未完のプレリュード
辛口カレー社長
未完のプレリュード
僕は、この街で一番古いピアノの前に座っていた。そこは雑居ビルの四階にある、今はもう誰も使わなくなった音楽教室の片隅だ。防音壁に貼られた吸音材は湿気で黄ばみ、剥がれかけた壁紙の隙間からは、建物の骨組みであるコンクリートが冷ややかに覗いている。
部屋の隅に鎮座するアップライトピアノは、かつては艶やかな黒塗りを誇っていたのだろうが、今ではその輝きを埃と手垢の下に隠し、鈍い鉛色のような光沢を放っている。
鍵盤の蓋を開けると、カビと油と、古い木材が混じり合った独特の匂いが鼻腔をくすぐった。それは、時間そのものの匂いと言ってもいいかもしれない。
象牙の鍵盤は、酷使された歴史を物語るように黄ばみ、ところどころ黒ずんでいて、まるで年老いた友人の顔の皺のように見える。あるいは、幾多の演奏家の指の脂を吸い込みすぎたせいかもしれない。最低音の
僕の手がそっと鍵盤に触れる。ひやりとした感触が指先から腕を伝い、脊髄へと走る。その冷たさに呼応するように、心臓の鼓動がわずかに速くなるのを感じた。
――プレリュード。
心の中で、その言葉を
それは、序曲。あるいは前奏曲。組曲の最初に置かれ、これから始まる壮大な物語への導入を果たすための曲。しかし同時に、バッハやショパンが示したように、それ自体が独立した小宇宙であり、完結した世界でもある。
だが、僕にとってのプレリュードは、もっと切実な意味を持っていた。それは、物語が始まる前の、永遠に続く「準備」の時間だ。舞台の幕が上がる直前の、暗闇と静寂が支配するあの張り詰めた一瞬。その一瞬に、過去の全て、未来の全てが凝縮されているような気がする。
窓の外では、街がゆっくりと死んでいく時間――夕暮れが訪れていた。
茜色の光がビルの谷間に沈みかけ、長く伸びた影が街路樹やアスファルトを黒く塗りつぶしていく。その最後の光が、埃っぽいピアノの表面を一時的に金色に染め上げた。空気中に舞う無数の塵が、スポットライトを浴びた演者のように光の中で踊っている。
僕はその光景を見つめながら、深く息を吸い込んだ。肺の中の澱んだ空気を吐き出し、代わりに夕暮れの静寂を吸い込む。僕の心の中も、外の景色と同じように、光と影が揺れていた。
指が、
――ラ、ド、ミ。
和音を押さえた瞬間、ハンマーが弦を叩き、古びた響板が震える。静かな、しかし芯のある、少し悲しい響き。それは部屋の空気を震わせ、僕の胸郭に直接響いてくる。
――Aマイナー。
白鍵だけで構成される、最も純粋で、最も憂いを帯びた短調。まるで、過ぎ去った日々の夢を、色彩のないモノクロームのフィルムで再生しているかのような音色だ。
このプレリュードは、僕の人生の始まりを告げるものだ。いや、始まりを願うもの、と言った方が正しいかもしれない。あるいは、いつまで経っても始まらない物語への、終わりのないプロローグなのかもしれない。
これは、僕がまだ小さかった頃に、父さんがよく弾いてくれた曲だった。
楽譜にしてわずか二ページ。有名な作曲家の作品ではない。父さんが即興で弾き始め、いつの間にか定着した、名もなき旋律だ。
父さんの手は大きくて、幼い僕の目には、それが魔法使いの道具のように見えた。節くれだった指、爪の先に染み込んだインクの跡、そして掌の厚み。その武骨な手が鍵盤の上を走ると、信じられないほど繊細な音が生まれた。
父さんの指は、僕とは比べ物にならないほど力強く、それでいて優しかった。鍵盤を叩くのではなく、撫でるように、あるいは沈み込むように音を紡ぐ。音はピアノという楽器から出るのではなく、父さんの指先から直接溢れ出し、生き物のように部屋中を駆け巡った。
「いいかい? 音を聴くんじゃない。音と音の『間』を聴くんだ。そうすれば、自分で音を奏でられるようになる」
父さんはよく、膝の上に僕を乗せてそう言った。タバコとコーヒーの混じった匂いがした。
「音符はただの点だ。大切なのは、その点と点を繋ぐ線だ。そして、音が消え入る瞬間の、その余韻の中にこそ、本当の音楽があるんだよ」
幼い僕には、その言葉の意味がよく分からなかった。ただ、父さんが弾くAマイナーの旋律が、夕焼けに染まるリビングルームに溶けていく様が、ひどく綺麗で、同時に泣きたくなるほど寂しかったのを覚えている。
ある日、父さんは突然姿を消した。
何の前触れもなかった。朝、いつものようにコーヒーを飲み、「行ってくる」と言って家を出たきり、二度と戻らなかった。
事故でも、事件でもない。ただ、煙のように消えたのだ。警察が来て、泣き崩れる母さんに何度も同じ質問を繰り返した。
――借金は?
――女性関係は?
――悩みは?
何もなかった。少なくとも、僕たちの知る限りでは。
父さんが残したのは、この古いアップライトピアノと、手書きの、殴り書きのような楽譜の束だけだった。その一番上にあったのが、この「プレリュード」だった。
僕はその日から、父さんが残したこのピアノに毎日向かい、何かに憑かれたようにこの曲を弾き続けた。
父さんがどこへ行ったのか、なぜ僕たちを置いていったのか、その答えが鍵盤の隙間に、そして音の間に隠されているのではないかと思って。音を紡げば、いつかその響きが父さんに届くのではないかと思って。父さんと同じ音を出せた瞬間に、父さんがひょっこりと現れるのではないかと期待して。
父さんの残した楽譜は、もうボロボロになっている。手汗で紙はよれて、端は破れ、鉛筆で書かれた音符は擦れて墨汁の染みのようになっている。でも、楽譜なんて必要なかった。音は僕の頭の中に、そして筋肉の中に深く刻み込まれていたからだ。それは血肉となり、呼吸となっていた。
メロディが展開部へと差し掛かる。
右手がオクターブを駆け上がり、左手が重厚なアルペジオでそれを支える。音の密度が増し、感情が高まっていく場面だ。
父さんの演奏では、ここは嵐の海を渡るような激しさと、その後に訪れる浄化のような静けさが同居していた。指が鍵盤に吸い付くようなレガート。
僕もそれを真似ようとする。父さんの背中を追いかけるように。
しかし――。
不意に、鍵盤の上で薬指がもつれた。狙った音の隣の黒鍵を
ガァン、と濁った不協和音が鳴り響き、部屋の静寂を残酷に切り裂いた。
僕は思わず手を止めた。音が途切れ、残響だけが亡霊のように部屋の隅で唸っている。
心臓が嫌な音を立てた。胃のあたりが冷たくなる。
――まただ。
いつもここで失敗する。ここでなくとも、どこかで必ず
僕のプレリュードは、いつもどこか不完全で、何かに怯えているみたいに震えている。技術的な問題ではないはずだった。指は動く。楽譜も暗記している。音階練習だって何千回と繰り返した。なのに、父さんのように滑らかに、情感豊かに弾くことができない。僕の音は硬く、平坦で、どこかよそよそしい。借りてきた言葉で喋っているみたいだ。
――音の間を聴くんだ。
父さんの言葉が呪いのように頭の中でリフレインする。
僕には「間」がない。音符を並べることに必死で、余白を作る勇気がないのだ。沈黙が怖いのだ。音が止まった瞬間に、父さんの不在という巨大な空白と向き合わなければならないことが、何よりも恐ろしいのだ。だから僕は、隙間を埋めるように焦って指を動かし、そしてつまずく。
僕は鍵盤から手を離し、膝の上に置いた。拳を強く握りしめる。爪が掌に食い込む痛みで、現実感を繋ぎ止める。
窓の外を見ると、太陽は完全に沈みきっていた。空には濃紺の
薄暗い部屋の中で、ピアノの黒い影が巨大な獣のようにうずくまっていた。
僕は、このピアノに食い殺されるのかもしれない。父さんの記憶という消化液の中で、ゆっくりと溶かされていくのかもしれない。そんな妄想が頭をよぎる。
――もうやめようか。
何度もそう思った。
音楽なんて、ピアノなんて、ただの木の箱と鉄の線だ。どんなに向き合っても、父さんがいなくなった理由なんて永遠に分からない。
椅子から立ち上がろうとした瞬間、ふと、鍵盤の上の埃が目に入った。夕闇の中で、わずかな月明かりを受けて白く光る微粒子。
それは、降り積もる時間そのものだった。父さんがいなくなってからの十年という月日。僕が一人でこのピアノと向き合ってきた膨大な時間。
下手くそな演奏。数え切れないミスタッチ。悔し涙。孤独。それら全てが、このピアノには染み込んでいる。父さんの音だけじゃない。僕の拙い音も、この楽器の一部になっているのだ。
僕は再び椅子に深く座り直した。
父さんのようには弾けない。それは事実だ。僕は父さんではない。僕は僕だ。置き去りにされた、不完全な息子だ。
でも、それでもいいんだ。そう思えたのは、初めてだったかもしれない。
完璧な模倣に何の意味がある?
父さんの幻影を追いかけて、そのコピーを作ることに何の価値がある?
僕の音が震えているなら、その震えこそが僕の真実だ。僕の音が怯えているなら、その恐怖こそが僕の表現だ。
これが、今の僕のプレリュードなのだから。
始まりは、いつも未熟で、不確かで、そして希望に満ちている。
完成されたものは、その時点で終わったものだ。未完成であることだけが、未来への可能性を孕んでいる。
僕はもう一度、深く息を吸い込んだ。
部屋の空気の温度が変わった気がした。夜の冷気が、熱を持った頭を冷やしてくれる。
指を鍵盤に置く。さっきと同じ位置。さっきと同じAマイナー。
でも、今度の心持ちは違う。
父さんの音を探すのはやめた。僕自身の音を探すんだ。この古びたピアノの、剥がれた象牙の感触、カビの匂い、薄暗い部屋の空気、それら全てを指先に集約させる。
第一音が鳴った。
――ラ。
それは先ほどよりも強く、太く、そしてまっすぐな音だった。
迷いがなかったわけではない。悲しみが消えたわけでもない。ただ、その迷いや悲しみを、「これが僕だ」と肯定して鳴らした音だった。
和音が重なる。旋律が動き出す。
今度は恐れない。
ミスタッチを恐れて縮こまるのではなく、ミスタッチさえも音楽の一部として飲み込んでやるという気概で、指を走らせる。
――リタルダンド。
テンポを少し落とす。父さんの演奏よりもずっと遅く。一つ一つの音を噛み締めるように。音と音の間の沈黙を恐れず、むしろその静寂の中に、僕自身の鼓動を響かせるように。
指が、再び鍵盤の上を滑り始めた。
先ほどつまずいた箇所が近づいてくる。心臓が跳ねる。
僕は目を閉じた。視覚を遮断し、指先の感覚と聴覚だけに全神経を集中させる。
父さんの大きな手が重なって見える幻影を振り払う。ここは僕の場所だ。僕の時間だ。
指が動いた。黒鍵と白鍵の狭間を、水が流れるようにすり抜ける。
不協和音は鳴らなかった。代わりに、透明で、どこか泣いているような、美しいアルペジオが空へと舞い上がった。
その瞬間、鳥肌が立った。音が、部屋の壁を突き抜け、夜空へと広がっていくような感覚。
僕は弾き続けた。展開部から再現部へ。激しさを増す左手のリズム。
ピアノが歌っている。いや、唸っている。老いた獣が最後の力を振り絞って叫ぶように、この古い楽器が僕の感情に共鳴して震えている。
父さん、聞こえるか。
これが僕の音だ。
あなたが残していった、不完全で、弱虫で、それでもこうして鍵盤にしがみついている僕の音だ。
あなたの流麗な演奏とは似ても似つかない、泥臭い音かもしれない。でも、これは僕が生きてきた証だ。
曲が終わりに近づく。
激しい情動の波が引き、静かな水面のような
最後の和音が、長い長いフェルマータと共に鳴らされる。
ジャーン……。
音が減衰していく。部屋の隅々まで満たしていた音の粒子が、ゆっくりと床に沈殿していく。
僕は指を鍵盤に置いたまま、その最後の振動が完全に消え去るまで、じっと待った。
完全な静寂が戻ってきた。しかし、それは演奏する前の虚無的な静寂とは違っていた。何かが満たされた後の、温かみのある静寂だった。
目を開けると、窓の外には完全な夜が広がっていた。
街の灯りが宝石箱をひっくり返したように輝いている。遠くでサイレンの音が聞こえる。世界は動いている。
僕はゆっくりと鍵盤から手を離した。指先が熱い。
僕のプレリュードは、今、まさに始まろうとしている。
これまで弾いてきたのは、リハーサルだったのだ。父さんの影を追いかけ、過去に囚われていた長い長いチューニングの時間。でも今、僕はやっと、自分自身の本番の舞台に立った気がする。
父さんが戻ってくることはないだろう。その事実は変わらない。でも、父さんが残してくれたこの音楽は僕の中で形を変え、僕自身の言葉となって生き続ける。
椅子から立ち上がると、膝が少し笑っていた。心地よい疲労感。
ピアノの蓋をそっと閉じる。
「ありがとう……」
誰にともなく呟いた。ピアノにか、父さんにか、それとも自分自身にか。
僕は楽譜をカバンにしまった。ボロボロの楽譜。でも、もうこれを見る必要はないかもしれない。次のページは白紙だ。そこには僕自身が新しい音符を書き込んでいくのだ。
部屋を出る前に、もう一度だけ振り返る。
闇の中に沈むピアノは、もはや恐ろしい獣ではなく、ただの静かな木箱に戻っていた。次の演奏者をじっと待つ、親しい友人のように。
いつか、僕のプレリュードが次の物語へと続く、完璧な序曲になるように。
僕はドアノブに手をかけ、重たい扉を開けた。廊下の向こうから、夜の風が吹き込んでくる。
その風は、新しい季節の匂いがした。
(了)
未完のプレリュード 辛口カレー社長 @karakuchikarei-shachou
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