夜明けの君は見知らぬ人

一宮九葉

デスゲーム

 冷たいコンクリートと鉄が連なり、巨大な墓標ぼひょうを築く高層ビル群。

 東京という名の魔都まとは、ネオンの皮をかぶり、その実は腐臭ふしゅう漂う欲望の掃きめだ。

 午前零時。

 多くの老若男女が眠りにつく刹那せつな、世界は一変する。

 色彩は彩度を失い、静寂が騒音をらい尽くす。

 選ばれし少年少女たちによる、理不尽りふじんで無意味な殺戮劇さつりくげき――『デスゲーム』の幕開けだ。


 双葉ふたば朱里あかりは、眼下に広がる交差点を歩道橋の上から見下ろしていた。

 左手首には、狂気のうたげへの招待状である銀色の腕輪ブレスレット『シグナル』が、冷ややかな光を放っている。

 朱里の容姿は、この血なまぐさい舞台には不釣ふつり合いなほどに整っていた。

 背中まで伸びたつややかな黒髪は夜風に揺れ、切れ長の瞳は獲物を狙う猛禽類もうきんるいのように鋭い光を宿していた。

 身にまとうのは、進学校の制服ブレザーだ。

 しかし、その手には似つかわしくない凶器――細身で優美な刺突しとつ専用剣、レイピアが握られている。

 力任せにたたつぶすのではなく、相手のすきを突き、急所を一点のみつらぬく。

 その選択は、合理的でありながら、どこか加虐的サディスティック冷徹れいてつさを含んでいた。


 朱里の脳髄のうずいには、既に『敵を殺せ』というどす黒い命令が刻み込まれていた。

 視界に入る人間が、同じ『ファミリー』であれば安堵あんどを、異なるファミリーであれば強烈な殺意を、シグナルを通して脳が勝手に識別する。

 理屈はない。ただ、そう造り変えられたのだ。

 だが、朱里がこのゲームに参加し続ける理由は、植え付けられた殺意だけではない。

 もっと個人的で、切実で、そしてゆがんだ愛情に起因するものだった。


 双葉ふたば啓介けいすけ

 瓜二うりふたつの顔を持つ双子の兄。

 啓介もまた、この不条理なゲームの参加者プレイヤーだ。

 そしてあろうことか、啓介は実の妹である朱里に対して、肉親の情を超えた恋愛感情を抱いているのだ。

 そのおもいは重く、朱里を窒息させんばかりに絡みついてくる。

 このデスゲームの敗者は、最も大切な記憶を失う。そういうルールなのだ。

 だから、殺すしかない。

 この手で兄を殺し、私への禁断の愛を忘れさせる。それが、兄を兄として取り戻す唯一の手段だった。

 私は兄に愛されたいわけではない、私だけが兄を愛したいのだ。

 だから許せない。


 朱里は新宿の廃ビル街にひそんでいた。

 かつては繁華街だったが、今は再開発の名の下に放置された幽霊街ゴーストタウンだ。

 午前零時を回り、シグナルが活性化してから数分。

 朱里の全身の感覚は研ぎ澄まされ、かすかな物音や気配にも過敏に反応するようになっていた。

 レイピアの切っ先をわずかに下げ、朱里は闇を見据える。

 先ほど、視界の端に微かな銀色の輝きが映った気がした。

 脳内の衝動が、「行け」「殺せ」とささやく。

 心臓の鼓動が早鐘はやがねを打ち、興奮物質アドレナリンが血管をめぐる。

 朱里は音もなくコンクリートの地面を踏みしめ、歩道橋の階段を滑るように降りた。

 反射光が見えた路地裏は、表通りの死んだような静けさとは異なり、どこか粘着質な空気がよどんでいる。

 朱里は呼吸を浅くし、気配を殺して壁沿いに進んだ。

 心臓の鼓動が早まるのを意識的に抑え込む。理性で感情を制御しなければ、このゲームでは生き残れない。


 角を曲がると、そこには一人の影があった。

 壊れかけた街灯が、小柄な少年の輪郭を浮かび上がらせる。

 フードを目深まぶかかぶった少年はゴミ集積所のネットに寄りかかり、手の中で何かをいじんでいる。

 その瞬間、朱里の左腕にあるシグナルが微かな熱を帯びた。

 ――『敵』。

 脳髄に直接響くような警告。

 理屈ではない。朱里の本能が、少年を殺すべき対象として捕捉ロックオンしたのだ。

 迷いは死に直結する。

 朱里は助走なしで踏み込んだ。

 音を置き去りにするような鋭い一歩。

 レイピアの切っ先が、闇を切り裂いて少年の背中へと走る。

 狙うは心臓の裏側、一撃必殺の突き。


「……ッ!」


 だが、切っ先が触れるかどうかの刹那、少年は背中に目がついているかのように体をひねった。

 金属音が響く。

 朱里のレイピアは、少年が咄嗟とっさに振り上げた武器によって弾かれていた。


「危ないなぁ、お姉さん。挨拶もなしかい?」


 少年は軽やかな身のこなしで後退バックステップを踏み、距離を取る。

 フードの下からのぞく瞳は、月光を反射して猫のように怪しく光っていた。

 少年の手には、波打つ刃を持つ奇妙な短剣ダガーが二振り握られている。

 朱里は即座に構え直した。シグナルは激しく敵性反応を示している。


「あら、ごめんなさい。野良猫かと思ってたわむれようとしただけよ」


 朱里は挑発的な笑みを浮かべ、レイピアを正眼せいがんに構えた。

 相手の名は知らない。だが、この世界では名乗り合う必要などない。

 必要なのは、相手の息の根を止めるか、自分が止まるか、それだけだ。

 少年――久露音くろねなおは、短剣ダガーを指先で回しながら笑った。

 その名が『野良猫ノラネコ』の言葉遊びアナグラムであることに、朱里が気づくよしもない。


「戯れ、ね。いいよ、遊んであげる。僕も退屈してたんだ」


 直の姿がブレた。

 速い。

 直は壁を蹴り、立体的な機動で朱里に肉薄する。

 変幻自在の軌道を描く短剣ダガーの連撃が、朱里の急所を狙って降り注ぐ。

 近接武器しか選べないこのゲームにおいて、直の武器選択は機動力と手数を重視したものだ。

 朱里は神経を極限まで研ぎ澄ませる。

 金属音が狭い路地裏に断続的なリズムを刻む。

 久露音直の攻撃は、まさに嵐だった。

 壁を蹴り、ごみ箱を踏み台にし、重力というかせ嘲笑あざわらうかのように縦横無尽に飛び回る。

 右から首を刈りに来たかと思えば、左の刃が脇腹をえぐろうと迫る。

 だが、朱里は動かなかった。

 いや、必要最小限の動きだけで、その全てをさバいていたのだ。

 レイピアの切っ先が描く極小の円運動。

 襲い来る刃を正面から受け止めるのではなく、その側面に滑り込むように剣身を合わせ、軌道をらす。

 進学校のフェンシング部でつちかった技術が、殺人術として昇華されていた。


「堅いなぁ! もっと楽しもうよ!」


 直が回転の勢いを乗せた斬撃を放つ。

 朱里はその一撃を、手首の返しスナップだけで弾き飛ばした。


「お断りよ。ダンスの相手パートナーには軽薄すぎるわ」


 朱里の瞳が、冷徹な光を放つ。

 直の連撃にはリズムがある。変則的に見えて、着地と踏み込みのタイミングには微かな癖があった。

 数合打ち合う中で、朱里の脳はその規則性パターンを完全に解析していた。

 今だ。

 直が右手の短剣ダガーを振り抜き、体勢がごくわずかな時間だけ浮いた瞬間。

 朱里は踏み込んだ。

 シュッ、という風切り音と共に、銀色の閃光が走る。

 神速の刺突スラスト

 直は咄嗟に上体をのけぞらせる。だが、遅い。


「ぐっ……!」


 レイピアの鋭利な切っ先が、直の頬を浅く切り裂いた。

 赤い鮮血が舞い、アスファルトに染みを作る。

 直はタタタッと後退バックステップを踏み、距離を取った。

 余裕のあった表情が消え、頬を伝う血を親指でぬぐう。


「……痛いなぁ。顔は商売道具なのに」

「あら、残念。もう少し深く踏み込んでいれば、その減らず口も利けなくなったのに」


 朱里はレイピアの血糊ちのりを払い、再び優雅に構え直す。

 シグナルからの『殺せ』という衝動は、血を見ることで一層強まり、背筋がゾクゾクするような高揚感へと変わっていた。

 相手は手傷を負った。機動力こそ厄介だが、正面からの打ち合いでは朱里に分がある。

 だが、追い詰められた獣が何をするかは分からない。

 直は舌なめずりをし、ふところから何かを取り出そうと手を伸ばした。

 それが回復道具アイテムか、爆発物か、虚勢はったりか。

 思考よりも速く、朱里の身体は弾かれたように射出された。

 直が懐に手を入れた動作は、致命的な隙となる。

 何かを取り出し使用する過程プロセスには、僅かな時間の遅れタイムラグが生じる。

 対して、既に踏み込むだけの体勢にあった朱里の刺突は、思考の速度を超えて事象を確定させる。

 ヒュッ、という鋭い風切り音。

 銀色の直線が、直の右肩――懐に手を伸ばしたその腕の付け根を容赦なく貫通した。


「が、ぁ……ッ!?」


 苦悶くもんの声が漏れる。

 レイピアの切っ先は肉を裂き、そのまま背後の煉瓦レンガ壁に深々と突き刺さった。

 直の身体は、串刺しにされた昆虫のように壁に縫い付けられる。

 カラン、と硬質な音が足元で響いた。

 直の手から滑り落ちたのは、ピンの抜かれていない閃光手榴弾スタングレネードだった。


「残念。手品を見せる時間は終わりよ」


 朱里は冷酷に告げると、突き刺したレイピアのつかをわずかに捻った。

 神経を直接摩耗されるような激痛に、直の顔が蒼白になり、脂汗がにじむ。

 シグナルが激しく明滅し、朱里の脳内で『殺せ、殺せ、殺せ』という歓喜の合唱が鳴り響く。

 その快楽に似た衝動に身を震わせながらも、朱里の瞳は氷のように冷徹だった。


「は、はは……。すげぇな、お姉さん……。容赦なしかよ」


 直は痛みに顔をゆがめながらも、自嘲的な笑みを浮かべた。

 その瞳から、戦意の光が消えつつある。出血多量によるショック状態が近づいているのだ。

 直は降参するようにてのひらを見せた。


「負けだ、負け。……まさか、こんな場所で『彼』と同じ顔をした死神に会うなんてな」


 その言葉に、朱里の眉がぴくりと動いた。

 彼。同じ顔。

 このデスゲームにおいて、朱里と瓜二つの顔を持つ人間など、一人しかいない。


「……彼、と言った?」


 朱里は声を低くし、レイピアに込める力をわずかに緩めた。

 だが、抜くことはしない。生殺与奪せいさつよだつの権は依然として朱里の手にある。


「ああ……僕らの『ファミリー』の統率者リーダーさ。冷酷で、強くて、そして狂ってる……双葉ふたば啓介けいすけ。あんた、あいつの何なんだ?」


 直の口から出た名は、朱里がこの夜を彷徨さまよう理由そのものだった。

 兄が、ファミリーの統率者リーダー

 直は、朦朧もうろうとする意識の中で、目の前の少女と自分のボスとの奇妙な共通点に気付き、皮肉な運命を笑っているようだった。

 朱里の胸中で、どす黒い感情が渦巻く。

 兄への歪んだ愛憎、殺意、そして兄が他の誰かと「ファミリー」などという馴れ合いの絆を結んでいることへの、焼けるような嫉妬。

 この少年は、兄の居場所を知っているかもしれない。

 だが、シグナルは直を殺せと叫び続けている。

 朱里は無造作にレイピアを引き抜いた。

 直の口から、声にならない絶叫が漏れる。

 だが、朱里はそれを許さず、鮮血に濡れた切っ先を即座に直の喉元――脈打つ頸動脈の皮一枚上に突きつけた。


「ヒッ……!」


 直の喉がひきつり、悲鳴が喉の奥で凍りつく。

 朱里の瞳には、目的のためならば他者の苦痛など路傍の石ころほどにも気に留めない、絶対的な無関心と、兄への執着だけがあった。


「啓介の居場所を吐きなさい。そうすれば、苦しまずに死なせてあげる」


 それは慈悲を装った死刑宣告だった。

 直はガチガチと歯を鳴らしながら、眼前の少女を見上げた。

 美しい顔立ちだが、その内側には、直のボスである双葉啓介と同じ、あるいはそれ以上の狂気が渦巻いている。


「は、吐く……吐くから、やめろ……!」


 直は涙目で懇願した。

 死への恐怖よりも、この鋭利な刃でじわじわと肉をがれる苦痛への恐怖が勝ったのだ。


「『ホテル天羅てんら』だ……。旧市街にある、廃墟になったホテルの最上階……」


 朱里はその名を反芻はんすうする。

 かつての超高級ホテルも、今は企業の夜逃げによって放棄された廃墟だ。

 支配欲の強い兄が好みそうな場所だと、朱里は妙に納得した。


「あそこが……俺たち『ファミリー』の拠点だ……。啓介は、そこから街を見下ろして……指示を出して……」


 直の言葉が途切れがちになる。

 朱里の中に、どす黒い嫉妬の炎が揺らめいた。

 兄はあの高い塔の上で、多くの手下――『ファミリー』をはベらせ、王のように振る舞っている。

 私という妹がいながら、他の有象無象うぞうむぞうと徒党を組み、疑似家族ごっこに興じている。

 許せない。私の啓介。その隣にいていいのは、私だけなのに。


「……そう。ありがとう。役に立ったわ」


 朱里は微笑んだ。

 それは、聖母のように優しく、そして悪魔のように残酷な笑みだった。

 約束は守る。朱里は無駄な苦痛を与える趣味はない。

 ただ、兄に近づくための障害を取り除くだけだ。

 直が安堵したように力を抜いた、その瞬間だった。

 シュッ。

 朱里の手首がわずかに動く。

 正確無比な突きが、直の心臓を一点ピンポイントで貫いた。

 痛みを感じる暇すらない、一瞬の絶命。

 直の瞳から光が消え、人形のように動かなくなる。

 同時に、朱里の腕輪シグナルから伝わる『敵性反応』が消滅し、代わりに脳内麻薬のような達成感と快楽物質がドッとあふれ出した。

 朱里はレイピアを戻し、冷たくなった直の死体を見下ろした。

 直が命をして守ろうとした記憶や想いも、朝には泡沫うたかたのように消え去るのだ。


「さようなら、野良猫さん。兄さんによろしく」


 朱里は路地裏を後にした。

 目指すは『ホテル天羅』。兄が待つ、天空の城へ。

 路地を抜け、大通りに出ようとした朱里の視界に、一台の黒塗りの車が目に入った。

 乗り捨てられた高級車だ。

 徒歩で向かうには時間が惜しい。

 朱里は警戒しつつ車に近づき、運転席へ滑り込んだ。

 始動スタートボタンを押すと、重低音の咆哮ほうこうと共に計器盤ダッシュボードが光を放つ。

 朱里はアクセルを踏み込んだ。

 操作方法はなぜか直感的に理解できた。

 タイヤがアスファルトを噛み、車体が急加速する。

 朱里は夜の東京を疾走した。

 流れる景色は、無人のビル群と点滅する信号機だけ。

 シグナルが示す敵性反応がちらほらと感じられたが、時速100キロで疾走する鉄の塊に喧嘩けんかを売る者はおらず、朱里は誰にも邪魔されず駆け抜けた。

 旧市街へ入ると、異様な巨塔――『ホテル天羅』が現れた。

 鉄骨むき出しの上層部。その最上階付近だけが微かな光を帯びている。あそこに兄がいる。

 朱里はホテルから数区画ブロック離れた位置で車を止めた。

 エントランスにはバリケードが築かれ、その隙間からシグナルの輝きが見え隠れする。見張りだ。

 正面から徒歩で近づけば、蜂の巣にされるだろう。

 朱里は車を降り、そびえ立つホテル天羅を見上げた。

 胸の奥で、ドロリとしたどす黒い感情が渦巻く。

 兄さん。私を置いて、こんな要塞ようさいこもって、誰と遊んでいるの?

 今すぐそこへ行って、その首輪を引きちぎってあげる。

 この強固な守りを突破し、最上階の王座へ辿り着くには、適切な手法アプローチが必要となる。

 理性というブレーキをへし折り、朱里はアクセルペダルを床が抜けるほど踏み込んだ。

 エンジンの咆哮が静寂な夜を切り裂き、タイヤが白煙を上げる。

 黒塗りの高級車は、制御不能の砲弾と化した。


「どきなさいッ! 邪魔をするなら、鉄屑てつくずと一緒に挽肉ミンチになりなさい!」


 朱里の絶叫と共に、車体はバリケードへ突っ込んだ。

 凄まじい轟音ごうおん

 積み上げられた廃車が紙細工のように吹き飛び、瓦礫が弾丸となって四方八方へ散らばる。

 衝撃が朱里の身体を激しく揺さぶるが、狂気じみた執念が彼女の意識を繋ぎ止めていた。

 車体はガラス扉を粉砕し、ロビーへと滑り込んで停止した。

 プシューッという蒸気と粉塵ふんじんが舞う中、ひしゃげたドアが内側から蹴り飛ばされる。

 硝煙しょうえんの中から、朱里はゆらりと姿を現した。

 額から流れる一筋の血が、彼女の凄絶せいぜつな魅力を際立たせている。


「な、なんだ……!? 特攻か!?」


 ロビーで警備をしていた『ファミリー』の構成員メンバーたちが、驚愕きょうがくの色を浮かべて駆け寄ってくる。

 数は5人。手にはバットや鉄パイプなどの近接武器が握られている。

 朱里は埃を払うようにレイピアを一閃いっせんさせた。


「兄さんに会いに来たの。……そこを通してくれる?」


 問いかけは丁寧だが、その瞳は彼らを人間として見ていない。ただの障害物だ。

 男たちが雄叫びを上げて襲い掛かる。

 だが、今の朱里にとって、彼らの動きはあまりに緩慢だった。

 最初の男の鉄パイプをかわし、喉元を突く。

 二人目の武器を落とさせ、心臓を一突き。

 舞踏のように優雅で、処刑のように残酷な剣舞。

 数秒後、ロビーに立っているのは朱里ただ一人だった。

 朱里は息一つ乱さず、ロビーを見渡した。

 かつては豪華絢爛ごうかけんらんを誇ったであろう空間。

 正面には大階段があり、その奥には昇降機エレベーターホールが見える。

 最上階へ行くには、ここから登るしかない。

 ふと、受付フロントデスクに置かれた館内放送用のマイクが目に入った。

 朱里は『ファミリー』の死体を避けて歩き、マイクのスイッチを押し込んだ。

 キィン、という不快な共鳴ハウリング音が廃墟の静寂を切り裂く。


「あー……あー、テステス。……聞こえてる? 兄さん」


 その声は、まるで放課後の教室で雑談をしているかのように甘く、湿度を帯びていた。


「迎えに来たわよ、啓介。いつまでそんな薄汚いお友達と『家族ごっこ』をしてるの? 馬鹿みたい」


 クスクスという含み笑いが、ホテルの廊下に反響する。


「悪いお友達は私が全員『お片付け』してあげる。だから……私と遊ぼうよ。ねえ、愛してるわ。殺したいほどに」


 朱里がスイッチから指を離すと、放送は途切れた。

 建物全体が息を潜め、異物が侵入したことを認識し、ざわめき立っているような気配。

 その時。

 ポーン。

 場違いに軽快な電子音がロビーに響き渡った。

 エレベーターの階数表示インジケーターが点灯し、数字が減っていく。

 最上階付近から、何かが降りてくる。

 朱里はレイピアを構え直し、エレベーターホールへと向き直った。

 心臓が早鐘を打つ。恐怖ではない。期待と、殺戮への渇望だ。

 チーン。

 到着音が鳴り響くと同時に、エレベーターの扉が開いた。

 朱里の身体は、解き放たれた矢のように前方へと射出されていた。

 隙間から見える空間へ、殺意を込めた切っ先を突き入れる。


「死になさいッ!」


 銀色の閃光が闇を貫く。

 だが、その手応えは肉の柔らかさではなく、岩盤を突いたような硬質で重い反発だった。

 ガギィッ!

 火花が散り、朱里の手首にしびれが走る。

 必殺の突きを阻んだのは、エレベーターを埋め尽くす巨漢の持つ、巨大な暴徒鎮圧用盾ライオットシールドだった。


「いらっしゃいませぇ! 当ホテル自慢の『動く棺桶かんおけ』へようこそォ!」


 男――鬼武キブは、ニヤリと下卑げびた笑みを浮かべ、背後の操作盤をひじで叩いた。

 ガコン。扉が閉まり始める。


「なっ……!?」

「逃がしはしねぇよ、お嬢ちゃん。ボスが待つ最上階まで、たっぷり可愛がってやる」


 鬼武の手には巨大な盾と警棒。

 密室、上昇する浮遊感。逃げ場のない鉄の箱。

 しかし、朱里の顔に浮かんだのは嗜虐しぎゃく的な笑みだった。


「あら、素敵。二人きりね」


 朱里はレイピアを軽く回し、シグナルは網膜を焼くほどに赤く点滅している。

 鬼武が雄叫びと共にシールドを叩きつけ、圧殺しようと迫る。

 壁際まで数メートルもない。

 だが、朱里の思考は冷え切っていた。

 衝突まで僅かな時間。朱里は床を蹴り、あえて斜め前方、壁際へと跳躍する。

 ドォォォン!!

 轟音と共に、鬼武のシールドがエレベーターの壁に激突した。

 その衝撃で、鬼武の動きが一瞬だけ止まった刹那。

 朱里はエレベーターの壁面を蹴り、鬼武の死角である背後へと音もなく着地していた。


「ここよ、図体だけの木偶でくの坊」


 朱里の冷ややかな囁きが、鬼武の耳元を撫でる。

 朱里はレイピアを逆手に持ち替え、鬼武の無防備な延髄えんずいへ突き下ろした。

 ズプッ。

 肉を貫く鈍い音。鬼武の巨体が痙攣けいれんし、崩れ落ちた。

 レイピアを引き抜くと、鮮血が鏡張りの壁を染め上げる。

 エレベーターは最上階『35』に到着した。

 チン、と音が鳴る。ここが開けば、兄の玉座だ。

 扉が開き、視界が開けた瞬間、朱里は飛び出した。

 狙いは一点。「王」の心臓。


「啓介ェェェッ!!」


 裂帛れっぱくの気合いと共に繰り出された刺突は、しかし、空虚な空間を切り裂いただけに終わった。

 切っ先が伸びきったその先には、誰もいなかったのだ。

 朱里は勢いを殺し、絨毯の上に着地した。

 そこは『ホテル天羅』の最上階、展望休憩室スカイラウンジ

 眼下には死に絶えた東京の夜景がきらめいている。

 その最奥、豪奢ごうしゃ背高椅子ハイバックチェアに男は座っていた。


「おかえり、朱里。待ちくたびれたよ」


 双葉 啓介。

 朱里と瓜二つの顔立ちをした青年。

 その瞳に宿る光は、深く濁った執着の色を帯びていた。

 朱里の左腕、シグナルが焼き切れんばかりに熱を発する。

 『敵』。最大級の敵。

 だが、それ以上に魂が叫んでいた。愛している。殺したい。私だけのものにしたい。


「……随分と余裕ね、兄さん。下のお友達は全員、私が壊しちゃったけど?」


 朱里は血に濡れたレイピアを構え、挑発的な笑みを浮かべる。

 啓介は楽しそうに目を細めた。


「構わないさ。あんな有象無象、いくらでも代わりはいる。……だが、お前は違う。お前だけが、僕の唯一だ」


 啓介が指を鳴らすと、柱の陰から『ファミリー』の幹部たちが現れ、朱里を包囲した。


「彼らは僕の親衛隊だ。……朱里、僕たちの愛の巣に辿り着く資格があるか、試させてもらってもいいかな?」


 啓介は舞台を鑑賞するように微笑んだ。

 その歪んだ性癖に、朱里の腹の底から熱いものがこみ上げる。

 これほどまでに自分を見てくれているという快感。だからこそ、殺さなければならない。


「いいわよ。全員、兄さんの目の前で肉塊に変えてあげる」


 朱里は包囲網の中心でレイピアを構えた。

 敵は3人。奥には高みの見物を決め込む最愛の兄。


「雑魚に用はないの! 失せなさいッ!」


 朱里は床を強く踏み切り、玉座の兄へ向かって一直線に走り出した。

 ヒュンッ!

 ボウガンの矢を首だけでかわす。

 ハンマーを背中反らしで滑り抜ける。

 ドォォォン! かかとがあった場所が粉砕された。

 最後に立ちはだかった短剣使いの女。だが、朱里の眼中に彼女はいない。

 疾走の勢いを乗せた左肘ひじを、すれ違いざまに女の顔面へ叩き込んだ。

 ゴシャッ、と女が吹き飛ぶ。

 包囲網突破。所要時間、わずか三秒。

 朱里の目前には、愛してやまない兄、啓介だけがいる。


「啓介ェェェッ!!」


 朱里は跳躍した。

 全身のバネを使った渾身の飛び込み突き。愛の告白であり、殺害の宣告。

 啓介は優雅にワイングラスを投げ、椅子の脇にあった長大な両手剣ツヴァイヘンダーを抜き放った。

 ガギィィィンッ!!

 レイピアと両手剣が激突し、衝撃波が拡散する。

 朱里の鬼気迫る表情と、啓介の恍惚とした微笑みが至近距離で交差する。


「素晴らしいよ、朱里! 僕のために、そこまで狂ってくれたんだね!」

「黙って! その口を塞げば、もう愛してるとか言えなくなるでしょ!?」


 力比べ。啓介の防御は揺るがない。

 背後では親衛隊たちが迫っていた。このままでは袋叩きにされる。

 離れれば啓介の射程リーチが襲う。究極の板挟みジレンマ

 しかし、今の朱里には常軌を逸した着想アイデアがあった。

 だからこそ、賭けに出た。

 朱里は、レイピアを握る指をパッと開いた。

 ガクンッ。

 抵抗を失った啓介の剣が空を斬り、上体がよろめく。

 レイピアが落ちる音より早く、朱里は兄の懐へと飛び込んでいた。

 兄の胸に顔を埋めるほどの至近距離。

 両手剣の死角であり、最も危険な聖域。

 朱里の左手が、スカートの裏の「牙」を引き抜く。

 先ほど葬った「野良猫」こと久露音直の短剣ダガーだ。


「さようなら、お兄ちゃん」


 甘く切ない囁き。

 朱里は短剣ダガーを、兄の喉元へと深々と突き立てた。

 ズブリ。

 啓介が硬直する。声帯を断たれ、悲鳴すら上げられない。

 両手剣が滑り落ち、重苦しい音を立てた。

 朱里は崩れ落ちる啓介を支え、共に膝をついた。

 兄の血がブレザーを染め上げていく。

 啓介の瞳から、狂気じみた執着が消えていく。敗北による「記憶の喪失」だ。

 啓介の震える手が、朱里の頬に触れようとして、力なく垂れた。

 朱里は慈愛に満ちた、けれど冷酷な微笑みを向けた。


「安心して。全部忘れさせてあげる。私への想いも、この夜のことも、全部」


 啓介の身体が光の粒子となって分解され始めた。

 デスゲームの終わり。敗者の退場。

 啓介の命とも言える「最も大切な記憶」――禁断の愛が消滅していく。

 東の空が白み始めた。

 鋭い朝陽が差し込み、光が朱里を包み込む。

 シグナルが消え、短剣も、親衛隊も、廃墟さえも。

 全てが朝霧のようにかすみ、世界が反転する。


 *


「――り、朱里。起きろよ、遅刻するぞ」


 肩を揺すられ、朱里は目を覚ました。

 いつもの台所キッチン

 目の前には、エプロン姿の啓介が立っている。

 呆れたような、けれど健康的な兄としての笑顔。


「う……ん……お兄ちゃん?」

「なんだよ、寝ぼけて。ほら、早く食べないと学校間に合わないぞ」


 啓介は朱里の頭を軽く叩き、キッチンへ戻っていく。

 その背中にも瞳にも、あの粘りつくような情念は微塵もなかった。

 啓介は失ったのだ。妹への歪んだ恋心を。

 そして「仲の良い兄妹」としての記憶だけが再構築された。

 目的を達したのだ。


 朱里は左手首を見た。

 銀色の腕輪も、その痕跡すらない。白くなめらかな肌があるだけだ。

 胸の奥の殺意や焦燥感も消え失せている。

 不思議なことに、それ以来シグナルが現れることは二度となかった。

 夜の街で何が起きているのか、誰が殺し合っているのか、朱里はもう知る由もない。

 ただ、平凡で退屈な、けれど平和な日常が続くだけである。

 朱里はトーストをかじり、窓の外の青空を見上げた。

 あの血塗られた夜の記憶は、遠い夢のように急速に薄れ始めていた。


(大好きだよ、お兄ちゃん……)


<了>

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