宇宙の法規

十夢

宇宙の法規



宇宙の法規


 もしも、地球の枠を超えて宇宙の法規に従うとしたら、どんな決まりを人類は想像するだろう? この地球上には存在しないような法規? それとも、これまでの法律を拡大したような法規を考えるのだろうか? 自分は、最低限守って欲しい法規をそれとして定めたい。 それは、生命とする意識体への尊厳はお互いに守られるというものだ。


人間の場合


 現在の地球上においては、人類間の尊厳だけが明文化されては、さまざまな生き物への尊厳は明確にされないで見逃されている状態だろう。 例えば、花と人間。この間に尊厳を認める人は、人類全体の中で何%の人間が当たるのだろうか? 花のような植物では分かりにくいのであれば、鳥や虫、爬虫類や魚、霊長類など何でも良い。自分たちの身近にあって触れられる生き物たちに対しての尊厳は? ペットのような身近な生き物については、ほぼ人間と同じような尊厳を認めたいのだろう。相手の立場に立って、手を施す。助けとなる。このような愛情に惜しみは無い筈なのだろう。


地球上という特別な存在枠


 仏教には六道輪廻というお話がある。このお話を聞いて、どんな意識を持ち、それぞれがどんな生き方をするのかを個々に問うような話をしたい訳ではない。自分がここで書きたいのは、宇宙の決まりとでも呼べそうな”類は類を呼ぶ”という理は、どこにまでも及ぶ。そして、それらには、曖昧はなく、交わり合うことが無い姿であることが本来の姿なのだと。そうであるからこそ、天国は天国として成り立ち、地獄は地獄として成り立つ。地獄に仏など有り得ない。 ところが、それらのすべてを同時に受け入れ可能にするような世界が現れたとしたら。それが、ここ、地球上に存在すると。


地球上の不幸


 人類は80億人以上の人が地球上には居るらしい。それなのに、どうして私たちは、人生の中で出会えた人の数にしか出会えないのだろう? それがまさに、宇宙の法則とも言える”類は類を呼ぶ”の秩序だろう。 では、もしも、この法則が完全に地球上にも完成されていたのなら、本来、人が人を殺めるのような現象は成り得ない筈なのだ。なぜなら、人を殺す人=悪、人に殺された人=善のように、人は善悪を見るから。善人は、善人のみが出会い集う。悪人は、悪人のみが出会い集う。それは、天国は天国の住人のみが住し、地獄には地獄の住人のみが住すると書くようなもの。 ところが実際には、この地球上の関係は、そのような竹を割ったような関係には成れずに在る。これは、どうしたことなのだろうか?


地球という存在


 地球という存在は、稀有な存在だと想う。悪も認め、善も認め、善悪を含めて同時に共通の世界に存在することを選んでいる。そのことが、そこに集う生き物たちにとってどうなることかなど、自由で良いのだと言うように。だからこそ、地球には、弱いものいじめも我が通り、弱者と強者のような関係も出来るようになっている。 地球は、元々、軽い気持ちで、どんな存在でも受け入れたのだろう。それは、何も知らない子供のように。地球に来たい、住みたいという意識さえあれば、その全てを受け入れようと。それは、図らずも楽しい星になるのだと信じて。


それでも宇宙には法則がある


 地球上ではそれが許されたとしても、それでも宇宙には守るべき法がある。それは、どんな個体も意識体もその尊厳は守られる。これを犯すことは、どんな立場にある者であれ悪なのだ。 例えば、母親が子供の我儘を躾と称して殴ったとする。これは、宇宙から見れば完全な悪。疑いようも無く悪。地球上の宗教、常識、倫理、人類によって考えだされたありとあらゆる論を出されたとしても、悪は悪。どこにも例外は無くとなる。それでは、それは、どうなるのだろう? と、おそらく人は考える。罰せられるのだろうか? どうして悪なのだろうか? 悪を為しても良いのだろうか? 云々。 結論は、それらは、「ある」ということだけのことになるだろう。 人間の思考には、悪を為した者は罰せられる筈だとか、不幸になるべきだとか、善悪を基準に裁定を下すようなことをする。それは、何の根拠も持たない推定だ。物語を作り出すようなもの。


地球上で仏の立場をとることの意義


 この星には、善悪が同時に存在できるようになっている。それらは、お互いの意識体に結ばれて、善でも悪でも、為すようになる。その間に揺れ動く在り方を人は人間の幸、不幸と呼ぶのだろう。 その中にあって、この星上にたった一人だけであっても、私は、仏の立場であることを選び続けようと決めた人たちがいる。それが、仏と呼ばれた存在達だったとして。 その存在にとっては、この世で仏の立場にあることは地獄に過ぎないだろう。それは、善悪を観ず、嘘を見ないからだ。この世の甘美は、甘美とならず、ただ、ありのままを見ている。そこは悲しみの坩堝で。


もしも悪魔の立場を選ぶなら


 もしも、この地球上で悪魔の立場を選ぶなら、他の意識体の悲しみを見て、その者は、人類の滅亡こそを優しさだと勘違いして夢見るだろう。「人間さえ、居なければ!」と、夢を見る。 けれど、賢い人には、その心の有り様が誤ったものだと見えてくる。不幸や悲しみの坩堝は、その為に生まれたのでは無いのだと。 支配を好む者たちは、支配こそが相手の自由を生むものだと勘違いをする。完全なる支配こそが、自由を与える基礎なのだと……。全く狂っている。けれど、それが正義となって真実だと押し通そうとするのだから、真実は遠く成り混乱は止まない。


真実のやさしさを知ることの意義


 この世では苦しむことが溢れ出す。それは、真実を知らず、それを求めようともしないから。それを、仏たちは「怠惰」と言って注意喚起する。 では、なぜ、この世では、真実を知ることを求めるのか? それは、智慧だけがこの世では、どんな境遇にあっても平等に供えられるから。これを心底に供えられた者は、その先に、苦しみを見ることにはならないだろう。なぜなら、智慧だけは、真実を裏切らないから。この世にどんな悲しみを見ても、どんな苦しみを見ても、へこたれず前を見て処すことが出来るようになっている。智慧とはそんな玉手箱のようなもの。手にすれば、この世の悲しみ、苦しみに無敵になれる。


 今日だって、朝から毎日のように悲しみと苦しみが溢れ出ている。その中を生命ある者たちが生きている。それを仏の立場で見る者たちは、智慧を明かりに生きている。そこには、何ら暗がりはない。

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