あなたを描きたい

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第1話 女神様との出会い

 私は雨宮紫乃。自分の名前が嫌いだ。紫乃(しの)という響きは、どこか古くさくて、重たくて、小さい頃からあまり好きではなかった。いや、正直に言えば、大嫌いだった。名前のことでからかわれたり、「ばあちゃんみたい」と笑われたりした経験は、胸の奥に小さな棘のように刺さったままだ。

 小学校を卒業し、中学生になれば少しは変われると思っていた。だけど、新しい環境は思った以上に広くて、まぶしくて、そして私はそこに馴染めなかった。クラスメイトは自然とグループを作り、笑い合い、昼休みも放課後も誰かと一緒に過ごしていた。私はその輪の外側で、息を潜めるように日々を過ごした。

 一学期が終わる頃には、私は完全にひとりになっていた。コミュニケーション力なんて言葉、テレビの向こうの人が語るものだと思っていたけれど、現実の私はその欠落を痛いほど実感していた。終業式の日、誰もいない教室で机に突っ伏し、小さな声でつぶやいた。

「……最悪」

 これから先も友達ができないのだろうか。ずっと一人ぼっちのままなのだろうか。その不安が胸の内で大きく膨らんでいた。

 放課後、私は荷物をまとめてスマホを開いた。母に「今から帰る」とLINEを送り、スタンプを添える。すぐに母から「OK」とスタンプが返ってきた。それだけのやりとりなのに、心が少し軽くなる。母だけが、今の私をわかってくれる存在なのだ。

 校門を出て歩き始めてしばらくした頃、ふと胸の奥がざわっとした。大事な何かを忘れているような、そんな感覚。

「あ……美術の課題プリント!」

 思い出した瞬間、胃の奥がぎゅっと痛んだ。提出は明日。取りに戻るしかない。私は急いで母にLINEで「プリントを忘れた。少し遅くなる」と送った。

 返事を待つ間も惜しくて、私は全力で走り出した。汗が頬を伝い、息が荒くなる。けれど足は止まらなかった。自分でも驚くほど必死だった。

 学校に着く頃には息が上がり、「はぁ、はぁ……」と声が漏れていた。階段を三段飛ばしで駆け上がり、三階の美術室へ向かう。夕焼けが校舎を赤く染め、廊下に長い影を落としていた。

 美術室のドアを開けると、部屋は誰もいなかった。窓から差し込む夕日の光が、机の表面を金色に照らしている。静かな空間に、私の心臓の鼓動だけが響いているようだった。

 机の中を探ると、忘れていた一枚のプリントが出てきた。胸をなでおろし、「よかった……」と小さくつぶやいた、そのとき。

「あなた、誰?」

 背筋がびくっと震えた。振り向くと、そこに一人の女の先輩が立っていた。窓辺に立つ彼女は夕日を背に受けていて、髪が淡い琥珀色に輝き、瞳も光を宿してきらめいていた。まるで……本当に物語の中の存在みたいに。

 私は顔が熱くなるのを感じた。

「……女神様」

 気づけば、言葉が漏れていた。自分でも信じられない。なんでそんなこと言うの、私。

「えっ?」
 彼女は驚きで目を丸くした。

 私は慌てて口を手で押さえた。羞恥心が一気に押し寄せ、耐えきれず逃げ出そうとした。

「す、すみません! 今のは、その……!」

 だが、逃げようとした私の手を、彼女がそっと掴んだ。力強くはない。けれど、不思議と温かくて安心する手だった。

「驚かせてごめんね」
 彼女は柔らかく微笑んだ。
「私、中等部三年一組。言林翠(ことばやし・すい)っていうの。あなたの名前、聞いてもいい?」

 その笑顔は、夕日の色よりもあたたかかった。

「……雨宮紫乃です」
 私は真っ赤な顔のまま答えた。

「しの……素敵な名前だね!」

 きらきらとした瞳でそう言われ、胸の奥がじんわりと熱くなった。生まれて初めて、自分の名前を褒められた。たったそれだけなのに、世界の色が変わった気がした。
 彼女が女神に見えた理由が少しだけわかった気がする。

 翠先輩は私の手に持つプリントに気づき、少し笑った。

「絵、好きなの?」

「……はい。描くのは好きです」

「ならさ、美術部入ってみない?」

 その誘いは、夕焼けの中で輝いて見えた。
 これが、私と彼女の出会いだった。

 思えば、聖書の授業で偶然と必然の話を聞いたことがある。この世界には、意味のある出会いがある、と。
 もしあの言葉が本当なら——あの日、夕日の中で出会った翠先輩との出会いこそ、私にとっての運命なのかもしれない。

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