使徒
JUGULARRHAGE
םַלְאָךְ/ἀπόστολος/ملاك
転下抑制域外での無許可の活動及び、活動の承認を得られた場合も単独行動は天使被害防止特別措置法で規制されている。転下した天使は一般的に攻撃性を有しないものとされているが、外部刺激による攻撃例が確認されており、要因不明の攻撃も確認されている。
男は兵庫県淡路市の転下抑制域外で、現状の危険性について確認を行う。昨年度発生した天使による加害事故は25件であり、死亡は1件、重傷は3件、軽傷は21件となって許可無許可問わずに転下抑制域外にて一時間以上活動した人数は3568人となり、発生率は1%に満たない形となっている。淡路市における転下抑制域外での許可無許可双方あわせた活動人数は49人、事故件数は0件である。男は背嚢に懸架していたマイルス社製Miles-TYPE5/HUNTING RIFLEを両手で保持する。
気温29.6℃、湿度83%、男は目に入る汗に瞼を瞬かせながら、妙見山の1995年に天使被害防止特別措置法により閉鎖処置が実施された区画にある廃林道を登り、18時間前に転下が確認された天使個体の座標へと向かう。当該天使は転下後に移動することなく静止状態にあり、カラスやテン等の野生動物の接近及び接触において一切の反応を示さない、なお、望遠撮影映像を使用した診断で当該天使は頭部、下顎に相当する部位に欠損が疑われる。
平均樹高30mのクスノキが群生する山中に設けられた廃林道は、堆積物と倒木により、専門知識を有しない者による通行が困難な状況となっていたものの、男は天使観測座標への移動を行う。
「聞こえますか? 感度は?」
男は手に付着した泥をズボン大腿部を叩き除去し、右耳に装着した無線機ボタンの操作を行い、送信状態へ切り替える。
「聞こえてる。天使に動きか?」
「ありません、観測開始から現在までありません。稜線の影でそちらを捕捉できない状態になりました。逐次通信を入れます」
「わかった」
元林道を北西方向に進行する男は、15分おきに受信する無線に対し、送信ボタンを三度押して送信を行う。状況監視を行うドローンから稜線の影に男が隠れてから38分後に、再度男の捕捉が可能となる。
「望遠カメラでそちらを確認。引き続き捕捉を続けます」
「了解」
無線を終了した男は傾斜10%の道を進行し、28分後に当該天使より300m地点に到着する。林道から外れて男は更に100m接近、双眼鏡を用いて当該天使を視認する。ヤマザクラ、ニレ、シダ類の植生地に当該天使は地表から1m地点で静止しており、周辺樹木との比較から推定される天使の全長は2.5m、全幅35cmである。事前情報と同じく下顎部に相当する箇所の裂傷が認められる。
「天使を確認。これより接近する」
「了解。捕捉を続けます」
猟銃を装填状態とした男は当該天使への接近を開始して150m地点で停止する。当該天使は体前面を男の方向へと転換して静止、男は双眼鏡にて頭部前面が自身へ指向されているのを確認の後、装填状態の猟銃銃口を当該天使へと向ける。当該天使の脚部に相当する部位の上方、地表より4m地点に転下点が出現した為、男は直ちに猟銃を背嚢側に回し、当該天使の視界より猟銃の排除を行う。転下点の消失を確認した男は猟銃を体正面に移動させる。当該天使の反応が確認されなかった為、男は右手で銃を保持した状態で左手で無線ボタンの操作を行う。
「天使に銃に対する過度の反応が見られた」
「確認しています」
「銃口を向けなければ反応がないため、このまま接近する」
当該天使への接近を再開した男は100m地点で5分間の経過観察を実施し、当該天使に攻撃性が認められなかった為、50mまで接近を行う。男の接近中に当該天使は一切の反応、動きを伴うことはなく、男は10m地点で接近を中止する。再度の確認を行った後に、男は高精細一眼レフカメラで当該天使の記録撮影を行う。この際、カメラのフラッシュ機能はOFF状態である。記録規定に基づいて全周四面の撮影を行う男に対して、天使は対象を常時追尾し体前面を向けている。
「こちらを見ている、と思われる。両側面、背面は撮れたか?」
「記録済みです」
「了解」
男は接触が可能な距離まで天使へ接近して、頭部に相当する部位の撮影を行う。なお、撮影は膝立ちの体位をもって行われる。右口角から右頬部と右咬筋部のほぼ全層にわたって断裂が認められ、皮膚組織より30cm後方の頭蓋骨に繋がる頬筋、笑筋、口輪筋、口角下制筋、下唇下制筋の断裂と前頭骨には右眼窩上縁から8cm上方に陥没骨折も認められる。なお、頭蓋骨より20cm後方の脳幹部に損傷は見受けられない。
頭部以外の創傷の確認を男は行い、その他創傷の無いことを確認する。男は再度頭部の創傷を観察する。断裂した組織に出血、炎症、膿瘍は認められず、壊死も認められない。断裂箇所含む損傷組織及び周辺組織は極めて良好な状態であり、正常組織と相違ない外見である。創傷部は損傷が著しく、右頬部から前頭骨に向かう直線状の創傷である為、高いエネルギーと高い貫通力を有するライフル弾もしくは小銃弾による銃創と推定される。
男は背嚢を下ろして施術器具の準備を行う。飲料水及びアルコールによる手指の洗浄消毒の後に男はゴム手袋を着用し、天使への接触を行う。接触の刺激による反応が無い事を確認した男は、触診を開始する。各組織の創縁から創壁に向かって触診を行う。創部はいずれも湿潤状態であり人間の組織に準ずる程度の弾性が認められる。皮膚組織の後頭部に相当する部位の開放部より骨組織が30cm後方に向かい露出しているため、接触等の外力に対する支持がなく、指で押すと1〜3cmの皮膚組織の陥没を確認する。
「接触は控えたほうが」
無線受信と同時に、男は天使頬部にあてがっていた右腕に屈曲反応を示し、2秒ほど硬直の後に無線のボタンを押す。
「いや、問題ない。このまま刺激に対する反応を見る」
受信状態の無線から数秒間、呼吸音を拾ったノイズが発生する。
「了解。強度の刺激は控えて下さい」
「わかってる」
無線を終了した男は外力を加えた箇所の確認を行う。皮膚組織は正常であり、外力による変形は見られないため、十分な復元性を有している事が推測される。針による刺激にも反応を示さなかったため、男は皮膚組織断裂部を保持し、正常と考えられる位置に調整を行う。その際に皮膚組織に著しい張力がかからない事を確認する。
創傷は射入口を中心とした放射状の受傷であり、創部は4枚の弁状に分裂している。縫合する4カ所はA〜Dと識別呼称を付け、男はタブレットで撮影した画像に書き込みを行う。
Aはモノフィラメントナイロン糸を使用した垂直マットレス縫合を行う。Bはポリグリコール酸マルチフィラメントを使用した垂直マットレス縫合を行う。Cはモノフィラメントナイロン糸を使用した単純縫合を行う。Dはポリグリコール酸マルチフィラメントを使用し単純縫合を行う。
縫合を終えた男はサージカルテープで閉創の保護を行う。施術完了後には記録写真の撮影と創部の状況をタブレットに記入する。施術後の状態を10分間観測して変化がないことを確認した男は、医療品を背嚢に戻す。
「今から下山する」
「了解。慎重に」
10mと50m地点で男は止まり、天使の経過観察を行い、異常がないことを確認する。再度100m地点で異常がないことを確認した男は下山を開始して、1時間28分後に下山を完了する。
「撤収だ。アンテナを畳め」
「はい」
男と助手はミニバンのルーフに取り付けられたアンテナを折り畳み、機材を車内に収納する。
「ドローンの飛行許可は取っているな」
「はい。予後観察の名目で承認済みです」
「よし、帰るぞ」
ドライバー席のドアを開放した男の後方10m地点に転下点が出現する。助手の指摘で転下点を確認した男は、車内より猟銃ケースを取り出す。地表より4mの位置にある直径100cmの転下点下面から、下降する形で天使が転下する。男の方向へ体前面を向けた天使は静止する。
男は猟銃ケースを開放し、猟銃を保持する。男は装填済みの猟銃ストックを肩に当てた状態で天使を確認する。右頬部創傷が縫合されており、男は当該天使と同一個体であると確認する。男と助手はその場で動く事なく天使の状況を観察する。12分後に再度同地点に転下点が出現し、上昇する形で当該天使が消失する。男は猟銃を下ろし、コッキングレバーの操作を行い、薬室より実包を抜き出す。
「大丈夫か」
「は、はい」
「落ち着け、もう天使はいない」
「初めて見ました、天使。転下も」
「また転下する前に移動する」
「はい」
男と助手はバンに乗車し、9分後に転下抑制域内に入り、23分後に県病に到着する。
男が当該天使の観測から1週間の期間に日本国内では1件の転下が観測されており、淡路市内への転下は観測されていない。また、転下した天使は頭部に相当する部位に創傷がないため、当該天使とは別個体と推定される。
男はタブレットの操作を行い、外部専門家による意見書を表示する。当該天使の銃創は皮膚組織の損傷と頭蓋骨に空いた射入口及び骨折範囲から7.62×39mm数発によるものと推測される。また、過去十年に発生した銃所持及び銃密輸で小銃の押収は確認されていない。
男は白衣胸ポケットに仕舞われたスマートフォンを取り出す。
「もしもし、資料は見たか」
「はい、確認しました。銃創は日本ではないので、海外からでしょうか」
「だと思う。当該天使が再度転下した場合はまた接触する。後で備品リストを送るからよろしく」
「了解」
当該天使の転下から14日後に兵庫県淡路市妙見山にて転下が確認される。転下した個体は右頬部に処置痕が確認された為、当該天使と推定される。
男は天使より100m地点で観察を行う。天使は体前面を男の方向に向けて静止状態にある。頬部には放射状の処置痕があり、男は視認している天使を当該天使と同一個体であると判断する。接触可能な距離まで男は接近する。
創部にサージカルテープの剥離や縫合のほつれ等は確認されず、炎症や滲出液も確認されない。男は記録撮影を行った後に背嚢より医療器具を取り出す。消毒を行い、アルコールでサージカルテープを湿らせ、縫合部を押さえた状態でテープ両端を皮膚組織から剥がす。縫合部A〜Dまで全て創部が正常に癒着した状態にあり、術後経過は良好である。
男は頬部の触診を行い、しこりや乾燥や皮膚の緊張が無いことを確認する。異常が無いことを確認した男はクーパーとピンセットを用いて皮膚表面に露出した糸を切断し、皮膚組織に埋没した糸を引き抜く。縫合部位A〜Dに使用されたモノフィラメントナイロン糸及びポリグリコール酸マルチフィラメント糸の全ての抜糸を完了させる。使用された縫合糸は全て劣化や吸収は認められない。
創部の確認と記録を終了した男は医療器具を背嚢に収納し、下山準備を完了させる。
「下山する」
「了解」
移動を開始した男は、当該天使の静止している地点から10m地点で天使の確認を行う。天使の移動により距離が5mとなっているのを男は確認する。男の移動に伴い、天使は移動して一定距離を保つ。男は5分間静止すると天使も静止状態を維持する。
「距離を保っています」
男は右手を無線に添えて更に5分間静止した後に天使に接近する。天使は静止状態を維持する。
「下山出来ないぞ」
「もっと距離をとるのは」
「いや、下山はまだだ。観測を続けてくれ」
「了解」
男は天使の観察を行う。当該天使は通常の天使同様の構造であり、処置痕の有無のみの違いとなる。
男は天使の顔に相当する部位の触診を再度行い、異常が無いことを確認する。頭部全周の観察を行った男はゴム手袋を着用し、アルコール消毒を行う。
男は天使後方に浮遊している脳幹を保持し、天使左右方向へ圧を加えるが組織の弾性変形のみが認められる。頭蓋骨側には僅かな抵抗を生じるが移動が認められる。頭蓋内部には頭蓋骨陥没骨折の為に骨片が浮遊している。男は骨片を整復し、サージカルテープで固定を行う。
頭蓋骨内を生理食塩水で洗浄を行い、脳幹を頭蓋骨側へと用手還納を実施する。脳幹を20cm移動し、頭蓋骨内部へと還納する。
男が保持状態をやめると脳幹はゆっくりと頭蓋骨後方20cmの位置に復元を始める。
男は再度、用手還納を行い、頭蓋骨後部開放部の骨弁の整復を実施する。骨弁は開放方向への復元力を持つため、男はサージカルテープで固定する。
「頭蓋骨用のチタンプレートは」
「ないです」
「代用品は」
「ないです」
「わかった」
天使頭蓋骨の再建を行った男は、天使より10mの距離を取り、天使が静止状態であるのを確認する。
「天使はついてこない。下山する」
「了解。天使はこちらで観察を続けます」
男が当該天使と2回目の接触を行ってから2週間後に、淡路市に再度転下が確認される。確認された天使は頭蓋骨が開放しておらず、通常天使と大きな差異が認められた。また、頬部に瘢痕があり当該天使と確認された。男は32時間後に当該天使の座標へ移動する。
当該天使に68mまで男は接近する。男に体前面を向けた天使は地表から40cm浮遊した状態で平行に移動を行い、男に接近する。男は直ちに移動を中止し、猟銃を保持して待機する。
天使は男より5mの距離で停止し、男は猟銃を背嚢側に回す。
接近した男は天使頭蓋骨の経過観察を行う。前頭骨陥没骨折と後頭部開放部には仮骨の形成が認められる。
男が天使から5m以上離れると天使は移動を開始し、一定距離を保つ。再度接近した男は接触に対する反応がないのを確認し、ゴム手袋の着用と消毒を行う。
男は胸郭の内臓を胸骨内に還納を行い、脊椎と胸骨の整合を行う。チタン製ミニプレートを用いて骨組織の固定を行う。
皮膚組織の開放部から脱出した筋組織及び骨組織の還納を行う。復元力が発生する為、サージカルテープで皮膚の開放を防止してから、モノフィラメントナイロン糸を用いた垂直マットレス縫合を行う。天使の全ての露出した組織の還納を終了させた男は、縫合部の確認をする。頭部から四肢にかけて樹状の縫合による線があり、縫合部に過度の緊張は認められない。
施術を終えた男は下山した。
天使の全身縫合を行った一ヶ月後に当該天使の転下が確認される。
男が70m地点まで接近すると天使は移動を開始し、男の5m地点で停止する。男は記録撮影を行い、触診によって皮膚組織に異常がないこと確認する。天使背面の抜糸を完了させる。
抜糸後に地表から40cm地点で浮遊していた天使は高度が低下し、地表に着地する。男は10mの距離を保ち観察を行う。
男の周辺に複数の転下点が出現し、天使が転下する。
当該天使は側臥位から起立する。
天使は立ち上がって辺りを見回し、男を認める。天に浮く天使は男を囲み、男は怖じ惑い、恐怖の念に襲われた。
地に足をつけた天使に見据えられた男は、ひどく胸騒ぎがしてこれは何かと思い巡らしていた。
そこで天使は男に言った。
使徒 JUGULARRHAGE @jaguarhage
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