第1章 始まりの春

1話 静寂

 昼間の街は、いつも通りの平和に満ちていた。

 学生たちの笑い声。

 行き交う人々。

 温かな日差し。

 ――だが。

 その裏側では、密やかな動きが進んでいた。


* * *


 深夜。

 街の喧騒から遠く離れた山奥。

 夜叉邸・地下の作戦室。

 無機質な長机を挟み、黒装束の部下たちがずらりと並ぶ。

 照明は落とされ、テーブル中央だけに淡い光が落ちていた。

 室内には、一言の声すらない。

 ただ、緊張だけが濃く張りつめていた。

 その奥、最上座に夜叉が座していた。

 黒い覆面が顔を覆い、髪まで隠している。

 露わになっているのは目元だけ。

 組まれた指先の向こうで、青い瞳だけが静かに、鋭く光を宿していた。


 ――コン。


 厚いスチール扉が控えめに叩かれた。


「……入れ」


 夜叉のひと言で、電磁ロックがカチリと外れる。

 扉が開き、一人の部下が歩み出た。

 黒装束の胸元には、整えられた報告書。


 「失礼します。頭領、現時点での報告書です」


 部下は夜叉の前で膝をつき、両手で書類を差し出す。

 夜叉は無言で受け取り、視線を落とした。

 そこには淡々と、こう記されていた。


―― 久遠 妃咲(くおん きさき)

 17歳

 城南学園高校2年

 弓道部所属

 寮暮らし

 愛称:姫


 その名を目にした瞬間、夜叉の瞳がわずかに細まる。

 部下たちの背筋が、ぴんと伸びた。

 静かな緊張が走る。


「……接触はまだできんのか」


 夜叉の問いに、部下たちは一瞬言い淀んだ。


「はい……。寮も学園も、強力な結界が張られておりまして。我々では侵入が叶いません」


 夜叉はわずかに息を吐いた。


「古狸め……」


 低い声音。


(老いたとはいえ、かつて”最強”と呼ばれた男だ。これほどの結界を張れるのも、当然といえば当然か)


「外での接触は?」

「先日、校外で待ち伏せいたしましたが……急に進路を変えられ、完全に捕捉を逃しました」


 別の部下が、気まずそうに続ける。


「別班が変装して接近を試みましたが……ちょうど巡回の警察官に職務質問されまして。対応している間に対象は立ち去りました」


 室内がざわりと揺れる。

 夜叉は短く息を吐いた。


「……偶然か。いや――潜在的な力が働き始めているのかもしれんな」


 短い沈黙。

 夜叉は報告書から目を離し、小さく呟く。


「……妙な娘だ」


 興味とも警戒ともつかない声。

 だが確実に、夜叉の中で何かが動き始めていた。

 やがて夜叉は立ち上がった。

 青い瞳が、鋭く細められる。


「……次は逃がすな。必要な手はすべて使え。失敗は──二度と許さん」


 その言葉に、部下たちの背筋が一斉に伸びた。

 室内の空気が、音を立てて凍りつく。

 夜叉の足音が遠ざかっても、誰一人として息を吐けない。

 冷たい緊張だけが、しばらくその場に残り続けていた。

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2025年12月11日 19:45
2025年12月11日 19:48
2025年12月11日 19:51

いつか忍びとアフタヌーンティー 高松クリスティ @takamatsu_c

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