三叉路の消滅点
不思議乃九
三叉路の消滅点
壱:導入(起)
世界的数学者・篠塚教授の邸宅は、神経そのものが建築化したような家だった。
偏執的なセキュリティ、無音の廊下、ひとつの塵すら許さない書斎。
その書斎で、教授は倒れていた。
背中を鋭く一度だけ刺され、鍵はポケットの中。
オートロックは教授自身の指紋で内側から施錠されている。
――完璧な密室。
御子柴警部の視線を捉えたのは、
デスクに置かれた古びた推理小説『完全犯罪のマニュアル』。
その本に挟まれた “黄色と青のしおり” は、
教授を知る者なら誰もが「あり得ない」と気づく異物だった。
さらに、教授のレターオープナーは消失。
科学捜査は、デスクの引き出し奥に、精密な射出装置の痕跡を発見する。
犯行当時、屋敷にいたのは秘書のアリスのみ。
しかし、地下サーバー室での作業が“鮮明すぎる”アリバイを保証していた。
密室、消えた凶器、二色のしおり。
御子柴警部は、この三叉路のように分岐する違和の中心に、
ひっそりとアリスの影を見る。
───
弐:捜査と矛盾(承)
御子柴警部は密室よりも“人間”を疑った。
アリスのアリバイ映像を確認すると、
犯行推定時刻の直前、彼女はコーヒーカップを机の端へ滑らせる。
それ自体はただの仕草。
しかし、こうした“無意味な自然さ”こそ、もっとも危険な覆いとなる。
警部は、教授の性質と機器の仕様から、
アリスが“教授の行動”を犯行ロジックに組み込んだと仮定する。
鍵となる3点:
A. 教授はあらゆる異物を嫌う完璧主義者。
B. 書斎の内線電話は、通話中に周囲の音を遮断するNC《ノイズキャンセル》機能を持つ。
C. アリスは通話で教授に「その本を開いたまま置いてください」と指示している。
教授は“しおりという異常”を放置できない。
この心理が必ずトリガーへ反映されているはずだ。
──捜査で判明した事実は以下。
● 凶器消失の真相
射出装置は、刺突後に凶器を瞬時に引き戻し、底板をスライドさせて収納する自動回収機構つきだった。
● 音響トリガーの技術
装置は、内線電話の高周波着信音(f > 15kHz)にのみ反応するよう調整されていた。
● アリスの動作
アリバイ映像では、通話終了後のアリスが、内線電話付近へ手を伸ばしているように見える。
御子柴はこれを「再発信の動作」と解釈した。
● 時間的必然性
教授は犯行推定時刻の直後、外部との重要なビデオ会議を控えていた。
──すべてが一つの方程式のように組み上がり始める。
───
参:ロジックの構築(転)
アリスはあらかじめ引き出し奥に射出装置を設置し、
“特定の着信音”で作動するよう設定していた。
警部の推理は以下だった。
アリスは教授との通話を切った直後、再度内線を発信。
NC機能が切れた書斎に着信音が鳴り、装置が作動。
教授は本を確認しようと身を乗り出しており、刺突は避けられない。
アリスはコーヒーカップの動作で視線を誘導し、
真のトリガーである「再発信」から注意を逸らしたのだ──と。
パズルは収束したかに見えた。
───
◆ 読者への挑戦状
ここまでの事実はすべて公平であり、
無意味な記述は一つもない。
事件を解くための手がかりは、すでにすべて提示してある。
探偵・御子柴警部の推理は、こうだ。
「犯人は再発信により、意図的に装置を起動させた。」
しかし、その推理にはただ **一箇所だけ“致命的な誤り”** がある。
そしてアリスは言う。
「私は“意図的”に起動させました。無意識ではありません。」
この言葉の真意を読み解いたとき、
あなたは本事件の“真の殺人ロジック”に到達する。
では、解決編へ。
───
肆:解決編(結)
アリスを前に、御子柴警部は言う。
「君は通話を切った直後、内線電話を再発信した。
NC機能の切れた書斎に着信音を鳴らし、装置を起動させたんだ。」
アリスは静かに微笑んだ。
「警部。確かに私は“意図的”に起動させました。
でも、私は再発信などしていません。」
御子柴の表情がかすかに揺れる。
「……では誰が着信音を?」
「教授ご自身です。」
御子柴は、ようやく気づく。
「……そうか。君が通話を切ったあと、
教授は“異物のしおり”に気づいた。
完璧主義の彼は、次の会議の前に、この異常を放置できなかった。
だからこそ、受話器を置いた直後、自分で内線ボタンを押し直した。」
「君の犯行の核は、教授自身の性格だった。
君は“教授に押させる”ことを意図した。
だから『意図的に起動させました』と言えたのだ。」
警部は、デスクのコーヒーカップを手に取る。
その底の空洞から、小さな指輪が現れる。
「これは……教授が君に贈ろうとしていたものだ。」
アリスは目を伏せる。
「……どうしてそこまで気づいてしまうのですか。」
御子柴は答えず、
引き出し奥のクリップに挟まれた小さなメモを掲げた。
教授の筆跡。
そこに書かれていたのは、
アリスが幼い頃に飼っていた猫の名前。
数学でも論理でもなく、
ただ一人の少女へ向けて残された、
教授の“最も弱い場所から漏れた感情”だった。
密室の三叉路で消えたのは、犯罪のロジックではない。
――“人が誰かを想うときの、脆い一点”だった。
◆ おわり
三叉路の消滅点 不思議乃九 @chill_mana
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