ノイズのない二人だけの聖域

睦月六実

ノイズのない二人だけの聖域

 教室の喧騒は、私にとってただのノイズでしかない。


 高校に入学して2度目の梅雨、昼休みの2年A組。窓際で、カースト上位の陽キャたちが上げる甲高い笑い声は、鼓膜を不快に揺らす。同じ女子でも彼女らの周波数は、私、那須なす あかりには合わないようだ。


 廊下側一番後ろの席で、私は外界を遮断するべく、ノイズキャンセリングイヤホンを耳にねじ込み、机に突っ伏して自分の世界へと潜り込んだ。

​ 私の世界は、縦15センチ、横7センチの液晶画面の中に広がっている。

 スマホが通知で震えたのは、午後の授業が始まる五分前だった。


​『らくがき。息抜きです』


​ SNSのタイムラインに流れてきた画像を見て、私は声を殺して絶叫した。


(神……っ! 神がご降臨なされた……!!)


 投稿主は『もちもちうさぎ@原稿執筆中』。フォロワー数五万人を超える超人気イラストレーターであり、私の生きる糧だ。

 もちもちうさぎ先生は、連載10年を超える『終焉世界のオービット』の二次創作を主に描いている。『終焉世界のオービット』は、今期もアニメが放送されているくらいに人気なマンガだ。もちろん私もマンガとアニメどちらも履修していて、この作品をきっかけに、もちもちうさぎ先生を知ったのだ。


 最初の頃はイラストを中心に投稿していたが、最近はマンガも描き始めていて、主人公のルナとヒロインのソラの関係性が尊くて、投稿されるたびに私を悶絶させる。今となっては、なくてはならない存在だ。


 息抜きと称して投稿されたのは、私の推しキャラクターである『終焉世界のオービット』のルナがアンニュイな表情で髪をかき上げているイラストだ。線が繊細なだけでなく生き生きしてて、手に色気を感じる。そして、瞳の透明感がすごい。というか、この気怠げな視線、完全に私を殺しに来ている。あれ?左手の小指にあるのって。


​ 私は気になりながらも震える指で高速にフリック入力を行った。

 現実リアルでは「えっ、あ、はい」くらいしか喋れない私だが、ネット人格『暗黒騎士』としての私はとても饒舌だ。


​​『もちもちうさぎ先生、投稿ありがとうございます! いつもながら、線の密度に圧倒されます。髪と手のコントラストが映えていて、特に、右目のハイライトの入れ方が虚ろな感じが、キャラの孤高感を表現していて最高に尊いです。あと、ルナが左手の小指にだけ、絆創膏を貼っているのが見えます。これ、先週の本誌で怪我した箇所ですよね? そこまで再現されているなんて、解像度が高すぎて泣きました。午後も生き延びられます。ありがとうございます』


​ 送信。

 よし、完璧だ。一ファンとしての礼儀と情熱を込めた、最速のリプライ。


​ ――ブブブッ。


​ 短く、鈍い振動音がした。

 音の出処は、左隣から。

 そこは、クラスで一番影の薄い女子、烏山さんの席だ。

 彼女は机の下、スカートのひだに隠すようにスマホを握りしめていた。

 烏山さんはビクッと肩を震わせると、おずおずとスマホの画面を覗き込んだ。


​(……通知バイブ? いや、まさかね)


​ 偶然だ。フォロワー五万人超の神絵師様だぞ。通知なんて毎秒鳴り止まないはずだ。

 けれど、次の瞬間。


 横目で盗み見た烏山さんの親指が、画面を二回タップした。

 画像の拡大操作だ。

 彼女が拡大したのは、イラストの「左手の小指」のあたり。


​ ……え?


 心臓が嫌な音を立てた。

 偶然にしては、出来すぎている。私が指摘した箇所を、今、彼女は確認したのか?

 いや、まだだ。まだ確定じゃない。

 私は震える手で、追撃のリプライを打ち込んだ。


​『あと、右上の余白に、消し忘れたラフの線がうっすら残っているのも、ライブ感があって逆に尊いです』


​ 送信。


 一秒後。

 烏山さんのスマホが再び震える。

 彼女は不思議そうに首を傾げ、画面をスワイプした。

 そして――画像の「右上」を拡大した。


​ 私は息を呑む。

 嘘でしょ。


 烏山さんは「あっ」と声にならない声を漏らし、慌てて何かを操作している。おそらく、元画像を再確認しているのだ。

 私が送ったリプライを読んで、その箇所をリアルタイムで確認している。

 まるで私が、コントローラーで彼女を操作しているみたいに。


 これはもう確定だ。

 全身から変な汗が噴き出してきた。

 隣の席の、いつも背中を丸めておどおどしている烏山さんが? まさか、あの繊細かつ大胆な構図を描く、神絵師もちもちうさぎ先生……?


​ 予鈴が鳴る。

 その後の授業の内容を、何一つ覚えていない。

​        *

​ 放課後。

 掃除当番だった私と烏山さんは、人気のない教室に二人きりで残っていた。

 雨が降り出し、薄暗くなった教室内。


 様子を窺うために烏山さんを見やると、せかせかと黒板を掃除していた。彼女の手は白くて指が長かった。いつも緻密な線を描くはずの指先が、黒板消しを握りしめる時だけは、ぎこちなく不器用だけど力強く見えた。


 しばらくして掃除が一段落すると、烏山さんは一目散に逃げるように鞄を抱えて、教室を出ようとした。


​​「あ、あのっ、烏山さん」


 私の口から出たのは、裏返った情けない声だった。

 烏山さんがビクッとして立ち止まる。


「は、はい……。ご、ごめんなさい、私、なにも……」


 怯えている。私が何かカツアゲでもするとでも思っているのだろうか。

 違う。私はただ、日頃の感謝の気持ちを伝えたいだけなのに。

​ 私は無言でスマホを取り出し、画面を彼女に向けた。

映っているのは、うさぎがアイコンのもちもちうさぎ先生のホーム画面。


​「……これ」

「ひっ」


 烏山さんが小さく悲鳴を上げる。


「烏山さんが、もちもちうさぎ先生……ですよね?」

「ち、違……」

「違くない。私、何度も確認したから」 


 追い打ちをかけるように、私が昼休みに送ったリプライを見せつける。


​『右上の余白に、消し忘れたラフの線がうっすら残っているのも、ライブ感があって逆に尊いです』


​「お昼休み、このリプが届いた直後、画像の『右上』拡大してましたよね? その前の『小指の絆創膏』の時も。私、隣の席から全部見てました」


 そう言いながらも、自分でもストーカーじみていると自覚して冷や汗が出る。

 ついに逃げ場はないと悟ったのか、烏山さんはガクリと項垂れた。長い前髪の隙間から、真っ赤になった耳が見える。


「……バラさないで、ください」


 蚊の鳴くような、か細い声だった。

 その瞬間、私の中で何かが弾けた。クラスメートとしての距離感とか、社会的常識とか、そういったストッパーが崩れ去った。

​ 私は一歩踏み出し、ガシッと烏山さんの両手を握りしめた。


「もちもちうさぎ先生!!」

「ひゃいっ!?」

「ファンなんです!!」

「え……?」

「五年前の初投稿からずっと見てました! 先生の描く手の表情が世界一好きです! 特に去年の冬コミの新刊、ルナがソラを迎えに行って抱き締めるラストのページの演出で泣き崩れました! あと、同じクラスで空気吸っててごめんなさい!!」


​ 一息でまくし立てる私。

 烏山さんは息を詰めたまま、口元をわななかせて硬直している。

 やってしまった。ただの不審者だ。引かれた。終わった。

 私の手の中には、まだ温かい感触が残っている。この細い指先が、あの世界を生み出しているのだと思うと、目眩がしそうだった。


​ 私は我に返って、パッと手を離そうとした時だった。

 逆に、烏山さんの視線が、私の握りしめていたスマホの画面に釘付けになった。


​「……えっと、あの」


 俯いたまま、烏山さんがおずおずと口を開く。


「その、画面の……お名前……」

「え?」


 私は自分のスマホを見る。そこに表示されているのは、自分のSNSのプロフィール画面。

 アカウント名は『暗黒騎士』。

 思わずスマホをポケットにしまう。


​「……『消し忘れのラフ線』に気づいてくれたの、暗黒騎士さん、だけでした」

「……あっ」

「小指の絆創膏に気づいてくれたのも……」


 烏山さんが、前髪の隙間から私を見上げる。その瞳が、驚きと、縋るような期待に揺れていた。


「いつも、私の絵の細かいこだわりを全部見つけてくれて……長文で感想くれる、暗黒騎士さん……ですか?」


​ 顔から火が出る音がした。

 あれは感想というより、もはや怪文書に近い。深夜のテンションで書き連ねたポエムのようなリプライ。昼休みには気付かなかったけど、実はもちもちうさぎ先生本人に認知されていた?

 恥ずかしすぎて死にたい。今すぐこの教室の床を突き破って、そのまま一階まで落下したい。


​ しかし、烏山さんは少しだけ顔を上げ、重たい前髪の先を微かに濡らし、唇を強く噛みしめていた。


​「私、暗黒騎士さんの感想リプに……いつも救われてて」

「へ?」


「自分の絵なんてダメだなって落ち込んだ時も、暗黒騎士さんの感想リプを読むと、描いててよかったなって思えて……。だから、その」

​ 烏山さんは、もじもじと指先を絡ませながら、消え入りそうな声で言った。


​「……まさか、隣の席に暗黒騎士さんがいるなんて、思ってなくて……すごく、すっごく、嬉しい、です」


私の胸の中で、何かがぶち壊れる音がした。

推しを救っていた――そんな現実が、陰キャとしての理性を完全に上回った。


​「あ、あのっ!」


​私は衝動的にスマホを取り出し、画面を開いた。


​「よ、よろしければ、今後のご感想を、一番、一番最初に、直接お伝えしたいんです。先生の、その、ご負担にならなければ、ですが!」


​烏山さんは目を丸くした後、こくりと頷いた。


​「えっと……。はい。LIME、なら……」


​烏山さんはそっとスマホを取り出し、QRコードの画面を開いた。

​私は震える手で読み取りを完了する。

画面に表示されたのは、『烏山 真白ましろ』というフルネームと、その下に添えられた愛らしいうさぎのアイコン。よく見慣れているアイコンだ。


​烏山、真白さん。


光を消して生きてきた私、那須灯が、今、あなたの名前を知った。


――私と、烏山さんの世界は、今、ここでつながったのだ。


私の名前は灯なのに、教室の隅で光を消して生きてきた。

でも……。


(下の名前で呼ぶなんて、現実の私には絶対無理だ。でも、今だけは、心の中で。)


真白さん、あなたのイラストが私に光を灯してくれた。

私は救いをあなたに求めていたけれど、私もあなたを救っていた。

​私は深く頭を下げた。烏山さんは真っ赤な顔で、静かに頷き返す。

​        *

​ 翌日の昼休み。

 教室の風景は、昨日と何も変わらない。

 陽キャたちは相変わらず窓際で騒ぎ、私たちは教室の隅で、それぞれの席に静かに座っている。


 言葉は交わさない。

 周囲から見れば、ただの「暗い女子二人」だ。

​ けれど、机の上では。


 烏山さんが、こっそりと自分のノートをスライドさせてきた。

 そこには、シャーペンで描かれたばかりの、『終焉世界のオービット』のソラが満面の笑みで両手を広げているイラストがあった。まだ誰にも見せていない、SNSにすら上げていない、世界で最初の「新作」。

 

 ノートの隅には、小さく走り書きがある。


『どうかな?』


​ 私は周囲にバレないよう、深く息を吸い込んだ。

 尊い。無理。心臓が痛い。

 この神イラストを、一番最初に見る権利が私にあるなんて、前世で一体どんな徳を積んだんだろうか。


 私は震える手でスマホを取り出し、LIMEの画面を開く。

 昨日交換したばかりの、彼女とのトークルーム。


​『構図が天才です。ソラがルナに出逢えた嬉しさがひしひしと伝わってきます。後で1000文字の感想文送ります』


​ 送信。


 隣で、ブブブッ、と小さな通知バイブが鳴る。

 烏山さんが画面を見て、肩を震わせて笑った気がした。


​ チラリと横目で見る。

 重たい前髪の隙間から、昨日までははっきりと見えなかった、悪戯っぽい瞳と目が合った。思わずドキッとしてしまった。

 

 ここだけは、他の誰にも侵入できない、私たちだけの聖域トークルーム

 いつの間にか外界のノイズが気にならなくなっていた。イヤホンを外し、誰にも聞こえない声で「最高」と呟いた。

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