裏切りのトラックに陽は昇る
舞夢宜人
第1話 美しき距離感
七月の湿った風が、熱を帯びたタータンの匂いを運んでくる。放課後のグラウンドには、陸上部員の吐き出す荒い呼吸と、スパイクが地面を掻く乾いた音だけが支配していた。西に傾きかけた太陽は、粘り着くようなオレンジ色の光を投げかけ、世界を曖昧な輪郭へと変えていく。俺は給水ボトルの結露で濡れた手をズボンで拭いながら、トラックの向こう側を走る一人の少女を目で追った。桜庭千耀。彼女がコーナーを抜けて直線の走路に入った瞬間、張り詰めた空気がさらに一段階、鋭さを増したように感じられた。長いポニーテールが鞭のように宙を叩き、鍛え上げられたふくらはぎの筋肉が躍動するたびに、俺の心臓は不整脈のような高鳴りを覚える。それは恋慕という甘やかな感情であると同時に、決して触れてはならない聖域を前にしたときのような、畏敬に近い感覚でもあった。
マネージャーという立場で彼女のそばにいることを選んでから、もう二年が経つ。幼馴染という気安さは、いつしか「選手とサポーター」という明確な境界線に置き換わっていた。彼女は全国大会出場という野心に取り憑かれたアスリートであり、俺はその孤独な疾走をトラックの外側から見守るだけの傍観者だ。タイム計測用のストップウォッチを握りしめる俺の親指は、彼女がゴールラインを駆け抜ける瞬間に向けて微かに震えている。二十四秒七二。自己ベストには届かないが、この蒸し暑さの中では驚異的なタイムだった。しかし、ゴール直後に膝に手をついて肩を上下させる彼女の表情に、達成感の色はない。あるのは飢餓感に似た焦燥と、何かに追われているような切迫した眼差しだけだった。
「お疲れ、千耀。悪くないタイムだと思うよ」
俺は駆け寄り、タオルとボトルを差し出した。俺の声は、意識して平静を装ったものになるよう調整されていた。彼女の集中を乱してはならない、彼女の精神状態に波風を立ててはならないという、俺なりの配慮であり、あるいは臆病な防衛本能の結果だった。千耀は乱暴にボトルを受け取ると、中身を喉に流し込み、残りを頭から被った。水滴が顎を伝い、白い首筋を流れ落ちて、ユニフォームの胸元へと吸い込まれていく。その生々しい生命の躍動を目の当たりにして、俺は反射的に視線を逸らした。彼女を「異性」として意識することは、今の彼女にとってノイズでしかないと自分に言い聞かせながら。
「……遅い。こんなんじゃ、勝てない」
絞り出すような声だった。千耀は濡れた前髪をかき上げ、悔しげに唇を噛んだ。その唇は乾燥して白くひび割れており、彼女がいかに自分自身を追い詰めているかを物語っていた。全国大会予選まであと二週間。彼女にかかるプレッシャーは、俺の想像を絶するものだろう。顧問の岡崎先生が課す練習メニューは日を追うごとに苛烈を極め、最近では部活の時間外にも「特別指導」と称した個別トレーニングが行われていると聞く。千耀の身体は確かに研ぎ澄まされているが、同時にガラス細工のような危うさを孕み始めていた。
「焦る必要はないさ。調子は上がってきてる。岡崎先生のメニューもこなせているし、きっと全国に行ける」
俺は彼女を励ますために、もっともらしい言葉を並べた。しかし、千耀の反応は鈍かった。彼女は俺の言葉を求めているのではなく、もっと別の、決定的な何かを求めているような目をしていた。その瞳の奥には、助けを求めるような微弱な光が揺らめいているように見えたが、俺はそれを「プレッシャーによる不安」だと解釈することで、深く踏み込むことを避けた。もしここで俺が「大丈夫か」と問い詰め、彼女の弱音を引き出してしまえば、彼女が必死に保っている緊張の糸が切れてしまうかもしれない。そうなることを俺は恐れたのだ。彼女の自律性を尊重するという名目の下で、俺は彼女の苦悩から目を背け、安全な場所から綺麗な言葉だけを投げかけているに過ぎなかった。
「悠真は……優しいね」
ふと、千耀が漏らした言葉は、感謝というよりは諦めに近い響きを帯びていた。彼女は俺の顔をじっと見つめた後、ふいっと視線を外し、遠くの校舎を見上げた。そこには職員室の明かりが灯っている。
「悠真君には、わかんないよ。勝たなきゃ意味がないの。勝つためには、なんだってしなきゃいけないの」
彼女の言葉は独り言のように小さく、しかし確固たる決意を含んでいた。その「なんだって」という言葉の響きに、俺は一瞬、胸騒ぎを覚えた。だが、それはすぐに彼女のアスリートとしての覚悟への称賛へとすり替わった。そこまでの覚悟を持って競技に挑む彼女を、俺は誇らしくさえ思ったのだ。
部活が終わり、部員たちが三々五々と帰路につき始める中、俺は千耀と共に昇降口まで歩いた。夕闇が濃くなり、ヒグラシの声が耳鳴りのように響いている。靴箱の前で上履きからローファーに履き替える千耀の背中は、以前よりも一回り小さくなったように見えた。俺はポケットの中にあるスマートフォンを握りしめた。画面には、書きかけのメッセージが保存されている。『予選が終わったら、話したいことがある』という、告白の予約とも取れる文面だ。しかし、俺は送信ボタンを押せなかった。今は時期じゃない。彼女の邪魔をしてはいけない。そう自分に言い聞かせ、俺はスマートフォンをポケットの奥へと押し込んだ。
「じゃあ、私は残るから。先生に呼ばれてるの。フォームの修正だって」
千耀は俺の方を振り返らず、靴のつま先を床に打ち付けながら言った。その声は微かに震えていたが、俺はそれを練習の疲労のせいだと断じた。
「そうか。あまり遅くなるなよ。無理はするな」
俺はいつものように、聞き分けの良い幼馴染としての台詞を吐いた。それが彼女にとってどれほど残酷な「突き放し」であるかなど、知る由もなかった。千耀は一瞬だけ振り返り、何かを言いかけたように口を開いたが、すぐに口元を引き結び、弱々しい笑顔を作った。
「うん。行ってくるね、悠真」
その笑顔は、どこか泣き顔に似ていた。彼女は一度も振り返ることなく、暗くなりかけた渡り廊下を歩き去っていった。その先にあるのは、岡崎先生が待つ体育教官室だ。俺は彼女の背中が見えなくなるまで見送った後、一人で校門を出た。夜風が火照った頬を撫でる。俺は自分自身の判断に満足していた。彼女の夢を第一に考え、自分の感情を押し殺してサポートに徹する。それこそが「尊重」であり、成熟した愛の形だと信じて疑わなかった。だが、俺がその「美しき距離感」に陶酔している間、千耀がたった一人で、どのような暗闇の淵に立たされているのか、俺は想像すらしなかったのだ。
帰り道、コンビニエンスストアの白い明かりが目に染みた。俺は無意識のうちに、千耀が好きだったスポーツドリンクの棚に目をやった。明日、また彼女に渡そう。そう考えて手を伸ばしたとき、ポケットの中のスマートフォンが短く震えた。画面を見ると、明石陽菜からのメッセージだった。
『今、帰り? 千耀、一緒じゃないの?』
俺は足を止め、短い返信を打った。
『先生のところで指導受けてるよ。俺は先に上がった』
送信するとすぐに既読がついたが、返信は来なかった。画面の向こうで陽菜がどのような表情をしているのか、俺にはわからなかったが、胸のざわめきだけが消えずに残った。俺はスポーツドリンクを棚に戻し、逃げるように店を出た。遠くで踏切の警報音が鳴っている。それはまるで、これから始まる取り返しのつかない喪失を告げる警告音のようだった。
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