引っ越し

引っ越し

「少し肌寒くなってきたね。」


「うん。」


 彼は、窓の向こうに視線を投げたまま、軽い相槌だけをこちらへ寄越した。


 気づけば、季節は冬になっていた。

 家で仕事をするようになってから、私はしばしば時間の形を見失う。


 速く感じたり、遅く感じたり。


 仕事をしている時、時間はまるで深い水の底に沈んでいるようにゆっくりと流れる。けれど、彼といる時は、まるで刹那のように一瞬だ。


「ねえ、蓮は……死なないでね。」


「死なないよ。ずっと、ずっと君の傍にいる。」


 その返事はいつも通り穏やかだったが、彼の眼差しは相変わらず遠い。


 時々、こうして二人で、何もせずに同じ空気の中にいるだけの時間が訪れる。


 私は小説の続きを考えたり、夕食の献立をぼんやり思い描いていたりしている。

 けれど、彼が何を考えているのか、それは未だに分からない。


 それでも、この静かな時間が永遠になればいいのに――そんな願いが胸をかすめる。


 失ってからも、思い出すのはこうした時間ばかりだ。


 旅行に行った日々や、結婚式で誓いよりも、なぜかこの、何気ない午後の静けさの方が、胸の底により深く沈んでいる。


 変哲もない日常。

 けれど、その何も起こらない時間こそが、私たちの色彩だった。


「……じゃあ、引っ越し準備しようか。」


「うん。」


 そのとき、ふと気づいた。彼は涙を流していた。


 理由は聞かなかった。聞く必要もなかった。


「泣いてないで、早く片付けるよ。」


 私はそっと、押し入れの戸を開けた。


「これは……」


 そこにあったのは、一台のカメラだった。

 長く仕舞われていたのに、不思議とぬくもりが残っていた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「ねえ、早くしてよ!電車に間に合わなくなるってば!」


「ちょーっとだけ待って。すぐ行く。」


 押し入れの奥で、彼は何かを探している。


「昨日の内に準備していてって言ったよね!」


「ごめんごめん。」


 軽い、まるで羽が落ちるみたいな謝罪。その軽さに、苛立ちが募る。

 結婚する前から、この調子は変わらない。


「あった!」


 ようやく彼が押し入れから出てきた。

 私の前に立つと、何かを背中へ隠したまま、子供みたいに笑っている。


「で、何を探してたの?」


「これ!」


 彼が差し出したのは、古びたカメラだった。

 小さな光受けて、黒い筐体がわずかに輝く。


「カメラ……?」


「うん。せっかく二人で旅行に行くんだし、形にして残しておきたくて。」


 彼はシャツの裾でレンズを雑に磨いた。その仕草が不思議といとおしい。

 急いでいるのに、胸の奥の引っ掛かりがほどけていく。


「もう……ほんとに。早く行くよ!」


 結局、こうして許してしまうのが私の弱いところだ。


 彼の行動には、たいてい理由がある。

 私はそれを知っているし、知ってしまっているからこそ、怒り続けることが出来ない。


 急いで外に出ると、冷たい朝の空気が頬を撫でた。

 二人で走りながら駅へ向かう。


「あはははは!」


「何笑ってるのよ、もう!ほんとに遅れるってば!」


 静けさの中で、彼の笑い声だけが、やけに遠くまで響いていた。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 懐かしさが胸に広がる。あの日、結局電車には乗れなかった。何故だか、その時の情景が今も色濃く思い出される。


「ごめんね。」


 彼の声が、少しだけ申し訳なさそうに響く。


「でも、どうしても君との思い出を残したかったんだ。」


 カメラを手に取る彼。その姿は、まるで自分の心の一瞬を切り取るかのようだった。


「この部屋も、撮らないとね。」


 彼の言葉に、私は微かに頷く。


「そうだね。もう、ここには戻ってこられないし。」


 シャッターの音が、部屋の静けさを切り裂く。その音を聞いて、私は思わず彼の方を見た。彼は、私にカメラを向けていた。


「やめてよー。今すっぴんなんだから。」


 その言葉が口から出た瞬間、彼は写真を見つめて、愛おしそうに微笑んだ。


 彼の笑顔が、私の胸にじんわりと広がった。



 引っ越し。これほど不思議な言葉はない。

 何年も、何気ない日常を共に過ごしてきたこの家と別れるということは、まるで自分の一部を切り離すような感覚だ。

 けれど、別れる時に感じるのは、思ったほどの名残惜しさではない。


 そこには、すべてが過ぎ去った後の、静けさだけが残るのだ。


 それでも、後日、別の誰かがその家で生活をしているのを見かけると、なぜか少し恨めしく思う自分がいる。


 それは、別れたからこそ感じる、わずかな空虚さのようなものなのだろうか。


「引っ越しってね、思い出の整理なんだ。」

 彼はカメラのフォルダーを見つめながらゆっくりと言った。


「僕たちが、この家で何をしてきたのか、その振り返り。いらないものといるものを分けて、過去と区切りをつけるんだ。」


「そう……だね。」


 私は少し間を置いていった。


「でも、過去と区切りをつけるのは難しいなぁ。だって、全部大切なんだもん。ほら、これとか。」


 クローゼットの奥から、私は浴衣を取り出した。あの日、彼と一緒に花火を見た夏の夜のことを思い出す。その時の彼の顔を、今でもはっきりと覚えている。


「君は……とてもきれいだった。」


 彼の言葉は、まるで昨日のことのように、私の心に響く。

 普段は照れくさくて、こんな風に素直な言葉を言うことは少ない彼が、今日はなぜだか、まるで違う人物のようだ。


「あなたも……かっこよかったよ。」


 私は照れくさい笑みを浮かべる。あの日のことを、今でも忘れられない。


 彼はいつも、ファッションには無頓着だった。それなのに、花火大会の日だけは浴衣を着てきてくれた。その姿に、私はとてもうれしくなった。


「わざわざ君が浴衣を買ってくれたんだもの。着ないわけにはいかないよ。」


 彼の言葉に、思わず笑いがこぼれる。そうだ、私はほとんど無理やり彼に浴衣を着せたんだった。


「でも、あの時、君にかっこいいって言われて、すごくうれしかった。」


「いつも言ってるじゃん。」


 彼は照れくさそうに笑う。その頬が、少し赤くなっているのを見て、私は心の中で思わず微笑む。彼のそんな姿が、愛おしくて仕方がない。


「じゃあ、君の一番の思い出は何?」


 私は、彼を見つめて尋ねた。彼はしばらく考えるように、目を遠くに向けた。

 やがて、思い出を辿るように、静かに言葉を紡いだ。


「そうだね。やっぱり、プロポーズの時かな。」


 彼は少し恥ずかしそうに、けれど深く頷いた。


「あの時が、人生で一番緊張したよ。」


 プロポーズ。


 それは、私たちの未来を大きく変えたもの。


「あのときは驚いたよ。けれど、なんとなく――あなたはきっと、プロポーズするんだろうなって、そう思っていた。」


 懐かしさと共に、その瞬間が鮮やかによみがえる。


 彼の肩は震えていたけれど、その目はしっかりと私を捉えていた。彼の真剣な眼差しが、今でも私の心に強く残っている。


「正直に言えば、あの時はすごく迷っていたんだよ。あなたのことは大好きだったけど、結婚式とか、そのあとの生活とか……ほら、私ってあんまり“女の子らしい”感じがしないでしょ?」


「でも、そんな君が僕は好きだった。一番、大切だった。」


 どうしてそんな言葉を、あっさりと口にできるのだろう。


 彼の瞳の奥には、照れではごまかせない、芯のある熱が宿っていた。


「私が迷っていた時にあなたが言ってくれた、あの言葉で私は決めたんだ。この人となら、一生を共にしてもいいって。……覚えてる?あなたが、何を言ったのか。」


「そんな昔のこと、覚えてるわけないよ。」


 彼は慌てて顔をそらす。だが、その耳は真っ赤に染まっている。


 さっきまであんなに堂々と、恥ずかしいことを口にしてたくせに。


 私の方がどれほど照れていたか、彼は知りもしないのだ。


 私は、堪えきれずに、ふっと笑みをこぼした。


「じゃあ、君の一番の思い出は何なのさ。」


 私は少し考えてから、ゆっくりと答えた。


「私はね、やっぱり結婚式の時かな~。」


 リビングの棚から、私たちの結婚式の写真が飾られているその写真立てを手に取った。


「私は、結婚式が一番緊張したなぁ。小さなチャペルだったけど、両親にウェディングドレスを見せられて、すごくうれしかった。もちろん、あなたにも見てもらえてうれしかったよ。」


「あの時の君は、まるで妖精のようだった。」


「もー。さっきからそんなに褒めて~。何も出ませんよ~。」


 私はそっぽを向き、彼に顔を見られないようにした。


 胸の奥のどこかが、ゆっくりと熱を帯びていく。

 彼の前では、こういう時ほど素直になれない自分がいる。


「でも、君と、ぼーっと、外を眺めている時間が、一番楽しかった。」


 低く、けれど確かに震える声だった。


 その震えは、私が聞いたどんな愛の言葉よりも温かかった。


「……私も。」


 言葉にした瞬間、胸の奥で何かがほどけた。


 ほどけた先にぽっかりと空いたものも、はっきりとわかってしまう。


 私はゆっくりと窓の外を見る。


 そこには、何度見たか分からない風景が、今日も変わらず広がっていた。


 電線に止まったカラスの黒い影。


 夕陽に焦がされたアパートの壁。


 風にゆれる洗濯物の白さ。


 何でもないはずの風景が、今日はやけに輪郭を強くしている。


「ただ君と居られるだけで……それだけで、良かったんだ。」


 彼の口はまだ震えている。


 けれど、そんな彼に私がかけられる言葉は、何一つ出てこない。


 慰めの言葉も、励ましの言葉も。


 だから、私は黙る。ほんの少しだけ、彼の呼吸の音を聞いていた。


 沈黙は、いつもより長く、重く、優しい形をしていた。


 彼が呼吸をするたびに、喉の奥でかすれた音が鳴る。


 その姿は、私が知る誰よりも弱かった。

 が、そんな彼を私は好きになったのだ。


「未来の話を、しようよ。」


 静かに、でも決意を込めて私は言った。


 もう一度、彼に前を向かせたかった。


 彼を、この部屋に縛り付けてしまわないために。


「引っ越しっていうのはね、過去の整理をすることでもあるけど、同時に、未来への準備でもあるんだよ。」


 私は机に置かれたカメラを手に取る。


 電源を入れると、小さな電子音が響く。


 フォルダーを開くと、そこには私の顔が無数にあった。


 笑っている顔。


 ふざけている顔。


 疲れて眠っている顔。


 どれも彼が見ていた世界で、どれも彼が愛してくれた私だった。


「ほら。容量たくさん余ってるじゃん。」


 あえて軽く言ってみる。

 明るさを装うことで、彼の涙に寄り添いたかった。


「でも、君がいないと、僕は……」


「私のことも、整理するんだよ。」


 その瞬間、彼はびくりと肩を揺らし、はっと顔を上げた。


 その目に宿った驚きと痛みが、胸に刺さる。


「あなたはこれから、たくさん生きることになる。でも、私とお別れをしないといけない日は、必ず来る。だから、過去の整理を……してほしいんだよ。」


 それは本心だったし、彼が悲しみに沈んでしまわないよう願いも込めていた。


「その後に、未来の話をしよ?」


「うん……」


 彼は静かに頷く。


 それから、私たちは荷物の整理をした。


 色々なものが出てくる。そして、その全てに思い出がこもっている。


 そうして、荷物の整理が終わった。


 いらないもの、いるもの。


 二つの段ボールが分けられた。


「じゃあ、こっちは私がもらうから。」


 そう言って、いらないものの入った段ボールを持つ。


 だが、その中には何も入っていなかった。


「……そんなに、私のことが大切?」


 彼は、何も喋らない。


 これが、彼の出した答えなのだ。


「僕は、君のことを忘れることはできない……。」


 その表情はどこか切なげだった。


「そっ、か。」


 私の中では、嬉しい気持ちと、悲しい気持ちが混同していた。


 彼の中で私がどれほど大切だったのかが分かったが、同時に、私を失うのがどれほどのことなのかが分かった。


「それじゃあ、未来の話を、しようか。私はそうだな~。あなたがこっちに来た時、遊園地とか行きたいな!」


 彼の表情は、痛みを抱えながらも、どこか光の方向を向いていた。


「……でも、君はジェットコースター苦手じゃん。」


「だから克服するの!」


 笑い声が家に広がる。


 笑い声なのに、どこか涙の味がした。


「僕は、君ともう一度旅行に行きたいな。ほら、前は慌ただしかったし、今度は、ちゃんと。」


 その言葉には、彼の温度がこもっていた。


 過去ではなく、未来を語る声になっていた。


「カメラもちゃんと準備するんだよ~?」


「わかってるって。」


 ようやく、彼は自然に笑った。


 その笑顔を、私はきっと一生忘れない。


 それから、私たちはいくつもの未来を語り合った。


 生きたい場所、食べたいもの、観たい映画。


 くだらないことばかりだったけれど、どれも楽しかった。


「いつか、いろんなところに行きたいよねー。」


「うん。」


 今度は、彼は私の目を見て答えた。


「君と一緒なら、どこへでも。」


 その言葉が、最後の魔法のように、私の胸の奥にゆっくりと染みていった。


「うん。」


 私は軽く頷いた。


「じゃあ、私はそろそろ行かないと。」


 私がそう告げると、彼は小さく息を呑み、顔を伏せた。


 最後くらい、ちゃんと顔を見たい。


 私はそっと彼に近づき、唇に触れた。


「……」


 何も言わず、彼はそれを受け入れてくれた。


 震えるほどやさしく、そして深く。


 やがて、彼はゆっくりと顔を上げる。


 彼は泣いていた。静かに、けれど、まっすぐに。


「あなたと過ごした時間が、私にとって何よりも、大切でした。」


 私は泣かない。


 最後くらい、笑顔で別れたい。


「じゃあ、ね。」


 そう言うと、彼は泣きながら、それでも確かに笑ってくれた。


 その笑顔を残して、私はそっと、彼の時間から離れていった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 僕は、机の上に置かれた封筒を、指先でそっとなぞった。


 彼女の筆跡は、もう二度と増えることはない。


 遺書を読み終えた瞬間、部屋の空気が一つ深く沈んだ。


 まるで、彼女がすぐ近くにいるような、僕の肩越しにその文字をのぞき込んでいるような気がした。


「……全部、分かっていたんだね。」


 彼女がいなくなった後、僕がどうなるのか――


 立ち上がれず、未来を失い、何度も時の底へと沈むことを。

 彼女は知っていたのだ。


 段ボールを開ける。


 髪留め、手袋、小説——


 どれも、僕にとって手放せない温度を持っている。


「捨てていいものなんか、一つもないよ。」


 呟いた瞬間、胸の奥にため込んでいたものが零れ落ちた。


 最近は、涙が僕の中で日常のようにふるまう。


 昨日も、一昨日も、今日という日にも。


 彼女がいない現実は、呼吸のたびに僕の胸を削っていく。


 それでも、遺書の最後の一行——彼女らしい、小さな、まっすぐな一行。


 それが僕を繋ぎ止めていた。


 封筒をそっと閉じる。


「……ありがとう」


 僕は遺書を机に置いた。


 どんな言葉よりも不器用で、けれど、今の僕にはそれしかできない。


 彼女がいない世界でも、僕は生きていく。


 いつか静かにこの世を抜ける時、

 胸を張って彼女に会えるように。


 後悔に形があるのなら、僕はそれを抱えたまま生きていくことしかできない。


 それでも、歩くのをやめないという選択だけは、誰の手にも奪われない。


 段ボールを閉じる。ゆっくり、音をたてないように。


 引っ越しは、過去を振り返るだけでなく、未来への準備でもある。


 悔やみきれないことなんて、人生にはいくつもある。


 忘れないまま、生きていく。


 忘れられないまま、進む。


 その矛盾が、今の僕の形だ。


 チャイムが鳴った。


 引っ越し業者だろうか。


「…はーい。」


 涙の跡を袖でそっとぬぐい、僕は玄関へと歩いていく。


 一歩、また一歩。


 その重みが、確かに僕を前へ押し出していた。


 彼女が願った未来へ向かうための、最初の一歩だった。

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