あの人は白衣のまま、昔の名前で立っていた」

@rikuto6910

第1話 あの人は

再会は、いつも不意打ちだ。


消毒液の匂いが廊下に薄く漂っていて、午前中の外来が一段落した頃だった。私は自動販売機の前で、どれにしようかと迷うふりをしながら、実は何も考えていなかった。待ち時間というのは、いつでも私を空白にする。


そのとき、名前を呼ばれた。


旧姓だった。


一瞬、返事ができなかった。

誰か別の人のことだと思った。けれど、その声の高さも、言い切り方も、記憶の底に沈んでいたものと重なった。


振り向いた。


白衣の向こうに、彼はいた。


少し痩せて、眼鏡をかけて、でも目の奥の静けさは変わっていなかった。高校の頃と同じ、温度のないような、でも見過ごさない視線だった。


「……久しぶりだね」


そう言われて、私はやっと息ができた。

久しぶり、というにはあまりに長い時間が流れていた。二十年以上。人生が一度、きれいに裏返るくらいの時間。


診察室は狭く、音が少なかった。キーボードを打つ音と、遠くのストレッチャーの車輪の音だけが、現実をつないでいた。


「元気にしてた?」


そう聞かれて、私は少しだけ困った。

元気、と呼べる時間の説明は、いつも長くなる。だから私は、


「それなりに」


と答えた。


彼はそれ以上、踏み込まなかった。

昔からそうだった。必要以上に人の領域に入らない。それが冷たくも、誠実にも見える人だった。


診察は淡々と進んだ。

体の不調の話、検査の話、生活習慣の話。どれも、彼が医師で、私が患者であるというだけの、正しいやり取り。


けれど、書類に視線を落としたまま、彼がぽつりと言った。


「君、昔……国語、得意だったよね」


胸の奥で、何かが小さく音を立てた。


あの頃、私は彼に頼まれるまま、放課後に作文を見ていた。特別な意味なんてなかった。ただ、彼は静かに「教えて」と言って、私は断らなかった。それだけの関係だったはずなのに。


「よく覚えてるね」


「忘れないよ」


彼はそう言って、やっと私を見た。

医師の目ではなく、クラスメイトだった頃の目で。


その一瞬だけ、私たちは確かに同じ場所に立っていた。


診察室を出るとき、彼が言った。


「また、来て」


患者だから、という意味なのはわかっていた。

それでも私は、少しだけ昔に戻った気がして、小さく頷いた。


廊下の自動販売機で、私は結局、何も買わなかった。

喉は渇いていたけれど、胸の奥の方が、もっと乾いていた。

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