母のレモネード

霖しのぐ

***

 ああ、気分が悪い。


 陸で生きているはずのなのに、近頃は船酔いのような不調がずっと続いている。薬でどうにかすることもできず、ただただされるがまま揺らされているしかない。


 寝ても覚めても楽になることのない吐き気に悩んでいる理由は明白、私のお腹の中には新しい命が宿っているからだ。もちろんそのことは嬉しくて幸せだ。


 しかし、それはそれとして、つわりがこんなにしんどいとは思っていなかったので気分が滅入ってしまう。


 今まで大好きだった匂いを嫌悪するようになり、さらには味覚がおかしくなって食べられるものもどんどん減っている。


 自分の中身が自分でも分からないうちにそっくり入れ替わってしまったとすら感じる。もはや日々の暮らしを営むのでもう精一杯。夫にはさんざん迷惑をかけていた。


「よかったら息抜きにおいでよ」


 夫が数日の出張に出かけた日、母がそう言ってくれたので私は迷わず言葉に甘えた。実家のソファに横たわってぐずぐずしていた私のところに運ばれてきたのは、ただふたつに切っただけのレモン。瑞々しい切り口を見ているだけで、歯がキシキシしてくる。


「え?」


「庭のやつ。よかったら食べて」


 母は得意げに笑う。


「今年も立派なのが生ったんだねえ」


 リビングの掃き出し窓から外を見る。うちの庭にはがっしりとしたレモンの樹があって、夏から秋にかけてたくさん実をつける。


 つやつやの黄色い果実は、まるで夏の日差しのように誇らしげだ。まあ、今年も上々の出来なのは一目瞭然だった。


 私は瀟洒なガラスの器に転がったレモンを見つめる。果たして酸っぱいものが食べたいのかどうかわからないけれど、母の気持ちを無碍にもできない。私は体を起こし、意を決してかじりついた。


「っっぱ!!」


 この結果を覚悟をしていたからギリギリ受け止められたけれど、レモンはやっぱり、そのまま食べるにはあまりにも酸っぱすぎる。顔のパーツが何ミリかずつ中心に寄った気がする。そんなわけないか。


 それで美人になればいいけど、微妙。


「どう? 楽になった?」


 そんなどうでもいいことを考えていた私の顔を覗き込む母の表情は、心配そうでいて、どこか期待の色を兆している。私は母の光り輝く瞳を、申し訳ない気持ちで見つめる。


「ごめん。さすがにそのままは酸っぱかった……」


「そっか。つわりには酸っぱいものがいいっていうから、もしかしたら効くかもと思ったんだけど」


 なんだか悲しそうに肩を落とした母は、なんだか、しゅるしゅると縮まって見えた。


 あれ、この人はこんなにも小さかっただろうか。そんなことを思いながら、さっきかじったばかりのレモンをまたひと舐めする。確かに酸っぱいけど、嫌な気分にはならない。


 歯をキシキシさせていると、小さい頃に大好きだったものを思い出して、私は母におねだりすることにした。


「レモネードが飲みたい気がするから作ってほしい。とびっきり冷たいの」


「そう!? わかった!!」


 母が力強く頷いてから台所にすっ飛んでいくのを、私はぼうっと見守った。


 ああ、今まで何度もこんな事があったなあと思う。だって私が体調を崩すと、母はいつも必死になってくれていた。


 元気なときにだって、あれが食べたいこれが食べたい、寝るときは隣ににいてほしいというというわがままを、嫌な顔ひとつせずに聞いてくれた。


 そのたびに、えもいえない安心感に包まれていたような気がする。もう空腹や夜の闇に怯えなくても大丈夫なんだと。


 果たして私には、我が子に同じことができるだろうか。お腹をさすりながら自問するけど、返事はない。胎動はまだ感じられない。


 程なくして冷たいレモネードが私の目の前に届き、グラスの氷がからりと音を立てる。グラスを手に取る。大好物だったものがことごとく口にできなくなってしまっているけれど、これは変わらず好ましい香りに思えた。おそるおそる口に含む。


 久しぶりの味。レモンの酸味を、はちみつの甘さが優しく包み込む。炭酸のシュワシュワとした刺激も心地良い。


 私は母が作ったレモネードが本当に大好きだった。ホルモンの影響なのか何なのか、味覚が謎に変化してしまった今でも、美味しいと感じられてよかったと思う。舐めるようにゆっくりと飲むと、いくぶんか気分が良くなった。


「美味しい。なんかスッキリした」


「よかったあ。私には経験のないことだから。ちゃんと力になってあげられなくてごめんねえ」


 母は私の隣に座ると、申し訳なさそうに言った。


 この人は、私の産みの母ではない。母には妊娠出産をした経験がない。子供を作るために必要なものが、夫婦共に欠けていたからだ。


 私は物心がすっかりついたあとで、両親に養子として迎えられた。いろいろなかたちの飢えに耐える冷たい日々とは一転、両親との暮らしは絵本の中のお姫様のような……いや、当時の私は絵本のお姫様の存在をまだ知らなかったけれど。人並みの、温かい暮らしを手に入れたのだ。


 だけど自分の置かれた状況を理解できるまでは、ただただ困惑していたように思う。試すようなこともしたし、酷いことも言った。そのたびに、母は黙ってわたしを抱きしめてくれた。


 今でも母の温もりを感じるたび、本当はこの人から生まれてきたかったと、心の底から思う。実の母には手酷く捨てられた私がそれでも母になりたいと思ったのは、ずっとあなたの背中を見ていたからだ。


「あなたは、お母さんになるのねえ」


 私がそう言うと母は嬉しそうに笑いながら、わずかに硬くなっただけの、膨らんでもいない私のお腹を愛おしそうに撫でる。


 小さい頃に頭を撫でてくれたのと同じゆったりとした手つき。心地よくて、くすぐったくて、今でも嬉しくて涙が出そうになる。


「何言ってんの。私も、だよ。お母さんはお母さんだし、この子にとってはおばあちゃんになるんだよ」


 エプロンの裾で目元を拭いた母に、そっともたれかかった。


 私もあなたのような、優しいお母さんになりたい。


 私は涙が溢れそうになるのを堪えながら、甘酸っぱいレモネードをまたひと舐めした。

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母のレモネード 霖しのぐ @nagame_shinogu

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