器を割る祈り ―〈GENESIS〉―』
銀 護力(しろがね もりよし)
器を割る祈り ―〈GENESIS〉 全文
無菌の匂いが、皮膚の内側に沈んでいた。機械の低い呼吸だけが、死んだ惑星の祈りをまねている。
コンクリートと鉛に囲まれ、世界の音はここまで届かない。メインモニターは一週間、砂嵐のまま止まっていた。
「……できた」
斎宮が言った。吐息の厚みだけで成立する声。
フラスコの底で翠が灯り、静かに脈を打った。彼女は台座の脚を指で磨いた。祈りの仕草に似ていた。
胸の名札の樹脂は擦り減っていて、白い字がわずかに滲んでいる。御影 契真。斎宮 祈。
僕は起動キーを机の中央に寄せ、角を揃えた。整列は、呼吸の代わりだった。
〈GENESIS〉。神の真似事に与えられた名は、ここでは記号にすぎない。
斎宮は顕微鏡から身を起こし、顔を覆った。嗚咽は出ない。喉の奥で、乾いた息が擦れた。
彼女の指の間から見えた目は、泣き顔の手前に止まっていた。そこにあるのは悲嘆ではなく、終わりを迎えるための整えの静けさだった。
モニターが一枚、別の文字を吐いた。
〈Human Matrix Required〉
喉が金属になった。
起動には、人間が一人。生きた体を母体として接続し、全身の細胞を反応に捧げる。数時間で、形は人から離れる。――説明はそこまででいい。機械の呼吸だけが、一定で続いた。
「僕が行く」
「私が行く」
子供の口論のひとかけらだけが、薄い空気に浮いた。
斎宮はフラスコの脚を拭い、もう一度磨いた。指の節に白い粉が残る。器は、聖具の重さを持っていた。
僕はログを開き、時刻順に並べ替え、無意味な重複を削った。最適解。僕はその言葉で自分を消毒した。
停電の廊下を思い出した。非常灯が落ち、手術灯だけが残った夜。ガラス越しの斎宮の瞳に、僕は光源として映っていた。像だけが、いまも残っている。
「契真」
呼ばれて、顔を上げた。斎宮の目は静かだった。
「まだ時間はあるわ」
「残り、七時間三十二分」
設備ログの数字が、地下の朝晩を代行する。
空調の唸りは、僅かに高くなった。CO₂の値が緩やかに上がり、非常電源のゲージが一目盛り落ちる。
夜明けなど来ない。それでも僕らは、夜明け前までに決めることにした。決めなければ、両方が同じ場所で終わる。
僕は起動キーを斎宮の方へ押しやり、また引き戻し、中央へ戻した。斎宮はフラスコの脚を磨き続けた。
時計が動き始めた。機械の呼吸が、わずかに長く聞こえた。
*
「仮に、誰か一人の犠牲で済むなら」
自分で言いながら、その言葉の冷たさに指先がわずかに震えた。
「僕が行くべきだ」
「理由は」
「起動手順を最も理解している。失敗確率を下げられるのは僕だ」
「ほかに」
「僕には代替がいる。外にまだ誰かが生きていれば、君の研究は——」
「ほかに」
斎宮の声は静かだった。
最適化された論理は、わずか二往復で尽きた。言葉はこれ以上、細胞の奥まで届かない。
僕らは食事を温めた。袋を切る鋏の音が、やけに大きい。
アルミパックのスープに湯気は立たず、淡い匂いだけが漂った。
「食べられるときに食べておくべきだわ」
「……ああ」
二つのスプーンが、容器の底を静かに撫でた。
金属が樹脂を擦る音が、会話のかわりをした。
沈黙の中で、彼女は不意に僕の手を取った。
冷たくはなかった。ただ温度がなかった。
「やっぱり、あなたの手は不思議」
「不思議?」
「触れていると、こちらが正される気がするの」
その言葉は、告白でも愛でもなく、信仰告白の音に似ていた。
僕は笑おうとしてやめた。笑いを挟む場所ではない。
培養室の警告灯が一度、赤く灯った。検体の一つが自壊したのだ。
擬似母体の実験を続けたが、どの容器も途中で変質し、崩れた。
ゲルは膨張して破れ、代替試薬は変色、ラットのサンプルは拒絶反応を起こした。
容器を変え、温度を変え、pHを変えても駄目だった。母体は、一つしか受け付けない。
数値がその事実を無言で証明していく。
「第三の道はないのね」
斎宮は事実を述べる声で言った。
反証の余地は、ついに失われた——そう思った瞬間、僕は気づくべきだった。
彼女は“絶望”していなかった。ただ、確認しただけだった。
僕はログを閉じ、決定を言葉にした。
「僕が行く」
今度は反論はなかった。斎宮はフラスコの脚を磨いていた。
「……わかったわ」
それきり、彼女は黙った。
同意の沈黙。それを、僕は“受け入れてくれた”と解釈した。
ふたりで部屋を掃除した。不要になった器具を廃棄し、純水ラインを止め、必要なものだけを残した。
決行は明け方。空気清浄機の低い呼吸は、一定を保っていた。
斎宮は白衣を脱ぎ、糸で裂け目を縫っていた。針が布を割る音が、小さな規則正しさを刻んだ。
僕は整列を続け、起動キーを中央に置いたまま動かさなかった。
残余の時間が、透明な粉塵のように部屋に溜まっていった。
言葉はもう、役に立たなかった。
残された作業は、一つ。
「——準備を進めよう」
斎宮は頷かなかったが、拒まなかった。
*
ノートを開いた。
研究の経過、接続条件、記録の残余。淡々と事実だけを書き、主観を排した。
最後のページに、僕は短いメモを残した。彼女だけに向けた暗号だ。
〈君が読む頃、僕はもういない〉
——本当は、その一文を書きたかった。だが紙に残る言葉は、未来を縛る。
僕は代わりに、数字だけを書いた。
祈なら、それを座標として読むだろう。僕と彼女だけが知る一点——手術灯の下の部屋へ通じる廊下だ。
視界の端で、祈が髪を束ねているのが見えた。
黒い輪ゴムを左手首に巻き、髪を梳き、静かにひとまとめにする。それは手順ではなく儀式の動きだった。
「眠っておくべきだわ」
「眠れない」
「眠れなくても、目を閉じることはできる」
祈は照明を落とし、培養室だけを残した。
僕たちは、ガラス越しに翠の光を眺めた。
冷たい色だと思った。
完成の瞬間に見た光は、奇跡の色だったはずなのに、今はただの深い水底のように見えた。
「怖くはないの?」
祈が言った。
「怖いさ」
「そうは見えない」
「どう見える?」
「静か」
僕は答えに迷い、言葉を探し、やめた。
言葉は、ときに汚れだった。
祈はユニットベッドに腰を下ろし、足元に毛布をかけた。
「契真」
名を呼ぶ声は、やわらかかった。
「あなたの選択を、私が止めることはできない。あなたが望むなら、その通りにすべき」
僕は息を呑んだ。
ついに彼女が理解してくれた——そう思ったのだ。
祈は続けた。
「でも一つだけ、間違ってはいけないことがあるわ」
「間違い?」
「あなたは、自分を捧げて世界を救うつもりでいる。でも違う。あなたは最初から世界なんて見ていない。あなたが見ているのは、あなた自身の理想像よ」
声は静かだった。責めても嘆いてもいなかった。ただの事実として告げられた。
僕は言い返そうとしたが、言葉が出てこなかった。
祈は続けなかった。僕の内側で、何かが軋んだ。
機械の呼吸音だけが、部屋を満たしていた。
やがて祈は目を閉じた。
「決行は、夜明け前」
「……ああ」
そのときまで、僕らに話すべきことはもう残っていなかった。
眠れない夜に似た時間が、透明な砂のように落ちていった。
*
夜明けは来ないはずだった。それでも、時計の数字は刻まれていく。
決行の刻限まで、十分を切った。
接続台の前に立つ。ケーブルは整列し、ポートは開かれている。
祈は何も言わなかった。ただ白衣の袖を折り、髪を結び直した。儀式の支度だった。
彼女の指は震えなかった。準備は、祈りの一部だった。
「ありがとう」
その言葉は空中で溶けた。意味はもう要らなかった。
オートインジェクターを手に、僕は祈の方を振り返った。
彼女は何も問わなかった。拒まなかった。表情は、静かなままだった。
——僕は、この沈黙を“信頼”だと思った。
「祈」
名を呼んだとき、彼女のまつげがかすかに揺れた。
「君は、生きるんだ」
僕は迷わなかった。
針が、皮膚を割る。
冷たい液が、血に沈む。視界の焦点がわずかに滲む。
祈が息を呑んだ気配がした。叫びはない。ただ、沈黙の密度だけが増した。
接続台が反応を始める。モニターのゲージが動き出す。
これでいい。これが第三の道だ。君を殺さず、世界を見捨てない。
僕はうなずいた。祈もまた、うなずいた——ように見えた。
その瞬間、翠が砕けた。
音は、一度だけ高く鳴った。
祈が培養フラスコを床に叩きつけていた。
ガラスの葬列。生まれなかった救済が、床を濡らす。
細い指から血が落ちた。彼女は痛みを、儀式の一部として受け入れた。
「……祈?」
声は自分のものではなかった。喉の奥でひび割れていた。
液の匂いが立った。消毒液と硝子の粉の混じる匂い。僕の舌が、再び金属になった。
祈は、こちらを見ていなかった。〈GENESIS〉の残骸を見下ろしていた。
指先から血が落ちた。ガラス片を握ったのだ。痛みを気にも留めていない。
それから、彼女は言った。
「世界は、あなたに従うものよ」
「従わない世界は、いらない」
断言は、祈りだった。
彼女は端末に歩み寄り、起動キーを踏み砕いた。
ケーブルを引き抜き、破断させ、通信ポートを裂いた。
火花が散り、機械の呼吸が乱れ始める。
「やめろ……祈、やめるんだ、それは——」
言葉が追いつかない。
理解が、恐るべき速度で胸を満たす。
彼女は狂っていない。これは“思想”だ。
救済を拒んだのではない。世界そのものを否定している。
——僕を奪う世界に、存在を許す理由はない、と。
僕は知っていたはずだった。
祈が誰より静かで、誰より冷たい意思を持つことを。
僕は——見誤っていた。
「僕は、君の神を殺そうとしていた」
言葉ではなく、事実だけが胸に落ちた。
僕は自分の選択を、正義だと思い込もうとしていた。
自己犠牲の裏に潜んだ自己像への執着を、彼女は見抜いていた。
世界を救うという言葉で自分を消毒し、その消毒液で彼女の祈りを薄めようとしていた。
警報が鳴り始める。
非常電源が落ちる前に、最後の灯りがひとつずつ消えていく。
砂嵐の画面が暗くなり、機械の数字が影になった。
祈は動きを止めた。
部屋の中央に立ち、静かに、ただそこに“在った”。
僕の呼吸は薄くなり、皮膚の下で異質な脈が広がる。細胞の奥で、名を持たない作業が始まっていた。
もしも、と考える言葉が浮かび、すぐ沈んだ。
もしも彼女が同意していたら。もしも僕が選ばなかったら。
——そのすべては、この部屋の外側の話だった。外側はもう、どこにもない。
祈は僕の方を見ないまま、ひとつだけ息を吐いた。
それは嘆きではなかった。祓いの呼吸だった。
彼女は、世界を浄めようとしているのではない。世界から僕を切り離すために、世界を葬っているのだ。
音が止む。
匂いが消える。
光が落ちる。
無。
(了)
器を割る祈り ―〈GENESIS〉―』 銀 護力(しろがね もりよし) @kana07
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