透明な手錠

不思議乃九

 取調室の机上に、三つの錠剤が静かに並べられていた。

 二つは白い胃薬である。残る一つだけが、金属めいた鈍い光を宿していた。


 完全犯罪——娘を奪った男は、証拠不十分のまま釈放された。


 昨夜の午後十一時、あの毒を飲まされた。

 発症まで二十四時間前後——残された猶予は、あと三時間ほどである。


 胸の奥に、鈍痛が静かに育っていく。

 毒が、時をかけて臓腑へ沈んでいく感覚だった。


 意識が途絶える寸前、一課長は被疑者の机の引き出しから

 同じ毒の小瓶を一つ、手探りで掴み取っていた。

 昨夜のうちに瓶の粉末を錠剤へ仕込み、胸ポケットへ忍ばせてある。


 廊下を行くたび、壁の時計がやけに大きく脈を刻んだ。


 取調室の扉を開けると、被疑者は薄笑いを浮かべた。


「これが……最後の話か。一課長」


「最後だ」


 応じながら、一課長は静かに三つの錠剤を机上に置く。


 そして胸元へ指を滑らせ、もう一つの錠剤を落とした。

 乾いた音が、取調室に沈む。


「四つにした。これは私の胃薬だ。好きなものを一つ、選ぶといい」


 四つのうち、二つは胃薬。

 一つは、最初から混じっていた毒。

 そして残る一つは——昨夜、自身に飲ませた“あの毒”である。


 被疑者は僅かな逡巡ののち、迷いなく一粒をつまみ取る。


「運を、天に預けるとしよう」


 そう言って、錠剤を喉へ滑り込ませた。


 一課長は残る三つを掌へ収め、音ひとつ立てず廊下へ出た。

 歩調に合わせ、胃の奥で熱が波のように立ち上がる。


 やがて、背後の取調室から、重い何かが崩れる音がした。


 一課長もまた、壁へ背を預け、静かにその場へ座り込む。


 被疑者が選んだのは——

 昨夜、この身に沈められた、まさしく“あの毒”であった。


 透明な手錠は、ようやく外れた。

 だが二人を繋いでいた鎖は、最期まで切れぬままだった。

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透明な手錠 不思議乃九 @chill_mana

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