公園のブランコ

@isshobouzu

公園とブランコ

 俺には、好きな人がいる。

 同じクラスの女子で、名前を聞けば誰でも「ああ、あの子ね」と分かるくらいには目立つ存在だ。


 その子は、女子の中でもよくしゃべるほうだった。授業の合間や休み時間、友達と机をくっつけて話しているときの声はよく通っていたし、自分の考えをはっきり言う。誰かの発言に「それは違うと思う」と感じたときも、嫌味っぽくならないギリギリのところで、自分の意見をちゃんと口にする。

 それでいて、基本的には人の顔色を見ているわけでもないのに、相手が傷つかないように言葉を選んでいるのが分かるようなところがあった。


 朝のホームルーム前、窓側の列でその子はいつも同じグループの女子たちと机を寄せて話していた。肩くらいまでの黒髪を耳にかけたり下ろしたりしながら、身振りを交えて何かを説明している。笑うときに少し目尻が下がるのと、話を聞いている友達の顔を一人ずつ順番に見ていく癖があった。

 俺はドアに近い一番後ろの席に座って、教科書を机に出すふりをしながら、その横顔をたまに盗み見る。教室の蛍光灯が、彼女の頬の輪郭と首筋を白く照らしている。彼女の机の上のシャーペンやノートの並び方、椅子の座り方、そういう細かいものが視界の端に勝手に入ってきた。


 正直、いつから「好き」になったのかは自分でもよく分からない。

 それまでも、かわいいなと思う女子は何人かいたし、クラスに一人はいる「ちょっと気になる子」くらいの存在はいた。でもそれは、昼休みに廊下ですれ違ったときに、「あ、今日もかわいいな」くらいで終わるような、特に深く考えたことのない感情だった。

 彼女に関しても、クラス替えで初めて顔を見たときはその程度だったはずだ。

 視界の端で何度か見かけて、「よくしゃべるし、はっきりものを言うわりに、あんまり嫌味に聞こえないな」と思ったくらい。席が近いわけでもなく、グループもまったく重なっていなかったから、話したこともほとんどなかった。


 俺はもともと、後輩程度ならともかく、同級生の女子と軽く話せるようなタイプではない。

 所属しているのは、俺も含めむさ苦しい男子しかいないコンピュータ部。俺はその中でもほとんどプログラミングができない側の人間だった。書籍を買ってきて一度は真面目に勉強しようとするのに、途中で飽きてゲームを立ち上げてしまうような人間だ。

 一方で、同じ部の友達は、授業中にノートの端にコードを書いては「これコンパイル通った」とか言っている熱心なタイプのオタクで、俺はそいつの話を聞きながら、心のどこかで嫉妬に似たものを抱えることは多かった。部室ではアニメやゲームや漫画の話で盛り上がるのが大半で、俺もその輪の中ではそれなりにしゃべるけれど、そこから先の世界に出ようという気力はあまりなかった。


 とにかく、そんな俺が彼女と初めてまともに接点を持ったのは、新学年の初め頃だった。

自転車通学の帰り道、学校から駅へ向かう長い坂道だった。

 その日は少しだけ急いでいた。家に帰ってゲームの続きがしたかったのか、遊ぶ約束を思い出して焦っていたのか、理由はもうよく覚えていない。ただ、サドルから尻を離して立ちこぎで、いつもより少し速いスピードで坂を下ったのは確かだ。

 前かごに入れたカバンの中で教科書やノートが揺れていた。その時、チャックを締め忘れたカバンに気を取られてブレーキを握る指の力が少し緩んみ、前を見るのが遅れた。

 視界の先にある曲がり角のブロック塀が、思ったよりも近く、ハンドルを切るタイミングが遅れて、自転車の前輪が斜めにぶつかった。


 衝撃でハンドルから手が離れ、足がペダルから外れて、左膝からそのブロック塀に激突した。膝とコンクリートがぶつかった瞬間、鈍い痛みが脛のほうまで一気に広がったのを覚えている。

 自転車はそのまま横倒しになり、チェーンカバーが道路と擦れた。投げ出された。俺はそのまま地面に転がり、倒れ込んだ。膝を押さえたまま、地面に片手をついて呼吸を整えた。膝のあたりが熱くて、学生服のズボンの布が貼りついている感覚があった。

 膝が焼けるように痛かった。足に力を入れようとしても、膝から下が自分のものじゃないみたいに重くて、何度か起き上がろうとしては、片手をついたまままた座り込んだ。俺自転車は少し離れたところで倒れていて、前輪がゆっくり回っていた。


 しばらくその場で膝を抱え込んでいると、後ろから自転車の音と足音が近づいてきた。


「大丈夫?」


 少し息の上がった声がして顔を上げると、制服のスカートの裾と、そこから伸びた足が視界に入った。見上げると、そこにその女子が立っていた。

 彼女は自転車を道路の端に寄せながら、もう一度俺の顔を覗き込んだ。


「動ける?」

「……いや、無理」


 声に出してみると、自分でも情けないくらい掠れていた。

 彼女は一瞬だけ周りを見回してから、


「ちょっと待ってて。先生呼んでくるから」


 そう言って、学校のほうへ駆けていった。

 時間の感覚は曖昧だが、しばらくしてから、体育教師が走ってきて、俺の肩を貸してくれた。

 「痛むか?」とか、「頭は打ってないか?」とか、いくつか質問されて、俺はそのたびに短く答えた。彼女は少し離れたところでその様子を見ていて、俺と目が合うと少し目を逸らした。それが、はっきりと覚えている光景だ。

 その後のことは、保健室に運ばれて応急処置を受けて、親に連絡がいって、病院に行った、という一連の流れとしては覚えているが、細かい会話まではもう曖昧だ。彼女がどこまで付き添っていたのかも、ぼんやりとしか覚えていない。

 数日病院と家を往復する生活をしたあとで、俺は松葉杖をついて学校に戻った。


 教室のドアを開けた瞬間。普段は俺なんかに興味ないはずのクラスメイトが、何人かまとめてこっちを見ている。席に座っていた連中が立ち上がって近づいてきて、口々に「え、マジ?」「どうしたんそれ」「大丈夫だった?」と聞いてくる。

 その「大丈夫だった?」は、本当にそう思っているのか怪しい。心配というより、珍しいものが教室に運び込まれてきたときの反応に近い。普段は仲良し集団で固まって騒いでいるような陽キャの連中が、珍しい事件の中心にいる俺に、面白いものを見るように声をかけてくる。

 まあ、注目されることがほとんどない俺にとっては、不快というよりもその視線を少しだけくすぐったく感じたが。


 遠くから眺めているだけの連中もいた。自分の席からこちらを見て、何かをひそひそ話しているやつら。

 俺には、恥ずかしさと、こんなふうにクラスの真ん中に自分がいることへの奇妙な高揚感が、半々くらいで胸の中にあった。

 その中に、あの女子もいた。

 彼女は他の女子と並んで座っていて、俺のほうを一度ちらっと見ただけで、別に近寄ってくるわけでもなかった。その視線も、他の大勢と同じように”珍しいものを見る目”の一つに混ざっていた。


 それでも、俺は内心で「お礼くらい言わないと」と思っていた。

 ただ、その機会をなかなか作れなかった。授業前後の教室はいつも騒がしくて、彼女の周りには必ず誰かがいる。彼女だけが一人でいる時間というのは、意外と短い。

 何日かそうして過ごしているうちに、「今日こそ言おう」と思った日がいくつか無言のまま終わっていった。

 数日たったある休み時間、廊下を歩いていたら、前から彼女が一人で歩いてくるのが見えた。

 教室と教室の間の、人通りが一瞬だけ途切れる場所だった。

 俺は松葉杖をついたまま歩く速度を少し落として、すれ違いざまに口を開いた。


「あのさ、この前はありがとう」


 ほとんど一息で言った。声は自分で聞いても情けないくらい小さかった。だが彼女には届いたらしい。

 彼女は立ち止まり、首を少しかしげてから「ああ」と思い出したような顔をした。


「あー、いやいや。私、先生呼んだだけだし」


 そう言って、俺の足元を一瞬見た。


「早く良くなるといいねー」


 彼女は軽い調子で笑った


「うん、ありがとう」


 そこまで言ってしまうと、それ以上何を続ければいいのか分からなくなって、俺はその場を離れた。

 背中に彼女の視線がついてきているのかどうかも確かめないまま、近くの曲がり角を曲がってしまう。胸の奥が少し熱くなっていた。


 振り返れば、その数日のどこかで、俺は確実に彼女のことを「好きだ」と自覚するようになっていたはずだ。ただ、その瞬間がいつだったのかはよく分からない。

 痛む膝を抱えて保健室のベッドに寝転んでいたときか、松葉杖で教室に入ったときに彼女と目が合った瞬間か、それとも廊下ですれ違ったときに短く言葉を交わしたあのときか。どの場面を思い出してみても、「ここから」という線を引くことができなかった。


 ただ一つ確かなのは、それからはその女子のことが気になって、授業中やそれ以外の時間も周りなんか俺のことそんなに気にしてないはずなのに、周りにバレないように気を配りながらその子を目で追うようなったということだ。



 それからの毎日は、彼女が頭の中にいること以外、大体いつも同じだった。

 朝にぎりぎりの時間に家を出て、眠い頭のままホームルームを受けて、退屈な授業をだらだら聞きながら、ノートを半分だけ埋める。黒板を写すのに飽きると、前のほうの席にいる彼女の頭のあたりをぼんやり眺める。髪を後ろで結び直す仕草とか、プリントを配るときに教卓の横に立って先生と話している横顔とか、そういうのばかりが目についた。


 俺は宿題が嫌いだった。

 国語のワークも、数学の問題集も、期限までに全部終わらせることはほとんどなかった。提出日が近づいてきてもゲームをやめられず、夜になってから教科書を開いてページ数の多さにうんざりしながら、途中でまたコントローラーを手に取ってしまう。結局、次の日の朝に早起きして、寝ぼけた頭で空欄を数字と文章で埋める。答えを考えるというより、ページを汚しているだけに近かった。

 「宿題やれよ」とか「この前も提出してなかったぞ」とか、そういう言葉は、担任にも教科担当にも、何度も言われてきた。言われるたびに「はい」とは答えるけれど、その「はい」に中身はない。

 授業中に当てられると、教科書のどこを読めばいいか分からなくて詰まる。教師にため息まじりで注意され、家に帰れば親に成績表を見せられて「もっとやればできるのに」と言われる。やればできる、という言葉が、やらないことの言い訳みたいに聞こえて、余計に机から離れたくなった。


 放課後はだいたい部活かゲームだった。

 コンピュータ部の部室で、できるやつらが画面いっぱいに意味の分からない英単語を並べている横で、俺はネットのフリーゲームを開いたり、スマホでソーシャルゲームのスタミナを消費したりしていた。ときどき、友達が作ったゲームの動作テストをやらされて、バグを見つけたら教えてくれと言われる。そのときは少しだけ役に立てた気がして、妙な達成感があった。


 そんな生活の中で、俺は少しずつ彼女に話しかける機会を自分で作ろうとした。

 といっても、誰から見ても”アプローチ”とは呼べないような、薄い接触ばかりだった。

配られたプリントに名前が載っていないとき、「これ、俺の分ある?」と近くを通りかかった彼女に声をかける。小テストが返ってきたあと、たまたま彼女が近くにいたときに「難しくなかった?」と聞いてみる。廊下ですれ違ったときに、向こうから「松葉杖、もう取れたんだ」と言われて、「うん、まあ」と返す。

 一つ一つは、本当にその場で終わるような短い会話で、後から思い返さなければ記憶にも残らない程度のものだ。それでも、その度に心拍数が少しだけ上がって、返ってきた言葉を何度も頭の中で再生した。


 俺はアプローチはしたいくせに、本人や周りにバレるのは怖かった。

 だから、周りと同じくらいのテンションで話すようにしたり、彼女から話しかけられても、”別に意識してませんよ”という顔をして返してしまう。


 そうやって、自分なりにギリギリの小さな勇気を出したり引っ込めたりするのを繰り返していた。



 そんなある日、教室の空気の中で、彼女の声がいつもよりよく耳に入ってきた。

 いつもの友達と話していると思っていたが、ふと視線を向けると、そこにいたのは男子だった。


 そいつは、運動部の男子だった。

 身長が高くて、肩幅も広い。ブレザーの下のシャツの胸のあたりが少し張っていて、体育の授業のときにはジャージの上からでも腕や足の筋肉が分かる。顔は特別イケメンというほどではないが、並んで歩いていて恥ずかしくないくらいには悪くない。

 教室ではよく喋るほうで、授業中に先生へ意見を言ったり、ふざけ半分のツッコミを入れたりして、ひとまず「気が強いノリのいいやつ」みたいなラベルで見られているタイプだと俺は感じていた。


 ただ、俺の中での評価は最初からあまり高くなかった。性格だけが、俺にはどうにも引っかかった。

ホームルームの前、そいつは前の席の集団と部活や試合の話をしていることが多かった。


「いや、昨日さ、部活でさ――」


 そういう入り方で始まる話は、だいたい部活仲間のプレーのことか、練習で誰がどれだけ走ったとか、先生にどれだけしごかれたとかだった。

 声が特段大きいというわけではないが、運動部のやつら特有のよく通る声が何人分も重なって、教室の隅まで響く。

 教室の中で「あそこでしゃべってるグループ」の中心にいる感じはあった。


 ある日、あまりの試験の平均点の低さに、数学の教師が一コマ丸ごと説教に使った授業の後、廊下の曲がり角で、そいつのデカい声が聞こえた。


「いや、ああいうさ、テスト前でもずっとゲームしててさ、宿題出してない感じのやつは、正直どうなんって思うんだよな。別に趣味でパソコン触るのはいいんだけどさ。やることやってからにしろよって感じ」


 言葉だけ聞けば、筋の通った説教みたいな内容だった。笑い声も、誰かを完全に馬鹿にしているというより、「あいつらホントもったいねーよな」と残念半分、皮肉半分のトーンだった。

言われている本人、俺としては、どこかざらっと引っかかるものがあった。


 そいつは部活の仲間には逆にやたら仁義が厚くて、後輩のプレーをよく褒めるし、試合でミスしたやつの肩も叩いて励ます。だが練習をサボろうとするやつにはキツく怒り、いじられキャラみたいなポジションのやつにはキツい冗談を飛ばす。

 クラスでは「ちょっと気が強いけど、根はいいやつ」という立ち位置で通っていて、実際そうなんだろうと俺にも分かってはいた。それでも俺は、そうやって正しさの線をはっきり引いて、線の外側にいるやつをきっぱり評価する感じが、どうしても好きになれなかった。


 最初は、たまたま席が近いからだろうと思っていた。

 席替えのあと、彼女とそいつが斜め前後くらいの位置関係になった日、授業前の数分、彼女が振り向いてそいつに何か話しているのが見えた。笑っている。そいつも笑っている。

 教科書を開きながら、俺は視線をそっちに向けないふりをして、机の端からこっそり二人の距離を測っていた。

 休み時間にも、プリントを見せ合ったり、テストの点数の話をしたりしている。


「え、なにそれ凄っ」


 彼女の明るい声が聞こえるたびに、胸の中のどこかがざわついた。


 “たまたまだ”と、自分に言い聞かせる。

 クラスメイト同士なんだから、話すことくらい普通だろう、と。

 実際、彼女は誰に対してもわりとフラットに話すタイプだった。人見知りとは無縁で、新しく転校してきたやつにも、最初に笑顔で話しかけるような性格だ。


 その「普通さ」を知っているのに、あの男と話している姿だけが妙に引っかかる。

 そういう日が、週に一度だったのが、いつの間にか週に二度、三度と増えていくような感覚があった。


 それでも俺は、自分なりに小さな会話の機会を探し続けた。

 掃除の班が同じ日には、バケツの水を替えに行くタイミングを合わせて、「さっきの授業、みんな寝てたよね」と話しかける。

 図書室の前で偶然会ったときには、「何借りるの?」と聞いて、「この前借りた小説が面白かったから、その続き」と返されたら、「へえ、そういうの読むんだ」と、どうでもいい感想を付け加える。

 彼女は、クラスメイトとしては十分すぎるくらい普通に返事をくれた。「だね」「分かる」「それはそうかもね」と、表情を変えながら相槌を打ってくれる。それ以上踏み込むことも、こちらの言葉に特別な意味を乗せて返してくることもない。


 俺は、その「普通さ」に勝手に悩んだ。

 向こうからすれば、クラスメイトの一人に過ぎない俺が話しかけてきたから、当たり障りなく返しているだけだろう。俺が勝手に意識して、勝手に期待して、勝手に落ち込んでいるだけだ。

 その一方で、彼女と例の男子が話している場面を見かけるたびに、胸の奥が重くなるのを感じた。



 そして、ある日の放課後。


 部活が終わって、コンピューター室の電気を消し、鍵を職員室に返したあと、俺は校舎の裏側にある自転車置き場へ向かっていた。

 夕方の校庭には、まだいくつかの運動部が残っていて、掛け声や笛の音が風に混じっていた。空はすっかり薄暗くなっていて、校門のほうには帰宅する生徒の列ができている。


 自転車置き場から校門のほうへ出る細い通路を抜けるとき、ふと前方に見慣れた後ろ姿が見えた。


 彼女と、その男が、並んで歩いていた。


 二人とも学生鞄を片手に持って、校門の外の信号のほうへ向かっている。

 ほんの少しだけ彼女の歩幅のほうが小さいらしく、そいつが気づかないうちに半歩分スピードを落としているように見えた。そのわずかな足の運び方だけで、俺には二人の距離が、教室で見るよりも近く感じられた。


 俺は思わず足を止めた。


 「ああ、そういうことか」と一瞬で理解しそうになって、すぐにそれを打ち消した。

 いや、たまたま方向が一緒なだけかもしれない。同じ駅を使っているだけかもしれない。まだ決まったわけじゃない。


 そう思おうとする一方で、胸の奥から別の声がせり上がってくる。


 なんで”あんなやつ”なんだよ。


 俺は自転車のハンドルを握ったまま、その二人の背中を、しばらく遠くから見ていた。



 家に帰っても、その後ろ姿が頭から離れなかった。


 ゲーム機の電源を入れても、手は動いているのに画面の中身があまり入ってこない。主人公キャラが何度やっても同じところでやられて、そのたびに、さっき見た二人の歩幅と、信号待ちのところで少しだけ顔を近づけて話していた横顔が、勝手に重なってきた。


「まだ決まったわけじゃない」


 コントローラーを握り直しながら、自分にそう言い聞かせる。

 方向がたまたま同じなだけかもしれない。同じ沿線に住んでるだけかもしれない。

 そうやって、夜になっても何度も言い訳を頭の中で並べて、それを信じきれない自分に苛立ちながら、その日も宿題をほとんど手つかずで寝た。



 それからも、俺は諦めずに、というか、諦めきれないまま、でも相変わらずアプローチとも呼べない程度の距離から少しずつ彼女に話しかけるようになった。


 休み時間に、配られたプリントの内容を確認するふりをして、


「これって、次の授業までにやるやつだっけ」


 と訊ねてみる。


「うん。ここまでノートにまとめといてって言ってたよ」


 彼女は当たり前のように笑顔でそう答える。その声の調子も、他のクラスメイトと話しているときと変わらない。


 掃除の時間、たまたま同じ班になったときも、


「ほうきそっちある?」


 と聞かれて、「あ、これ」と渡す。

 その程度のやりとりでも、俺の中では一つひとつが特別な出来事として積み重なっていった。

 彼女からすれば、きっと「クラスの一人」として話しているだけなんだろう。

 それは分かっているのに、返ってくる反応が普通であればあるほど、「俺のことなんか別に何とも思ってないんだろうな」と、勝手に落ち込んでいた。


 そうやって彼女と交わす短いやりとりを、一人で何度も再生しては、「今の返しはよかったか」「もっと話を続ければよかった」と反省会をしている一方で、あの男と彼女が話している場面にも、嫌でも目が向いた。

 授業前、彼女が振り向いて、そいつに

「昨日の試合どうだったの?」

と聞く。

「いや、普通。勝ったけどさ。俺はあんま出てないし」

と言いながら、そいつはどこか照れたような笑い方をする。

「でも結果勝ったんでしょ。すごいじゃん」

「まあ、チームがな」

そんな他愛のないやりとりを聞くだけで、胸のどこかがきゅっと縮む感じがした。


 彼女に話しかけるたびに、「友達としてもまだ全然距離縮められてないな」と思わされる。

 そして、そのたびに、あの男のことを思い出す。



 直接そいつと関わることは、元々あまりなかった。

 クラスも同じで、体育も一緒の時間帯があるのに、俺とそいつの間には、自然と会話が発生するような共通点がほとんどない。

 それでも、一度気になると、ちょっとした場面がいちいち目につく。


 体育のバスケの授業で、同じチームになったとき。

 ポジションもルールもよく分かっていない俺は、とりあえずコートの端のほうでボールの行方だけを追っていた。たまたまボールがこっちに回ってきて、受け取ったはいいものの、次のパスをどこに出していいか迷って地面にボールを弾ませてるうちに、相手のディフェンスに囲まれる。


「おい!早く出せって」


 そいつの声が背中のほうから飛んできた。

 焦って投げたボールは変な方向に飛んでいき、あっさりカットされる。


「ちっ……たく」


 タイムを取ったときに、そいつは俺のほうを見て、舌打ちをする。

 俺がそれに反応して目を細めると、しまったという顔で口元に手を当て、視線を俺の足元に付近に下げ


「あぁ……悪い、さっきちょっときつく言った。別に怒ってるとかじゃないから」


 とわざわざ言いに来た。


「……いや、俺が下手なだけだし」


 そう返すと、


「まあ、次はもらったらすぐ誰かに返せばいいよ。無理にドリブルしなくていいから」


 たぶん、周りから見れば、「ちゃんとフォローできるいいやつ」なんだろう。

 その場にいた何人かも、「○○、ちゃんと周り見えてるよな」と笑っていた。


 だけど俺の中には、さっきのあの言い方が強く残る。

 声のトーン、タイミング、こちらを見た目の鋭さ。

 その全部を、俺は「彼女と話しているときのそいつ」と勝手に比べて、余計に自分が線の外側にいるような気持ちになっていた。


 俺は、そんなふうにそいつの一挙一動を勝手に拡大しながら、「やっぱり嫌いだ」「なんであんなやつが」と何度も再確認していた。好きだったその子に対しても「がっかりだ」という気持ちが頭の中に浮かんでは消えた。

 好きな女子がそういうやつを選ぶ世界そのものが間違ってる。そう頭の中でぐるぐる反芻していた。



 時間は相変わらず普通に流れていく。


 季節が少し進んで、部活の空気も、テストや行事の合間にだらっとした日が増える。

 その日のコンピューター部も、特に予定していた作業がなくて、部室ではそれぞれが勝手にキーボードを叩いたり、動画を見たりしていた。


 誰かが急に椅子の背にもたれながら言った。


「なあ、最近カップル増えてないか?」


 その一言で、部屋の空気が少しだけ変わる。

 「まーたそれかよ」と笑いながらも、何人かはすぐにノってきた。


「この前見たぞ、昇降口で手つないでたやつら」

「二年の――と――でしょ。それ有名じゃん」

「三年の先輩でさ、体育館裏でいつも一緒にいる人たちいるじゃん」


 いろんな名前が次々に出てくる。

 俺は画面のコードを眺めるふりをしながら、その会話を聞き流していた。


「でさ、うちのクラスだとさ──」


 そこで、俺の指がキーボードの上で止まった。


「○○と△△、あいつら付き合ってるって話、聞いた?」


 クラスメイトの名前が、あの男と、あの女子の名字として、はっきりと部室の空気の中に置かれた。


「マジで?」

「やっぱそうなんだ」


 部室のあちこちから、面白がるとも冷やかすともつかない声がいくつか上がった。

 誰かが「いや、でも本人たちに言ったらキレられそう」みたいなことを言って笑いが起きる。

そのあいだも、俺の指はキーボードの上で止まったままだった。


 画面には、さっきまで友達が組んでいたゲームのコードの一部が映っている。カーソルは点滅しているのに、そこから先に何を打とうとしていたのか思い出せない。


「……へえ」


 自分でも驚くくらい、薄い声が勝手に漏れた。

 聞こえたやつがいたのかどうかも分からない。部屋の中ではまだ、他のカップルの話題に移っている。


「三組のあの二人もさ」

「ああ、あいつらは確定だろ」


 誰の名前も頭に入ってこなかった。



 その日の部活は、特に区切りもないまま終わった。

 顧問が顔を出して「そろそろ施錠時間だから片づけろよ」と言い、みんなが椅子を鳴らして立ち上がる。


「お前、今日帰りどうする? ゲーセン寄ってかない?久々にクレーンゲームやりたくなってさ」


 いつものように友達が聞いてきたが、口が思うように動かなかった。


「……悪い、今日はいいや。ちょっと用事あんだ」


 そう言うと、友達は「あっそ」と特に深く聞いてこないで、自分の鞄を肩にかけた。

 パソコンの電源を落として、窓の鍵を確認して、部室を出る。その一連の動作は、いつもどおりのはずなのに、どこか他人の真似をしているみたいな感覚があった。


 校舎を出ると、空はすでに暗くなりかけていた。

 グラウンドの隅では、まだ一つだけ部活が残っていて、掛け声とホイッスルの音が空に散っていく。


 靴箱で上履きを脱いでいるとき、ふと、さっき聞いた名前が頭の中で並んだ。

 彼女の名字と、あの男の名字。

 何度も頭の中で巡らせてきた組み合わせが、「付き合ってる」という一言とくっついた瞬間から、全く別のものに変わってしまった気がした。


「……付き合ってる、ね」


 声に出してみても、意味の実感はあまり湧かない。

 ただ胸のあたりに、重い石を押し込まれたような感覚だけが残った。



 校門を出て、いつもの通学路を歩く。

 家までは自転車でも歩きでもそれほど時間は変わらない距離だが、その日は、あえて自転車を押して歩いた。


 背中の鞄のベルトが肩に食い込んでいる。

 前を向いて歩いているつもりなのに、視界の端に、さっき部室で聞いた友達の顔や、教室で笑っていた彼女の横顔や、下校のときに並んで歩いていた二人の後ろ姿が、順番もなく浮かんでは消えた。


 「まだ決まったわけじゃない」と、昼間は言い訳できた。

 今までの自分の中の推察を、こうして噂として聞かされると、その逃げ道はほとんど残っていないように思えた。

 本当にそうかどうかを確かめる手段なんて持っていないくせに、確かめる前から「もう終わってる」と決めつけたい気持ちと、「まだ、まだ違うかもしれない」としがみつきたい気持ちが、同時に居座っている。

 だが、後者の気持ちはただの現実逃避だということはさすがの俺でも分かっていた。


 歩いているうちに、日は低くなり、あたりは徐々に暗くなる。

 商店街の手前まで来ると、通り沿いの店から漏れる光と、人の話し声と、自動ドアの開閉音が一度に押し寄せてくる。


 その時、後ろから足音と声が近づいてきた。


「ねえ、◯◯!」


 背中のほうから、靴がアスファルトを小刻みに叩く音が近づいてきた。


 名前を呼ばれて振り向くと、そこにいたのは三つ下の幼馴染だった。俺の母方のはとこでもある。

 紺色のセーラー服の襟に、白いラインが三本入っている。リュックを片方の肩にだけかけて、小走りで追いついてきたところらしく、頬が少し赤い。髪は肩に届かないくらいのボブで、前髪が額に貼りついている。リュックのファスナーには、小学生の頃に人気だったアニメのキャラクターのキーホルダーがまだぶら下がっていた。


「あー、久しぶり。てか、なんでここにいんの」


「何それ、ひど。うちここら辺だし、帰り道一緒なの前からでしょ」


 言われてみればそうだった。小学生の頃から、俺がこの街に引っ越してきてからずっと、うちと向こうの家は歩いて数分の距離だ。

 昔は放課後になると、こいつがランドセルを玄関に放り出して俺の家に駆け込んできて、ゲーム機を勝手に起動していたのが普通だった。中学の頃は、試験前に「数学分かんない」と言ってノートと問題集を抱えてきたことも何度もある。


「なんか、元気ないね」


 隣に並んで歩きながら、幼馴染は俺の顔を覗き込んだ。背伸びするみたいに少し顎を上げてくる。


「別に。いつも通りだろ」


「うそ。いつもはもっとだるそうな顔してるもん。今日はそれ通り越して死にそう」


「表現おかしいだろ。ほっとけよ」


 そう言いつつも、自転車を押す速度を少し落とした。ハンドルを握る手に、タイヤ越しの細かい凸凹した振動が一定のリズムで伝わってくる。

 信号が赤に変わり、横断歩道の前で二人とも立ち止まる。車のライトがこちらを横切っていって、幼馴染の横顔の輪郭が一瞬だけくっきりする。


「そういえばさ、お前、部活は?もっと遅くまでやってるもんだと思ってたよ」


 とりあえず話題をふってやろうと思って、適当に口を開いた。


「あー、陸上部やめた」


「……え、やめたのかよ。お前、運動神経いいのに」


 彼女は小学校の頃から陸上を続けていて、運動神経も良かった。

 大会の結果を母親経由で聞かされることも多く、「この前○○ちゃんが賞状もらったんだってよ」と何度か家で話題にもなっていた。


「だからって、部活続けなきゃいけないわけじゃないじゃん?」


 幼馴染は肩をすくめた。信号機のポールに背中を軽く預ける。


「練習中にさ、友達とちょっとふざけてたら顧問にめっちゃ怒られてさ。なんか、急に全部どうでもよくなっちゃって」


「それでやめたのか」


「うん。まあ、その部活はね」


「その部活“は”って何だよ」


「走ることそのものは、まだしてるよ。一人でたまにグラウンド行って走ったりしてる」


「一人で? それ楽しいか?」


「楽しいよ。誰にも怒られないし、自分のペースでできるし」


 信号が青に変わって、電子音が鳴り始める。

 俺たちはまた歩き出した。白線の上だけを選んで踏んでいく幼馴染の靴の底が、カツ、カツと一定の間隔で音を立てる。


「そりゃ、一緒にやる友達がいないのは寂しいけどさ。前より情熱はちょっと落ちたけど、走ってる間だけは、なんか心が晴れる感じするし」


「……じゃあそのやめた友達と一緒に走ったらどうだ」


「その子やめてないよ。今も普通に部活やってる」


「は?じゃあなんでお前だけやめたんだよ。引き止めてもらえなかったのかよ。寂しくないのか」


「ちょっとね。でも、その子とは今も普通に仲良いよ。休み時間も放課後も遊ぶし、休日だって一緒に出かけるし」


 言っていることの意味は分かるのに、感覚としてはあまり腑に落ちなかった。

 俺にとって「やめる」とか「続ける」とかは、もっと重い線引きだったからだ。いったんやめたら、二度とそこには戻れない。やめる前に友達だった子とも話しにくくなるような気がしていた。


 少し先に、小さな公園が見えてきた。ブランコと滑り台があるだけの、住宅街の隙間に押し込まれたような場所だ。低いフェンスの向こう側に、砂場と鉄棒、ブランコが並んでいる。街灯が一本だけ立っていて、薄暗い光で砂場の輪郭をぼんやり照らしている。


「あ、公園。久しぶりにブランコ乗らない?」


 幼馴染が指さした。


「俺、今そんな気分じゃない」


「えー、いいじゃん。ちょっとだけ」


「家帰ってゲームしたい」


「どうせ今のテンションでゲームしても楽しくないって」


 言い返そうとして、言葉が喉のところで止まった。

 確かに、今のまま家に帰っても、画面の中に集中できる気はしなかった。


「……まあ、ちょっとだけな」


「やった」


 二人で公園に入る。自転車はすぐ傍のフェンスに立てかけた。入口のコンクリートから砂地に変わるところで、靴底が少し滑るようにざらつく。

 ブランコの座面は金属で、手で触れると冷たかった。鎖を握って腰を下ろすと。足元の砂がわずかにずれる。

 幼馴染はもう片方に座り、軽く地面を蹴って前後に揺れ始める。制服が、動きに合わせてわずかに揺れた。ブランコの支柱に貼られた、色あせた注意書きのシールが視界の端に入る。


「で、話を戻して……どんないやなことがあったの?」


 少し揺れながら、幼馴染が聞いてきた。


「別に。お前には関係ない」


「関係あるよ。こうやって私を巻き込んでるじゃん」


「巻き込んでねえよ。勝手についてきただけだろ」


「はいはい。でもさ、その顔はどう見ても何かあった顔」


 幼馴染はブランコの鎖を握ったまま、俺のほうを見た。街灯の光が、鎖の金属と彼女の黒目に小さく反射している。


「もしかして失恋?」


 心臓が一瞬だけ縮む感じがした。喉の奥がきゅっと詰まって、息を飲む音だけが自分の耳にやけに大きく響く。


「……は? 何それ」


「え、図星?マジで?」


「うるさい。どうでもいいだろ」


「どうでもいいならそんな顔してないと思うけど」


 言い返すのも面倒になって、俺は前を向いたままブランコを軽く揺らした。鎖がわずかに軋む。足先で砂を引っかくと、小さな筋がいくつも地面に残った。


「そういうお前は、悩みなさそうでいいよな。いつも楽しそうで。ある意味、俺の憧れだわ」


 ぽろっと出た言葉だった。言ってから、自分でも少し驚く。

 幼馴染は、少しだけ揺れるのを止めた。ブランコの座面が前後の中間のあたりで静止する。


「そう見える?」


「見える」


「ふーん……」


 一拍置いてから、彼女は口を開いた。


「私もさ、ついこの前、彼氏と別れたばっかりなんだよね」


「は?」


 思わずそちらを向く。握っていた鎖が少しだけ手の中でずれた。


「お前、彼氏なんていたのか」


「なんだよそのリアクション。悪い?」


「いや、悪くはないけど。初耳すぎる」


「別に◯◯に報告する義務もないしね」


 そう言いながら、幼馴染は自分の靴のつま先で砂をならした。つま先が動くたびに、乾いた砂が小さく盛り上がっては崩される。


「向こうから告白してきたんだよね。もともとそんなに知り合いでもなかったし、同じクラスだけど接点ほぼゼロだった」


「それで付き合ったのか」


「うん。なんかさ、私が部活で練習してるのを遠くから見てて、それで好きになったんだって。そんなこと言われたら、まあ嫌な気はしないじゃん」


「……そういうもんかね」


「とりあえず付き合ってみるか、くらいのノリだったよ。って言っても、一緒に下校するとか、休みの日に映画行くとか、その程度だけど」


 幼馴染は、少し前を向いてブランコを揺らしながら続けた。鎖が前後にわずかに動き、そのたびに金属同士がこすれる音がした。


「でもさ、付き合ってくうちに、いろいろ分かってきて。そいつ、私に嫌われたくないからって、すごい頑張ってたんだよね。映画のチケットもご飯代も、全部払おうとするし、お土産のキーホルダーとかもくれるし」


「それ、割とちゃんとしてるほうじゃないか」


「そうだね。最初はすごくうれしかったよ。だんだん私も好きになっていったし」


 そこまで話してから、幼馴染は顔を少ししかめた。視線は足元の砂のあたりをさまよっている。


「でもある日、私の友達のこと、結構バカにするようなこと言ったんだよね。それが引き金で大げんかになって。そこから距離が空いちゃって」


「まぁ、よくあるやつだな」


「何それ、上から目線。でね、そのあと何回かデートしたけど、そいつが私に気を使わなくなっていったのが分かった。前みたいにずっと笑ってるわけじゃないし、プレゼントもなくなったし、ご飯も普通に割り勘」


「それで冷めたわけか」


「うん。私も『あーあ、あんまり好きじゃなくなってるな』って気づいて。そしたら向こうもなんとなく察したっぽくて、話すときも無言の時間が増えてってさ。最後は向こうから“別れよ”ってラインが来た」


 幼馴染はポケットからスマホを取り出して、画面をちらっと見るふりだけして、すぐまたしまった。ポケットの布が軽く擦れる音がした。


「ねえ、どう思う? 私って結構悪いやつかな」


 急に問われて、俺は言葉を選ぶふりをしながら、ほとんど反射でしゃべり出した。視線は前方の薄暗い砂場に固定したまま、口だけが動く。


「なんだよ、悪くないって言ってほしいのか?」


「別にそういうわけじゃないよ」


「でもさ、お前もその男子も、まだガキなんだよ。その頃の“好き”とか“嫌い”なんて軽いもんだろ。その程度のことで変わるような感情なんてさ」


 自分で言いながら、どこか自分自身に向けて話しているような感覚があった。


「本当に大人になってからの“好き”って、そんな簡単に増えたり減ったりしないんじゃねえの。少なくとも、その男子とは切れて正解だよ。そんなよく分かんない関係にいつまでも執着しても意味ないだろ」


「ふーん」


 幼馴染は小さく息を吐いて、しばらく黙った。ブランコの揺れがゆっくりになり、やがてほとんど止まる。


「お前だって、今その元彼のこと嫌いなんだろ。小さい頃の恋愛なんてそんなもんだよ」


 俺がそう付け加えると、幼馴染は首を横に振った。


「……ううん。確かにその男子のこと、もう好きじゃないけど。別に嫌いってわけじゃないよ」


「は?」


「だってさ、もらったキーホルダーも、映画の半券も、まだ捨てられてないもん」


 幼馴染は、さっきしまったポケットのあたりを指先でいじる仕草をした。布越しに、小さな固いものを確かめているようだった。


「彼氏だったときだろうが、もう彼氏じゃなかろうが、そのときは確かに私もあいつも楽しかったんだよ。映画見て笑ったり、ご飯食べながらくだらない話したり。そういう時間は、嘘じゃないじゃん」


「まあ、そうかもしれんけど」


「私は、それはそれで大事にしておきたいんだよね。元彼だってさ、文字通り“元彼氏”で、私にとっては一人しかいない元彼氏だよ」


「なんだよ、それ。ヨリ戻したいのか?」


 思わず茶化すように言うと、幼馴染は鼻で笑った。


「それはない。だって私、まだ友達バカにされたこと怒ってるし。それとこれとは別」


「別、ねえ」


「普通に、あのときはあのときで楽しかったってだけ。それに、今のあいつとあのときのあいつは、関係性は違っても、同じホモ・サピエンスの一個体だし」


「急に生物用語出すなよ」


「はぁ……もういいよ」


 幼馴染はそう締めくくって、ブランコの鎖から手を放し、ぎしっと小さな音を立てて座面から降りた。スカートの裾についた砂を軽く払う。


「おーい◯◯!」


 公園の入口のほうから、別の女子の、幼馴染の名前を呼ぶ声が飛んできた。

 同じ中学の制服を着た女子が二人、公園の柵のところからこっちを見ている。街灯の光に、彼女たちのリュックの反射材がぼんやり光っていた。


「何してんのー? 誰、その人?」


 声の調子からして、幼馴染のクラスメイトか友達だろう。

 幼馴染は即座に、柵のほうへ体を向けて答えた。


「ただの近所の友だちー! 近所のお兄さん!」


「へー、そうなんだー!」


 向こうはそれ以上深く詮索してこなかったが、俺のほうが居心地の悪さを覚えた。背中のあたりがむず痒くなる感じがする。


「……俺、そろそろ帰るわ」


 ブランコから立ち上がり、自転車のほうへ歩き出す。フェンスに立てかけたハンドルを片手でつかんだところで、制服の袖口をつままれて、足が止まった。


「えー、もうちょい話そうよ」


 幼馴染の指先が、袖の布を軽く引っ張る。


「お前だって嫌だろ。変に勘違いされんの」


「別に? 勘違いされたって、あとで“違うよ”って言えばいいし」


「でも、そう言われてる間は嫌じゃないのかよ」


「ちょっとはめんどいけどさ。それで死ぬわけじゃないし」


「その“めんどい”ってのが俺はどうしても嫌なんだよ」


 思っていた以上に強い声が出て、自分で少し驚いた。幼馴染の指先から力が抜けて、俺の袖がするっと解放される。


「……なんか、昔っからそういうのばっか気にするよねぇ、◯◯は」


「それが普通だろ。お前がおかしいんだよ」


「……」


 口ではそう返しながらも、声のトーンが少しだけ上ずった気がして、俺は視線を砂場の方にそらした。足元では、スニーカーのつま先が乾いた砂を薄く削っている。


 幼馴染は、俺の顔を一度だけじっと見てから、小さく息を吐いた。


「別に誰も、◯◯のこと興味……いや、敵視してないよ」


 言いかけて、自分で引っかかったのか、幼馴染は一瞬だけ目を泳がせた。


「は?お前今興味ないって言おうとしたか?」


 思わず声が少し強くなる。ブランコの鎖が、その拍子にかすかに揺れた。


「あー、うん。でもやっぱり”興味ない”は違うかな。だって私がこうして〇〇と話したがってるわけだし。」


 幼馴染は、そう言いながら自分の胸元あたりを指さして、それから俺のほうを指でちょんと示した。冗談半分のような仕草だったが、目だけは真面目だった。


「……言ってることよく分かんねえわ」


 そう返してから、俺はハンドルに置いた片手に力を込めた。グリップのゴムが、指の腹に少し食い込む。

 幼馴染は、フェンスに背中を預け直し、空を一度見上げてから、またこっちを見た。


「……別に誰も、◯◯のこと嫌ったり、悪い噂しようとしてるわけじゃないよ。たまに嫌な思いすることがあっても、それはなんというか、別に〇〇が嫌がらせしてるわけじゃなくて、◯◯が巻き込まれてるだけだよ」


 言いながら、足元の砂を靴のかかとで丸くならしていく。その輪っかを途中で崩して、またただの足跡に戻す。


「急に何の話だよ」


「さっきからの全部だよ」


 幼馴染は、少しだけ身を起こして、俺のほうに顔を向けた。街灯の光が、その黒目の中に小さく映っていた。


「なんかさ、◯◯っていつも、物事を悪く考えて、それにピリピリして生きてるじゃん」


「……そう見えるのか」


「うん」


 短く断言されて、返す言葉が見つからなかった。

 今日一日の光景が、頭の中でざっと早送りされる。好きな子と嫌なあいつ、部室での噂話、さっきまでの彼氏の話、さっき声をかけてきた幼馴染の同級生


「はーあ」


 幼馴染は空を見上げて、肩を回すように軽く伸びをした。街灯の光が、その横顔の輪郭をもう一度なぞる。


「帰ったら宿題しなきゃなー。明日までのやつ、まだ残ってるんだよね」


「お前、宿題ちゃんと出すほうだっけ」


「当たり前じゃん。怒られるの嫌だし」


「……ふーん」


「あ、◯◯は出さない派だったっけ?確かにそれっぽい。」


「うるさいな。俺のほうが宿題の量も難易度も高いんだよ。私立ナメんな」


「いや、そういう話じゃなくて」


 幼馴染は笑った。さっきまでより少しだけ、力の抜けた笑い方だった。


「そういえば昔、おばさんに宿題やらずにめちゃくちゃ怒られて泣いてたよね。覚えてる?」


「覚えてねえよ」


「ウソ。あれ結構印象的だったもん。馬鹿だなって思って見てた。ちょっと時間かけてやるだけなのにって」


「……黙れ」


「でもさ」


 幼馴染は、ブランコの支柱にもたれかかりながら続けた。


「別に、宿題したからって死ぬわけじゃないんだよ。さっきの話もそう。彼氏だって勘違いされても、死ぬわけじゃない。世界のちょっとどこかで、“あの二人なんか仲良いね”って噂されるだけ」


「突然なんだよ、それ。関係ないだろ」


「あるよ」


 幼馴染はきっぱりと言った。


「誰も、◯◯のこと本気で嫌いだなんて思ってないよ。もっと自由に、気楽に生きなよ。誰も邪魔しないよ」


 言葉が、そのまま胸の奥に沈んでいく感じがした。

 でも、素直に「そうだな」と返せるほど器用でもなかった。


「……お前、今日はなんか変だな。俺は帰る」


「えー」


 幼馴染は口を尖らせてから、少しだけ笑って手を振った。


「まあ、しょうがないね。またね」


 そう言って手をひらひらと振る幼馴染の横を通り過ぎて、俺は自転車を押して公園を出た。フェンスの切れ目を抜けると、夜風がさっきより冷たく感じた。



 公園を出ると、空はもうほとんど暗くなっていた。

 街灯のオレンジ色の光が、歩道の端に細長い影を落としている。アスファルトは昼間の熱をほとんど失っていて、自転車のタイヤ越しに伝わってくる感触も冷たかった。住宅街のあちこちの窓から、カーテン越しに白い蛍光灯の明かりが漏れている。


 自転車を押しながら歩いていると、さっきの幼馴染の声や表情が、頭の中で何度も再生された。

 「誰も邪魔しないよ」「誰も嫌いなんて思ってないよ」

 軽く言っているようで、そのどれもが妙に刺さっていた。


 あいつは変わらんな、と思う。

 小学生の頃の幼馴染は、勉強が特別できるタイプではなかった。算数の割り算でよくつまずいて、俺がノートに途中式を書いてやると、最初は全然飲み込めないのに、それでも手を止めずに何度も同じ問題を解いていた。

 俺がイライラして「なんでここで間違えるんだよ」と言ったこともある。それでもあいつは、ペンを投げ出したりはしなかった。時間はかかっても、最後にはテストでそこそこの点数を取ってきて、答案用紙を見せながら「見て見て」と笑っていた。

 夏休みの宿題だってそうだった。


 俺はいつも、七月の最初のほうで「今年こそは計画的にやろう」と決意して、八月の終わりに全部ひっくり返していた。宿題の山とにらみ合いながら、ゲームの電源を切るタイミングばかり気にして、結局どちらも中途半端な気分で終わる。

 それに比べて、幼馴染は少しずつ宿題を進めていたくせに、休みの間、ほとんど家にいないような印象があった。昼間は近所の公園で他の子たちと遊んで、夕方には自転車で少し離れた友達の家に行って、夜になって帰ってくる。

 夏休みが終わりに近づいたある日、俺が部屋の中でドリルに囲まれてうんざりしていたとき、窓の外から、夜の路上にしゃがみ込んでチョークで絵を描いている幼馴染の姿が見えたことがあった。

 路面に丸やら線やらを適当に描きながら、「二学期始まったらさー」と、隣にいる誰かと話して笑っていた。夏休みが終わることを惜しむというより、その先のことをもう楽しそうに考えていた。


 あいつは、昔からそういうところがあった。

 勉強も部活も、途中でうまくいかなくなっても、全部をゼロか百かで決めつけない。やめるところはやめて、続けるところは続けて、その間を適当に行ったり来たりしているように見える。

 さっきの「部活はやめたけど、一人で走るのは続けてる」という話も、その延長線上にある感じがした。


 俺は歩きながら、息を少し深く吸った。

 冷たい空気の中に、どこかの家の夕飯の匂いが混じっている。醤油を使った煮物のような匂いと、どこかから漂ってくるカレーの匂いが、風に乗って行ったり来たりしていた。


 ……俺のあの子への元々の感情は"感謝"だったと思う。

 自転車でこけたときに先生を呼んでくれたこともそうだが、それ以外にも、授業中にちょっとしたことで笑ってくれたり、廊下ですれ違ったときに「松葉杖、もう取れたんだ」と声をかけてくれたりした。

 あの瞬間、俺は確かに救われた側だった。

 そのことを全部無視して、「なんであんなやつが彼氏なんだ」とか、「世の中狂ってる」とか、「がっかりだ」とか、勝手に怒って。自分の中で勝手に被害者みたいな位置に立っていた。


 彼氏のあいつのことだって、別に「嫌い」と言い切る必要はないのかもしれない。

 クラスの空気の中では、確かに俺の好きなタイプの人間ではない。不真面目な俺達にきついことを言ったり、いじられキャラをちょっと踏みつけにするみたいな態度を取ったりするところは、多分これからも好きになれない。

 だけど、それを理由に「悪いやつ」と決めつけて、憎しみで固めておかないと気が済まないほどの存在かと言われれば、そこまででもないのかもしれない。


 ただの、「そういうやつ」だ。

 俺とは合わないけれど、別に俺の人生を壊そうとしているわけでもない、一人の人間。

 好きな女子のことも、あいつのことも、全部まとめて「俺にとっての事件」として抱えようとするから、息が詰まる。

 あの子はあの子で、自分の生活と考え方と時間を持っていて、その中にたまたま今、あの男子が彼氏としているだけだ。

 俺がそこに勝手に割り込んで、自分の都合のいい物語を作ろうとしていただけなんじゃないか。


 ……もっと気楽でいいのかもしれない。

 彼氏持ちの子を好きでいること、その子や彼氏を憎むこと、もしくはその子とその彼氏の関係を応援すること。この三つにはたぶん色んな距離がある。

 自分の気持ちに嘘をついて「幸せになってほしい」と祈り続ける必要もないし、「別れろ」と呪う必要もない。どっちの態度も、なんか疲れる。


 ただ、「好きだけど、付き合えるわけじゃないし、今はクラスメイトとして普通に話す相手」という位置に置いておいてもいいのかもしれない。

 彼氏のほうも、「好きではないどちらかといえば嫌いな、合わないタイプの同級生」、「羨ましいやつ」として処理しておけば十分だ。


 ……宿題とゲームのことも少し似てる。

 ゲームは楽しい。勝てば気持ちいいし、敵を撃ち抜けると一瞬だけ誇らしい。でも、負け続けると腹が立つし、やめたあとに変な虚無感が残るときもある。

 宿題は面倒くさい。やり始めるのも億劫だし、問題を解く途中で何度もペンが止まる。だけど、出さなかったときに怒られるのが嫌で、そのストレスを考えると、さっさとやったほうが楽なときもある。

 テスト勉強も、やってもどうせ忘れるからと、直前の夜までしないでいるのも最善じゃない。例え3時間やって5点しか上がらないのが分かってたとしても、テスト返却の時はその5点が喉から出が出るほど欲しいんだ。

 どれも、絶対にやらなきゃ死ぬものでもないし、やったら即幸せになる魔法でもない。ただ、俺がどう扱うかを選べる対象に過ぎない。


 俺は、自分の頭の中で勝手に、色んなものを「やるか/やらないか」「味方か/敵か」「好きか/嫌いか」の二択に押し込んでいた。

 そうしないと不安だったからだ。中途半端な場所に置いておくと、いつまでも気になって落ち着かない。でも、全部を白か黒かに分けてしまった結果、"自分で自分を追い詰めていた"だけなんじゃないか。


 本当は、もう少し”自由”に生きていいのかもしれない。

 好きな子のことを好きなままでいるのも、今の俺の自由だし、その一方で、宿題をやるもやらないも、ゲームをする時間を減らすかどうかも、俺が決めていい。

 誰かが「こうあるべき」と決めているわけじゃない。ただ、選んだ結果の面倒は、自分で引き受けるようになっているというだけだ。


 気づけば、家の近くの通りまで戻ってきていた。

 街路樹の葉っぱはほとんど落ちていて、枝だけが街灯の光を細かく遮っている。電柱の根元には、乾いた落ち葉が風で寄せ集められていて、歩くたびに小さく擦れる音がした。

 自分の家の前に来ると、玄関の引き戸の隙間から、うっすらと家の中の明かりが漏れているのが見えた。


 戸を開けると、少し湿った木の匂いが鼻に入ってきた。

 廊下の奥からは、ご飯が炊けるときの甘い匂いと、味噌汁のような出汁の匂いが混ざって流れてくる。エアコンかファンヒーターか分からないが、暖房の暖かい空気が足元からふわっとまとわりついてきた。


 いつもなら、靴を脱いでそのまま黙って自分の部屋に向かうところだった。

 でも今日は、玄関マットの上で一拍置いてから、口を開いた。


「……母さん、ただいま」


 自分の声が、思っていたより少しだけ大きく廊下に響いた。

 奥のキッチンのほうから、「おかえり」と、鍋をかき混ぜる音に重なるように返事が聞こえた。

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公園のブランコ @isshobouzu

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