ラスター・ワールド

米粉餅

ラスター・ワールド

 その日は朝起きた時からどこか違和感があった。

 ただの寝不足だろうと強引に体を起こして朝ご飯を準備する。食パンを一枚、オーブントースターに入れて四分にセット。冷蔵庫からジャムとバターついでに卵を取り出して目玉焼きを作る。

 そこまではいつも通りだった。

 その日の僕はそれらに加えてぶどうを食べようと野菜室を開けた(たしかそのぶどうは親戚の誰かに送られたものだ)。

 ところがそのぶどうは「低画質」だった。ピントの合っていない、ぼやけたような見た目。形もどこか角ばったローポリゴンなぶどうだった。

 最初は見間違いだと思い僕は目をこすったが、ぶどうの見た目は相変わらずで、まるでそこだけ世界が読み込まれていないようだった。

 その後僕は朝ご飯を食べた。他に異常はなかったから、パンとそれから目玉焼きをいつものように食べた。全て食べ終わってから僕はぶどうに目を向けた。

 おずおずとローポリぶどうを手に取り、一粒口に入れた。味は普通のぶどうだった。食感も普通だった。しかし吐き出した皮はローポリで低画質だった。そのギャップが気持ち悪くて、僕はこみ上げてくる吐き気と共にぶどうを水で流し込んだ。何となく腹の中でぶどうだけがなじまないように思えた。


 食後、スーツに着替えて必要な荷物を持って僕は家を出た。そして、最寄り駅までの道中度々画質が荒かったり、ローポリだったりするものを見かけた。道のタイル一枚、信号機、縁石同士の隙間に生えていた雑草、そして野良猫。この異常事態を気にしているのは、僕だけだった。

 電車に乗ると、今度は路線案内の表示機の画質が低くなっていた。現在地点も次の駅も分からないのはさすがに困る人もいるだろうと思ったが、周りに困惑している人は見えなかった。

 会社に着いて、自分のデスクに座った時、誰かが挨拶してきた。誰かと言ったのは、その人もローポリになっていたため誰か分からなかったのである。声を聞いて少し経ってから、僕はが同じ部署の同僚だと気付いた。

 彼はどうやら彼の担当する案件がやや行き詰まっているようで相談に乗ってもらってもいいか、というようなことを言ってきた。僕はあまり時間が取れないかもしれないができる限り協力する、と答えた。彼は何か言って自分の業務に戻ったが、その低画質な顔からは感情が読み取れなかった。

 その昼、社内の食堂にて一人で食べていると、目の前の椅子に女の子が一人座った。その子は僕と同じ大学で知り合って、部署は違えど同じ社の者ということでそこそこの仲だった。

 

「今日も一人? ここで食べていいよね?」

「一人で悪かったね」

「可哀想に。だからこうして私が一緒に食べてあげているというのに」


 およよ、というふうに大げさにリアクションをしながら、彼女が軽口をたたく。


「ここ一週間くらい、君はそもそも食堂に来ていなかったくせに何を言っているのだか」

「ありゃりゃ、期待してた? 全く罪な女だねぇ、私は」

「ほんとにね」


 そんなくだらない話をしていると、彼女は唐突に真面目くさった顔をしてところで、と切り出した。


「最近ちょっと噂で聞いたんだけどさ、君、昇進するんだって?」

「するチャンスが来そうなだけだよ」

「でも他の子が言うにはもう決まってるだとか」

「ただの噂だよ。上の人が言うまで何も分からないでしょ」

「ちなみに本人としては?」

「……あり得るとは感じている」

「やっぱり!」


 彼女の目つきが変わったように見えた……とほぼ同時に彼女の顔の画質が下がった。呆気にとられて彼女の方を見ると、彼女はどうかしたのか、と聞いてきた。

 僕はいや、とだけ答えて残りのご飯を平らげることに集中した。見れば見るほど、彼女の顔が異常になっていっていたからだ。

 食べ終わってから席を立つと心配そうに彼女が声をかけてきた。僕はかろうじてそれに大丈夫と微笑んで食堂を後にした。笑顔は引きつっていたかもしれない。

 午後の業務はあまり集中できなかった。さっきは何が起きたんだ。こんな僕の様子を見て彼女は困惑したのではないだろうか。もう少し彼女にマシな対応を取れたのではないか。急な異常事態に気が動転するのも仕方ないとはいえ、あれでは僕が一方的に不機嫌になったか、あるいは体調が悪くなったみたいじゃないか。ならどうすればよかっただろう。に、なんて声をかければよかったろう?

 そしてその帰路、朝より視認性の下がった街を歩きながらこの異常な現象について、社での自身の行動について考えを巡らせていた。


 僕の身に何が起きているのか、家に着くまでには結論もある程度浮かんでいたから僕はそれを風呂につかりながらまとめた。


 一つ、この現象は僕だけに起きている。

 一つ、僕には視界の一部のものが低画質に見える。あるいは角ばったローポリゴンな形状に見える。(例えるなら負荷を軽減する設定をしたときのゲームのテクスチャような見た目だ)

 一つ、この現象は生物、非生物に関係なく起こる。

 一つ、変化するのは見た目だけだということ。


 考えている間、どうしても気にかかったのが僕しかこの現象に気づいていないということだ。この現象について誰にも相談できないのは相当な孤独で、胃のあたりがどうにもムカついた。しかし、一体なぜ僕だけが……

 しばらくして、僕は唐突に悟った。僕だけが異常なのだと。世界が変わってしまったのではなく、僕が世界から放逐されたのだろうと。

 そして、今まで考えてきたことがぐちゃぐちゃになった。もし本当にそうならば、今までの認識が大きく間違っているかもしれない。いずれにしても、なぜ僕がこんな目にあっているのか。おかしくなった僕に、他の人はどう思っていたのだろう。同僚のあいつも食堂でのあの子も、一体あの時僕を見て何を感じて、どんな表情を浮かべていたのだろう。わからない。ワカラナイ。何がわからない? それすらもワカラナイ。

 風呂から上がり、ドライヤーで髪を乾かす。鏡越しに映って見えた僕の顔は、低画質だった。

 僕はそのまま逃げるように布団に潜った。明日全てが元に戻っていることを願った。幸い、身体も精神も疲れていたためすぐに寝付けた。


 しかしながらその翌朝、何も戻ってはいなかった。昨日結局食べきれなかったぶどうはローポリのままだし、僕の顔も相変わらずよく見えなかった。

 朝ご飯を食べる気にもならず、備蓄してあったゼリー飲料だけ飲んでまた布団に潜った。会社には欠勤の連絡を入れた。

 目が覚めたのは正午頃だった。僕は冷凍のうどんを温めて簡単に昼を済ませた。体調自体は悪くないため、寝る気にもならない。惰性でパソコンの電源を入れて、オンラインゲームを立ち上げる。


 ログイン後しばらくして、チャットに通知が入った。そのゲーム内で知り合ったフレンドからだった。

 

『今日休み? 通話繋ぐ?』


 僕は了承してマイクをオンにした。


『休みの日が重なるなんて珍しいこともあるもんだね。今日は平日なのに』

「今日は少し体調悪くてさ」

『欠勤? サボりか?』

「サボりではないけれど、まあそんなところ」

『ストレスでも溜まってたんかね? どう、最近変な夢でも見なかった?』


 夢、という単語に僕はビクリとした。例の現象が夢であればどれだけ良かったか。それを今フレンドに言ってもからかわれるだけに違いない。けれども僕はそこで、これを「変な夢」として話してみればいいのか、ということに気づいた。


「実をいうと、とても変な夢を最近見るんだ」

『ほほう、どんな?』

「周りのものとか人とかが変に見えるんだ。というのは、なんというか、テクスチャのバグみたいな」

『絶妙に想像がつかんな。紫と黒色の市松模様になるのか?』

「というより読み込みに失敗しているというか、ポリゴン数が少ないというか。後は画質が悪くてデザインが粗くなっているというか」

『背景、というか遠くのビルとかはどう見えた? そもそもビルが夢に出てきたのかは知らないが』

「そういえば、ビルもなんだかのっぺりとしていたな」

『世界が変に軽量化されてんのか』

「まあ、そんな感じ」

『なんというか、あれだな。ラスターとベクターっつってわかるか?』

「名前だけなら、あまり良くは知らない」

『画像の形式のことなんだが、簡単に言うなら写真がラスターでロゴがベクターだ。ラスターってのはピクセルごとに色を割り当てる画像の形式で、拡大すると画質が下がる。ベクターは数式で画像を表現するから、複雑な画像や色彩豊かなものは表せないが、拡大しても劣化しない』

「それが一体どういう話になるのさ」

『つまりだな、世界をラスター的な見方してたら、遠くで見えていたものを近くでよく見ようとするとそれだけ世界がぼやけて見えるってことなんじゃないかな』

「ローポリなものについてはどう思う?」

『それも似たようなものなんじゃね? 世の中難しいことばっかだから誰かが勝手に軽量化してくれてんだろ。いやすまん、適当なこと言ってる自覚はあるが』

「いやいや、元の夢が狂っているんだ。そのくらい突飛な解釈でもしないと説明がつかないよ。それで、ある程度は納得できたと思う」

『おう、なんか役に立ったならいいけど。こっちこそ面白い話ありがとよ』


 僕はしばらくフレンドと遊んでから、ゲームを終えてベッドに寝っ転がった。


「世界をラスター的に見る、かぁ」


 あの会話の流れではスルーしたが、どういうことを意味するのかよくわからない。

 ラスターは例えば写真、ピクセル毎に色を当てはめる……

 思えばずいぶんと緻密で愚直な形式だ。仮に僕がそのラスター形式の画像のように、見えるがまま世界を素直に捉えているならば、確かに現状の説明がつく気もする。ローポリなものたちも世の中が忙しなくて理解が追いつかないもの、理解するほどの価値がないものがああやって目に映るのかもしれない。

 ならばどうすればいいのか。彼の理論で行くならば、「ラスター的」にではなく「ベクター的」に見れば解決するのだろうか。面倒くさいこともどうにか式に表して単純化できれば……

 そのようなことを考えるうちに眠気が襲ってきて、僕はすぐさま寝てしまった。

 

 その翌朝、世界は変わっていた。あんなに崩れていた世界の見た目はみな、はっきりと輪郭を結んでいた。

 僕の顔も前のようによく見えた。目元、鼻筋、ひげまで完全に像をなしていた。ただその代償に、僕含め世界は色を失った。これは果たしてフレンドの言っていたベクター的視点だろうか。

 昨日浴びていなかったシャワーを浴びて、簡単に朝食を済ませ、身だしなみを整えてから、僕は家を出た。何もかも白黒だがあらゆる輪郭が流麗に鮮明に見えた。社内でも、同僚や例の女の子の顔もよく見えた。


 しかし、その世界も僕にとっては苦痛だった。色がないだけで世界はこうも退屈なのか。ベクター的視点でもダメなのか。画質の悪い世界か、色のない世界か、これは果たしてトレードオフなのだろうか。

 僕にとってそれはぜひとも否定したいことだった。そんな世界、どちらにしても生きていきたくない。僕の元の世界はどうだったか。あの世界には戻れないのか。

 ふと僕はラスターとベクター、両方の見方を同時にすればいいと気づいた。きっと皆も前までの僕も、そうやって生きてきていたに違いない。そう思えばそう思うほど、なぜ今まで気づけなかったのかと思うくらいにそれが現状に対する答えだった。

 他の人は意識せずにそれができている。前の僕もできていた。その事実に妙な嫉妬を覚える。しかしそれでも、僕の心は晴れやかだった。元に戻れる希望が見えただけで満足だった。


 あれから何日も経ち、僕はかつてのようにカラフルで高画質な世界を生きている。それでも未だに、なんとなくこの世界は僕がかつていたところとは違うような気がしていた。その孤独感は僕にしか分からないだろう。独占するつもりもないが、簡単に他人に理解できるものとも思えなかった。

 しかし、それでよかった。それがよかった。肝心なのは妥協だと気付けたから。あるいは、諦めとも言えるかもしれない。


 ところで、君はまだ世界がまともに見えるだろうか?

 それはまともだろうか?

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ラスター・ワールド 米粉餅 @komekomochi

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