1話 愛花
布団の中でしばらく天井を見つめたまま動けない。
今日も仕事。明日も仕事、その先もずっと続いていく日々を思うと、憂鬱になる。
「……起きなきゃ」
言い聞かせるみたいに呟いて、ようやく身体を起こす。
洗面所の鏡を見ると目の下にくっきりとクマができていた。
髪はパサパサ、肌はくすみ、まぶたは少しむくんでいる。
化粧で誤魔化せる気がしない。やる気が起きず、下地とファンデーションだけを雑に重ねた。
着替えようとしてクローゼットを開けた瞬間、手が止まる。
服を選ぶという、ささいな行為でさえ億劫で、五分くらい立ち尽くしてしまった。
慌てて、身支度を終え、玄関へ出ると、昨日も捨て忘れたゴミ袋が目に入った。これで三回連続だ。
通勤電車はいつもと変わらずうんざりするほど混んでいる。
揺れた瞬間、誰かに足を踏まれた。けれど、痛みは全く感じなかった。「すみません……」の声に返事をする元気はあいにく持ち合わせていないので無視をした。いつからこんなにも性格が悪くなったのだろう。嘆くくらいならば「お気になさらず」のひと言くらい言えばいいのに。私は言い訳ばかり上手くなったな。
施設に着くと、すぐに現実が始まる。定員六十六名の特別養護老人ホーム。ここが私が働く職場だ。
「おはよう。今日も坂本さん休みで人手少ないからよろしくね」
「佐藤俊哉さん、昨夜は遅くまで起きていらっしゃいました」
「中村和代さん、夜中に体温が36度8分まで上がりましたが、今朝には平熱に戻っています。様子見でお願いします」
夜勤のスタッフの申し送りが、眠気の残る頭に淡々と流れてくる。今日も頑張ろう。頑張らなきゃいけないのだ。
利用者さんのケアに入れば、時間は急に速度を増す。
排泄介助、着替え、食事介助、ナースコール対応。
その合間に家族対応や記録の入力が挟まる。気づけば昼になっていた。
休憩に入っても、ごはんを食べる気力が湧かない。
疲れが身体の奥にねっとりと貼りついている感じがする。今、身体に固形物を入れると吐き出しそうだった。
動画でも見ようとスマホをカバンから取り出す。やっぱりやめよう。指を動かすことすら面倒で、画面を伏せた。しばらくぼんやりしよう。
午後はさらに忙しかった。
認知症の利用者さんが何度も同じことを聞いてくる。
別の利用者さんが突然怒り出して、落ち着かせるのに時間がかかる。
新人の子が泣きそうな顔で駆け寄ってきて、フォローに回る。
「愛花さん……いつもありがとうございます!ほんと頼りになります!」
そう言われるたび、胸の中がぎゅっと痛くなる。評価の言葉と、自分の感覚が噛み合わない。
尊敬されるような人間ではない、そんな思いが癖のように湧き上がる。
仕事はできない、愛想もない、情熱もない
——自分のダメなところばかりが思い浮かぶ。
ようやく終業時間になった。はやく帰る支度をしなければ、仕事を押し付けられる。そそくさと着替えを済ませた。
帰り道、何度も目眩がした。立ち止まっては深呼吸して、やっと家についた。
夕飯を作る余力なんてあるはずもなく、キッチンに置いてあったカップ麺に手が伸びた。私の嫌いなシーフード味だった。
間違えて買ったまま捨てられずに置いていた。空腹さえ満たせばいい。味はどうでもいい。
お湯を沸かして、麺の上に注ぐ。
「……ふう」
三分、待つつもりでソファに身を預けた瞬間、意識が沈んだ。
目を開けたときには、日付が変わっていた。
「うわ……最悪」
ぼんやりした頭のまま起き上がる。汁を吸って伸び伸びになった無惨なカップ麺を確認しようと手をのばす。
空っぽのカップ麺。
それも、スープが一滴も残ってない綺麗な空っぽ。
そして容器のふちには、小さな歯形みたいな跡。
「……私、食べたっけ?」
いや、食べてない。私は落ちるように眠っていた。
そしてその噛み跡は、どう見ても私のものではなかった。
テーブルの上には、淡いピンク色の毛が一本落ちていた。
「なにこれ……」私は茶髪だ。こんな色のもの部屋にはない。
そのとき。
ぽよん。
部屋の奥から、不思議な弾力のある音がした。
風船が軽く跳ねるような、ゼリーが弾むような、そんな音。
息を呑む。暗い部屋の奥に、何かがいる。
けれど、恐怖よりも眠気のほうが強かった。
どうでもいい、という感情がふっと胸の奥に広がる。
あの変な音は疲労から生み出された幻聴だろう。それか、虫だろう。そうだ。きっとそうだ。それも明日確認すればいい。今日はもう寝てしまおう。
目を閉じると、すぐに深い暗闇の底へ落ちていった。
まさか翌日、その“何か”に命を救われることになるとは、
このときの私は想像すらしていなかった。
ぷらたんが来てから きゅうりプリン(友松ヨル) @petunia2525
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