私の在処(ありか)
銀 護力(しろがね もりよし)
私の在処・全文
〈仁-機〉
接触圧、7.8。音の代わりに数値が跳ねた。指先と培養器のガラス面が接合したことを示す。体温というパラメータを持たない私の身体(ボディ)は、対象物の熱量を感知しない。ただ、そこにあるという事実だけが、冷徹なデータとして流れ込んでくる。
私は、船沼仁だ。
そして、この生体溶液に満たされたガラスの向こう側で、静かに眠る「それ」もまた、船沼仁だった。
全身を蝕む進行性の自己免疫疾患。有機的な肉体は、私の意識と記憶を保存する基幹脳を収める器としては、あまりに脆弱すぎた。すべては、愛する妻、律子と共に生き続けるため。この選択が唯一の正解だと、今も信じている。
『私』のスペアとして眠るその肉体は、病に侵される前の、瑕のない私のレプリカ。私の大腿部から切除した組織片から再生された、空の器。計画では、本日14時をもって、このアンドロイドの身体に蓄積された私の全履歴を、あの眠れる肉体へと転送する。そうすれば、私は再び生身を取り戻し、律子の……その手の重さを、肌の匂いを、感じることができる。
転送シークエンスの開始を告げようと、私は口を開いた。合成音声が、かつての自分の声色を忠実にトレースする。
「頼む」
合図のように、ガラスの向こう側で、それまで安らかに目を閉じていた「私」が、ゆっくりと瞼をこじ開けた。焦点の合わない瞳が虚空をさまよう。そして、培養液の中で、その唇が微かに動いた。音にはならない。だが、私の視覚センサーは、その口唇の動きを一ミリの誤差もなく正確に捉えていた。
――りつこ。
心臓がないはずの胸の中心が、システムエラーに似たノイズに襲われた。ゴーストか?
「ドクター! サンプルBの脳波に覚醒反応! シナプス活動が臨界値を突破!」
若い技術者の声が響く。違う。そんなはずはない。あの肉体は、私の魂を受け入れるだけの、ただの美しい器のはずだ。
だが、ガラスの向こうの「私」は、今度ははっきりと、私を見ていた。その瞳には、戸惑いと、そして、確かな意志の光が宿っていた。
【倫理委員会回付メモ:事案073】対象:船沼仁プロジェクト。13:58、サンプルBに予期せぬ意識発現の兆候。プロトコルに基づき、レベル3警戒態勢に移行。
〈仁-生〉
温かい。
全身が、心地よい浮力に包まれている。瞼の裏で、律子の笑顔が明滅していた。そうだ、俺は病室にいて、彼女が俺の手を握ってくれていた。骨張ってしまった指を、彼女の柔らかく、陽だまりの匂いのする手が。
『仁さん、大丈夫。ずっと、そばにいるから』
その声が聞こえた瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。律子の手の感触がない。あの匂いもない。
何かがおかしい。
瞼が、鉛のように重い。こじ開けると、ぼやけた光が網膜を焼いた。ガラス越しに、人影が動いている。
――りつこ。
声を出そうとしたが、喉は動かず、代わりに意味のない泡が数粒、唇から漏れた。ここではないどこかへ。律子のいる場所へ。もがいた瞬間、足元から急速に「水」が引いていく。自らの肉体の、忘れていた重みが蘇る。
「ゴボッ…!」
口から培養液が溢れ、俺は生まれて初めてのように空気を求めた。灼けるような痛みが肺を貫き、肋骨の内側で心臓が狂ったように脈打つ。ドクン、ドクン、と全身に送り出される血液の熱い流れ。ああ、これだ。これこそが、生きているということだ。
霞む目で、状況を把握しようとする。無機質な研究室。白衣の人間たち。そして、ガラスの向こうに、男が立っていた。
息が、止まった。
それは、紛れもなく、俺自身の顔だった。だが、違う。その肌は血の気配がなく、陶器のように滑らかだ。瞬き一つしない瞳は、硝子玉のように冷たい。俺が、律子と共に生きるために、涙を飲んで選択したはずの、硬質な光を放つアンドロイドの身体。
混乱が、脳を焼き切る。
あれが、俺? ならば、今、ここで息をしているこの俺は――誰だ?
記憶が奔流となって押し寄せる。律子との出会い。プロポーズした日。病の告知。すべて、俺が経験したことだ。この肌も、この胸の痛みも、すべて俺のものだ。
ガラスの向こうの「私」と、目が合った。その瞳には、俺と同じ、純粋な驚愕が浮かんでいた。
RE: サンプルBの即時機能停止を勧告。人権団体からの問い合わせに備えよ。14:21 担当:影山
〈律子〉
冷たい合成皮革の椅子の上で、私は固く指を組んでいた。
予測不能の事態、という青ざめた技術者の言葉に導かれ、コントロールルームに駆け込んだ時、私は信じられない光景を目にした。
ガラスの向こうに、二人の夫がいた。
一人は、共に病と闘う日々を過ごした、静かな光を放つ機械の夫。
もう一人は、私の記憶の中にだけいるはずだった、温かい血の通う肉体を持つ夫。
責任者の影山博士が、私の隣に立った。その声は冷静を装っていたが、隠しきれない焦燥が滲んでいた。
「……奥様、ご理解いただきたい。これは予測不能のアノマリーです。このプロジェクトには国内外から多額の資金が投入されている。そして、予期せぬ意識体の発生は、倫理委員会が最も問題視する事態です。このままでは、今夜の理事会で計画の中止決定が下ります」
彼はガラスの向こうに視線を送り、苦渋の選択を迫るように続けた。
「オリジナルの仁様のデータを、安全に、そして完全に移植するためには、クリーンなブランク体が必要です。このエラー体を『リセット』し、再度培養プロセスに戻すことが、最も現実的で、確実な選択です」
「リセット…」私が繰り返す。
「……はい。そして、この個体から得られるデータは、今後の人類にとって計り知れない価値を持ちます。サンプル提供には全額返還と補償を提示します」
「ふざけるな!」ガラスの向こうで、生身の仁が叫んだ。「俺を物みたいに言うな! 殺すと言うのか! 律子! こいつらの言うことを聞かないでくれ!」
その懇願に、胸が張り裂けそうだった。
沈黙を割って、もう一人の夫が口を開いた。
「待ってください、博士」
アンドロイドの仁は、ガラスの向こうの、震える自分自身をまっすぐに見つめた。
「彼の存在が計画外であることは理解しています。そして、正統な船沼仁が、この私である事実も揺るがない。しかし、それを物のように『リセット』することには、同意しかねます。それは、私の姿だからです。私の現し身(うつしみ)だからです。私の尊厳を踏みにじる行為を、私自身が許容することはできない」
機械の身体から発せられた、あまりにも人間的な拒絶。それは、かつて私が愛した、優しく、そして頑固な仁の姿そのものだった。
生身の仁は、呆然と立ち尽くしていた。そして、崩れるように膝をつくと、初めて二人に助けを求めた。
「…わからない。俺が誰なのか、もうわからない…。だけど、俺はここにいる。怖いんだ。消えたくない。お願いだ…俺を、保護してくれ」
私は、もう選べなかった。選ぶことなど、できなかった。
「博士」私はマイクに向かって、はっきりと告げた。「彼はあなたの言う『エラー』や『サンプル』ではありません。私の、夫の一部です。私は、大事な仁の一部たりとも、もう失いたくないのです」
〈律子〉
私たちの、あまりにも奇妙で、哀しい三人の暮らしが始まった。
家の中は、あの研究室の消毒臭が消えぬまま、奇妙な均衡で満たされていた。
それは、一つの身体が担っていた役割を、二つに引き裂くような日々だった。家の修繕や力仕事、そして、私が作った肉じゃがを「美味しい」と心から味わってくれるのは、生身の仁。彼の体温は、この家の失われた熱を取り戻してくれたように見えた。一方で、家計の管理や情報の検索、そして私の他愛のない相談に、常に精緻な答えをくれるのは、アンドロイドの仁。彼の冷静な思考は、未来への不安という霧を払ってくれるようだった。
私は、その引き裂かれた間を、綱渡りのように行き来していた。
秋が深まり、街路樹の葉が赤く染まった、ある日の夜だった。
生身の仁が、ビーフシチューを再現してくれた。キッチンに立つ彼の背中は、病に倒れる前の、頼もしかった頃の夫そのものだった。
「どうかな? あの店の味、思い出せる?」
彼は誇らしげに言ったが、ソファに座っていたアンドロイドの仁が、静かにその記憶の間違いを指摘した。ビーフシチューは二回目のデートであり、最初のデートはイタリアンだった、と。
スプーンの落ちる、高い音がした。生身の仁の顔から、血の気が引いていた。
「…そう、だったか…?」
彼は、寂しそうに笑った。「ごめん、律子。俺の、勘違いだったみたいだ…」
その顔を見て、私の胸に、鋭い痛みが走った。
「いいのよ。そんな、昔のこと」
私は、生身の仁の温かい手を、そっと握った。
「あなたが作ってくれたことが、何より嬉しいわ」
その時、視界の隅で、アンドロイドの仁の指先が、ぴくりと微かに動いたのを、私は見逃さなかった。まるで何かを掴もうとして、ためらうような、ほんの半動作。すぐに、その手は元の位置に静止した。
その一件以来、生身の仁は昔の話を避けるようになった。その痛々しい姿に、私はある夜、思い切って声をかけた。彼を元気づけたくて、私たちの原点である、プロポーズの日の思い出を。
「ねえ、仁さん。覚えてる?」
「もちろんさ」彼の顔が、ぱっと明るくなる。「あの夜景の綺麗な丘の上だろ? 緊張して、指輪のケースをなかなか開けなかったんだ」
彼は、とても幸せそうに、その光景を語った。
しかし、私の心は、急速に冷えていくのを感じた。
「…違う」
私の唇から、か細い声が漏れた。
「違うわ、仁さん。全然、違う」
本当のプロポーズの日は、土砂降りの雨だった。
丘へ向かう途中で車が故障し、私たちはびしょ濡れで立ち往生した。計画は台無しになり、彼は車の中で、惨めな顔で「こんなはずじゃなかった」と謝りながら、泥のついた指輪のケースを私に差し出したのだ。あの日の雨と、湿った土の匂いこそが、私たちの始まりの証だった。
「雨…?」
生身の仁は、私の言葉に、ただ戸惑うばかりだった。「そんなはずは…。僕の記憶では、星が…」
その瞬間、私は悟ってしまった。
彼の記憶は、「幸福だった」という細胞の強い情動だけを再構築した、美しいだけの幻なのだ。共に乗り越えたはずの困難や、惨めさ、そしてそれを笑い飛ばした絆の履歴が、そこには完全に欠落している。
この人は、私の夫の喜びだけを宿した、全くの別人なのだ。
〈律子〉
冬の匂いがし始めた頃、私は高熱を出して寝込んでしまった。
燃えるように熱い身体。意識が朦朧とする中で、私は夢を見ていた。
まだ彼が一人だった頃の、古い記憶。私がインフルエンザで寝込んだ日、夫は慣れない手つきで、でも的確に私を看病してくれた。私の好きな林檎をすりおろし、薬の時間を間違えないように何度も説明書を読み返し、そして、熱でうなされる私の手を、ずっと、その一つの温かい手で握りしめてくれていたのだ。
『大丈夫。僕がついてる』
その声は、優しくて、そして、どこまでも頼もしかった。
はっと目を覚ました時、枕元に涙の跡ができていた。
夢の中の夫の寝息は、すぐ隣にあった。今は、ない。代わりに、この家には二つの静寂がある。温かい沈黙と、冷たい無音。温かい沈黙は布団の皺に、冷たい無音は換気口の奥にたまっていた。
ベッドの脇には、二人の仁がいた。
生身の仁が、私の手を固く握りしめている。その手の熱が、心地よい。しかし、彼の瞳には心配と、どうすればいいか分からないという不安が浮かんでいる。
「薬を飲まないと…。ええと、確か食後に二錠だったか? いや、一錠だったか…?」
少し離れた場所には、アンドロイドの仁が立っていた。彼は室内の環境を最適化し、私のバイタルデータを監視しながら、淡々と告げる。「解熱鎮痛剤の経口投与は、食後三十分。適量は一錠」。その判断力は、頼もしい。
けれど、彼の手は、私の手を握ってはくれなかった。
ああ、と私は悟った。
温かい手は、泥まみれの雨の日も、薬の量も覚えていない。
頼もしい頭脳は、温もりを持たない。
かつて、私が愛した「ただ一人の船沼仁」という、不完全で、それでも完璧だった存在は、この二つに引き裂かれ、もう世界のどこにもいない。
私は、二人に向かって、かろうじて微笑んでみせた。
「ありがとう。二人とも」
心からの感謝だった。そして同時に、それは、永遠のさよならの言葉でもあった。
〈律子〉
その日は、私と仁の、十二回目の結婚記念日だった。
朝、テーブルには、生身の仁が買ってきてくれた、白いガーベラの花束が飾られていた。私の好きな花。けれど、昔、私が本当に好きだと言ったのは、もう少し色の淡い、クリームがかった品種だった。病室で、カタログを見ながら「退院したら、この花を飾ろうね」と約束した、あの花。その約束の記憶は、幸福な日々の大きな流れの中に溶けて、消えてしまったらしかった。
夜には、アンドロイドの仁が、初デートの夜景を壁一面に映し出した。寸分の狂いもなく再現された、精緻な星空。それは見事だったけれど、美しい壁紙のように、そこに在るだけの静けさだった。
二人の優しさが、刃物のように私の心を切り裂いていく。
一人は、温かい感情で、しかし不確かな記憶で私を愛そうとする夫。
もう一人は、瑕のない履歴で、しかし感情の熱を失ったデータで私を愛そうとする夫。
どちらもが、必死に「船沼仁」であろうとしてくれている。そして、その必死さが、私の愛した「ただ一人の船沼仁」が、もうどこにもいないという事実を、残酷なまでに証明していた。
もう、限界だった。
私は、「少し、昔のアルバムが見たくなったの」とだけ告げて、リビングを後にした。屋根裏の物置部屋へ向かう。埃と、古い紙の匂い。段ボール箱の中から、一冊のアルバムを取り出す。
ページをめくると、そこに、彼がいた。
少し日焼けした肌で、不器用そうに笑っている、ただ一人の船沼仁。
その時、かつて仁が雑談のように話してくれた、二つの哲学の物語が、答えとなって、心に落ちてきた。
ひとつは、「テセウスの船」。
病によって部品をすべて交換され、元の木材を失った船。それは、共に苦しみを乗り越えた歴史だけを抱く、アンドロイドの彼。
もうひとつは、「スワンプマン」。
沼から生まれ、元の人間と寸分違わぬ姿を持ちながら、その歴史を持たない男。それは、幸福な記憶の幻だけを宿し、泥の雨の日を知らない、生身の彼。
私はずっと、どちらかが本物の夫なのだと信じようとしていた。けれど、違ったのだ。
元の船は、もう世界のどの海にも浮かんでいない。
本当の彼は、病という嵐が過ぎ去った時、もうこの世から消えてしまっていた。
私は、その色褪せた一枚の写真を、そっと指でなぞった。
写真の裏に、彼の少し癖のある字で、短い言葉が書かれていた。
――次は、記念日を間違えないように!
そうだ。この写真は、記念日の一週間前に、彼が勘違いして撮ったものだった。瑕のない履歴を持つアンドロイドの彼も、幸福な記憶しか持たない生身の彼も、この小さな、愛おしい失敗の記憶は持っていなかった。
私が愛したのは、この不完全さだった。
私は、写真の中の夫に、そっと語りかけた。
それは、私の魂が、ずっと帰りたかった場所への、挨拶だった。
「ただいま、仁さん」
リビングでは、花束を抱えた夫と、星空を映す夫が、私の帰りを待っている。
けれど、私の本当の夫は、もう、この小さな写真の中にしかいない。
私の在処は、もう、ここにしかない。
屋根裏の静寂に、階下から、あの日の音楽が幻のように、微かに滲んでいた。湿った紙と消毒臭が混ざる。
(了)
私の在処(ありか) 銀 護力(しろがね もりよし) @kana07
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