サンフラワー・デイズ

夜市川 鞠

サンフラワー・デイズ


 ぼくが中1の時、叔母の住む大阪へ引っ越してきたのは、震災で両親を亡くしたからだ。というと、みんなぼくを哀れな目で見る。何にも言わないけれど、そういう雰囲気が部屋の中に充満するから、嫌い。ここに住む人たちの使う粗い言葉も、住んでたとこはかわいい子が多いんか、と寄ってくる下心丸出しの腕まくりヤンキーも、そいつらが使う「よそもん」っていう言葉も、全部、全部、全部、大っ嫌いだ。勉強をするために学校へ来ているはずなのに、僕が勉強をしていたら嫌な笑いに満ちていくのにも、もう飽きた。これ以上失うものなんか無いけど、心が削られていく気がする。初めの頃、先生のつまらない紹介をもとにぼくの不幸話に興味を持って近づいてきた人たちは、僕が「トーキョー弁」を話すのをみて、えぇ子ちゃんみたいな喋り方やな、と騒ぎ、オチのない話には、やっぱトーキョーのもんはおもんないな、と吐き捨てた。僕の話している言葉は「トーキョー弁」じゃなくて標準語だし、そもそもと空が綺麗なことにオチなんかあるのか、と言ってやりたい、のに、言えない。転校生の紹介の時、先生が、「複雑な事情があって、東京から転校してきた佐藤くんです。震災で心に傷を抱えていて、それを治すためにここへきました。みなさん仲良くしてあげてくださいね」と、いかにもしんみりとした口調で言われたのも、今思うと可笑しくて笑えてくる。複雑な事情とか、心に傷を抱えているとか、ぼくの心の内を知ったような顔で代弁されては困る。ということも、本当は言いたかったけれど言えなかった。ギラギラした三十の目が、ぼくを見定めるように見ていて、それも目だけは僕を捉えているのに、体の方は中庭や廊下や後ろを向いて、組んだ足は四時の方向を指していて、怖かった。意味もなく非常ベルが鳴ることも、授業中にスーパーへ行く人がいることも、先輩に挨拶をしなければ呼び出されて罵倒されることも、全部が嘘みたいな、本当のことだった。それは、ぼくにとっては両親を亡くしたことよりも不可解な、けれどたった今の目の前で起こっているまぎれもない事実だった。

 ここまでが、四月中旬からGW終わりまでにあったことで、ぼくはこの地に心の療養という名目で来たことをすっかり忘れそうになっていた。

 ぼくが何も話さなかったのは、ここの人とは仲良くしたくないと思っていたからだけれど、言葉を介さないことはここではタブーらしかった。気づけば、ぼくは「ムゴン」という怪獣のようなあだ名をつけられていた。トーキョーのムゴン。ムゴンには何してもええって、と言って、向けられたボールペン銃の多さ。真っ白なブラウスはいつしか赤や青やオレンジの水玉模様のようになっていた。それだけなら良かったけれど、筆箱を隠されるようになってからは、さすがに先生に相談しようと職員室へ向かった。その矢先に聞こえた、かわいそうな子やねぇ、とか、やっぱあいつ馴染めんかったか、とかいう言葉で、ぼくはの口は、言葉は、完全に閉ざされた。ぼくは、ぼく自身が、ここの言葉に閉じ込められていくのを感じていた。

 だから、朝、職員室前の駐車場横に向日葵畑を見つけた時、そこに水を遣るペトラ先輩を見つけた時、ここにもこんな人がいるのだと、少しほっとした。女の先輩は、毎朝、一人で水をやっていた。朝、先輩を見つけることができたのは、ジョウロのシャワーに虹がかかっていたからで、それが綺麗だと思ったからだ。きれい、と口に出して、先輩と目が合った。先輩と分かったのは、「植田」と書かれた名札の色が緑だったからだ。

 あれ、ペトラじゃないのか、と思った。彼女はいつも、ペトラと呼ばれていたから。

 先輩は、肩までの髪を一つくくりにしていて、長い前髪を大きなピンで一つに留めていた。剥き出しになった額が朝の光を反射してつやつやと光っていて眩しかった。

「きれいでしょ。私の生み出す虹は」

 先輩の言葉は、ここの言葉とは思えないほどぼくに近くて、ぼくは自然と笑っていた。ここへ来て笑ったのは、きっとこれが初めてだった。

「いつも一人で水、やってますよね」

ぼくの観測する限り、この四畳ほどのひまわり畑に水をやっているのは、先輩だった一人だった。先輩は、わざとらしく照れたように頭を掻いた。

「ほんとはねぇ、もうひとり、いや、ふたり?いるんだけど。環境係。誰も来ないから一人でやってるの」

ここでは、係もルールも、文字としてあるだけで全く意味をなしていなかったから、そうだろうと思っていた。けれど、先輩はたったひとり、その文字だけのルールを守っていたのだ。

「じゃあ、先輩はなんでしてるんですか」

 毎朝笑われながら、という言葉は飲み込んだ。

「うーん」と先輩は困ったように笑う。

厳密にいうと毎朝、というわけではなかったけれど、時々先輩を揶揄する言葉が飛び交っているのは耳にしていた。寄付のためにひまわりを育てるなんて偽善者のすることだって。ペトラ、また水遣ってるって。

 僕は、先輩の口から、偽善者めいた言葉が出てくることを期待していた。被災地のためにとか、なんとか言って。あんたも、そうやって、ぼくらのことを馬鹿にしてるんだろ、と、かわいそうだとか思ってるんだろ、と。当てつけかもしれないけれどこの先輩になら言える気がしたのだ。ところが、僕の予想は盛大に外れることになる。

「私ね、6メートルの向日葵を育ててみたいんだ」

空いた口が塞がらない。僕はさっきまでの邪悪な心を忘れて、「6メートルの向日葵ってなんですか」と聞いていた。

 きくところによると、先輩の小学校では4メートルの向日葵を育てたことがあるそうで、中学生になったらその記録を超えたいと思って育てているのだという。あまりにも見当違いで、でもぼくは、そんな先輩を少しいいなと思った。まっすぐな向日葵みたいで、ぼくもそうなりたいと強く思ったのだ。

 それから、僕と先輩は、友達、ではないけれど、毎朝向日葵に水を遣る人と、それを見守る人の関係になった。何かを誓ったわけではないけれど、自然とそうなった。先輩はクラスに居場所がないみたいで、ぼくも荒れたクラスにいるのが嫌だったから、この朝の時間だけが、唯一、学校を楽しいと思える時間だった。

「佐藤くん、おはよう」

「おはようございます」

 初めは偽善行為と笑っていた人たちも、揶揄することに飽きたのか、ぼくたちの姿は見えないようだった。朝の光がぼくらを包む。六月に入り、先輩の向日葵は僕の背丈を超えていた。

「あの、先輩。ぼくも、先輩のこと、ペトラって呼んでいいですか」

 いつものように水やりをしていた時、僕の聞いた言葉が先輩の頬を引き攣らせた。

「……なんで?」

 見たこともない顔に、狼狽える。僕は慌てて、「ペトラってあだ名、素敵だなと思って」と弁明した。嘘ではなかった。

「素敵、か……」

 しばらく沈黙があった後、いいよ! といつもの調子でかえってきて僕は胸を撫で下ろした。それから、いつものように、好きな本の話や、昔飼っていたかわいい犬の話。短いながらも、たくさん話した。先輩が僕に踏み込んだ話をしてこないのが心地よく、ぼくはここに来て初めて息をしていた。かわいそうな人間ではないと、思えた。

 そう、思えていたのに。

 次の朝、いつものようにひまわり畑へ行くと、先輩の姿がなかった。おかしいな、と思い、教室へ行くと、なんだか教室が異様な雰囲気に包まれていた。死んだらしいよ、あの先輩。ほら、ペトラって呼ばれてる。あぁ、あのヘンコの。ぼくは、身体中の細胞が弾けて、今にも爆散しそうだった。

 きくところによると、先輩は、盗みの常習犯だったらしい。そういう癖の子、だったのだとか。昨日の放課後、近所のコンビニで盗みを働いて、それがバレて自転車で全速力で逃げていたら、交差点で轢かれて死んだらしい。

 きくところによると、先輩がペトラと呼ばれていたのは、キリストのペテロから派生したものらしく、嘘つきとか裏切り者みたいなニュアンスを孕んでいたことを知った。

 ぼくは、嬉々としてペトラと呼ばせてくださいと言った自分を恨んだ。その無神経さを。けれど、先輩が定期的に盗みを働くひとだったなら、6メートルの向日葵を育てるなんてのも真っ赤な嘘で、本当は、日頃の懺悔のためにひまわりを育てる、本物の偽善者だったんじゃないかと思えてくる。

「何にも知らなかったな」

 一人の帰り道、独りごちた言葉は夕焼けに溶けて消えた。


 先輩がいなくなって、誰も水やりをしなくなって、3メートルまで育った向日葵は首をもたげて、厳しい日差しに焼かれ、枯れ始めていた。

 ぼくは、先輩のことを忘れようとした。信じていたのに、と思った。けれど、何を? 僕は一体全体、先輩の何を信じていたのだろう。

 いや、違う。きっと、先輩は、僕の唯一の居場所だったからだ。ここにきて、初めての居場所。息をする場所がなくなったから、こんなにも苦しい。そして何より、大切な居場所を否定されたのが嫌だったのだ。

 人が死ぬことはあまりにも簡単なことだとこの目で見て知っていたはずなのに、ぼくは、先輩が死んだのが許せなかった。自分勝手で反吐が出る。かわいそうな人間になりたくなくて、先輩を利用したのはぼくかもしれないのに。いや、きっとぼくだった。

 気の進まないままに登校すると、萎びたひまわりが、僕を見下ろしていた。

 たすけて、と声が聞こえた。本当は、先輩も、僕と同じように助けて欲しかったのかもしれない。同じように、言葉を押し殺して、生きていたのかもしれなかった。

 放課後、僕は職員室をノックし、担任を呼び出した。対角線上にある窓から覗くひまわりを指差し、「水やり係、ぼくもしていいですか」と言った。

 担任は目を丸くして、「ええよ。ちょうど水やる子おらんなって困ってたとこやねん」とあっさりOKしてくれた。

 先輩の汚名を挽回する力を、言葉を、ぼくは何一つ持ち合わせていない。教室で、僕の見た先輩像を叫んだって、誰も聞いてくれないだろう。けれど、毎朝、向日葵に水を遣る。これならぼくにもできそうだと思った。

 6メートルまで育つかはわからないけれど、先輩のように、ひたむきに、育てる。誰になんと言われようとも。僕はここにいる限り、向日葵に水を遣り続ける。

 いつかその向日葵は、汚染された土壌だけでなく、ぼくの心も浄化してくれる。なんだか、そんな気がした。

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