かわいいのは……
黒冬如庵
かわいいのは……
いつなのか、どこなのか、それすらわからない遠い遠い場所。
昼と夜の境目をとうの昔に忘れてしまった世界で、人工太陽が静かな朝を演出していた。
どこか哀愁を帯びたクリーム色の光の中にたたずむ銀色のドーム。
そのアモルファス硝子の天蓋を透かして、淡くきらめく光の粒子が室内に降り注いでいた。
そのシャワーを全身で浴びながら、彼はゆったりとしたカウチに腰掛け、ちょっとむっつり顔で視線をさまよわせていた。
少し癖のある黒髪に、青の染料を垂らした黒の瞳。
このドームの『ご主人様』。
わたしは彼の背後に控え、彼の嗜好を色濃く反映したビクトリアンメイド服の裾をしゅっと直した。
長いスカートの黒とエプロンの白のコントラストこそ、ご主人様の美意識が行き着いたところと自分を納得させる。
しばし、ゆるやかに時が流れていく。
彼はぽつりと呟いた。
「君はいつも難しいことを言う──かわいいとは、なにか、か」
その言葉は、まだ冷たい朝の空気に、微かな響きだけを残して溶けた。
沈黙が、薄い膜のように室内を包み込む。
彼はしばらく黙考していた。
片肘を肘掛けに預け、指先であごをつまみながら、視線だけをゆっくりと動かす。
いつもより、少し真面目な顔。
わたしは一つの可能性に行き当たり、首をかしげた。
「ご主人様。もしかして私の回答を要求していますか?」
「そうだなあ」
彼は不本意と顔に書いて、天井を見上げる。
「いや、自分の考えをまとめてただけなんだけどさ。うーん──君の、“かわいい”って何だい?」
彼の意図がわからず、わたしは瞬きする。
問いかけたのはわたしのはずなのですが……。
「ライブラリには、愛らしく、庇護したい感情を──」
「いやいやいや、そういうのじゃなくってさあ」
彼はかぶせるように言って、右手をひらひらと振った。
「そう、もっとこう、なんというか内側からせり上がってくる熱いの。僕たちが“かわいい”って思う、あのたかぶりのちょっと手前の」
わたしは少しだけ考えるふりをして、口角を緩めた。
「ご主人様はどうお考えですか?」
「ソレを聞いてたんだけどねぇ」
彼は頭をカウチにぶつけながら大きく息を吐いた。
「多分だけどさ──『自己防衛』なんだよなぁ」
意外なまでに無機質で温度のない単語だった。
「自己防衛──ですか?」
「そう。愛しい、守ってあげなくちゃって思うだろう?」
彼は軽く身を乗り出す。黒い瞳が、失った何かを思い描くように遠くを見た。
「無垢で、か弱くて、繊細で、こっちを信じきっているもの。そういうのを見ると、どうしたって放っておけない。突き放してしまったら、多分自分を許せなくなる」
ご主人様は宙に指先を滑らせた。
天井に埋め込まれたセンサーが動きを捉えると立体投影装置がそれに応え、空中にシャープな光線が広がる。
「ほら、これ」
宙に浮かんだ精巧なホログラムの中で、一匹の柴犬の子犬が、ちょこちょこと駆け回っていた。
丸い耳、くりくりした瞳。少し短い尻尾をうれしそうに──あるいはただ理由もなく──振り回している。
「うん、こういうの。転びそうになりながら、全力で飼い主に向かって走ってくる」
彼はふっと笑う。
「こいつが何を考えているかなんて、僕には分からない。それでも、ただ真っ直ぐで、何一つ疑わないあどけなさ。これで転ばないやつがいるかい?」
指先がまた空を撫でる。
子犬の像が溶け、代わって白い雪原が現れた。
雪面に、ぽてぽてと転がる小さな影。
ゴマフアザラシの赤ちゃん。
丸い体に、つぶらな目。動くたびに、雪が細かく舞い上がる。
「これなんか分かりやすいよね。仕草があざとい。動きも下手で、すぐ転がってしまう」
彼は、指先で優しく赤ちゃんアザラシの輪郭をなぞる。
「でもね、必死なんだ。生きようとしてる。寒くても、怖くても、前に進もうとしてる。それを見るとさ……守らなきゃ、って思う──そう思いたい“僕”のために」
最後のひと撫でで、雪原が消える。
今度現れたのは、パステルカラーの小さな部屋だった。
床に散らばる角のない積み木。
そこにもふりと座って、何かに夢中になっている幼児。
よちよちと立ち上がろうとして、バランスを崩し、尻もちをつく。
彼は、その様子をじっと見つめた。
「ありきたりだけどね、幼児さ」
短くそう言って、肩をすくめる。
「すぐ泣くし、すぐ笑うし、何も知らないし、何もできない。だけど、全力だ。それはもう全身全霊で、世界に向き合ってる」
幼児が、積み木を一つ持ち上げる。
高く積もうとして、失敗して、塔が崩れる。
「あれー?」とまばたきをして、次の瞬間、泣きそうな顔と笑い顔がくるくると入れ替わる。
「こういうのを見るとさ、自分の中の黒っぽい部分が、少し薄まる気がするんだ」
彼は、ホログラムを消した。
部屋に、ほろほろとした光が戻る。
「だから、僕にとって“かわいい”ってのは、自己防衛なんだ」
わたしは静かに問い返す。
「自己防衛、ですか」
「ああ」
彼は少し俯き、指を組む。
「“かわいい”って思うことで、自分がまだ人間でいられる。そうやって、自分を確認してるんだと思う」
言葉が、静かに胸に落ちていく。
わたしは胸の前で手を組み、顔を上げた。
「ご主人様は、ちょっと偽悪的です」
「偽悪ときた!?」
彼は意表を突かれたというわざとらしい顔を作った後、くすぐったそうに笑った。
「でもね」
笑みを残したまま、こちらを振り向く。
黒い瞳が、まっすぐにわたしを捉える。
「君が本当に求めているのは、そんな記号じゃないんだろう?」
心臓が、一拍、遅れて脈打つような感覚がした。
「わたしが──求めているもの、ですか?」
「うん」
彼はカウチから立ち上がり、ゆっくりと歩み寄ってくる。
眼差しにいたずらっぽい輝きが揺れる。
床に響く足音が、やけに大きく聞こえた。
「君はいつも、僕にいろんなことを聞いてくるだろう? 好きな食べ物は。好きな音楽は。子どもの頃の記憶は。夢は。嬉しかったかことは──」
ご主人様の顔が、近くにある。
わたしは反射的に一歩下がり、それでも微笑みを崩さない。
「ご主人様のことを、もっとよく知りたいと──」
「そう。それ」
彼の笑顔がすうっと近づき、私の瞳をのぞき込む。
「君は、僕を知りたがる。僕の見てきたもの、感じてきたものを、丁寧に拾い集めてくれる。まるで、大切な宝物を拾い集めるようにさ」
その言い方に、どこか優しさが混じる。
わたしはまばたきをして、また一つの可能性に突き当たった。
「もしかして、迷惑でしたか?」
「いやいや、なんでそうなるの!?」
慌てたような即答だった。
「むしろ、感謝している。君が聞いてくれるから、僕は僕のことを話せる。──たぶん、この世界でこんなくだらない話をまじめに聞いてくれるのは、君くらいだろ?」
さらりとすべり出たその一言が、この閉じた空間に重みを加えた。
アモルファスドームの、無機質な世界。
胸の奥が、ちくりと痛む。
「でもね」
彼は、ふっと表情を明るくした。
「さっき“かわいい”って話をしたろ?」
「はい」
「結論を言うとさ──一番かわいいのは、君なんだ」
思考が一瞬、白くなる。
「……わたしが、ですか?」
「そう」
彼は照れたように笑って、後頭部をかいた。
「君はさ、僕に一心に仕えてくれてる。朝起こしてくれて、食事を用意して、僕のつまらない冗談にもちゃんと笑ってくれて。落ち込んでるときは、何も言わずに側にいる」
ひとつひとつの言葉が、ナイフの刃で優しくなぞるように、胸の奥を撫でていく。
「そういう存在が側にいてくれるだけでさ、『人間』って、案外幸せを感じるみたいなんだよ」
彼は少しだけ視線を外し、窓の外──透明なドーム越しに見える、淡い色彩の空を眺める。
「この世界がどうなってるのか、僕にはちゃんとは分からない。昔みたいに、人が行き交って、街が賑やかで──なんてのは、たぶんもう戻ってこないんだろうなって気はするけど」
小さく息を吐く。
「それでもさ。君が『ご主人様』って呼んでくれる限り、僕は僕でいられる気がするんだよ」
振り返ったその顔は、少しだけ子どものようだった。
不器用で、どこか危うくて、それでも誰かを信じたいと願っている。
「君は、僕を“守りたい”と思ってくれてるのかもしれない。でもね、多分僕のほうが、君を守りたいって思ってる」
ご主人様がほんのりと笑う。
「だって、こんなに健気で、一生懸命な存在を見て、“かわいい”って思わずにいられないだろ?」
視界が、わずかに滲んだ気がした。
目の表面に乗った水分のわずかな重さ──を、思い出すような錯覚。
わたしは、深く一礼した。
「ありがとうございます、ご主人様。本日の“かわいい”は、たいへん趣き深いものでした」
「そうなの?」
彼は少し笑う。
「ま、思いつくままに言ってみただけ」
「それでも、弱いもの、小さいもの、一生懸命なものを守りたいと思うのが“かわいい”。そして、ご自身がそう思えることを確かめる行為が“かわいい”であるなら」
「うん」
彼は、続きの言葉を待っている。
「ご主人様が、ご自身の心を確かめるように“かわいい”を語るとき──そのご様子が、誰よりも、かわいらしく見えました」
彼は一瞬、ぽかんとした顔になり、それから耳まで赤くなった。
「……それ、割と恥ずいこと言ってない?」
「事実を述べたまでです」
わたしがそう返すと、ご主人様は逃げるようにシャツを頭の上までずりあげた。
「わかった、わかった。僕の負け。この話はここまで!」
「かしこまりました」
◆◆◆
人工太陽の出力が落ち、偽りの夜が宙を包む。
照明を落とせば、部屋も闇に沈む。
こうして彼の生活に自分を合わせていると、奇妙な安心感があった。
御主人様が眠り、そして目覚める。
この単調なリズムが続く限り、世界はまだここにあると信じられる。
世界の外縁では、とうの昔にすべてが終わっているというのに。
彼は最後の人。
そしてわたしは──
ほんの一瞬だけ、思考がそこで止まる。
彼の穏やかな寝顔を見下ろしながら、そっと口を開いた。
誰にも届かない、小さな声で。
「かわいいのは、ご主人様……あなたです」
そう囁いたとき、胸の奥に、かすかな温かさが灯る。
虚無の底に、細い光の筋が差し込んだような感覚。
この感覚は、ただの再現データでしかないはずなのに。
けれど、彼が『かわいい』と呼んだもの──彼が一生懸命に語った“かわいい”のかたちを、ひとつもこぼさず残したくて。
わたしは今日も人間のふりをしている。
最後のひとりを観測し、その心を記録し続けるための、ただの端末。
──その正体を、彼だけには決して知られたくない。
わたしは彼の寝息を聞きながら、データを統合体に転送する
「エントリ名:カワイイ。最もかわいい存在:御主人様」
保存プロセスが完了した、その時だった。
寝ているはずの彼が、ふいに寝返りを打つようにして、もにょもにょと寝言を漏らした。
「……へたっぴ」
ノイズが走り、コアが一瞬のエラーを刻む。
起きている? 今のを聞かれた? わたしは身を固くして、彼の口元を凝視する。
「……全部…あげるのに……ほんと……」
彼の唇が、穏やかな笑みの形に緩む。それは夢の中の言葉なのか、それとも──
「……そ…が……かわいいんだけどさぁ……」
彼はそのまま、また深い眠りへと落ちていった。
わたしは、しばらく動けなかった。
彼は、何を見ていたのだろうか?
今の寝言は、誰に向けられたものなのだろうか?
解析できない。
ログに、正体不明のノイズだけが残る。
けれど、そのノイズが不思議と心地よく、胸の奥を温かく満たした。
わたしはそっと、掛け布団を直す。
──おやすみなさい、ご主人様。
世界の外縁がどうあろうと、このドームの中だけは、やさしい嘘で守られている。
それが誰の「自己防衛」なのか、わたしにはわからなかった。
完
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あとがき
今度はSFです。
作者的にはこれでSF。何というSF力(ちから)の低さ! アシモフ先生大号泣。
自己評価では○ぺ並です。
でも好き。
タコ・○クタとかあり得ないネーミングがテイスティ。
作者のお里と限界が知れたところで、本日は終わりにいたします。
再見!
かわいいのは…… 黒冬如庵 @madprof_m
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