ざわめく

志麻乃ゆみ

第1話 ざわめく

(1)それぞれのざわめき ―1998年6月―


 ゲーGisギスアーアー……

 不規則なリズムで耳を通過する音が、瞬時に頭の中で音名に変換され音符になって脳を支配する。

 響子はこれから訪れる友人たちと食べるケーキの皿やティーカップを洗っていた。普通の人には、ガチャガチャとしか聞こえないであろう陶器が触れ合う音。このくらいならまだいい。

 エーEsエスFisフィスGisギス……

 手が滑ってケーキ皿の上に金属のスプーンやフォークの高音が絡んできた。しかもピッチも音質もバラバラだ。この耳障りな不協和音は耐えられない。響子はぎゅっと音がしそうなほど強く目を閉じる。

 絶対音感‥‥‥第三者から見たら響子の強みであるそれは、いつの頃からか響子にとって日常生活を脅かす存在になった。どんな音でも音符に変換されてしまう。単音ならまだいい。複数の音が不快な和音と不規則なリズムで鼓膜を震わせると、それは吐気を伴う頭痛を惹起するスイッチとなった。誰にも言えない悩み。贅沢な悩みだと一蹴されるのがオチだと思った。

 音楽の道を志したのは、物心ついた頃から周囲からちやほやされて、それが自分の特技であり進むべき道と思い込んできたからに他ならない。

 記憶はないが、母親の話だと3歳になる前だったという。玩具のピアノで知っている曲~童謡からアニメの主題歌、CMソングまで~のメロディーを叩いて遊んでいたらしい。周囲の大人たちは目を丸くして「天才!」と褒めそやした。4歳の時に家に本物のピアノがやってきたのは薄っすら記憶があるが、意思確認をされた覚えのないまま、毎週レッスンに通うようになった。

 そのまま迷わず音大まで突き進んでみれば、絶対音感をもつ人間など珍しい存在ではなかった。やっとこの悩みを共有できるかもしれないと期待を膨らませたが、それが呆気なく萎んでいくのに大した時間はかからなかった。響子の周りにそんなことで悩んでいる人は1人もいなかった。音に関して同じような感覚をもっているのに、淡々と、或いは嬉々として、その特技を活かして音の世界で生きている人たち。響子は裏切られたような思いで孤独感を深めていった。

 できるだけ音に意識を向けずに生活するコツは体得してきたつもりだ。でも、セルフコントロールが効かない時もある。そんな時、今まではクラッシック音楽を聴いていた。ピアノ曲はダメだ。瞬時に譜面が頭に浮かんでしまう。でも幸か不幸か、響子には何10もの楽器の多様な音色が織りなすオーケストラの演奏をスコアに浮かび上がらせる能力まで備わっていなかった。だから、心地良い音の重なりであれば違和感なく聴けることが間々あった。逆にもし努力して多くの楽器の音程・音色を聴き分ける力を身に付けられていたなら、指揮者になる道はあったのかもしれない。いや、性格的にそれは無理か。そんなふうに冷静に考えられるようになったのは、比較的最近のことだ。

 響子は洗った食器を拭く手を一旦止めて、自然音を集めたCDをかけた。竹林のそよぎに時々鳥の囀りが控え目に交わる。あ、やっぱりこれいいかも。響子は先月訪れた鎌倉の竹林の心地良さを思い出してCDを借りてみたのだった。観光客の賑わいをよそに、自然の営みに耳を澄ましたあの緩やかな時間。スピーカーから流れ出る音は、響子の脳裏に譜面ではなく、幾重にも重なる緑色のグラデーションと青い空の景色を連れてきた。あの時の穏やかな心持ちを思い出して、響子は流れる音たちにしばし身を委ねた。

                  *

 ピンポ~ン。ハーゲー、と玄関チャイムが鳴った。

 高校時代からの友人、茉莉花と奈津子が予定通りの時刻に、約束通りケーキの箱を抱えてやって来た。途端にひっそり沈んでいた室内の空気が熱量を増し、華やかな香りに包まれる。

「お邪魔しま~す」

「ハイ、これケーキ」

「ありがとう、どうぞ~」

 響子はスリッパを勧め、奈津子から手渡されたケーキの箱を受け取った。2人とも既に慣れ親しんだ響子の部屋のソファに向かう。響子はケトルをガス台に乗せて火を点けた。

 響子は小学校の音楽専科の教師になった茉莉花が羨ましかった。妬ましさに近いかもしれない。広い視野で音楽と向き合い、子どもたちに文字通り音の楽しさを伝えられる職業。よく「最近の子どもたち大変なのよぉ」と困り顔で言う茉莉花に苦悩の片鱗を見ることはない。

 今日も茉莉花の口から発せられた第一声は仕事絡みだった。

「実はね、今年は秋の発表会で鍵盤ハーモニカを中心にアンダーソンの『シンコペーティッド・クロック』をろうと思ってるんだよね。それでね……」

 茉莉花の目はキラキラ輝いている。

「シンコペ~何それ?」

 音楽にはとんと興味のない奈津子が質問で話を遮る。

「ルロイ・アンダーソンっていうアメリカの作曲家の有名な曲。奈津子も聞いたことあるよ」

 茉莉花はそう言ってメロディーを口ずさむ。

「あ、それなら知ってる! 中学の時、昼休みに流れていた曲かも」

「時計のカチカチという音、あれはウッドブロックを使うんだけど、コミカルタッチで楽しい曲でしょ? 5、6年生に聴かせたら結構乗り気になってくれて」

 ケトルがピーッとお湯が沸いたことを知らせる。ハーベーの中間音はちょっと気持ちが悪かった。響子は紅茶ポットにアールグレイの茶葉と熱い湯を注ぎ、砂時計をひっくり返した。砂が落ちていく間にそれぞれケーキを選ぶ。

「わぁ~アールグレイのいい香り」

 奈津子が鼻をひくひくさせる。そんなことはどうでもいいと言わんばかりに、茉莉花は早口で続けた。

「それで今、子どもたち向けにアレンジしているところなんだけど、響子に協力してもらいたいことがあって……」

 響子は一瞬顔が強張ったのを気取られぬよう、さり気なく返した。

「協力なんて、私なんか何もできないよ」

 謙遜でも何でもない。音大ピアノ科を中退して10年が過ぎた。音楽とは無縁な生活をしている私に何ができるというのか。

「ん、もう、何言ってるのよ。響子は絶対音感もっているじゃない!」

 ……またそれか。昔から茉莉花が自分に一目置いてくれていることは知っている。それが響子には顔の前を飛び回る羽虫のように鬱陶しかった。自分はこんなにも挫折感を味わっているのに。茉莉花のことが羨ましくて仕方ないのに。響子はうんざり感が顔に出ないよう意識して口角を上げ、やんわりと断るための言葉を探す。

「小学生用のアレンジなら耳で聴かなくても、既存のスコアから起こせるじゃない?」

「違うのよ、アレンジの相談じゃなくて」茉莉花はそう言って大きなトートバッグから、ウッドブロックを2台取り出した。「この2つ微妙にピッチが違う気がして。どっちが原曲に合うか聴いてほしいんだ。私には微妙に違うってことしかわからなくて、どっちを買おうか迷って楽器店から借りてきたの」

 茉莉花の協力要請に拒否の選択肢は用意されていなかった。響子は2人に気付かれないように、静かに長く息を吐く。

「わかったけど、先ずはいただいたケーキを食べようよ」

 砂時計に急かされて、響子はティーカップに紅茶を注いだ。

                  *

 高校時代から茉莉花にとって、響子は憧れと尊敬の対象だった。絶対音感は訓練である程度身に付くとも言われているが、自分はさっぱりだった。高校時代、好きなバンドの曲を響子に聴かせて譜面に起こしてもらったことは何度もある。響子は数回聴けばピアノで再現することも譜面に起こすこともできた。自分でもできないことはないが、響子の何倍、いや何十倍も時間がかかるだろう。瞬時にそれをやってのける響子は神がかって見えた。

 響子に対するたった1つの不満は、絶対音感があるが故に原曲の調性を忠実に再現しないと気が済まない点だ。ピアノ演奏の際、黒鍵を多く使う調性の曲(例えば♯が6個つく嬰ヘ長調)の場合、茉莉花は演奏しやすい調に移調して弾くことが多い。その方がラクに弾けるからだ。また歌であれば歌う人に合わせたキーに移調するのは普通のことだ。カラオケだって半音刻みに調整ができる。ところがそんな時、響子は決まって眉間に縦皺を寄せた。半音ずらしただけでも、響子に言わせると全く別な曲になってしまうらしい。絶対音感もいいことだけでなく不便な面もあると知ったが、努力しても手に入れることのできないそれは、茉莉花の羨望の対象でしかなかった。

 幼い頃からピアノを習っていたという点では自分も響子も変わらないのに、この大きな差は不公平ではないか。そんなふうに感じていた。響子だって絶対音感のための特別な訓練を受けたわけではない。絶対音感は先天的なものではないと言われているが、響子に備わった音楽的センスを茉莉花は天賦の才と感じた。努力では到底追い付けない絶対的なもの。それは進路を考える茉莉花の目の前に大きく立ちはだかった。音大への進学希望は響子と一緒だったが、茉莉花が音楽教育の道に進もうと思うようになったのは、響子とは別な世界を無意識に選択したのではないか、と振り返って思う。

 だから、ピアニストとして生きていくのであろうと勝手に想像していた響子が、2年の途中で音大を中退したと聞いた時には、茉莉花の脳内に?マークが飛び散った。知ったのは既に退学して半年も経ってからだった。

「何で辞めちゃったの? 何かあったの?」

 茉莉花はストレートに尋ねたが、返ってきた答えは茉莉花の?マークを増幅させただけだった。

「何だか疲れちゃったのよね」

「課題がハードだったってこと?」

「ううん、そういうことじゃなくて。音に疲れたっていうか……」

 響子はそれ以上語らず、茉莉花も訊けないまま現在に至っている。同時に実家を出て一人暮らしを始めた理由も未だに訊けていない。

「このミルクレープ美味しい! アールグレイに合う~」

 奈津子がフルーツたっぷりのミルクレープを頬張っている。フィットネスクラブのインストラクターをしている奈津子は高校時代からスポーツ万能だった。好きなバンドのライブに一緒に行くことはあったが、基本的に音楽への関心は薄く、音に関する悩みがないのは羨ましい。それだけでなく、自分で「私の脳みそは筋肉でできているのよ」と自嘲気味に言う奈津子は、細かいことを気にしない性分だった。そんな奈津子の存在が、響子との関係において適度な緩衝材になっていると茉莉花は感じている。

「うん、このティラミスも美味しい」

 響子も頬を緩ませる。このままだとケーキに話題をもっていかれそうだ。茉莉花は慌てて軌道修正を図る。

「でね、ウッドブロックの微妙なピッチなんて気にする必要はないのかもしれないんだけど、調性がぴったり合っていた方が、子どもたちの演奏が上手く聞こえるでしょ?」

 喋りながら茉莉花の膝の上の右手は絶えずピアノを弾く形で動いていた。茉莉花は絶対音感はないが、相対音感として言葉の一音一音を音階として捉えてしまう癖があった。喋りながら、あるいは本を読みながら、言葉を音にして無意識にピアノの運指を繰り返す。「音程なんて」と喋りながら、指はドミミミミドミと鍵盤を叩くように親指と中指を動かしている。「子どもたちの」はドミミレドレ。本を読むのが異常に遅いのはこのヘンな癖のせいだ。一文字ずつ音符にしてしまうのだから時間がかかることこの上ない。わかっているけれど無意識にスイッチが入ってしまうのでやめられない。他人にとってはどうでもいいことだと思うから、誰にも話したことはなかった。低レベルすぎる悩みは恥ずかしくて響子にも言えなかった。

                  *

 茉莉花は紅茶をひと口啜ると、2台のウッドブロックを取り出して、順番に叩き始めた。

「えっ、どっちも同じ音じゃん」言ったのは奈津子だ。

「シンコペイティッド・クロックって、デードゥア(ニ長調)だよね。大きな違いはないけど、こっちの方がいいかも」

 響子は茉莉花が先に叩いた方のウッドブロックを指さす。叩く位置によって微妙に違うけど、という言葉はティラミスと一緒に飲み込んだ。ほろ苦さが口の中に広がる。

「さすが、響子! ありがとう。助かったわ」

 安心したのか、茉莉花はようやく目の前のチーズケーキにフォークを入れた。

「ウッドブロックはね、この曲のリズムを刻む肝なのよ。ちょっと発達に偏りのある6年生の男の子がいるんだけど、この子が鍵盤ハーモニカは上手く弾けないんだけど、メトロノーム大好きで一定のリズムで叩かせたらピカイチなんだよね。他にも鍵盤が苦手だけどリズム感がある子には、目覚まし時計とかヒューポンとかやらせようと思ってるんだ」

「目覚まし時計? ヒューポン?」

 奈津子が興味もないのに言葉を挟む。よせばいいのに、と響子は心の中で舌を打つ。

「曲の中でアラーム音が出てくる箇所があるのね。楽器はトライアングルを使うんだけど、代わりに本物の目覚まし時計を使ってみようと考えてるの。視覚的にも楽しいじゃない? ヒューポンはスライドホイッスルといってただのホイッスルじゃなくて、グリッサンド演奏になる笛って言えばいいかな」

「グリッサンド? それ何のサンドイッチ? もうやだ、やだ、茉莉花と響子しかわからない音楽言語は禁止!」

 奈津子が笑いながら2人を睨んで、話題を強制転換する。

「それよりサ、みさちゃんの還暦祝どうするのか、決めないと!」

 みさちゃんとは3人の高1の時の担任、大伴美紗子先生だ。クラス会は隔年で秋に開催しているが、今年は響子たち3人が幹事だった。還暦を迎える先生のお祝も兼ねて開催することは前回の決定事項であり、記念品は幹事に一任されていた。今日はそれを相談する目的で集まったのだった。それぞれ持ち寄ったパンフレットや雑誌を見ながら、これはどう? こっちのは? とわちゃわちゃした末に、赤ワインとタンブラーのセットに決まった。みさちゃんのワイン好きはクラス会で確認済みだ。

 思えば3人の付き合いも14年になる。

 そもそものきっかけは高1の時、体育の授業で創作ダンスのグループが一緒になったことだった。7人のグループだったが、響子と茉莉花が選曲やアレンジを担当して、ダンス部だった奈津子が主に振付を担当した。2学期の終わりに発表会があり、そこで最高得点を獲得して優勝したのが響子たちのグループだった。その成功体験が14年間3人を離さず牽引してきた。

 集まれば昔に戻って、よく喋りよく笑う。大人になってから知り合ったなら、こんなに仲良くならなかっただろうと思う。高校生という青臭くて熱くたぎる想いだけで行動していたあの時代を共有したからこそ、こうして長い時を経ても繋がっている。それはもしかしたらとても貴重なことかもしれない。響子は改めてそう感じた。

 外はまだ明るいが、時計の針が5時を回ったところで、「あ、もうこんな時間」と茉莉花が解散の時間が近づいた合図を放つ。唯一既婚者である茉莉花は、帰ってから夕食の準備があると言う。

 2人を見送りにマンションのエントランスまで行くと、響子の胸に安堵と寂しさの波が同時に押し寄せた。最近ひとりでいる寂しさを感じるようになり自分でも驚いている。誰かが傍にいる煩わしさと安心感を天秤にかけるまでもなく、この先もずっとひとりは寂しい。

 茉莉花はとっくに結婚し、奈津子には同棲している相方がいる。30歳という微妙な年齢で先行きの不安がないといったら嘘になる。まだ2人には話していないが、最近仕事を通じて知り合った男性と付き合い始めたのも、そんな心境の変化によるのかもしれない。

「響子、今日はありがとう」

「お邪魔しましたぁ!」

「気を付けてね」

 2人を見送ると、心地良い初夏の風がさわさわっと響子の頬を撫でていった。

                  *

「あ、もしもし~これから帰るね。夕飯は何か買って帰るけど、リクエストある?」

 奈津子は茉莉花と駅で別れてから、10歳上の彼氏に電話をかけた。勤務するフィットネスクラブでマネージャーをしている彼氏とは、2年の交際期間を経て一緒に暮らし始めた。それももう1年になる。親には隠していたが、去年バレてひどく怒られた。父親は「結婚を考えていないのに同棲なんてけしからん! そんな男はロクなもんじゃない!」と血相を変えた。怒鳴り込まれたらやっかいだな、と心配していたら、母親がうまくいなしてくれたようだ。母は父と結婚する前に別な男性との同棲経験があるという、その時代では珍しい経歴の持ち主だった。もちろん、父は知らない。姉が結婚する前、母と3人でよくお酒を飲んだ。そんな時に「お父さんには内緒よ」と聞いた話だ。母は一緒に住んでみて、この人とは無理と思って別れたらしい。結婚前の同棲はむしろするべきと陰で姉にも勧めていた人だった。

 そんな進んだ女性である母も、奈津子だっていずれは入籍する気になると思っているフシがある。ゴールは結婚と無意識に思っているあたりは、昔の人だなって思う。でも奈津子は全く結婚を考えていない。籍を入れるメリットが1つも感じられないからだ。世間体? そんな何の役にも立たないものを気にしたことはない。人生悔いることがないよう今やりたいことを精一杯やる、そのために弊害となるものはできるだけ取り除きたい、ただそれだけだ。そこが今の彼氏と一致しているから快適に一緒にいられる。もちろん子どもも欲しくない。

 子どもといえば、歩きながら茉莉花が言っていた。結婚して5年になるけれど子どもができない。病院で検査を受けようか迷っている。子どもは自然にできるものと思っていたが、30代に突入し、悔いのないようできることはやっておきたいと考えるようになったという。

 仕事を生きがいに充実した生活を送っているように見えた茉莉花にも悩みがあることを、奈津子は新鮮に受け止めた。「子ども、できるといいね」と慰めにもならない陳腐な言葉しかかけられなかった自分を情けなく思う。でも3人で集まる場に小さい子どもがいる光景を想像して、奈津子は身がすくんだ。

 奈津子は子ども、というか赤ちゃんの泣き声が苦手だった。苦手という生易しいものではない。ぎゃんぎゃんと泣く声を聞くとこっちの方がギャーッと叫びたくなる。その場から離れずにいたらパニック発作を起こしてしまうレベルだ。通勤電車で子どもが泣き続けていた時には、耐えきれずに途中下車して遅刻したこともあった。

 姉が出産後しばらく実家にいた間は自然と実家から足が遠のいた。別に子どもが嫌いというわけではない。5歳と3歳になった姪っ子は普通に可愛い。たまに姉の家に行けば、「なっちゃん」「なっちゃん」とすり寄ってくる姪っ子たちに、人並みの(と言える自信はないが)愛情も湧く。もう滅多に泣かなくなったからだろうか。いや、姉妹で喧嘩して泣くこともある。でもその声は奈津子の琴線に触れない。奈津子がどうやっても受け容れられないのは、生後数ヶ月までの、あの本能が噴出したような泣き叫ぶ声なのだ。そのことに気付いたのは最近のことだった。

 赤ちゃんの泣き声だけに反応するのは何故なのだろう。周波数の関係だろうか。それとも過去にトラウマとなるような何かがあったのだろうか。自分でも原因がわからず、ある時思い切って2人に打ち明けたことがある。

「実は私、赤ちゃんの泣き声、ダメなんだよねぇ」

 そう切り出して詳しく説明しようとしたが、瞬時に茉莉花に阻まれた。

「何言ってるの、赤ちゃんが泣くのはしょうがないじゃない。子どもの泣き声を受け容れられる寛容な社会にしていくのは、私たち大人の責任だよね」

 響子は何も言わなかった。空虚な目で何も見ていない表情をしていた。あまり自分のことを語らない響子にも、人に言えない悩みがあるのかもしれない。その時、ふとそう思った。

 以来この話は誰にもしていない。子どもは欲しくないとか、泣き声が苦手とか、大人として口にしてはいけないことだと学んだ。今の彼氏に話した時は、

「なつの脳のどこかに、赤ちゃんの泣き声に過敏に反応するスイッチがあるのかもしれないね。そんな人、他にもいくらでもいるよ。俺は列車が走るゴーッという唸り音ダメだし。そんなに気にしなくていいんじゃないの?」

 こともなげにそう言ってくれた。

 スーパーの総菜売り場を巡りながらそんなことを思い出した奈津子は、たまには彼の好物のビーフシチューでも作ろうかな、とくるりと回れ右をした。シンコペーティッド・クロックを鼻歌で口ずさみながら、奈津子は精肉売り場に向って歩き出した。 (続く)

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ざわめく 志麻乃ゆみ @shimanoy

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