秘密の湖畔で、君を釣った

南條 綾

秘密の湖畔で、君を釣った

 私は、いつもより三十分早く家を出た。玄関を閉めた瞬間から胸の奥がそわそわしていて、自分で自分の理由なんて誤魔化せない。あの人が来る前に、ここにいたいからだ。


 湖の西側の、古い桟橋の先っぽ。木の板はところどころささくれていて、踏むたびに小さくきしむ。

朝の光を受けた水面が、薄い銀色みたいに揺れていた。

ここは、ほとんど誰も来ない、私だけが知っている場所みたいなところ。


ロッドを組み立てながら、冷たい金属の感触が指に残るたび、胸の奥がざわざわ騒ぎ出す。

リールをはめる手元が、ほんの少しだけ震えているのが、自分でもわかった。


 高校のときから、ずっとこうだった。

軽音楽部の練習室で、彼女がドラムを叩く姿を見るたびに、同じふうに落ち着かなくなった。

汗とアンプの音が混ざったあの空気の中で、スティックを振り下ろす彼女の腕を見ているだけで、指先が勝手に震えた。シンバルが光るたびに、心臓のリズムまでおかしくなる。


 卒業して四年。もう会ってないのに、夜になると何度も夢の中で名前を呼んでいる。

目が覚めたあと、暗い部屋の中でひとり赤面して、枕に顔を押しつけて、自己嫌悪になるくらい。

ほんと、バカみたいだよね。


 湖のほうから吹いてくる風が、膝から下をなでていて、結構冷たい。

素足にサンダルを履いてるから、むき出しの足の裏がじんわり冷えている。

冷たさがふくらはぎのあたりまでゆっくり上がってくる感じがして、そのたびに頭の中が少しだけクリアになる。妙に、それが心地いい。

これだけ思うと結構変態な感じになってるけど、それだけ私は緊張してるんだと思う。


 自転車のタイヤが砂利を踏むざらっとした音と、一拍遅れて、あのちょっと錆びたチェーンが鳴る細い音が聞こえてきた。

何度も聞いた、クセみたいなリズム。間違えようがない。


 私はわざと、顔を上げなかった。心臓の音が一気にうるさくなって、視線を合わせたら、そのまま全部ばれてしまいそうだった。

ロッドを振るふりをして、わざとらしいくらいゆっくりと湖面を見つづける。

水面に落ちた朝の光がきらきら揺れて、逃げ場みたいに目を奪ってくれた。


「綾……?」


 背中のほうから落ちてきたその一言で、体の力がふっと抜けた。

名前を呼ばれるだけで、四年分の距離が一気に溶けるなんて、本当にずるい。


 ゆっくり振り向くと、彼女が立ってた。逆光気味の光の中で輪郭だけ少し白く縁取られていて、少し日焼けした腕、短く切った髪、その下に、昔と同じ形の笑顔。

高校のときとたいして変わってないのに、大人っぽくなったようにも見える。


「やっぱり、綾だったんだ」


 その声を聞いた瞬間、喉の奥がきゅっと詰まった。

私は笑いたかったけど、頬が熱くなるのが先だった。うまく口角が上がっているか、自分でもよくわからない。


「……最近、ここに来るようになったの」


 言い訳はしない。言葉を選ぶことはしても、嘘はつかない。


「あなたに、会いたくて」


 言った瞬間、自分の声が思ったより小さくて、かすれているのに気づいた。

吐いた息が胸の奥でひっくり返って、そのまま戻ってこないみたいな感覚になる。


 彼女の瞳が、ほんの少しだけ大きく開いて、それから揺れた。

驚きと、戸惑いと、何かあたたかいものがぐちゃっと混ざったような色。それだけで、充分だった。

ここまで早く来たことも、何度も家で書いた言い訳も全部捨てたことも、報われた気がした。


「釣り、してるの?」


 少しだけ声を落として、様子をうかがうみたいに聞いてくる。

私は喉がうまく動かなくて、言葉になる前に、小さく頷くことで返した。


「でも、全然釣れない。……教えてよ」


 わざとらしく笑い混じりに言ったつもりだったけど、語尾が自分でもわかるくらい甘えた調子になっていて、内心でこっそり顔をしかめる。


 彼女が近づいてくる。桟橋さんばしの板がきしりと鳴って、距離が一歩ずつ削られていく。

隣に腰を下ろしたとき、ほんの少しだけ木が沈んで、体がかすかにそっちへ引き寄せられた。

湖の匂いと、一瞬だけシャンプーの匂いが鼻をかすめる。


 ロッドを受け取るとき、指先が触れた。

指の先から肩口まで、一気に電気が走ったみたいに熱くなる。指先がびりっと震れて、思わず息を飲んだ。

昔、スタジオの狭いソファで手が触れたときと同じ温度、同じ感触。


「……こうやって、ゆっくり巻くの」


「う…うん」


 彼女の声が、すぐ耳の横で落ちる。

後ろからそっと回り込むみたいに、彼女の手が私の手を包んだ。

指と指の間に、彼女のぬくもりがゆっくり入り込んでくる。

息が止まりそう、という言い方じゃ足りないくらい胸がきつくなった。

私は、もう我慢できなかった。


「私、あなたのこと、高校のときからずっと好きだった」


 気づいたら口が勝手に動いていて、頭で考えるより先に、言葉がぽろっと零れた。

湖面に投げたルアーみたいに、一度飛び出したらもう戻せない。

恥ずかしいとか、嫌われたらどうしようとか、そういうのは全部あとからその時の私に全てをお任せした。


 彼女が驚いた顔で私を見る。まばたきも忘れたみたいに、じっと。時間がそこだけ止まった気がして、心臓の音だけがやけにはっきり聞こえる。


 すぐに優しく笑った。力を抜くみたいに目尻が下がって、あの頃と同じ笑い方で。


「私も……綾のこと、ずっと」


 その一言で、胸の中に張りついていた氷みたいなものが一気に砕けた。

世界がほんの少し明るくなった気がした。

朝の光が水面で跳ねるのも、彼女の横顔を縁取る輪郭も、全部がさっきより鮮やかに見える。


 私はロッドを置いて、彼女の首に腕を回した。

自分からキスをするなんて、人生で初めてだ。距離を詰める一瞬のあいだに逃げ道は全部捨てた。


 唇が触れ合ったところは、想像していたより柔らかくて、温かくて、少し震えていた。

彼女も緊張しているんだと思ったら、胸の奥がじんと熱くなる。

かすかにリップクリームの味と、朝の空気の冷たさが混ざる。

唇が離れるか離れないかのところで、彼女の唇が、私の名前を呼ぶ。


「綾……」


 その声で、私は泣きそうになった。

喉の奥までこみ上げてきた涙を、ぎりぎりのところで飲み込む。

泣いたら、たぶん止まれなくなる。

今だけは、この名前を呼ぶ声を、全部胸の奥に刻みつけておきたかった。


 魚なんて、一匹も釣れなかった。竿先は最後まで一度も揺れなくて、バケツの中は空っぽのまま。

でも、今日、私は一番大事なものを釣り上げた。

水の中からじゃなくて、自分の胸の奥から引き上げるみたいにして。

この朝の匂いと、頬をなでていった風の冷たさと、重なった唇の温度を、きっとずっと忘れないと思う。


 あなたと私だけが知っている、秘密の湖畔のことも。

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