モブの壁
伊藤沃雪
壁はそびえたっている
僕にはできそうもない。
たとえば、授業で先生に「誰かわかるかー?」って聞かれて、誰よりも先に手をあげる。答えを間違えず黒板に書く。サッカーボールを相手チームのエースから奪い去る。
SNSでウィットに富んだ文章を書いて、目を引く動画を投稿して、バズる。好きな女の子を呼び出して告白する。デートするとか。
少し頑張ればできそうなことが、僕にはちっともできやしない。
それは多分、できる人と僕の間に途方もなく厚い壁があるんだ。
壁は、努力とか勇気とか、そういうのを冷徹に弾き飛ばして、優れた人種だけを選り分ける。勝手にその壁を、「モブの壁」って呼んでいる。僕はモブだ。
そりゃ、やってみたことはある。誰だってモブよりかヒーローになりたいと思うけど、僕もそうだから。
黒板に書いた答えは何度も間違えた。ボールを奪うどころか、まともにドリブルするのだってできない。
バズ狙いで書いたポストはスベッて引かれたし、好きな子に想いを告げることはできなかった。
ダサくて恥ずかしかった。後悔した。みじめで消えてしまいたいと思った。
それでも、僕は性懲りもなく、またひとつ挑戦しようとしている。
夜闇に染められた水の流れは、黒い大蛇みたいにうねっていた。
夜のつめたさと河川から吹きあげる風がまざり、肌へと叩きつけてくる。数十メートルも離れているのに、川音はごうごうと響いていた。
今、僕が立っている平たい欄干。ここから一歩踏み出してみること。
できる気がしていたのだけど、どうにもできない。
いざとなったら足がすくんで、怖くなる。やっぱり僕はダサくてみじめなやつみたいだ。
あの子がここを飛んだのは、先月のことだった。
冷え込んだ晩に、ひとりっきりで、突然飛び降りてしまった。遺書も残さず、スマホのデータやSNSアカウントはすべて消されていたらしい。
さらっとしてつややかな黒髪。いつも少しだけ赤いほっぺ。気だるそうに窓の外を見つめている瞳。すっくと立ち、さくさくと踏み出される長い脚。はい、と手を挙げる時の、透き通った高い声。
ぜんぶ……消えてしまった。
僕がうじうじと躊躇っていた心情も、いくつも並び立てて準備していたことばも、伝わることはなかった。
べつに、追いかけたいから、という訳ではないけれど。あの子が飛んでいったところに、僕も行ける気がした。
壁を打ち破って。
人とは違うものになって。
この真っ黒な流れに身を任せたら、あちら側へ行けるかもと思った。
死んでしまったら、モブではなくなるだろうか。それともやっぱり壁を超えることはないだろうか。
もし会えたら、あの子はどんな顔をするだろうか。きっと、嫌がると思う。……僕はモブだから。
やめよ、とつぶやいて欄干から降りた。
僕は死にたい人じゃない。親も悲しむし、迷惑もかかるから。ほんの出来心で来てみただけだった。
歩道側に畳んで置いていたダウンを羽織って、ポケットに両手を突っ込む。季節は冬へと差し掛かっていた。冷たくなった両手をあっためる。
ごうごう、びゅうびゅうと河がうなる。
呼んでいるみたいだと思った。僕がもっと、辛いことばかりの人間だったら、ふらりと踏み出していたかもしれない。
あの子もそうだったのかな。苦しんでいたとして、僕はちっとも気づかないまま、自分がどう言おうかとしか考えていなかった。
胸がぎゅっとして、鼻の奥がつんと痛んだ。
家への帰り道に、捨て猫がされていた。
人通りの多い道は避けて、だけど見つけてもらえるように、蛍光灯のすぐ真下にダンボールで置かれていた。ビニール傘がかぶせられている。
なんとなく、本当はこの猫を捨てたくなかったのかな、と感じた。
僕が勉強もサッカーも、SNSも、あの子みたいにもできないみたいに。猫の面倒が見きれなかったのかもしれない。
だったら本当にかなしいことだ。
また少し痛くなって、おもわず鼻頭を抑えた。
動物の世話は好きだ。僕の家には犬と猫がいて、両親も動物好きだから、慣れている。
許してもらえるかわからないけど、この子のお世話は僕にもできそうと思った。捨てていった人の、壁を越えられなかった人の、代わりに……。
ダンボールから猫を持ち上げてみた。白のほうが多いぶち柄で、まだ子猫だ。猫は怖がるみたいににゃんと一鳴きした。高く掠れている声。助けを求めて、何回も鳴いたのかもしれない。
両腕で抱えて、頭から耳裏あたりを撫でる。暴れたりせず、おとなしくしている。
猫を抱っこしたまま、家へと向かう。
猫を捨てるのも、猫を拾うのも、人間の勝手でやることだ。本当に拾ってほしいかなんて分からない。実はあのまま放っておいても、野生猫としてたくましく生きるのかもしれない。
でも触れない限りは、そのままだ。
あの子を眺めていただけの僕みたいに、なにも残らずに後悔するなら、手を出したい。
にゃあん、とまた猫が鳴いた。
今度は、よく通って澄んだ声が響いた。
モブの壁 伊藤沃雪 @yousetsu
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