夜を越えて
四ノ羽 ガラス
夜を越えた街
夜半、ふと目が覚めた。
上手く眠ることが習慣から抜け落ちて久しい。
仕事にも、人との距離にも疲れ果て、毎日なにかがひと片ずつ自分から剥がれ落ちていく。
目を閉じても、眠気は何処かへと出ていってしまい戻らない。
ただ思考だけが鋭く回り続ける。
息をゆっくり吐き切ったとき、胸の奥で何かが小さくはじけた。
その瞬間、思い立ったように身体が動き、気づけば車のハンドルを握っていた。
ラジオも音楽もかけない夜の道。
行き先はない。
ひたすらどこか遠くへと行きたかった。
二時間ほど走ると、景色は見覚えのないものへ変わっていた。
車内は暖房が効きすぎていて、のぼせたような感覚に襲われる。
窓を開けると、頬をなぞる冷気が、自分の輪郭をわずかに取り戻してくれるようだった。
道の駅に車を停め、そのまま夜を越えた。
薄明りの差す翌朝、外へ出ると冷たい空気が肺に澄み渡る。
スマホのマップを見ると、三つも県境を越えていたらしい。
その街は、かつて父が「行ってみたい」とこぼした場所だった。
あるいは「いつか一緒に行くか」だったかーー正確な言い回しはもう覚えていない。
けれど、父がその街に惹かれていたことだけは不思議とはっきり残っていた。
父は三年前、癌でこの世を去った。
突然の電話。
「仕事中にすまんな」
そう切り出す声は、聞き覚えのあるはずなのに、どこか遠く感じた。
「明日、会社休めるか?」
理由は聞かず「休めるよ」とだけ言った。
翌朝迎えに行くと、父は家の前で立っていた。
「忙しいのにすまんな」と一言。
そして、天気でも語るような調子で続けた。
「癌なんだってさ。ステージ4らしい」
病院で医師から告げられた余命は半年だった。
そして、その半年は来なかった。
親孝行らしいことは、結局なにもできず、寄り添えると思っていた時間が、手の中で崩れ落ちていった。
そして今、ふとした夜の衝動に導かれるように、父が憧れた街に立っている。
車を走らせ、父が話していた神社を探す。
「並木道が綺麗なんだ」と笑っていた父の声が、不意に蘇る。
ナビは使わない。
胸の奥の疼きだけを頼りに進む。
大きな交差点で右折待ちをしていたとき。
視界を横切った赤い軽の運転席、その横顔に、胸が跳ねた。
――父に似ていた。
似ている、というより、体の記憶が先に肯定してしまったような感覚だった。
硬直した指先にクラクションが響き、ハッとアクセルを踏む。
そのままUターンして、赤い車を追った。
ほどなくして、コンビニの駐車場で車が停まる。
男が降り、歩き始める。
その背中に、僕はほとんど衝動のように駆け寄っていた。
振り返った男は、驚いたように目を細め、それから、懐かしい形の笑みを浮かべた。
「……つばさか。こんなところで会うとはな」
声が、あまりにも自然に僕の名前を呼んだ。
まるで昨日も顔を合わせていたかのような、なんてことのない調子で。
その声に、表情に、肩の力がふっと抜けた。
「仕事はどうした?」
「……休んだ」
父はくしゃりと笑った。
「髪ぼさぼさだぞ。風呂でも行くか」
二人で向かったのは古びた銭湯だった。
銭湯の湯気はゆるやかで、湯船に映る灯りが波形に揺れていた。
肩を並べて浸かる父は、昔と少しも変わらない気がした。
ただ、その輪郭をまじまじと確かめようとすると、湯気がふっと曇って見えなくなる。
湯上がりに父が言う。
「この近くにうまいラーメン屋があるんだ」
店の暖簾をくぐると、煮干しの香りが立ちのぼった。
昔ながらの醤油らーめん。
湯気の向こうに父の横顔が揺れる。
二人でラーメンを食べる、その沈黙すら懐かしかった。
「うまかった」
「だろう」
それだけで過不足はなかった。
午後の静かな時間。
腹ごなしにと、神社の並木道を歩いた。
揺れる木漏れ日が影を結ぶ。
父と歩くその一歩一歩が、過去と現在をそっと縫い合わせていくようだった。
「今日、どうする」
父がこちらをみる。
「泊まっていくか。布団ならあるぞ」
僕はちいさく首を振る
「……いや、帰るよ」
父は小さく笑った。
「そうか、久しぶりに楽しかったな」
帰り道
コンビニに寄り、ホットコーヒーを手渡すと、父は目元をゆるめた。
「ブラック、飲めるようになったのか」
「……昔からだよ」
父はゆっくり頷いた。
「そうか……大人になったな」
たわいない言葉に、胸が熱くなった。
遠くに駐車場が見えたときだった。
チャッ、チャッ、と規則正しい爪の音。
ふり返ると、そこにペロがいた。
十八歳で旅立った雑種犬。兄弟のように日々を過ごしていた、あの頃のままの姿でこちらへ一直線に走ってきた。
「……ペロ!?」
思わずでた声に反応するように、「ワン!」としっぽをふる。
ペロはそのまま、父の足元へ寄り添った。
「迎えにきてくれたのか」
父はしゃがみ、自然にその頭を撫でた。
その手つきだけが、時間の向こうからそのまま戻ってきたように見えた。
父がこちらを振り返る。
「こっちは楽しくやってるから、心配しなくて大丈夫だぞ」
喉がつまって返事ができず、ただ頷くことしかできなかった。
「……元気でな」
名残惜しさを言葉にする前に、そう言って父は軽く手を挙げた。
背を向けて、僕は声を張った。
「おれも!ーーちゃんと楽しくやるから!……安心して!」
ゆっくりと歩き出す。
「頑張れよ」
振り返ると、もう父とペロの姿はなかった。
ただ、遠くで「ワン」と一声だけ、風に溶けるように響いた。
茜の空を見上げる。
不意に涙がひと筋、頬を伝う。
それを拭わず、手のひらをそっと添えた。
涙は手の温もりと混じりながら、静かに肌へ馴染んでいく。
父の日々は、きっとこの街で続いていく。
それで十分だった。
車に戻ると、窓の外は淡い金色で満ちていた。
胸の奥のきしみが、どこかでゆっくりほどけていくのを感じた。
エンジンをかけると、静かに道路が開けていく。
夜を越えた街をあとにしながら、ふと気づいた。
――もう、大丈夫だ。
言葉にしなくても、その確かさだけが胸に残っていた。
僕の日々もまた、ここからゆっくり前へ進んでいく。
夜を越えて 四ノ羽 ガラス @Noisyboy
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます