第2話 残酷な境界線


 肺が焼け付くような熱さを訴え、心臓は肋骨を内側から激しく叩いている。視界の端が白く明滅するほどの酸欠状態の中で、私はゴールラインの先に立つ電光掲示板の数字を凝視していた。二十四秒七二。またしても、この数字だ。コンマ一秒たりとも縮まらない。私の時間は、まるで凍りついたかのように、この場所で停滞している。トラックに膝をつき、荒い呼吸を繰り返しながら、私は自分の太腿を拳で強く叩いた。鍛え上げた筋肉の感触は確かにある。これまでの努力が嘘だったとは思わない。けれど、どれだけ走っても、どれだけ汗を流しても、全国の頂点はおろか、予選突破のボーダーラインすら超えられないという現実が、冷徹な刃物のように私のプライドを切り刻んでいく。


 夕暮れのグラウンドには、私の敗北感を嘲笑うかのように、気怠い風が吹いていた。部員たちが片付けを始める中、私はスパイクの紐を解く気力さえ起きずに、タータンの赤茶色い地面を見つめ続けていた。才能の限界。その言葉が、亡霊のように脳裏をよぎる。そんなはずはない。私はもっと速くなれる。そう信じなければ、明日へ足を踏み出すことさえできない。


「桜庭。ちょっといいか」


 頭上から降ってきた低く重厚な声に、私は弾かれたように顔を上げた。逆光の中に、顧問の岡崎厳先生が立っている。その手には黒いクリップボードが握られており、冷ややかな視線が私を見下ろしていた。先生の眼鏡の奥にある瞳は、私の疲労や焦燥など意に介さない、研究者が実験動物を観察するような無機質な光を宿していた。


「……はい、先生」


 私は震える膝に力を込め、立ち上がった。先生は無言で顎をしゃくり、体育教官室の方を指し示した。周囲の部員たちが、羨望と好奇心の入り混じった視線を向けてくるのがわかる。「エースへの特別指導」。彼らの目にはそう映っているのだろう。だが、私にとってその時間は、自分の無力さを突きつけられる審判の場以外の何物でもなかった。


 消毒液と湿布の匂いが染みついた教官室は、外の喧騒から切り離された密室だった。岡崎先生は革張りの椅子に深く腰掛け、手元のデータを指先で弾いた。その乾いた音が、部屋の空気をピリつかせる。


「単刀直入に言おう。お前のタイムが伸び悩んでいる原因は、メンタルでも練習不足でもない。構造的な限界だ」


 先生の言葉は、あまりにも淡々としていて、だからこそ致命的だった。


「骨格の可動域、筋繊維の質、酸素摂取能力。お前の身体的スペックは、この二十四秒七あたりが天井なんだよ。これ以上、従来のトレーニングを積んだところで、摩耗していくだけだ」


 目の前が真っ暗になるような感覚だった。否定したかった。努力でカバーできると叫びたかった。しかし、先生が提示する詳細なデータとグラフは、私の感情論を許さない圧倒的な説得力を持っていた。私の夢は、ここで終わりなのか。全国で勝つという誓いは、凡人の妄想に過ぎなかったのか。絶望が喉元までせり上がり、言葉にならない嗚咽が漏れそうになる。


「……ですが、諦めたくありません。私には、陸上しかないんです」


 絞り出した声は、惨めなほど震えていた。岡崎先生は、そんな私をじっと見つめたまま、ゆっくりと立ち上がった。彼は机を回り込み、私のすぐそばまで歩み寄ると、耳元で低い声を囁いた。


「普通の方法では無理だ、と言っただけだ。……壁を壊す方法は、ないわけじゃない」


 その言葉に含まれた甘美な猛毒に、私は息を呑んだ。先生の大きな手が、私の肩に置かれる。その掌の熱が、ジャージ越しに肌へと伝わり、奇妙な悪寒と高揚感を同時にもたらした。


「お前の身体には、まだ使われていないスイッチがある。本能のリミッターを外し、脳内物質の分泌をコントロールする。常識の向こう側へ行く覚悟があるなら、俺がお前を作り変えてやる」


 それは悪魔の契約にも似た誘いだった。しかし、勝利への渇望に飢えきっていた私の心には、それが唯一残された蜘蛛の糸のように輝いて見えた。私は無言で頷くことしかできなかった。それが、後戻りできない沼への第一歩だとも知らずに。


「今日はもう上がれ。明日から、メニューを変える」


 先生に背中を押されるようにして部屋を出た私は、呆然としたまま昇降口へと向かった。頭の中は混乱と、微かな希望という名の狂気で満たされていた。靴箱の前で上履きを脱ごうとしたその時、見慣れた人影が視界に入った。


「千耀」


 行方悠真。私の幼馴染であり、陸上部のマネージャー。彼は心配そうな表情で、そこに立っていた。彼の手には、私が好きなスポーツドリンクのボトルが握られている。その変わらない優しさ、私を傷つけないように配慮された「安全な距離感」が、今の私には酷く眩しく、そして痛ましかった。


「……悠真」


「顔色が悪いよ。岡崎先生、また厳しいこと言ったのか? あまり詰め込みすぎるなよ。千耀は十分頑張ってるんだから」


 悠真は一歩、私に近づこうとした。その瞳には、友人を越えた熱のこもった色が揺れていた。彼は何かを言おうとしていた。予選が終わるまで待つと言っていた言葉を、今ここで紡ごうとしている気配があった。その純粋な好意が、私を現実の世界へ――凡庸だが温かい日常へ――引き戻そうとする。もし彼の手を取れば、私はこの苦しい競争から降りて、彼と笑い合う穏やかな青春を送れるのかもしれない。


 その時だった。


「行方。部外者が選手を惑わせるな」


 鋭い声が、二人の間に割って入った。いつの間にか私の背後に立っていた岡崎先生が、冷酷な壁となって悠真の前に立ちはだかった。


「彼女は今、極限の集中状態にある。お前のその甘っちょろい慰めは、彼女の闘争心を鈍らせる雑音でしかないんだよ」


「……先生、俺はただ、千耀の体調を」


「体調管理はコーチである俺の仕事だ。マネージャーなら、とっとと備品のチェックでもしてこい」


 先生の言葉には、有無を言わせない威圧感があった。悠真は唇を噛み、私の方を見た。助けを求めるような、あるいは「それでも君の味方だ」と訴えるような視線。けれど、私はその視線から逃げるように目を伏せた。先生の言う通りだと思ってしまったのだ。悠真の優しさは、今の私には毒だ。そのぬるま湯に浸かってしまえば、私は二度と走れなくなる。


「ごめん、悠真。私……先生の話、まだあるから」


 私は嘘をついた。悠真を傷つけるための、そして自分自身を追い込むための嘘を。悠真の顔が歪むのがわかった。驚きと、悲しみと、そして理解できないものを見るような戸惑い。


 私は彼に背を向け、再び岡崎先生の隣に並んだ。先生の口元が、微かに吊り上がったのを視界の端で捉える。それは勝利を確信した捕食者の笑みだった。


「行くぞ、桜庭」


 先生に促され、私は歩き出した。背中に感じる悠真の視線が、肌を焦がすように熱い。振り返ってはいけない。振り返れば、きっと泣いてしまう。私は唇を噛み締め、廊下の闇へと足を踏み入れた。


 取り残された悠真は、その場から動くことができなかった。遠ざかる二人の足音を聞きながら、彼は手に持ったスポーツドリンクのボトルを強く握りしめた。プラスチックが軋む音が、静まり返った昇降口に虚しく響く。


 なぜ、千耀はあんな目をしていたのか。なぜ、岡崎先生はあそこまで自分を敵視するのか。そして何より、千耀が先生の隣に並んだ瞬間に感じた、あの奇妙な「所有」の空気は何だったのか。


 言葉にできない違和感が、黒い霧のように悠真の胸に広がり始めていた。それは、彼が信じていた「誠実な世界」が、音を立てて崩れ去る予兆でもあった。

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2025年12月11日 00:00
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裏切りのトラックに陽は昇る 舞夢宜人 @MyTime1969

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