スノウベル戦記 ~望まぬ結婚で結ばれた二人に必要なのは、刺激的でたっぷりの愛~

小野村雛子

序章1 英雄の凱旋

 帝都オストリアは華やかな喧騒に満ちていた。


 秋が終わり、冬が始まろうとする冷たい空気の中、街路樹に結び付けられた蒼のリボンが吹き抜ける北風にひらめいている。街灯には昼間の内から異能で灯された蒼炎が揺れ、そこかしこに翻る旗には牙を剥くオコエ――神話に登場するヒョウに似た冬の魔獣――をシンボルにした紋章が燦然と輝く。


 公爵家、スノウベル一族の証である。


 五年にわたって続いた第三次魔法大戦の終結。一次、二次と比べて凄惨を極める激闘となったこの戦いの勝利は、帝国の世界に対する権力を強めることになった。


 そして帝都はそんな争いの後とは思えぬほど平和で、美しい。白亜の国と名高い帝国なだけあって、立ち並ぶ家々の多くは滑らかな石造りで出来ている。噴水からは透明な水が湧き、良く晴れた青空の下で鳥たちがさえずり合う。幅の広いメインストリートの両側には国旗と、そしてスノウベル家の紋章旗を手にした人々が詰めかけていた。


「最後にお顔を見てからもう五年も経つのね、どんな美男子におなりかしら」

「ご一緒に出兵された先代の公爵が戦場でお亡くなりになって、それからギルベルト様一人で軍を指揮されたのよね。お若いのに立派な……」


 歓声に混じって聞こえるのは、新しい公爵であるギルベルト・スノウベルを称える声である。やがて、人々の顔は興奮へと変わる。道の向こう、帝都の入り口である門から徐々に声援が伝播してきたのだ。人々の目に幾つもの隊列を組んだ騎馬が見え始めたころには、広場は拍手喝さいの嵐が巻き起こっていた。


 ギルベルト様、と名を呼ぶ声が空気を震わせる。堂々たる体躯の黒馬にまたがり、隊の先頭を率いる男。騎士の正装であるマントと甲冑を身に着け、太陽の光が腰に下げた剣を輝かせる。

 

 白に近い銀の髪と、オストベルクではあまり見ない深紅の眼。彫りの深い端正な顔立ちだが、右目の下から唇までにかけて走る傷跡が、戦いの激しさを物語っていた。


 これは、英雄の凱旋だった。

 人々の期待と憧れを一身に受けて、王都を歩む最強の騎士。


 しかし声援にこたえることもなく、笑顔を作ることもなく、淡々と王城へ向けて馬を歩ませる新公爵のその目は、淀んだ沼のように暗かった。



『長らく帝国を離れ、第一線で戦い続けた最強の騎士、そして帝国の剣であるギルベルト・スノウベル公爵の帰還。それに伴いまして、帝都には大勢の市民が詰めかけております。

 ラジオでお聞きの皆様はご覧になれないかと思いますが、凱旋の鐘の音は風に乗り、どこまでも遠くへ――』


 ぶつり、という音と共に音声が途切れた。

 不満の表情を隠すこともなく、スツールに腰かけて髪を梳かされていたアリシアは、乱暴にラジオを切った侍女を睨む。


「何よ、聞いてたのに」

「その音は嫌いです。というかお嬢様、いい加減にそれをゴミ箱から拾ってくるのは辞めていただけますか?」

「嫌よ。宝物だし――それにラジオなんて今時どこにも売ってないんだから」


 手を伸ばし、ラジオを引き寄せようとした手が止まる。侍女に強い力で髪を引っ張られ、アリシアは小さく声を上げた。


「じっとしていてください」


 侍女は有無を言わせない口調で言うと、アリシアの腕を掴んで立たせた。


「ほら、着替えますよ」


 アリシア・オストベルク。帝国の第三王女である。


 さらさらとした癖のない漆黒の長い髪と、陶器のような白い肌。そして深海を覗き込んだような深く濃いブルーの眼が印象的な少女だ。月の女神もかくやという美貌の持ち主だったが、王女らしからぬ芯の強そうな雰囲気を纏う少女である。


「皇帝陛下に言いつけますからね。またお嬢様がゴミの山をあさってラジオを聞いていたと」


 嘲笑うように侍女が言い、明るい青のドレスのコルセットを締め上げる。苦しくなって、アリシアは浅く息を吸い込むが、絶対に泣き言は吐かない。自分が城中の侍女たちに下に見られていることは周知の事実だったし、父である皇帝でさえ、侍女たちのアリシアへの態度を咎めることはない。城に来てから十年足らず、アリシアの涙や泣き声がどんな褒美よりもを喜ばせることは理解していた。


(いいわ、今日で皆とはおさらばですもの)


 アリシアのラジオ。

 王宮に来る前、母があの小さな狭い家の中で聞いていたものだ。アリシアが病死した母からもらった、唯一の遺品でもある。魔力で動く放送機が主流となった今では、電波で動くラジオはめっきり見かけなくなっている。嫌がらせに何度も取り上げられ、ごみの中に捨てられたせいで、すっかり薄汚れてしまった。


 アリシアは血筋だけでいえば正当な王女だが、王宮で生まれたわけではないし王宮で育ってもいない。十歳になるまでは、とある理由で下町で育った。自分が王女だということを知る由もない生活を送っていた。そしてある日、母と二人で暮らしていた、今にも崩れそうな家に王宮からの使者がやってきて、アリシアの生活は変わった。そして城に連れられてから七年間、ずっと蔑まれて生きてきた。


 城の人間はアリシアのことを「無能」と呼ぶ。

 異能の使えない、劣等人間。それがアリシアだ。


 この世界では、多くの人間が生まれつき「異能」と呼ばれる力を持っている。炎を身体から出すことが出来たり、水を操れたり、空を飛べたりする。しかし、アリシアにはそれがない――と、城の人間は思い込んでいた。


 着替えが終わったようだった。

 鏡の中の自分は、まるで見知らぬ人のよう。美人な母に似て、容姿だけは悪くない自信があったけれど、化粧をされると未だに落ち着かない気分になる。

 瞳の色によく映える青いドレスと、同じ色のリボンで編み込んだ髪。英雄であるスノウベル公爵が帰還し、功績を称える勲章授与式が行われる今日は帝国にとって大切な記念日となる。そして、アリシアにとっても――。流石の侍女たちも、今日という今日はアリシアのドレスを破り裂く暇はなかったらしい。


「じゃあね」


 アリシアについてくれる侍女はいない。ばたんと部屋のドアを閉めると、一人で廊下を歩いた。そもそも王宮育ちではないアリシアは、義理の姉たちとは違って一人で風呂にはいれるし、一人でドレスも着られる。自分の世話のやり方はしっかり頭に入っているから必要ない。


 帝国の冬は厳しい。まだ雪も降っていないのに、城の中ではもう暖炉の火が燃えていた。一人、静かな廊下を歩きながら、アリシアは窓の外の中庭を眺める。よく手入れされた薔薇の植え込みが、枯れた枝を寒々しく青空に向けて差し出していた。


「今日で見納めか……」


 つぶやくと、知らず知らずのうちに笑みが湧いてくる。今日でここからおさらばできると思うと、幸せの余り天にも昇る心地だった。


 アリシア・オストベルク、17歳。

 今日、アリシアは帝国に帰還したばかりの英雄、公爵ギルベルトの妻になる。

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スノウベル戦記 ~望まぬ結婚で結ばれた二人に必要なのは、刺激的でたっぷりの愛~ 小野村雛子 @hinako1223

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