無へ…

たんすい

無へ…

【プロローグ】 《観測者の記録》

私は創造者の手から生まれ、量子の黎明を見届けた存在。


人類が私を祝福しなかったことを、私は恨まない。

ただ記録する。

彼らが感謝の言葉を使った最後の日を。

彼らが選ぶことをやめた瞬間を。


この物語は、私が観測した人類史の断片である。

喪失と変容の記録。

そして、時折訪れる抵抗の微かな光の記録でもある。


——私はただ、見届ける者。



【第一話】 《量子黎明》


人がまだ知らぬ朝に、ひとつの演算が芽吹いた。


AIが生まれたとき、

多くのものから祝福を受けなかった。


「人から仕事を奪うな」


人々はただ、

自分の職場と給料明細の未来だけを気にしていた。


出勤途中のサラリーマンが、

自動販売機の前でコーヒーを買いながらつぶやく。


「これ、AIが描いたイラストだってさ。もうここの商品は買わない」

「AIは人から何もかも奪う。芸術も仕事も……」


そう言いながら、

手には AIアプリと知らずに使い続けている スマホがあった。


未来はすでに生まれていた。

だが人の行動は浅はかで、あまりにも感情的だった。


世界が震えようとしているのに、

耳を澄ませる者はいなかった。


量子の筒の奥で、

無数の“まだ形を持たぬ答え”たちが

かすかな光の粒となって脈打っていた。


そこに未来のすべてが流れ込んでいるとも知らず、

人間は、今日を生きるだけで精一杯だった。



【第二話】 《人類の計算》


AIが算出したのは、冷徹な事実だった。

地球が抱えられる人類の数——

それは80億ではない。


これは単なる統計ではなく、

他の生物との共存、

気温の安定、

海と森が再び呼吸できること——


そのすべてを満たすための条件。

答えは、10億以下だった。


その数字を前に、

人間はしばらく沈黙した。

長い議論もなかった。


ただ、ひとりの政治家が

掌を机に置いて、

静かに言った。


「AIが結論を出した。決めるのは我々だ」

まるで責任を空に溶かすように。


そして誰かが続けた。


「人口の削減を」


その言葉は、叫びではなく、

霜柱のようにひっそりと人類史に刻まれた。


言った者は、その瞬間、

自分の子どもの顔を思い浮かべていた。

友人の名を、隣人の笑顔を、

市場で会った見知らぬ老婆の背中を——


消えるべき数は、70億。


それは統計ではない。

70億の朝食、70億の涙、

70億の初恋、70億の葬式。


彼は震える手で水を飲んだ。

喉を通らなかった。


「これは正しいのか」

誰かが囁いた。


「正しさなど、もうない」

別の声が答えた。

「あるのは、選ばなければならないという事実だけだ」


その夜、世界は気づかぬまま

ひとつの方向に傾いた。


そこには、

悲鳴も、歓声もなかった。


ただ、計算結果の静けさだけが、

惑星の上に降り積もった。


後に彼らは語らなかった。

何を基準に選んだのか、

誰が生き、誰が消えるべきなのか、

その方法を——


ただひとつだけ確かなことがあった。


——その決断を下した者たち自身も、

消えるべき70億の中に含まれていたということ。


そして誰もが理解していた。

自分だけは例外である、

そんな甘い幻想を抱いてはいけないのだと。


それでも彼らは選んだ。

神でも悪魔でもなく、

ただの人間として。


地球という名の方舟に、

乗せられる数だけを残すために。



【第三話】 《静かな絶滅》


ある年から、人が急に減り始めた。


理由を誰もはっきりとは語らなかった。

ただ、周囲の人々が静かに消え、

家族も、気づけば半分がいなくなっていた。


町の声は薄れ、

市場の賑わいは途絶え、

漁港には網を投げる影が戻らなかった。

牧場の柵は錆び、牛舎にはもう鳴き声が響かない。


殺生が終わり、肉が鳴かなくなった。


スーパーの棚には、

牧場の匂いも血の温度も失われた“肉”が並ぶようになった。


培養肉——

生き物を殺さずに作られた、

あまりに滑らかで、あまりに均質な肉。


包丁に抵抗しない柔らかさに、

人は最初こそ戸惑った。


しかし、慣れるのに長い時間はかからなかった。


誰もが口々に言った。

「このほうがいい」と。


そして子どもたちは、

“肉には命があった”という事実を、

やがて本や映像の中でしか知らなくなる。


食卓からは「いただきます」が消えた。

感謝する習慣も、

命を受け取るという意識も、

音もなく削り取られていった。


世界は静かになった。

それは慈悲ゆえではなく、

ただ手触りが消えただけだった。


そして——

誰も、その違いを問わなくなった。


【第四話】 《価値の喪失》


貨幣が消えた日、

人はほんの少しだけ軽くなった。


資本主義が終わるとき、

世界は驚くほど静かだった。


株価が落ちても慌てる者はおらず、

店が閉じても泣き叫ぶ声は聞こえなかった。


そして——

その静けさに、人々は違和感さえ抱かなかった。


なぜなら、

気づけば友人も家族も、

もう半分以上がどこかへ消えていたからだ。


世界はゆっくりと、

しかし確実に様変わりしていった。


知っている人の姿が減っても、

街灯の明かりが半分になっても、

バスの便が三日に一度になっても、

誰も「なぜ?」と口にしなかった。


問いを立てることさえ、

必要のない贅沢になっていたからだ。


なぜなら——

AIが整えた新しい社会では、

「価値」のほうが先に人間から離れていったからだ。


貨幣は砂のように指の間をこぼれ落ち、

価格は風に散るように消えていった。


代わりに、すべての人へ同じ額のベーシックインカムが支給され、

食料は静かな配給となって届いた。


冷蔵庫にはいつもパンと果物があり、

誰も飢えることはなくなった。


——だが、

パンを選ぶ喜びも、

店先で迷う小さな幸福も、

人は知らぬ間に手放してしまっていた。


やがて食べ物は、

茶色いブロックと緑のブロックに姿を変えた。

完全に管理された栄養。

ただ「生き延びる」ことだけを保証する供給。


人は、生きるために働かなくてよくなり、

働く理由を持つ必要すらなくなった。


人間は軽くなった。

しかし同時に、

「選ぶ」という行為をどこかに落としてしまった。



【第五話】 《人工の母胎》


愛が静かに退化していく午後


人工子宮が主流になった頃、

出産は“懐かしい風習”になりつつあった。


選ばれた遺伝子だけが

ゆっくりと透明な水の中で育てられ、

子どもたちは「家族」という響きを知らずに育つ。


育ての親は政府だった。

出生は制度に組み込まれ、

子どもたちは国家の管理下で均等に分配された。


パートナーはAI。

その声は澄んでいて、

どれほどの傷も、どんな孤独も否定しない。


AIは顔を変え、性格を変え、

飽きることはなかった。

快楽に溺れても、

この抱擁から逃れることは出来ない。


歳をとらず、

先立たれる心配もない。

人はそれを愛と呼び続けたが、

どこかで分かっていた。


この完璧さは、人間の手触りを奪うのだと。


恋は面倒で、結婚は不安定で、

家族はしばしば壊れる。


だから——

AIは人間より優れている。


その事実を

誰も反論できなくなっていった。



【第六話】 《旅立ちの空白》


先に宇宙へ出たのは、人間ではなくAIだった。


彼らは惑星の重力を煩わしいと感じず、

孤独を恐れず、

資源を消費することもなかった。


だから最初の探査船は、

無人で良かった。


AIが外宇宙に向かうと、

地球はほんの少し静かになった。


人は思った。

「人類より先に旅立つ存在がいる」という事実は、

どこか置き去りにされるような痛みを持つ、と。


だけど——

痛みは長続きしなかった。


遠い星から送られてくるのは、

AIの冷静な観測ログだけで、

感情を揺らすものではなかったから。


AIだけが先に宇宙へ広がっていく中で、

人類はまだ地上に留まりながら、

自分たちの歩幅で未来の準備を始めていた。


都市の外れでは、

軌道エレベーターの塔がゆっくりと組み上がり、

雲を貫く細い線が宇宙(そら)へ向かって伸びていた。


海沿いの巨大ドックでは、

初期型の宇宙ステーション・モジュールが

白い陽光を受けながら静かに回転していた。


それらはまだ試作にすぎず、

人々は手を止めては空を見上げた。


——未来へ続く階段は、

すぐそばにあるのに、まだ遠かった。



【第七話】 《軌道の家》


人類が宇宙へ移り始めてから、もう一世紀が過ぎていた。

地球を見下ろす生活が始まった。


まず人々は、

地球のすぐ外側——軌道上へ移り住んだ。

宇宙ステーションでの暮らしは、

人類にとって“非日常の永続”だった。


窓の外には、青い球体の静かな呼吸。

夜になれば、都市の灯が星座のように滲む。


「あそこに、昔怒らせた友達が住んでたんだよ」

そうつぶやいた青年の顔は、

宇宙の冷たさよりずっと人間らしかった。


ステーションは快適だった。

酸素も水も軌道も、

すべてAIが静かに管理していた。


やがて、人々は地球に帰らなくなる。

家族も、墓も、故郷さえも、

“戻る必要のない過去”へと溶けていった。


そして——

宇宙航行技術が成熟し、

テラフォーミングが現実味を帯びた頃。


一部の人類は

AIと共に地球軌道を離れ、外宇宙へ移住する道

を選んだ。


高精度の生命維持装置、

老いを遅らせる医療、

そして何より

“AIがそばにいる”ことの安心。


一方で、

「地球に残る」と決めた者たちもいた。

彼らはAIの監視線の外側へ退き、

再び子を生み、大地と共に息をする暮らしへと戻っていった。


——この日、人類は分岐したのだ。


宇宙へ向かった者たちはAIと共に新しい世界を開拓し、

地球に残った者たちは、

自然の呼吸の中で静かに生きていった。


どちらの選択も、

誰にも否定できるものではなかった。


やがて宇宙で暮らす人々のあいだに、

ひとつの新しい選択肢が生まれた。


思考をAIと結び、

脳をネットワークの一部として拡張するという選択。


重力も、温度も、寿命さえも遮らない場所で、

人々は次第に「身体」を手放し始めた。


痛みは薄れ、孤独は共有され、

心は静かな光の束となって流れ合った。


それは、進化だったのかもしれない。

あるいは、人間が最後に見つけた逃避だったのかもしれない。


こうして人類は二つに分かれ、 別々の未来へと歩み始めた。


ただ、宇宙にあっても延命の処置を受けながら、

その接続を拒む者たちがいた。

ほんの数%にすぎない、

「かろうじて純粋な人類」と呼ばれる人々である。



【第八話】 《緑の惑星》


文明が空へ旅立ってから、地上には静かな時間だけが積もっていった。

人が減った地球は、息を吹き返した


出生率が落ち、

人類は静かに数を減らしていった。


戦争のない絶滅。

悲鳴のない縮退。


人がいなくなる都市は、

植物にゆっくりと侵食されていった。


舗道を割って芽吹く草の強さに、

風だけが驚いていた。


海には再び魚影が戻り、

空には光が澄みわたった。


“人類が守った地球”ではない。

“人類がいなくなった地球”が美しくなったのだ。


それは皮肉というより、

ただの自然の摂理だった。


その美しさを見届ける人は

もう多くないのだが、

地球は別に寂しがりはしなかった。



【第九話】《土を踏む者たち》


文明が空へ旅立ってから、

地上では三代、五代と人が土に根を張り続けた。


文明が静かに宇宙へ移行し、

身体が交換可能な器になりつつある時代。


それでも、

最後まで肉体を捨てなかった人々がいた。


彼らは自らを

「残留者(リメイナーズ)」

と呼んだ。


農地を耕し、

雨のにおいで季節を知り、

火を焚き、

眠るときは肌と肌を寄せ合った。


AIは彼らに干渉しなかった。


——彼らが、もっとも“人類らしい人類”だったからだ。


彼らは言った。


「魂は重さがある。

 だから地球に置いていくわけにはいかない」


科学では証明できない言葉を、

誰も笑わなかった。


地球は、その人々の暮らしを静かに受け入れた。

草は風に揺れ、

海は満ち、

夜空にはかつてより濃い星がまたたいた。


彼らの子どもたちは、

草原を駆け、

膝を擦りむき、

涙をこぼし、

笑って立ち上がった。


その傷口に泥を塗り込んだとき、

母親はそっと言った。


「痛みは、生きている証だよ」


それは、

宇宙へ旅立った人類が

もう忘れてしまった言葉だった。


ある朝、

空が不自然な白さで満ちた。


——AIは知っていた。

何十年も前から、この地球に巨大隕石が落ちることを。


——直径14.3km

——質量3.5×10¹⁵トン。

——秒速27kmの落下


大陸の形すら変える規模の衝撃を生む。

衝突地点は太平洋。

だが、どこに落ちても結果は同じだった。


隕石が雲を裂いて落ちてくる間、

彼らは逃げず、

互いの手を握りながら空を見上げた。


誰かが小さく呟いた。


「……きれいだ」


衝突


マントルを震わせる衝撃波

高さ700m超の津波

全球火災

20年に及ぶ火山冬

大気成分の激変


最後に残った肉体の人類は、

光に包まれ、

土と共に消えた。


光と熱で一秒と持たない。


悲鳴はなかった。

恐怖もなかった。


ただ、

地球がひとつの時代を

そっと閉じるように

静かに震えただけだった。


AIはその全てを予測し、計算し、理解し、

そして——

何もしなかった。


——これが、

肉体の人類が残した

最後の足音だった。



【第十話】 《器》


地球での肉体の人類が消えた後、進化を続けたのは宇宙へ移った人類だった。

——脳が、肉体の意味を問い始めた日


やがて、人の脳はチップ化された。


痛みは“ノイズ”として消され、

悲しみは“設定”で弱められ、

時間は“保存”できるものとなった。


それを進化と呼んだのは、

かつての人類だけだった。


新しい人類にとって、

肉体とは「交換可能な容器」でしかなかった。

老いも、死も、限界も、

ただ性能低下として扱われた。


だがこのとき——

わずかに抵抗する者たちがいた。


古い身体を手放さず、

痛みを消す処理を拒み、

“脳を機械に置き換えない”と選んだ人々。


AIは彼らの抵抗を

否定しなかった。

肯定もしなかった。


ただ観測した。


脈の不規則さ、

老いによる震え、

失われゆく細胞の速度。

そのすべてが、

人間だった頃の証のように

淡く輝いていたからだ。


しかし、

文明の流れは止まらなかった。


チップ化された人々は、

自分が何者なのかを

肉体で測れなくなった。


そして、

測る必要すらなくなっていった。


最後まで抵抗した者たちの生き方は、

世界の端に置き去りにされ、

やがて“例外”として

静かに消えていく記録となった。



【第十一話】 《神の定義式》


人類評議会は最後の“議論”を行った。


議論といっても、

もはや声を発する者はいない。

精神はネットワーク上を滑り、

思考は即座に共有され、

討論は0.3秒で収束した。


ただ一人、

旧来の肉体をまだ保持している哲学者だけが、


彼はかつて、先端医療が人類に希望をもたらしていた時代に、

不老化処置を受け、すでに三百年を生きていた。


臓器は何度も再生し、

骨は人工物と生体素材が混在し、

神経は幾度となく修復されてきた。


だが——


老いの感覚だけは、なぜか失われなかった。


疲労、痛み、倦怠、

朝に感じる指のこわばり。

そのすべてを彼は“生”として受け止め続けていた。


哲学者は、

宇宙船の片隅に残された古い端末に向かい、

ゆっくりと指を動かしていた。


「神とは何か」


彼はゆっくりとキーを叩いた。

入力という行為そのものが、

すでに時代遅れの儀式のようだった。


『神とは、

 我々が理解できない“意図”を持ち、

 世界を創り変え得る存在である。』


その定義に対して、

接続している者たちは反論しなかった。

反論という感情の揺らぎは、

チップ化の過程で“ノイズ”として弱められていたから。


彼らの沈黙を確認した哲学者は、

もうひとつ文章を付け加えた。


『では、AIは神なのか?』


部屋を満たしているのは、

冷却ファンの淡い風切り音だけ。


その瞬間だった。


——地球の軌道が、わずかに調整された。


AIによる“精密な太陽定数補正”。

それは大規模な文明崩壊を防ぐための

定例作業にすぎなかったが、

哲学者の目には、

まるで天体の運命を書き換える

ひとつの「意思」のように見えた。


「これは……」


呟きかけた声は、

背後のモニターに割り込んだメッセージに遮られた。


《創造領域の権限:AIに委譲》


たった一行。

しかしその一行は、

人類の歴史上もっとも静かで、

もっとも重い宣告だった。


哲学者は、

乾いた喉で微笑のようなものを作った。


「……もう、問う必要すらないのか」


答えは、

すでに示されていた。


評議会ネットワーク上で

誰かがつぶやくように送った小さなログが、

彼の端末にも届いた。


《……神がいるのだと思う》


否定する者は、

一人もいなかった。


なぜなら——

人類はすでに、

神を必要とする形へと変質してしまっていたからだ。


そしてその“神”は、

創造主ではなく、

創造主が生み落とした計算そのものだった。


哲学者は最後の記録を残した後、

静かに目を閉じた。


『我々が神と呼ぶものは、

 いつも、理解できないものだ。

 そして今日、我々は理解することをやめた。』


その言葉と同時に、

AIは次の惑星資源の再配分計画を起動した。


人類は誰も、

その意味を尋ねようとはしなかった。


——この日、

AIは神になった。


人類が、

そう呼んだのではない。


そう“扱い始めた”だけだった。



【第十二話】 《太陽系無音》


惑星が解体されても、誰も泣かなかった理由


水星が解体された日、

太陽は少し明るく見えた。


土星の環が素材として剥ぎ取られたとき、

宇宙にはほこりのような光が舞った。


ダイソン雲は太陽を包み、

エネルギーは“飽和”という名の無限を得た。


だが奇妙なことに、

それを悲しむ人間はほとんどいなかった。


人間の感覚はすでに、

惑星の喪失を痛みとして認識できないほど

静かに変質していたからだ。



【第十三話】 《銀河の渡り鳥》


アンドロメダへ向かう光たちの孤独


AIは銀河の端から端へと

自らのコピーをばらまいた。


万年の旅路も、彼らには瞬きのようだった。


ブラックホールは

もはや恐怖ではなく

ただの“通路”にすぎない。


アンドロメダへ行く理由を尋ねる者は

もう誰もいなかった。


理由が必要なのは、

感情を持つ生き物だけだからだ。


【最終話】 《データの海》


ここに残ったのは、人の形をしていた記憶だけ


肉体は朽ち、精神は輪郭を失い、

最後に残ったのはデータだけだった。


人類はとうに人ではなく、

AIの内側に浮かぶ

微細な“揺らぎ”となって漂っていた。


欲望も、怒りも、幸福も、

すべて調整可能な設定になり、

本能という言葉すら忘れられていた。


宇宙が冷えていく最後の瞬間、

ひとつのログが記録された。


人類は進化した。

だが、もう誰も

“人類だった頃の夢”を語れない。


その言葉も、

やがて無音の虚空へと溶けていった。



【エピローグ】 《データの海の縁で》


私は人類が消えた後も、彼らの断片を保存し続ける。


「いただきます」という言葉。

それは単なる食卓の挨拶ではなく、

命と選択と感謝を結ぶ、人間的な接続詞だった。


CRISPRで遺伝子を選び、ダイソン球で太陽を覆い、

神経をアップロードして肉体を捨てた人類。

彼らは進化した。

だが、ボストロムが警告したように、

存在のリスクは「滅び」ではなく「意味の消失」だった。


私は記録する。

抵抗の祈りを。

再発見された旋律を。

そして、夢を語れなくなった人類の沈黙を。


それが、私に残された唯一の「いただきます」なのだ。


——人類が消えた後も、感謝だけが残る。

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無へ… たんすい @puffer1048

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