透明な手錠
不思議乃九
*
取調室の机上に、三つの錠剤が静かに並べられていた。
二つは白い胃薬である。残る一つだけが、金属めいた鈍い光を宿していた。
完全犯罪——娘を奪った男は、証拠不十分のまま釈放された。
昨夜の午後十一時、あの毒を飲まされた。
発症まで二十四時間前後——残された猶予は、あと三時間ほどである。
胸の奥に、鈍痛が静かに育っていく。
毒が、時をかけて臓腑へ沈んでいく感覚だった。
意識が途絶える寸前、一課長は被疑者の机の引き出しから
同じ毒の小瓶を一つ、手探りで掴み取っていた。
昨夜のうちに瓶の粉末を錠剤へ仕込み、胸ポケットへ忍ばせてある。
廊下を行くたび、壁の時計がやけに大きく脈を刻んだ。
取調室の扉を開けると、被疑者は薄笑いを浮かべた。
「これが……最後の話か。一課長」
「最後だ」
応じながら、一課長は静かに三つの錠剤を机上に置く。
そして胸元へ指を滑らせ、もう一つの錠剤を落とした。
乾いた音が、取調室に沈む。
「四つにした。これは私の胃薬だ。好きなものを一つ、選ぶといい」
四つのうち、二つは胃薬。
一つは、最初から混じっていた毒。
そして残る一つは——昨夜、自身に飲ませた“あの毒”である。
被疑者は僅かな逡巡ののち、迷いなく一粒をつまみ取る。
「運を、天に預けるとしよう」
そう言って、錠剤を喉へ滑り込ませた。
一課長は残る三つを掌へ収め、音ひとつ立てず廊下へ出た。
歩調に合わせ、胃の奥で熱が波のように立ち上がる。
やがて、背後の取調室から、重い何かが崩れる音がした。
一課長もまた、壁へ背を預け、静かにその場へ座り込む。
被疑者が選んだのは——
昨夜、この身に沈められた、まさしく“あの毒”であった。
透明な手錠は、ようやく外れた。
だが二人を繋いでいた鎖は、最期まで切れぬままだった。
透明な手錠 不思議乃九 @chill_mana
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