Series 最終話 いつかの国と美女ルサルカ
夜猫屋は、拘置所の悠斗を抱きしめると、満足げな顔をした。
そして黒い翼で包んだ。
悠斗はこの状態が何なのか、わからない。いつのまにか外にいる。
二宮は、時間の制限で拘置所を出たが、何やら騒ぎになっていることにいち早く気がついた。そして哄笑する男を見つけて追いかけた。
悠斗の目が、「みずうみ」の水面に吸い込まれるように沈んでいく。男はその横顔を見つめながら、
「君がルサルカになることで、僕はようやく自由になる。」
その声には、慈しみのような響きがあった。だが、悠斗の手を握るその指は、冷たく、硬かった。
「……助けて」と、悠斗は喘いだ。黒い男はその言葉に、ほんの少し眉を動かしただけだった。
「助けるために、ここにいるんじゃない。私は、私のために君を選んだ。」
悠斗の体は、静かに湖へ沈んでいった。
水面は何も語らず、ただ月を映していた。そして、夜猫屋の肩にとまっていた
水面が割れ、悠斗の姿は消えた。息ができない、悠斗はもがいたが、どんどん落ちてゆく。
悠斗の知らない時代、知らない世界の遺物が悪意に包まれて横たわっている。
彼にそれはわからない。
この透明な、何処までも黒い底なし……悠斗の魂は、底にいつまでもとどまっている。
彼は二度と悩まない。
母を殴り、自分を殴り、いたぶる。そして妹の服を剥ぐ。
……家族を持ち物のように思うのは、父の性格なのか、遺伝なのか、環境なのか。
しかし妹の秘密は守られ、いずれにしても、それらは消えた。
ある意味、夜猫屋が彼の母と妹を救ったと言える。
夜猫屋は「みずうみ」の底にならぶ宝石箱からルサルカの魂を取り出すと、地上に上っていく。
片手には悠斗だった体を持っている。
「みずうみ」には何物でも
骨董品・夜猫屋の奥にある部屋は、鍵がかかっていなかった。 二宮は、そこに入った。確かめずにはいられない。
黒い塊が、部屋の中央にあった。 それは、猫の背中のようであり、湖の底のようでもあった。いや、それはまさしく「みずうみ」で、片目と引き換えに「大いなるもの」から得たものである。
二宮時生は悠斗がさらわれて消えたことに混乱し、あの花の匂いに目眩がした。
悠斗がいない。なぜだ。
夜猫屋は、二宮が目撃者になった、その偶然を楽しむことにした。
二宮が持っていた骨笛はすでに取り上げてある。
健康な心と正義感で悠斗を助けようとしている。
何の力も無いのに追いかけてきた。
「魂は輝きだが、それだけでは存在にはならない。器がいる。 器とは、ただの肉体ではない。魂が宿り、記憶が根を張る場所だ。 器が壊れれば、魂は彷徨い、器が拒めば、魂は沈む。 君はその輝きを見た。ならば、器の意味も知るべきだ。」
「
と、彼は呟いた。何もかもが頭に入ってくる、これはなんだ。
黒い男は、更に続ける。
「君たちの世界では中有というのかな。私の力は、体という入れ物に魂を定着させ、死者を蘇らせること。この目で美しいもの、醜いもの、全て見分け探す。今、君の友達は私の持ち物になったよ。人の命は短いのだから、君も自分の体を大切にしたまえ。器がなければ、魂は宿らない。
二宮は尻餅をついてガクガクと震えながら、叫ぶこともできなかった。
塊の中から、笛のような音がした。 それは、悠斗の声だった。
しかし、魂は悠斗ではなかった。
「これは少年の体だわ」
と開口一番、ルサルカは文句を言った。
夜猫屋が一番嫌いなルサルカだ。
「大いなるもの」ととりひきをして、ルサルカの世界に迷い込んだ。隻眼に慣れず、白百合の花瓶から抜けられない。
その後、彼はルサルカの全てを愛した。豊満な腰つきで踊り、男の気持ちを惹きつける。全盛の彼女は、魅力と、可愛い我儘と、時には見せる慈しみ。
しかし、人の感覚ではわからない、時間の長さ。
捉えどころの無い彼女の愉悦が、夜猫屋のなかを浸食していくことに、プライドを傷付けられた。許しがたいことだ。
一連の出来事に対して、彼女の魂の欠片が夜猫屋につきまとい、勝手に悠斗の妹に対しても、同情しなかった。
そして夜猫屋に対しては、
「あなたは私の踊りに酔って、魂まで差し出したでしょ? 男の魂なんて、踊りの衣装よ。汚れたら、脱げばいいの」と。
しかし、夜猫屋は、彼女の氷の棘にひるむことは無かった。
「魂だけの君は殺せないが、体があれば殺せる。」
という言葉にルサルカは驚いて体を翻した。
「君は男を踊らせて迷わす女、悪いものには罰を与える。」
ルサルカは悠斗の体のまま「みずうみ」に投げ込まれた。
黒猫屋の主、ヴェレスは黙し、ただ
水底の悪意というタールに引き込まれて滅びよ。
「私を水に沈めるつもり?それが罰だと思ってるの?」
ルサルカの声は、風のように冷たく、艶やかだった。
彼女の髪が水に溶けるように広がり、周囲の空間が揺らぎ始める。
ヴェレスは答えず、ただ黒い塊の中から現れた。
彼の瞳は、夜猫屋の奥にある部屋の闇よりも深く、何も映していなかった。
「君は踊りで男を惑わせるが、私は沈黙で魂を縛る。」
その言葉と同時に、湖底の宝石箱が開き、黒い光がルサルカの足元から巻き上がる。
ルサルカは笑った。
「踊りは衣装だと言ったでしょう? 肉体なんて、脱ぎ捨てるものよ。」
だが、ヴェレスの手が空を裂いた瞬間、湖面が逆巻き、彼女の身体を引き裂くような冷気が走った。
「君の魂は、もう、なにものでもない。これは、君自身だ。」
ルサルカは叫び、腕を振ると、水が刃となってヴェレスに襲いかかる。だが、彼はその刃を受け止めることなく、湖底に入り、そのまま亜空間に浮いていた。
「私の渦から抜け出したのね!どうして……」
ルサルカの声が震えた。ヴェレスは微笑み、静かに言った。
「踊る渦に多少の魅力はあるだろうが、私はもう酔わない。
槇緒の笛が、私のすべてを目覚めさせた。」
その瞬間、湖底の黒い塊が爆ぜ、空へ舞い上がる。ルサルカの身体はその中に吸い込まれ、彼女の声は、笛の音にかき消されていった。
──だが、沈黙の中で、ルサルカは微笑んだ。
「目覚めた?それは素敵ね。でも、目覚めた者ほど、夢に弱いのよ。」
彼女の指先が水を撫でると、湖面に無数の幻影が浮かび上がった。ヴェレスの過去、槇緒の記憶、夜猫屋の秘密――それらが水の鏡となり彼の周囲を囲む。
「あなたの魂は、まだ私の踊りを覚えている。忘れたふりをしても無駄。」
ヴェレスの足元が揺らぎ、黒い塊が再び彼を引き込もうとする。ルサルカの髪が水中で蛇のように伸び、彼の腕を絡め取った。しかし彼女の技は、冷めてしまった男には通じない。毛髪はちぎれて溶けてゆく。
ヴェレスは、ふたたび槇緒の笛を吹き、すべての幻影を切り裂いた。
「かつて君の踊りは美しかったのに。」
ルサルカは静かに笑い、湖底へと沈んでいった。
だが、彼女の声はまだ水の中に残っていた。
「ヴェレス、呪われなさい。」
二宮時生は呆然とそこに立ち尽くす。
夜猫屋ことヴェレスは、目的を果たして満足げにしている。
「『大いなるもの』も私の『目』にいつかは飽きるであろう、そのときが来たら取り返すさ。やがて私は次の『大いなるもの』になる。その次はない。
夜猫屋のあった通り道は消える。
ヴェレスの声がした。
私は槇緒の笛で世界を閉じるよ。
この世ともあの世ともしれぬ世界に鳴り響く、人にはわからない音……
「みずうみ」は誰にも見つけられていない。
誰も夜猫屋の扉を開けていない。
しかし、棚の奥にはまだ、宝石箱がひとつ残っている。
一部始終「目」を使って観ていた「大いなるもの」は沈黙している。
「みずうみ」は、ただ月を映していた。
扉が軋む音とともに、黒猫が一歩、夜へ踏み出した。
夜猫屋 tokky @tokigawa
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