カップ麺、出来たよ。

トア

カップ麺、出来たよ。

「カップ麺、出来たで」

 台所の方から、じいちゃんのちょっと上ずった声がした。

 居間で、卓袱台にうつ伏せになって漫画を読んでいた僕は、顔だけそっちに向ける。

「もう? 3分たった?」

「さっきタイマー鳴りよった。ほら、伸びる前に食べんと」

 じいちゃんが運んできたカップ麺は、いつもよりちょっとだけ豪華だった。上にはゆで玉子が乗っていて、その上から細かくちぎられたハムと、ネギがぱらぱらとかかっている。

「やった、トッピング付きだ」

「じいちゃん特製や。うまいかどうかは知らんけどな」

 照れ隠しみたいに笑って、どっこいしょと僕の向かいに座る。

 父さんは仕事で、母さんとばあちゃんは町内会だか何だかで、朝から出かけている。

 いつの頃からか、僕とじいちゃんだけで留守番する日のお昼ごはんは、決まってカップ麺だった。小学3年生になった今でもじいちゃんっ子な僕は、ふたりでカップ麺をすする時間が大好きだった。

 湯気を吸い込むと、しょうゆとハムの匂いが混ざって、お腹がきゅるっと鳴った。

「ほれ、食べな。いただきます」

「いただきます」

 手をぱちんと合わせてから、割り箸を割って、ずずっと麺をすする。玉子は少し固くて、ハムは妙にしょっぱくて、ネギは大きさがバラバラで。でも、いつもよりずっと、おいしく感じた。

「うまいよ、じいちゃん」

「そりゃあ、よかった」

 じいちゃんは、目尻のしわをぐしゃっとさせて笑う。その顔を見ていると、なんだか胸のあたりがふわっと温かくなって、つられて笑ってしまう。

 テレビをつけていない部屋の中は、じいちゃんと僕だけの空間だ。

「なあ、食べ終わったら、ちょっと付き合ってくれんか」

 首をかしげて見せると、じいちゃんが意味ありげに、にやっと笑う。

「片付けのついでにな。見せたいもんがあるんよ」


「よっこいせ、っと」

 じいちゃんはカップ麺を片付けたあと、居間に戻ってきた。押し入れの前に座りこみ、中をごそごそと探る。

「これや、これ」

 出てきたのは、ふたの角がすり減った、靴の箱くらいの紙箱だった。上には、商品のロゴみたいな英語が、かすれて読めない色で印刷されている。

「何それ」

「じいちゃんの、宝箱」

 押し入れの前にどんと置かれたそれを、僕は身を乗り出してのぞき込んだ。

 じいちゃんがそっとふたを開けると、中から出てきたのは――きれいなおはじき、ペンキがはげたメンコ、折り目のついた写真、今とは違う形の切符。

「古い……」

「そらそや、じいちゃんが子どもの頃のもんやから」

 おはじきをひとつつまんで、じいちゃんが光に透かす。薄くて丸っこいガラスの中に、緑と青の線がふわっと溶けている。

「これなあ、よう負けたんや」

「負けたの?」

「そうや。近所に、えらいおはじきの強い子がおってな。名前、なんやったかな……ええっと……」

 じいちゃんが、眉間にしわを寄せて黙り込む。しばらくして、

「……まあええわ。とにかく、そいつに勝ちたくてなあ。毎日毎日、こうやって」

 と言いながら、畳の上でおはじきを飛ばしてみせる。

「でな。ある日、とうとう勝ったんや。いっぺんだけ。そしたらそいつが、えらい悔しそうな顔してなあ」

「泣いた?」

「泣いた泣いた。大泣きや。……自分かて、いつも泣かされとったくせにな」

 じいちゃんがくくっと笑う。僕もなんとなく笑って、それからもう一度、宝箱の中を覗き込む。

「この写真は?」

 白黒の、小さな写真。そこに写っているのは、赤ちゃんを抱いた女の人と、その隣にいる小柄な男の人だった。

「じいちゃんと、ばあちゃんと……その赤ん坊は、お前の父さんや。じいちゃんも、この頃はまだ若いなあ。髪もふっさふさや」

「今もあるよ」

「今は『ある』と『あるように見せてる』の間ぐらいや」

 じいちゃんがけらけらと笑う。じいちゃんの自虐ネタは、いつも少しだけ難しくて、でもおもしろい。

 写真を見ながら、じいちゃんはぽつりぽつりと話し始めた。おばあちゃんと初めて海に行った日のこと。汽車に乗るとき、切符をなくしたと勘違いして大騒ぎしたこと。友だちとケンカしたけど、メンコひとつで仲直りしたこと。

 どの話も、僕には想像もつかない昔の世界なのに、不思議と目の前に色がついて広がっていくような気がした。

「じいちゃんさ、こういうの、よく今まで取ってたね」

 じいちゃんは、伏し目がちにつぶやいた。

「こういうのはな、捨ててまうと、『なかったこと』になってまう気がしてな」

「なかったこと?」

「そう。『あったこと』やのになあ」

 僕はよく分からなくて、おはじきを指でつついて考えた。

 そのときだった。

「――そうや」

 じいちゃんが急に立ち上がった。

「お茶、入れよ思とったんやった」

 僕もつられて立ち上がり、台所に向かおうと振り返って、気付く。

 ガスコンロのつまみが、ついたままになっている。

「じいちゃん!」

 思わず叫んでいた。じいちゃんはびくっとして振り返る。

「火、ついてる!」

 僕はじいちゃんを追い抜かして、ガスコンロのつまみをひねった。炎が消えて、ほっとしたところで、じいちゃんがため息をついた。

「悪いな……」

 苦笑いを浮かべて言うじいちゃんの額には、薄く汗がにじんでいた。

 胸がざわざわした。また、だ。冷蔵庫を開けっぱなしにしていたり、財布をどこに置いたか探していたりすることが、最近増えた。

 じいちゃんは、卓袱台の前に腰を下ろし、声を落とした。

「じいちゃんなあ。昔っからあほやけど、それでも昔の方が、よっぽど賢かったんちゃうかなあ」

「そんなことないよ」

 僕はじいちゃんのとなりに座りながら、慌てて言う。

「今だって、カップ麺に玉子とかハムとか乗せれるし」

「そこかい」

 じいちゃんがくくっと笑う。その笑い方が、さっきより少し弱く見えたのは、気のせいだろうか。


 しばらくして、部屋の中の色が変わった。空は、さっきまで薄い水色だったのが、鉛筆で濃く塗ったみたいな灰色になって、遠くで雷の音がぐうっと鳴った。

「雨、くるなあ」

 じいちゃんが窓の外を見ながら言う。次の瞬間、ばらばらばら、と音を立てて雨が降り出した。大粒の雨が窓ガラスを叩きつける。

「雷、こわいか?」

「こわくないよ」

 ほんとは少しだけこわかったけど、僕は首をふるふると振った。小さい頃は、雷が鳴るたびに、おばあちゃんのお腹のあたりに顔をうずめていたのを思い出す。

 雷がひときわ大きく鳴ったかと思うと――ふっと、部屋の明かりが消えた。

「あ」

 扇風機も、冷蔵庫も、全部静かになる。雨の音だけが、やけにはっきり聞こえる。

「停電やな」

 じいちゃんが、僕を落ち着かせるように頭をなでる。

「昔はなあ、よう停電したもんや」

 じいちゃんがぽつりぽつりと続ける。

「テレビもないから、することなくてな。ロウソクを囲んで、火をぼうっと見たり、無駄に怖い話したりして、みんなで『こわー』言うて」

 僕は、じいちゃんが語る言葉を聞き逃さないように、顔をじいっと見つめていた。

「……なあ」

 じいちゃんが、さっきよりずっと小さな声を出す。

「さっきのな、火のこと。あれな。お前が気づいてくれて、助かったわ」

 僕も小さな声で、うんと、うなずく。

「……最近、忘れもんが多いんや」

 じいちゃんの声が、少しだけ震える。

 たしかに、最近のじいちゃんは、同じことを何度も聞いてくることがあった。「ばあちゃんどこ行った?」とか、「宿題終わったか?」とか。

「そんなの、別にいいよ」

 本当の気持ちだった。いちど聞かれたことを、すぐにまた聞かれると「さっき言ったでしょ」とは思うけれど。それよりも、じいちゃんが困った顔をするのを見る方が、よっぽどイヤだった。

 じいちゃんが、膝の上で両手をぎゅっと握る。その横顔は、いつもより影が濃く見えた。

「けどな」

 じいちゃんは、そっと僕の方を見る。小さな光が、目の中で揺れた。

「もし……」

 そこで言葉が途切れる。じいちゃんは、少し息を飲んでから続けた。

「もし、何もかも……お前の顔も、名前も、全部分からんようになってしもたら……」

 言葉を詰まらせたじいちゃんを見て、胸がぎゅっとなった。

「やだ」

 気づいたら、声が出ていた。思ったよりも、震えた声だった。

「忘れないでよ」

「じいちゃんかて、忘れとうないわ」

 じいちゃんが、苦笑いしながら言う。

 僕は、頭の中がぐるぐる回るのを感じながら、必死で考えた。

 ――捨ててまうと、なかったことになってまう気がしてな。

 ――あったことやのになあ。

 じいちゃんの言葉が、頭の中でくり返される。

 僕は勢いよく立ち上がった。

「なんや、どうしたんや」

「ちょっと待ってて!」

 居間を飛び出して、自分の部屋の机の引き出しを開ける。ノートとえんぴつを引っつかんで戻る。

「じいちゃん!」

「お、おう」

 宝箱をどんと卓袱台に置いて、その前でノートを開く。白いページが目に飛び込んでくる。

「ここに書こう」

「なにを?」

「さっきのおはじきの話とか、写真の話とか。じいちゃんが覚えてるうちに、全部教えて。ここに書くから」

 じいちゃんが、きょとんと僕を見る。

「ここに書いといたらさ」

 僕はえんぴつをぎゅっと握りしめる。

「じいちゃんが忘れても、僕が覚えてる。僕も忘れそうになったら、このノート見て思い出せる。ノートは僕の部屋のいちばん目立つとこに置いとくよ。だから……」

 言葉が詰まりそうになるのを、なんとか飲み込んで、続けた。

「だから、じいちゃん、話してよ」

 じいちゃんの目が、大きく見開かれた。

 ほんの数秒、時間が止まったみたいだった。

 やがて、じいちゃんは、くしゃっと顔を歪めた。

「……かしこいなあ、お前は」

 しゃがれた声が、かすかに震えている。その声を、僕はずっと、はっきり覚えているんだろうなと思った。

視界の端が、じわっとぼやける。ごまかすように、ノートの最初のページに、大きく書いた。

『じいちゃんの宝物』

 その下に、おはじきの話を書き始める。

「ええっと、そのおはじきは、誰と勝負して取ったんだっけ?」

「誰やったかなあ……あ、そうそう。たけしや。たけし。あいつ負けず嫌いやったからなあ」

 たけし。知らない名前。でも、ノートの上では、ちゃんと生きている。

 次のページには、ばあちゃんと海に行った話。切符のこと。昔の友だちのこと。じいちゃんは、ゆっくり話し、僕は、たどたどしい字で一生懸命書く。

 そのうち、停電が終わったのか、ぱちっと音がして、部屋の明かりがついた。

 蛍光灯の光の中で、ノートの白いページが、少しずつ黒い文字で埋まっていく。じいちゃんは、たくさんのことを教えてくれた。


 雨がやんで、太陽が沈み始める頃、玄関の戸が、がちゃっと開いた。

「ただいま」

 母さんの声が聞こえる。続いて、ばあちゃんの声も。

「雨がすごかったねえ」

「おかえり」

 じいちゃんが立ち上がりながら声を上げる。僕はノートを慌てて閉じて、宝箱をそっと乗せた。

「いい子で留守番できた?」

 居間に入ってきた母さんが、僕の頭をなでる。

「うん。じいちゃんの宝物、見せてもらってた」

「宝物?」

 母さんが、不思議そうに首をかしげる。ばあちゃんが「ああ」と続いた。

「あれか。まだ持っとったんかいな、あんた」

「捨てろ言われても捨てられへんわ」

 じいちゃんが、少し照れくさそうに笑う。

「なあにそれ、あとで私にも見せてよ」

 母さんがそう言うと、じいちゃんは肩をすくめた。

「その前に、着替えてきたらどうや。濡れへんかったか?」

 じいちゃんたちが話をしているのを聞きながら、僕はそっと宝箱をずらして、ノートに手を置いた。

 ノートの表紙は、どこにでもあるデザインだ。たしか5冊セットで買ったセール品。それでも僕には、宝箱から出てきたおはじきや写真と同じくらい大事なものに思えた。

 ――じいちゃんが忘れてしまっても、ここに書いたことは消えない。

 紙が破れてしまっても、きっと全部、僕の中に残る。

 そう思ったら、なんだか少しだけ胸の中が温かくなって、誇らしい気分になった。


     ◇


 それから、いくつか季節が過ぎた。

 じいちゃんの物忘れは、相変わらずだった。テレビのチャンネルを変えたいけどやり方が分からないと僕を呼ぶし、同じ話を3回くらいくり返すこともあった。

 でも僕は、そのたびにノートを開いたり閉じたりして、少しだけ得意な気持ちになっていた。

 ――大丈夫。僕が覚えてる。


 そして、ある日曜日。

 また、両親とばあちゃんが出かけていって、家に残ったのは僕とじいちゃんだけになった。

「今日のお昼、どうする?」

「そらもう、あれしかないやろ」

 じいちゃんが、にやりと笑って、戸棚からおなじみの白いカップを取り出す。お湯を沸かしはじめる手元が少しだけおぼつかないけれど、僕は何も言わず、近くで見守っていた。

「3分やな、3分……」

 じいちゃんは電気ポットの前で、ふたつ並んだカップ麺をじっと見つめている。タイマーを押すのを忘れているのを見て、僕はこっそり心の中でカウントを始めた。

 いーち、にー、さーん。

 数え始めて、3分が過ぎる頃、僕は声をかけた。

「じいちゃん、そろそろ3分だよ」

「お、もうか。早いな」

 じいちゃんがカップのふたを開ける。湯気がもくもくと立ちのぼる。その匂いに、懐かしさが混ざっている気がした。

 ハムも玉子も、今日は乗っていない。ただのカップ麺。それでも、僕には十分だった。

 じいちゃんがカップ麺をひとつ手に持って、何かを言おうとして――止まる。

「あれや、ええっと、なんやったかな」

 眉を寄せて、口の中で何かを探すみたいに、もごもごとしている。

 僕は、その姿を見ながら、何かが胸の中で静かにかちりと音を立てたのを感じた。そして、もう一つのカップ麺に手を伸ばして、言う。

「カップ麺、出来たね」

 じいちゃんが、ぱっと僕を見る。目を丸くして、次の瞬間、顔中のしわをくしゃくしゃにして笑った。

「それや、それ!」

 うれしそうに、以前よりひとまわり小さくなった体を揺らしながら笑う。

「カップ麺、出来とるんや。ほら、冷めんうちに食べよか」

「うん」

 卓袱台で向かい合って、ふたりで「いただきます」と手を合わせる。

 湯気の向こうで、じいちゃんが笑っている。僕は、その顔を、目を、口元のしわまで、全部、刻みつけるように見つめた。

 ――忘れないから。

 心の中で、そっとつぶやく。

 たとえ、じいちゃんが忘れてしまっても。何度同じことを聞いてきても。何度、僕の名前を呼び間違えても。

 カップ麺の湯気は、ゆっくりゆっくり天井へ昇っていく。

「なあ」

 じいちゃんが、麺をすすりながら言う。

「たけしの話は、まだしてないな?」

「うん」

「ほんなら今からしたるわ。あいつなあ――」

 また、同じ名前が出てきた。ノートの最初のページに書いた、おはじきの相手の名前。

 僕は、笑いながらカップ麺をすすった。

「うん、聞かせて」

 たとえ、何度目でも、ちゃんと最後まで聞くよ。だからじいちゃん、話を聞かせて。

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