観測不能域にて

不思議乃九

【順】

◆ 第1章:世界の異常と静寂


アスファルトを踏む音が、砂粒のように指の間からこぼれ落ちていった。


世界の終わりは、騒音ではやってこない。

それはまず、音の欠落として訪れる。

高音域がわずかに欠損し、空気の膜が一枚だけ増えたように、すべての響きが遠のいていく。


サイレンの立ち上がりが削られ、

風が窓を叩くはずの瞬間が、

編集ソフトのタイムラインから1コマだけ抜き取られたみたいに空白になる。


人々は気づかない。

朝のニュースはいつもの話題を流し、

駅のホームでは、誰もが当たり前のように電車の到着を待っている。

彼らの行為は、再生と停止のあいだで、わずかに損なわれていることを知らない。


わたしだけが、知覚していた。


この世界の摩耗を。

歯車の噛み合わせが、一歯ぶんだけずれているような、かすかな軋みを。


傘を差したときに生じた「1コマの欠落」。

腕を上げる動作の途中に、

死角のような空白が挟まった。

それは、この世界の時間軸に最初に現れた“小さな死”だった。

物理法則が、自分で自分を諦めつつある徴候。


わたしは、これが静かな終焉だと理解していた。


鞄から古い地図を広げる。

行き先は書かれていない。

ただ、わずかに残された理性だけが、そこへ向かえと指示していた。


——最後の行為を果たすために。


川のほとりに立つ。


水面は、不自然なほど静かだった。

風の皺も、泡のゆらぎもない。

重力がこの場所だけ怠けているように、

水面はただの“平面”として世界に貼り付いている。


ポケットの中で、

指先に“キューブ”の冷たさが触れた。


光を吸い込む黒い四角。

その質量は、ただの物体の重みではなかった。

わたしの残存する存在感が、そこに移されているような感覚。


ここで決めなければならない。


投げ入れるのか。

——終焉を確定させる弾丸として。


観測するのか。

——落下が世界の法則をどう書き換えるかを確かめる観測者として。


それとも。


手放すのか。

——意志とも呼べない微かな残響を、

ここで世界から切り離すために。


掌のキューブは、思っていたよりも軽く、

それなのに、なぜかとても重かった。


◆ 第2章:感情の摩耗と、わたしの「終わり方」


キューブから指を離したあと、胸の奥に、薄い穴がゆっくりと拡張していく感覚があった。

冷たさは皮膚ではなく、もっと深い場所──内部の演算領域のほうで進行していた。


この数ヶ月で、わたしの体温は確実に落ちていた。

朝の呼吸の温度は以前より軽く、

歩くたび、内臓のどれかが一拍遅れて動き出す。


感情も同じ速度で摩耗していた。


楽しい、と思った記憶は残っているのに、

そのときの温度は抽出できない。

痛みも鈍い。

叩かれた場所を指で触れて、ようやく

「ああ、ここは痛むはずだった」と確認できる程度。


喜びも、怒りも、悲しみも、

すべて、取り外された部品のように

どこか別の棚に置き忘れられていた。


——それなのに、ひとつだけ消えなかったものがある。


優しさ。


他の温度が消えていく中で、

この感情だけが、胸の奥で

わずかな熱を保持し続けていた。


論理では説明できない。

世界の終わりを観測した者が、

なお誰かに優しくある必要は、本来どこにもない。


それでも、その微細な熱だけが、

わたしをまだ“人間の形”に留めていた。


世界が崩れていくことを見ても、

痛みも怒りも喪失も感じられないのに、

この優しさだけは、欠落しきらない。


わたしは歩き出す。


どこへ向かうのか、言語化はできない。

ただ、古い地図の空白の部分だけが、

呼吸をする生き物のように、

こちらへ向けて微弱な脈動を発していた。


——そこへ行かなければならない。


世界を終わらせるためではない。

世界に抗うためでもない。


ただ、この優しさだけは、

ここに放置してはいけない。

そんな“理由のない確信”だけが残っていた。


何かを守る行為ではなく、

ただ、切り離すために。


わたしの中で最後に残った熱を、

この世界のどこにも触れさせないように。


そのために、進まなければならない。


◆ 第3章:無音の川と少女の涙


川のほとりに立った瞬間、空気の密度が、ごく僅かに変調した。


流れているはずの水が動いていない。

光は当たっているのに、反射だけが“更新”を止めており、

揺らぎという概念が、この地点から丸ごと欠落している。


風は頬に触れている。

けれど水面には、一度も触れた形跡がない。

世界の物理層だけが、わたしの知る時間とズレ始めていた。


橋のたもとに、白い影が立っていた。


少女だった。

年齢の推定はできない。輪郭が薄く、光学情報の一部が

川の静止面に吸い込まれているようにも見えた。


通行人たちは、誰ひとり彼女を視界に入れない。

彼女だけが、この場所にだけ固着した時間の中で、

わずかに遅延しながら存在していた。


わたしが一歩近づくと、

少女はゆっくりと顔を上げた。


その視線は、目が合ったというより、

——世界の中で「観測された側」に移された感覚に近かった。


少女の頬を、一筋の雫が伝う。


泣いていた。

だが呼吸の揺れも、喉の震えもない。

涙だけが、身体という容器から漏れ出すように落ちていく。


落ちた瞬間、音はなかった。


水が石畳に触れたはずなのに、

そこには衝突の結果が生まれず、

ただ、存在としての“形だけ”が消滅した。


なのに——その瞬間だけ、わたしには痛みが走った。


身体のどこが痛んだかは判別できない。

痛覚の多くは既に摩耗しているはずなのに、

この無音の落下だけが、微かな熱として胸の奥に触れた。


残っている“優しさ”が反応したのだと、

説明ではなく、反射のように理解した。


少女は何も言わない。

世界も、何も言わない。


ただ、涙が落ちた無音の一点だけが、

周囲の静止した世界よりも鮮明だった。


わたしは、ポケットに残したキューブの輪郭を確かめる。


少女の涙は、この世界にまだ“未消去の何か”が残っている証のようだった。

しかし同時にそれは、

——この優しさを、もう世界に触れさせてはならない、

と告げる境界のサインにも見えた。


優しさを、この世界から切り離さなければならない。


わたしは川へ向かって歩き出す。

水面は、境界の位置が決まるのを静かに待っているかのようだった。


◆ 第4章:最後の行為と世界の停止


 世界は、わたしの歩みに同期しなくなっていた。街の音響は稼働しているように見えるのに、どの音も聴覚へ到達しない。あるいは、到達する前に別の層へ転送されているのかもしれない。


 胸の奥で脈打つものを、わたしは便宜的に“優しさ”と呼んでいる。少女の涙が落下した地点で、わたしの観測系は微細な例外処理を発生させ、その例外が現在のわたしを生成している。


 キューブ——本来、固有名はない——は、少女の涙の値を取り込みながら、表面積を縮小して単一の点へ収束していく。点となったそれは立方体ではなく、わたしの胸の中心へ沈み込んでいた。


 屋上に到達すると、時間の揺れが最も小さかった。風が吹いた痕跡だけが空気に残り、実際の風は観測できない。


 わたしはそこで、最後の演算を開始する。


 ——優しさを隔離する。


 隔離は、排除ではない。

 隔離とは、触れ得ない領域を生成する行為である。

 世界の外側ではなく、世界の“すきま”に配置することだ。


 胸の中心に沈んだ点が、光として浮上する。光はわたしを透過し、空へ上昇する。その速度は、世界の時間関数とは別の系に属していた。ゆえに誰も認識しない。


 光が消えた瞬間、街は静止した。


 車は進行方向を示したまま途切れ、人々の歩みは、一歩目と二歩目のあいだで固定される。

 時間が止まったのではない。

 **世界が、観測の対象から外れた**のである。

 わたしを除いて。


 世界が止まるとき、音より先に色が死ぬ。

 街の輪郭が淡く撓み、その後になって、わたしの影が追いつく。


 少女は、この静止のどこかに存在するはずだった。

 だが、確認する必要はない。

 観測行為そのものが、彼女の涙の値を損なう可能性を含むからだ。


 優しさを守るために、優しさを取り出し、世界を裂いた。

 わたしの行為は、そういう分類に落ち着くらしい。


 胸の内部には、もはや何も残っていない。

 空虚は痛みではなく、計算後の静寂に近かった。


 止まった世界の中で、わたしだけが動く点として姿勢を正す。観測者とは、本質的には対象の外側から生成を見守る存在であり、感情のような付属物は持たない。


 ——終了。

 あるいは、開始。


 名前のない朝がやってくる。

 透明で、観測に失敗し続ける光の朝だ。


 その光の下で、ようやく理解する。

 わたしは世界から切り離された。

 そして、優しさは、どこにも触れない場所へ移送された。


 それは、たしかに“守られた”と呼べる状態だった。


◆ 終章:最後の言葉


 世界が静止したあと、わたしは屋上に立っていた。

 風は存在の痕跡だけを残し、音の層は剥離して、

 世界は「観測から脱落した平面」として残存している。


 色は死んだのではない。

 色情報が観測系から切断され、

 レイヤーごとに周波数だけを震わせる抽象的な世界。

 実体は意味を失い、“線画”のような外郭だけが漂っている。


 胸の中心にある静寂は、喪失ではなく、

 ひとつの手続きが正常に完了した印だった。


 わたしは“すきま”に立っている。

 これは単なる断裂ではなく、

 **優しさのデータを収容するための、量子的な隔離領域**だ。

 (σ:すきま、Eₜ:涙値、D_w:腐敗率)


 街を一巡する。

 凍結した人々の瞳には、彼らの“未遂の未来”だけが

 ノイズとして焼き付いていた。

 それは記憶でも現在でもなく、

 実現し損ねた可能性の残滓である。


 あの少女は――どこにいるのだろう。


 探す必要はない。

 彼女はすでに世界から切り離された“優しさ”の本体であり、

 σ の最深部に、恒常値として保存されている。

 観測対象ではなく、触れてはならない定数。


 わたしから観測系は剥奪された。

 だが同時に、世界を“観測しないまま見守る義務”が残された。

 優しさに触れさせないために。


 静止した街の中で、

 わたしの身体だけがわずかな熱を保っている。


 階段を降り、

 唯一の可動体として、凍った現実を歩く。


 橋のたもとに戻る。

 石畳には涙の痕跡はない。

 ただ一点、周囲よりわずかに明度の高い場所があった。

 優しさの残留熱が、そこだけに薄く残っている。


 わたしは手を伸ばし――触れる直前で止めた。


 優しさを守るためには、

 優しさに触れてはならない。


 それがもっとも美しく、

 もっとも残酷な結論だった。


「……記録を続けよう」


 音にはならない。

 これは、わたし自身の内部プロトコルへの静かな命令だ。


 わたしは歩き出す。

 時間が終わった街の中を、

 ただ一人、境界線を巡回するために。


 優しさが、二度と傷つけられないように。


 世界の終結と、わたしの孤独な永遠が、

 その静止の中で同時に始まった。

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