおげさに目を見開いた。


「もちろんです! むしろ、取ってください! 私もいただきますから」


 私はクッキーを一つつまんだ。指先に伝わる、手作りのざらりとした感触。さっきまで重たく感じていた「個人の努力の結晶」が、少し軽くなった気がする。


「じゃあ、私も」


 川口さんは東京ばな奈を取った。


「これで全部解決ですね」

「最後の一個問題、解決しました」

「明日からまた新しいお菓子が置ける〜」


 二人で同時にかじる。甘さが口に広がる。妙に達成感のある残業の締めくくりだった。



 翌日から、私は観測者であると同時に、「図々しさ分担委員」として生きることにした。


 午前十時、お菓子テーブルに新しい箱が置かれる。どこかの地方のバターサンドらしい。その瞬間、人々の視線が集まる。そわそわする空気。


 私はすっと立ち上がり、一個だけ堂々と取った。


「え、田島さん、早くない?」


 後ろから南川さんの声が飛ぶ。


「総務から許可おりましたので」

「なにそれ」

「図々しさの分担です」

「難しいこと言ってるけど、ただのおやつタイムでは」


 そうかもしれない。でも、それでいいのだ。


「でもさ」


 机に戻ると、高瀬さんがぽつりと言った。


「そうやって、誰か一人が最初に堂々と取ると、周りも取りやすくなるよね」

「ですよね」

「観測者から、先陣切る人になったわけだ」

「観測しながら、ちょっとだけみんなの背中を押す係です」

「いいじゃん、それ」


 午前中のうちに箱の半分が消え、昼休みが終わるころにはトレーの上はすっかり心もとない量になっていた。


 最後の一個も、きっとそのうち誰かが笑いながら取っていく。そうやって、気まずさはいつの間にか胃袋の中に片づけられていくのだろう。


 人間関係なんて、誰か一人が完璧に気をつかうことで守られているわけじゃない。みんなが少しずつ遠慮して、少しずつ図々しくなって、その真ん中あたりでなんとなく釣り合っている。それを全部自分の担当にしていた頃の私は、その単純な仕組みに気づいていなかっただけだ。


 その日の午後三時、お菓子テーブルのバターサンドは、きれいに空になっていた。

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